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エミリー・ディキンソン「傷つく誰かの心を守れたなら‪」‬ あなたのいない夕暮れに 〜新訳:エミリー・ディキンソン

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こんにちは。  

強い日差しにカーッと照りつけられたり、急な雨にザーッと降られたり、あわただしく交互に使う日傘と雨傘を、晴雨兼用ひとつの傘にしたら、どんな空もさあ来いや、と思えるようになりました。  

今月、私はまたひとつ年を取ります。半世紀近く生きても、心の中の日照りや大雨、どちらにも使える心の傘は、なかなか見つからないものですね。おかわりありませんか。  



先日、数々の引越しとともに、我が家の食器棚にあり続けた、りんごの形の白いお皿を割ってしまいました。それから、あまり時間をたたず、家族が大切にしているお茶碗も......。  

なかなか打ち明けることができず、お茶碗を使わずに済む、丼やカレー、麺ものなどを食卓に並べ続けましたが、2週間が限界でした。なんとか、修理したお茶碗を手に謝ることができ、「形ある ものは、いつか壊れるから」という言葉に、一瞬救われました。でも、見る度に傷跡は痛々しく、胸の内にもヒビが入ったように、ため息が漏れ出ます。  



この感じは、持病が再発したり、いつもの道で大怪我をしたり、町で知らないおじさんに急に怒鳴られたり、親しくしていた人との関係が修復できなくなったり......目には見えない壊れたもの の破片で、心に傷がついた時の感覚によく似ています。  



こんなことなら、ずっと使わず、棚の奥にしまっておけばよかったのか。そんなことも頭によぎります。あれがよくなったのか、これがよくなかったのかと、ぐるぐる考え、つまるところ、もう、物事に波風立たぬよう、自分の心が揺れないよう、どこにも行かず、誰にも会わず、ただじっとしていればいいのか、と。  



形があるものは、いつか壊れる。形がなくても、傷つくし、元には戻せない状態になってしまうことがあります。でも、それを恐れて、ずっと棚の中に居たら、それでは生きていることにならない。物も、人も、この世界に降り立ったら、傷つきながら、壊れながら、何もせずにはいられないのだなと、半ば諦めのような、覚悟の決まらないヤセ我慢のような心境になりました。  



どうにかくっついた傷を、「これは私の生きた印」なんて思えるようになるには、時間がかかります。それでも、お茶碗も、私も、まだ、がんばれそうです。  



こんなこともあり、この夏は誕生日を前に、最近の私のテーマである、ちゃんと「使い切る」という意識がより強くなったように感じます。それは、エコ的な意味とはちょっと違うものです。昔から、気に入った布やシール、好みの便箋や葉書を集めては、ただ眺めるのが好きだったのですが、ある日、私がいなくなったら、これらは必要なくなったものとして処分されるのだと、せつない気持ちになりました。  

ならば、自分でちゃんと使い切ろう、物がこの物であることを、まっとうさせてやろうと、真剣に、目の前の布の気持ちになったりして。  



今は、彼らのベストな使われ方を考えるのが楽しいです。ミシンの登場も、手紙や葉書を出す頻度も、増えました。  



同じように、私の拙い言葉を添え、あなたにおくってきた詩は、私の心が小さく集めてきたもの です。言葉が手紙の風に乗り、私のかわりに、あなたに会いに行ってくれていたわけですが、離れていても、便箋の四角い窓から

こんにちは。  

強い日差しにカーッと照りつけられたり、急な雨にザーッと降られたり、あわただしく交互に使う日傘と雨傘を、晴雨兼用ひとつの傘にしたら、どんな空もさあ来いや、と思えるようになりました。  

今月、私はまたひとつ年を取ります。半世紀近く生きても、心の中の日照りや大雨、どちらにも使える心の傘は、なかなか見つからないものですね。おかわりありませんか。  



先日、数々の引越しとともに、我が家の食器棚にあり続けた、りんごの形の白いお皿を割ってしまいました。それから、あまり時間をたたず、家族が大切にしているお茶碗も......。  

なかなか打ち明けることができず、お茶碗を使わずに済む、丼やカレー、麺ものなどを食卓に並べ続けましたが、2週間が限界でした。なんとか、修理したお茶碗を手に謝ることができ、「形ある ものは、いつか壊れるから」という言葉に、一瞬救われました。でも、見る度に傷跡は痛々しく、胸の内にもヒビが入ったように、ため息が漏れ出ます。  



この感じは、持病が再発したり、いつもの道で大怪我をしたり、町で知らないおじさんに急に怒鳴られたり、親しくしていた人との関係が修復できなくなったり......目には見えない壊れたもの の破片で、心に傷がついた時の感覚によく似ています。  



こんなことなら、ずっと使わず、棚の奥にしまっておけばよかったのか。そんなことも頭によぎります。あれがよくなったのか、これがよくなかったのかと、ぐるぐる考え、つまるところ、もう、物事に波風立たぬよう、自分の心が揺れないよう、どこにも行かず、誰にも会わず、ただじっとしていればいいのか、と。  



形があるものは、いつか壊れる。形がなくても、傷つくし、元には戻せない状態になってしまうことがあります。でも、それを恐れて、ずっと棚の中に居たら、それでは生きていることにならない。物も、人も、この世界に降り立ったら、傷つきながら、壊れながら、何もせずにはいられないのだなと、半ば諦めのような、覚悟の決まらないヤセ我慢のような心境になりました。  



どうにかくっついた傷を、「これは私の生きた印」なんて思えるようになるには、時間がかかります。それでも、お茶碗も、私も、まだ、がんばれそうです。  



こんなこともあり、この夏は誕生日を前に、最近の私のテーマである、ちゃんと「使い切る」という意識がより強くなったように感じます。それは、エコ的な意味とはちょっと違うものです。昔から、気に入った布やシール、好みの便箋や葉書を集めては、ただ眺めるのが好きだったのですが、ある日、私がいなくなったら、これらは必要なくなったものとして処分されるのだと、せつない気持ちになりました。  

ならば、自分でちゃんと使い切ろう、物がこの物であることを、まっとうさせてやろうと、真剣に、目の前の布の気持ちになったりして。  



今は、彼らのベストな使われ方を考えるのが楽しいです。ミシンの登場も、手紙や葉書を出す頻度も、増えました。  



同じように、私の拙い言葉を添え、あなたにおくってきた詩は、私の心が小さく集めてきたもの です。言葉が手紙の風に乗り、私のかわりに、あなたに会いに行ってくれていたわけですが、離れていても、便箋の四角い窓から

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