24分

林 芙美子 放浪記第二部 その‪9‬ 林芙美子 新版放浪記 第二部

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参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

音声再生時間:24分55秒shinpan-hourouki2-9a.mp3

        *

(五月×日)
 六時に起きた。
 昨夜の無銭飲食の奴のことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の芯(しん)がズキズキするのをこらえて、朝の街に出てゆくと、汚い鋪道(ほどう)の上に、散しの黄や赤が、露にベトベト濡れて陽に光っていた。四谷(よつや)までバスに乗る。窓硝子(ガラス)の紫の鹿(か)の子(こ)を掛けた私の結い綿の頭がぐらぐらしていて、まるでお女郎みたいな姿だった。私はフッと噴き出してしまう。こんな女なんて……どうしてこんなに激しくゆられ、ゆすぶられても、しがみついて生きていなくてはならないのだろう! 何とコッケイなピエロの姿よ。勇ましくて美しい車掌さん! 笑わないで下さいね。なまめかしく繻子(しゅす)の黒襟(くろえり)を掛けたりしているのですが、私だって、貴女みたいにピチピチした車掌さんになろうとした事があったんですよ。貴女と同じように、植物園、三越、本願寺、動物園なんて試験を受けた事があるんです。近眼ではねられてしまったんだけれど、私は勇ましい貴女の姿がうらやましくて仕方がない。――神宮外苑(がいえん)の方へ行く道の、一寸高い段々のある灰色の建物が警察だった。八ツ手の葉にいっぱい埃(ほこり)がかぶさったまま露がしっとりとしていて、洞穴のような留置場の前へはいって行くと、暗い刑事部屋には茶を呑んでいる男、何か書きつけている男、疲れて寝ころんでいる男、私はこんなところへまで、昨夜の無銭飲食者に会いにこなければならないのかしらと厭(いや)な気持ちだった。ここまで取りに来なければ十円近くの金は、私が帳場に立て替えなければならないし、転んでも只では起きないカフエーのからくりを考えると厭になる。結局は客と女給の一騎打ちなのだ。ああ金に引きずりまわされるのがとても胸にこたえてくる。店の女達が、たかるだけたかっておいて、勘定になると、裏から逃げ出して行った昨夜の無銭飲食者の事を思うと、わけのわからないおかしさがこみ上げて来て仕方がなかった。
「代書へ行って届書をかいて来い、アーン!」
 あぶくどもメ! 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。
 代書屋に行って書いてもらったのが一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、金を払うだんになると、二枚並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけてけいべつをしてやりたくなった。
 帰って帳場に金を渡して二階へ上ると、皆はおきて蒲団をたたんでいる処だった。掃除をすっぽかして横になる。五月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように石のように私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしや、お芙美さん、一ツ手拍子そろえて歌でも唄いましょう。


陸の果てには海がある。
白帆がゆくよ。


(五月×日)
 時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと

参照テキスト: 青空文庫図書カード№1813

音声再生時間:24分55秒shinpan-hourouki2-9a.mp3

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(五月×日)
 六時に起きた。
 昨夜の無銭飲食の奴のことで、七時には警察へ行かなくてはならない。眠くって頭の芯(しん)がズキズキするのをこらえて、朝の街に出てゆくと、汚い鋪道(ほどう)の上に、散しの黄や赤が、露にベトベト濡れて陽に光っていた。四谷(よつや)までバスに乗る。窓硝子(ガラス)の紫の鹿(か)の子(こ)を掛けた私の結い綿の頭がぐらぐらしていて、まるでお女郎みたいな姿だった。私はフッと噴き出してしまう。こんな女なんて……どうしてこんなに激しくゆられ、ゆすぶられても、しがみついて生きていなくてはならないのだろう! 何とコッケイなピエロの姿よ。勇ましくて美しい車掌さん! 笑わないで下さいね。なまめかしく繻子(しゅす)の黒襟(くろえり)を掛けたりしているのですが、私だって、貴女みたいにピチピチした車掌さんになろうとした事があったんですよ。貴女と同じように、植物園、三越、本願寺、動物園なんて試験を受けた事があるんです。近眼ではねられてしまったんだけれど、私は勇ましい貴女の姿がうらやましくて仕方がない。――神宮外苑(がいえん)の方へ行く道の、一寸高い段々のある灰色の建物が警察だった。八ツ手の葉にいっぱい埃(ほこり)がかぶさったまま露がしっとりとしていて、洞穴のような留置場の前へはいって行くと、暗い刑事部屋には茶を呑んでいる男、何か書きつけている男、疲れて寝ころんでいる男、私はこんなところへまで、昨夜の無銭飲食者に会いにこなければならないのかしらと厭(いや)な気持ちだった。ここまで取りに来なければ十円近くの金は、私が帳場に立て替えなければならないし、転んでも只では起きないカフエーのからくりを考えると厭になる。結局は客と女給の一騎打ちなのだ。ああ金に引きずりまわされるのがとても胸にこたえてくる。店の女達が、たかるだけたかっておいて、勘定になると、裏から逃げ出して行った昨夜の無銭飲食者の事を思うと、わけのわからないおかしさがこみ上げて来て仕方がなかった。
「代書へ行って届書をかいて来い、アーン!」
 あぶくどもメ! 昨夜の無銭飲食者が、ここではすばらしい英雄にさえ思える。
 代書屋に行って書いてもらったのが一時間あまりもかかった。茶が出たり塩せんべいが出たり、金を払うだんになると、二枚並べた塩せんべいの代金まではいっている。全く驚いてしまった。届書を渡して、引受人のような人から九円なにがしかをもらって外に出ると、もうお昼である。規律とか規則とかと云うものに、私はつばきを引っかけてけいべつをしてやりたくなった。
 帰って帳場に金を渡して二階へ上ると、皆はおきて蒲団をたたんでいる処だった。掃除をすっぽかして横になる。五月の雲が真綿のように白く伸びて行くのに、私は私の魂を遠くにフッ飛ばして、棒のように石のように私は横になって目をとじているのだ。悲しや、おいたわしや、お芙美さん、一ツ手拍子そろえて歌でも唄いましょう。


陸の果てには海がある。
白帆がゆくよ。


(五月×日)
 時ちゃんが、私に自転車の乗りかたを教えてくれると云うので、掃除が済むと

24分