26分

林 芙美子 放浪記第二部 その1‪0‬ 林芙美子 新版放浪記 第二部

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参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

音声再生時間: 26分04秒shinpan-hourouki2-10a.mp3

        *

(九月×日)
 古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津(なおえつ)と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。だけど今どき慰めなんて言葉は必要じゃない。死んでは困る私、生きていても困る私、酌婦にでもなんでもなってお母さん達が幸福になるような金がほしいのだ。なまじっかガンジョウな血の多い体が、色んな野心をおこします。ほんとに金がほしいのだ!
 富士山――暴風雨
 停車場の待合所の白い紙に、いま富士山は大あれだと書いてある。フン! あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷包み一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。あたりはすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、玉蜀黍(とうもろこし)の葉は、骨のようにすがれてしまっていた。人生はすべて秋風万里、信じられないものばかりが濁流のように氾濫(はんらん)している。爪の垢(あか)ほどにも価しない私が、いま汽車に乗って、当もなくうらぶれた旅をしている。私は妙に旅愁を感じると瞼(まぶた)が熱くふくらがって来た。便所臭い三等車の隅ッこに、銀杏返(いちょうがえ)しの鬢(びん)をくっつけるようにして、私はぼんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。


古里の厩(うまや)は遠く去った
花がみんなひらいた月夜
港まで走りつづけた私であった

朧(おぼろ)な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻をまいて
汽船を恋した私だった。


 一切合切が、何時も風呂敷包み一つの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺(おぼれ)ている私です。
 汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が四人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、煤(すす)けたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。
「姐御(あねご)はこっちに腰掛けたら……」
 同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような丸髷(まるまげ)に疲れた浴衣である。もう三十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何か仇(あだ)めいた匂いがして窶(やつ)れた河合武雄と云ってもみたい女だった。その女と並んで、私の向う横に腰かけたつれの男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細いくたびれた帯をくるくる巻いて、かんしょうに爪をよく噛(か)んでいた。
「ああとてもひでえ目

参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

音声再生時間: 26分04秒shinpan-hourouki2-10a.mp3

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(九月×日)
 古い時間表をめくってみた。どっか遠い旅に出たいものだと思う。真実のない東京にみきりをつけて、山か海かの自然な息を吸いに出たいものなり。私が青い時間表の地図からひらった土地は、日本海に面した直江津(なおえつ)と云う小さい小港だった。ああ海と港の旅情、こんな処へ行ってみたいと思う。これだけでも、傷ついた私を慰めてくれるに違いない。だけど今どき慰めなんて言葉は必要じゃない。死んでは困る私、生きていても困る私、酌婦にでもなんでもなってお母さん達が幸福になるような金がほしいのだ。なまじっかガンジョウな血の多い体が、色んな野心をおこします。ほんとに金がほしいのだ!
 富士山――暴風雨
 停車場の待合所の白い紙に、いま富士山は大あれだと書いてある。フン! あんなものなんか荒れたってかまいはしない。風呂敷包み一つの私が、上野から信越線に乗ると、朝の窓の風景は、いつの間にか茫々とした秋の景色だった。あたりはすっかり秋になっている。窓を区切ってゆく、玉蜀黍(とうもろこし)の葉は、骨のようにすがれてしまっていた。人生はすべて秋風万里、信じられないものばかりが濁流のように氾濫(はんらん)している。爪の垢(あか)ほどにも価しない私が、いま汽車に乗って、当もなくうらぶれた旅をしている。私は妙に旅愁を感じると瞼(まぶた)が熱くふくらがって来た。便所臭い三等車の隅ッこに、銀杏返(いちょうがえ)しの鬢(びん)をくっつけるようにして、私はぼんやりと、山へはいって行く汽車にゆられていた。


古里の厩(うまや)は遠く去った
花がみんなひらいた月夜
港まで走りつづけた私であった

朧(おぼろ)な月の光りと赤い放浪記よ
首にぐるぐる白い首巻をまいて
汽船を恋した私だった。


 一切合切が、何時も風呂敷包み一つの私である。私は心に気弱な熱いものを感じながら、古い詩稿や、放浪日記を風呂敷包みから出しては読みかえしてみた。体が動いているせいか、瞼の裏に熱いものがこみあげて来ても、詩や日記からは、何もこみ上げて来る情熱がこない。たったこれだけの事だったのかと思う。馬鹿らしい事ばかりを書きつぶして溺(おぼれ)ている私です。
 汽車が高崎に着くと、私の周囲の空席に、旅まわりの芸人風な男女が四人で席を取った。私はボンヤリ彼等を見ていた。彼達は、私とあまり大差のないみすぼらしい姿である。上の網棚には、木綿の縞の風呂敷でくるんだ古ぼけた三味線と、煤(すす)けたバスケットが一つ、彼達の晒された生活を物語っていた。
「姐御(あねご)はこっちに腰掛けたら……」
 同勢四人の中の、たった一人の女である姐御と呼ばれた彼女は、つぶしたような丸髷(まるまげ)に疲れた浴衣である。もう三十二三にはなっているのだろう、着崩れた着物の下から、何か仇(あだ)めいた匂いがして窶(やつ)れた河合武雄と云ってもみたい女だった。その女と並んで、私の向う横に腰かけたつれの男は額がとても白い。紺縮みの着物に、手拭のように細いくたびれた帯をくるくる巻いて、かんしょうに爪をよく噛(か)んでいた。
「ああとてもひでえ目

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