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第三百七十一話『天にのっとって、私心を捨てる』-【日本の文豪篇】夏目漱石- yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ
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- 社会/文化
今年、生誕155年を迎える文豪がいます。
夏目漱石(なつめ・そうせき)。
漱石初の本格的記念館「新宿区立漱石山房記念館」は、2017年9月24日に開館し、今年5周年を迎えました。
東京メトロ・早稲田駅1番出口を降り、地上に上がれば、路面に記された黒猫のシルエットが記念館にいざなってくれます。
記念館がある早稲田南町は、漱石が、亡くなるまでの9年間を過ごした場所です。
この地で、『三四郎』『こころ』『道草』など、多くの名作を産み出しました。
家は、和洋折衷の平屋。
当時としてはモダンな、ベランダ式の回廊が家屋を囲っていました。
創作に疲れた漱石は、ベランダの椅子に腰かけ、庭の大きな芭蕉の木や、その下に生える砥草をぼんやり眺めたと言います。
記念館は、このたたずまいを見事に再現。
長さが1メートルにも及ぶ芭蕉の大きな葉が、時代を越えて風に揺れています。
毎週木曜日、漱石の門下生たちは、この漱石山房に集いました。
漱石の家を訪れる若者があまりに多いので、のちに児童文学の父となる鈴木三重吉(すずき・みえきち)が、「先生だって、執筆でお忙しい。訪問は、毎週木曜日の3時以降に決めようじゃないか」と提案したのが始まりとされています。
三重吉自身、神経衰弱を患い、文学を諦めようとしていたところ、漱石が高浜虚子(たかはま・きょし)に紹介。
『ホトトギス』への掲載が認められ、世に出ていったひとりです。
漱石は、門下生たちが議論し、語り合う様子を、ただ黙って聞いていました。
重度の胃潰瘍を抱え、死の恐怖にさらされ、絶望的な孤独の最中にあっても、ただ静かに弟子たちを見守り続けたのです。
天にのっとって私心を捨てること。
いわゆる、「則天去私」の心境に至るまで、どれほど心の血を流したことでしょう。
今もなお読み継がれる、日本を代表する文豪・夏目漱石が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
今年、生誕155年を迎える文豪がいます。
夏目漱石(なつめ・そうせき)。
漱石初の本格的記念館「新宿区立漱石山房記念館」は、2017年9月24日に開館し、今年5周年を迎えました。
東京メトロ・早稲田駅1番出口を降り、地上に上がれば、路面に記された黒猫のシルエットが記念館にいざなってくれます。
記念館がある早稲田南町は、漱石が、亡くなるまでの9年間を過ごした場所です。
この地で、『三四郎』『こころ』『道草』など、多くの名作を産み出しました。
家は、和洋折衷の平屋。
当時としてはモダンな、ベランダ式の回廊が家屋を囲っていました。
創作に疲れた漱石は、ベランダの椅子に腰かけ、庭の大きな芭蕉の木や、その下に生える砥草をぼんやり眺めたと言います。
記念館は、このたたずまいを見事に再現。
長さが1メートルにも及ぶ芭蕉の大きな葉が、時代を越えて風に揺れています。
毎週木曜日、漱石の門下生たちは、この漱石山房に集いました。
漱石の家を訪れる若者があまりに多いので、のちに児童文学の父となる鈴木三重吉(すずき・みえきち)が、「先生だって、執筆でお忙しい。訪問は、毎週木曜日の3時以降に決めようじゃないか」と提案したのが始まりとされています。
三重吉自身、神経衰弱を患い、文学を諦めようとしていたところ、漱石が高浜虚子(たかはま・きょし)に紹介。
『ホトトギス』への掲載が認められ、世に出ていったひとりです。
漱石は、門下生たちが議論し、語り合う様子を、ただ黙って聞いていました。
重度の胃潰瘍を抱え、死の恐怖にさらされ、絶望的な孤独の最中にあっても、ただ静かに弟子たちを見守り続けたのです。
天にのっとって私心を捨てること。
いわゆる、「則天去私」の心境に至るまで、どれほど心の血を流したことでしょう。
今もなお読み継がれる、日本を代表する文豪・夏目漱石が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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