yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ TOKYO FM
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- Society & Culture
風も、雨も、自ら鳴っているのではありません。 何かに当たり、何かにはじかれ、音を奏でているのです。 誰かに出会い、誰かと別れ、私たちは日常という音を、共鳴させあっています。 YESとNOの狭間で。 今週、あなたは、自分に言いましたか? YES!ささやかに、小文字で、yes!明日への希望の風に吹かれながら、自分にyes!と言ったひとたちの物語をお聴きください。
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第458話『自分の羽根を打ち返す』-【今年メモリアルなレジェンド篇】小説家 庄野潤三-
今年没後15年を迎える、今も多くのファンに読み継がれる、芥川賞作家がいます。
庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)。
庄野は、昭和20年代後半に文壇に登場した小説家たち、『第三の新人』のひとりに名を連ねています。
第一次戦後派、第二次戦後派の作家たちは、自らの戦争体験を糧に、徹底したリアリズムで極限状態の人間を残酷なまでに描きました。
それに対抗するかのように、『第三の新人』たちは、私小説の復活、短編小説の復興を軸に、身の回りで起こる、半径3メートルの出来事に注目しました。
中でも庄野潤三は、同じ『第三の新人』の吉行淳之介や小島信夫と違い、家族の破綻や日常の退屈、ブラックユーモアではなく、日々の暮らしの中の、何気ない優しさや切なさに光を当てたのです。
40歳を過ぎた頃、庄野は、神奈川県川崎市の生田、多摩丘陵の丘の上に、平屋の一軒家を建て、家族と移り住み、「山の上の家」と呼ばれたその家で、半世紀近く、家族とのささやかな思い出や、庭に咲いた花や木々の成長を、小説や随筆にしたためました。
神奈川にゆかりのあるこの作家の記念展が、本日6月8日より8月4日まで、県立神奈川近代文学館で開催されています。
『没後15年 庄野潤三展――生きていることは、やっぱり懐しいことだな!』。
この展覧会は、庄野の88年の生涯の軌跡はもちろん、彼の家族との写真や直筆の原稿やスケッチ、アメリカ留学中のノートなど、数多くの貴重な品々が展示されています。
そこから浮かび上がるのは、彼がストイックなまでにこだわった、「文学は人間記録、ヒューマンドキュメントである」という信念。
人間の根本に潜む「切なさ」と、生きていることの「懐かしさ」が深い感動を持って迫ってきます。
彼には生涯守り続けた、ある流儀がありました。
それは、「自分の羽根を打ち返す」。
混迷を極める今こそ読まれるべき、唯一無二の作家、庄野潤三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第457話『信念を貫く』-【今年メモリアルなレジェンド篇】生物学者 レイチェル・カーソン-
今年没後60年を迎えた、世界で初めて化学物質の危険性を告発した生物学者がいます。
レイチェル・カーソン。
アメリカ合衆国ペンシルベニア州出身で、もともと生物学者だった彼女の名を一躍有名にしたのが、1962年に出版された『沈黙の春』という書物です。
一見、純文学ともとれるタイトル、「森の生き物が死滅し、春になっても声がしない」という観念的で、ポエジーな書き出しのこの本は、実は、世界で初めての環境問題告発本だったのです。
なぜ、こんなタイトルになったのか…。
レイチェルが訴えた最大のターゲットが、DDTという殺虫剤だったことが大きく関係しています。
第二次大戦中、アメリカ軍兵士の間で爆発的に蔓延した感染症。
戦争で命を落とすより、マラリアなどの感染症で命を落とす兵士が多いとされていましたが、DDTをふりかけることで、多くの兵士が死なずに済んだと報じられました。
その勢いを借りて、ノミなどの害虫を駆除する農薬として、アメリカ全土で大ヒット商品になったのです。
当初から人体や環境への影響が懸念されていましたが、DDTを製造する会社が大きな力を持ち、批判的な論文や報道は全て握り潰されてきたのです。
生物学者として、森を、海を、愛してやまないレイチェルは、食物連鎖の観点から、多くのデータを集め、DDT禁止を訴えることにしました。
彼女の論文は、どの出版社に持ち込んでも断られてしまいます。
化学物質を取り扱う企業の反対や訴訟を恐れてのことでした。
当時、彼女は体の不調を感じていました。
医者の診断は、手の施しようのない末期がん。
病気を隠しつつ、痛みに苦しみながら、レイチェルはこの本の出版を諦めませんでした。
しかし、思いはなかなか届かず、出版の夢は、やはりかなわないのかと絶望の淵に立ったとき、唯一、救いの手を差し伸べてくれたのが、時の大統領、ジョン・F・ケネディだったのです。
死の直前まで信念を貫いた賢人、レイチェル・カーソンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第456話『自分自身のルールをつくる』-【福井にまつわるレジェンド篇】作曲家 カミーユ・サン=サーンス-
福井県には、全国でも名高いパイプオルガンを有する、「福井県立音楽堂 ハーモニーホールふくい」があります。
パイプの数は、実に5014本。
音色を選択するストップは70を数え、優しく繊細でありながら、ダイナミックな世界観を可能にしています。
このホールで、6月16日、オルガン設置20周年を記念したコンサートが開催されます。
オルガンを演奏するのは、世界的に有名で、日本を代表するオルガニスト、石丸由佳(いしまる・ゆか)。
演目のひとつが、今週のレジェンド、カミーユ・サン=サーンスが作曲した、『交響曲第3番「オルガン付き」』です。
サン=サーンスがこの偉大な作品を作曲したのは、1886年。
51歳のときでした。
この年には、「白鳥」を有する『動物の謝肉祭』も発表しています。
幼い頃から神童としてもてはやされ、フランスの名門 マドレーヌ教会で、およそ20年にわたりオルガニストをつとめたサン=サーンスですが、その人生は、決して順風満帆なものではありませんでした。
誰よりもフランスを愛し、「私は音楽よりフランスが大切だ」とまで発言した彼ですが、ワーグナーをはじめとするドイツの作曲家への傾倒ぶりが批判され、国内での評価は失墜。
かと思うと、ワーグナーについての発言で、今度はドイツ国民から大バッシングを受け、演奏をボイコットされてしまうのです。
愛する祖国に留まることをやめ、世界中を転々とする晩年。
しかし彼は、正直な発言、自分の思う通りの生き方を、生涯手放すことはありませんでした。
誰に何を言われても、自分のルールを守り切ったのです。
「フランスのベートーヴェン」と呼ばれたレジェンド、カミーユ・サン=サーンスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第455話『今日一日を精一杯生きる』-【福井にまつわるレジェンド篇】蘭方医 杉田玄白-
福井県小浜市にゆかりのある、『解体新書』で有名な蘭方医がいます。
杉田玄白(すぎた・げんぱく)。
蘭方医とは、江戸時代に西洋医学を学んだ日本人医師のこと。
若狭国小浜藩の、藩専任の医者だった父の影響で、幼くして医学が身近にあった玄白にとっての最大の関心事は、人体の中身でした。
当時は、中国から伝わった漢方が主流。
人間には五臓六腑があり、それらの調子が悪くなれば、煎じ薬で治すという考えが王道でした。
あくまで人間の外、表面を診断し、処方する。
しかし、初めて、腑分け、すなわち「解剖」に立ち会った玄白は、愕然とするのです。
「書物にある五臓六腑とは、全然違うじゃないか!
そもそも人間の体の仕組みがわからなくて、どうして病と闘えるというんだ!」
中国伝来の医学書と違い、オランダ語で書かれた、『ターヘル・アナトミア』という本の解剖図は、見事に人間の内臓、骨格、筋肉までもが示されていました。
「これだ! この本だ!
これを翻訳して全国の医者や学者に読ませないと、日本の医学は、間違った方向に進んでしまう!」
玄白は、同じ漢方医の前野良沢(まえの・りょうたく)、中川淳庵(なかがわ・じゅんあん)らと共に、『ターヘル・アナトミア』の翻訳に着手するのです。
翻訳は、難航を極めます。
そもそも、オランダ語がわからない、専門用語も知らない。
すなわち、オランダ語がわかっても、日本にはその用語がない。
たとえば、「視聴、言動を司り、かつ痛痒、あるいは感熱を知る」、すなわち「見たり聞いたり、しゃべったり、痛さ 痒さ 熱さを感じるもの」というのは、従来の日本の医学にはない用語でした。
これを玄白は、まるで神様が持つ器官のようだということで「神経」と名付けました。
3年5か月をかけて完成した翻訳本、その名は『解体新書』。
この本をめぐっては、玄白と前野良沢の間で意見が分かれました。
まだ、この翻訳には不備があると言って出版を嫌がった良沢。
完全を目指すより、一刻も早くこの本を世に出すべきだと主張する玄白。
玄白には、遠くの未来より、今、今日が大切だったのです。
日本の医学に新しい道を切り開いた賢人・杉田玄白が人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第454話『周りのひとを幸せにする』-【福井にまつわるレジェンド篇】慈善活動家 林歌子-
福井県出身の、児童福祉の先駆者がいます。
林歌子(はやし・うたこ)。
明治時代から、大正、昭和と、社会事業活動に生涯を捧げた歌子の功績は、大きく3つあります。
ひとつは、アルコール依存症で悩むひとのための禁酒に関する活動。
2つ目は、女性の人権尊重のもとに遊郭廃止を訴え続けたこと。
そして3つ目が、孤児院を設立し、恵まれない子どもたちの生活や心のケアのために尽力したこと。
当時は、男性の慈善活動でさえ、思うように世間に受け入れられなかった時代。
女性の歌子に至っては、疎んじられるどころか、狂人というレッテルを貼られ、ひどい仕打ちを受けたのです。
それでも、歌子は、活動を止めませんでした。
稼いだ金、集めた寄付金は、惜しげもなく、全部、困っているひとのため、慈善活動のために差し出したのです。
彼女は、特別、強く、清い心を持ったひとだったのでしょうか。
評論家・小林秀雄の妹で劇作家の、高見澤潤子(たかみざわ・じゅんこ)は、小説『林歌子の生涯 涙とともに蒔くものは』の中で、歌子も、迷い、惑い、葛藤を繰り返す、ひとりの人間に過ぎなかったことを描いています。
さらに、小橋勝之助(こばし・かつのすけ)、小橋実之助(こばし・じつのすけ)という兄弟との出会いがなければ、歌子の偉業はなかったかもしれません。
大阪にある彼女の墓石には、こんな言葉が刻まれています。
「暁の ねざめ静かに祈るなり おのがなすべき 今日のつとめを」
歌子にとって、なすべきつとめとは「周りのひとを幸せにすること」でした。
なぜ、彼女はそう考えるようになったのでしょうか。
幾多の試練を乗り越えたレジェンド・林歌子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第453話『準備をおこたらない』-【福井にまつわるレジェンド篇】探検家 ロイ・チャップマン・アンドリュース-
福井県は、恐竜王国として有名ですが、今からおよそ100年前に、世界で初めて恐竜の卵を見つけた探検家の名前をご存知でしょうか。
ロイ・チャップマン・アンドリュース。
映画『インディ・ジョーンズ』のモデルとも言われている彼が、恐竜探検隊の隊長として中央アジアに出かけたのは、1922年のことでした。
それから60年後の1982年、福井県勝山市で、白亜紀前期、1億2千万年前のワニ類化石が発見されました。
ここから、福井県の恐竜化石発掘の歴史が始まり、日本のおよそ8割の恐竜の化石が、福井県で見つかっています。
なぜ、福井県で多くの恐竜の化石が発掘されたのか。
主な理由は、二つです。
ひとつは、恐竜が生きていた頃に、陸、川や湖などでたまった地層の中でも、骨などが特にたくさんかき集められた部分、いわゆる「ボーンベッド」を発見することができたこと。
化石が出やすい、「手取層群」が広く分布していたのです。
さらに、福井県が早くから大規模で集中的な発掘を粘り強く続けてきたことも、大きな要因としてあげられます。
福井駅西口に降り立てば、たくさんの恐竜の動くモニュメントが出迎えてくれます。
子どもから大人までロマンを感じる恐竜の世界に魅かれ、探検に一生を捧げた男、ロイ・チャップマン・アンドリュースは、映画のように、クジラ、オオカミ、盗賊に襲われ、危機一髪でまぬがれてきました。
どんなに危険な目にあっても、探検をやめることはありませんでした。
彼は、好きだったのです。
未知の世界に出会うことが。
そして、新しい自分を発見することが。
アンドリュースは、「冒険」という言葉を嫌いました。
「大切なのは、準備。探検には準備が必要だ。でも、冒険には往々にして準備がない」
大胆であり、繊細。
そこに探検家としての矜持があったのです。
恐竜の生態をひもとく扉を最初に開いた賢人、ロイ・チャップマン・アンドリュースが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?