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高校生からの哲学雑誌『哲楽』は、若手哲学研究者が集結して、哲学の知を広く共有できるように、高校生以上の読者にわかりやすい文体で書き上げています。雑誌取材のために集めたインタビューをPodcastにてお届けします。大学で哲学を教えている方々だけでなく、生活の中で哲学を楽しんでいる方々の生き生きとした声をお楽しみください。

哲‪楽‬ 哲楽編集部

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高校生からの哲学雑誌『哲楽』は、若手哲学研究者が集結して、哲学の知を広く共有できるように、高校生以上の読者にわかりやすい文体で書き上げています。雑誌取材のために集めたインタビューをPodcastにてお届けします。大学で哲学を教えている方々だけでなく、生活の中で哲学を楽しんでいる方々の生き生きとした声をお楽しみください。

    Testugaku Interview with Motoyoshi Irifuji

    Testugaku Interview with Motoyoshi Irifuji

    (インタビュー◎2021年10月4日テレビ会議にて Music: Korehiko Kazama)







    入不二基義さんは、青山学院大学で哲学を教えている。自身の思考は日々、ワープロソフトから描画ソフトまで様々なアプリケーションを駆使して記録する。論文執筆時には、集中して、一挙に書き上げる。そうして蓄積された入不二哲学は、複数の概念の動きを捉え、それらが現れたり潜んだり、伸びたり縮んだり、時には螺旋状に流れたりする様子を活写し、独特な言葉遣いで読者の思考を照らす。















    入不二さんは、11月11日という誕生日と、神奈川県立湘南高等学校出身であることに誇りをもっている。そもそも書く、という習慣がいつ始まったのか、その記憶を辿ると、幼稚園時代にまで遡る。小さな黒い能率手帳を持ち歩き、近所を探検して、お化けについて記録していたという。概念が動く形で現れ始めたのは、中学時代。数学の授業で習った2進法で、0と1だけで構成される数字の中に、2そのものがどこにも見出せないという衝撃を覚え、頭の中に視覚的なイメージが浮かんだ。これを「2進法の亀裂」だと感じたという。







    そういえば、入不二さんの誕生日の1111は、2進法から10進法に書き換えると15になる。誕生日に暗号が隠されているようでもある。高校は神奈川県でも有数の進学校。試験前には、普段感じる疑問を全て封じて勉強に打ち込む一方、文芸部の活動で小説を執筆し、小さな疑問の断片が書き留められた。







    幼少期に入不二少年が見ていたお化けは、幻覚なのか、空想なのか、それとも実在する何者なのか、それはわからない。ただ、お化けたちは「現に」そのような在り方で存在していた。哲学者になった入不二さんが書き下ろした『現実性の問題』という一冊の本があるが、お化けたちの在り方は、この本で描かれる現実の力ともどこかで通じているようでもある。







    『現実性の問題』は、一年程前に刊行され、歴史に残ることを予期させる哲学書として話題になった。ただし、読解は容易ではない。現実の存在という形而上学を扱う哲学書であり、書かれてあることの先に詩や文学との接合を想像させる芸術的な書でもある。その一方で、読み手が正確に理解しようと読み込むうちに、不思議な魅力に取り憑かれる。入不二さんの著作の愛読者たちは、この魅力をエッシャーの騙し絵に喩えたり、精神的な力として感じたりもしている。







    さて、入不二さんとのインタビューが終わって、音声を編集しようとしたところ、声と声の間の無音であるはずの区間に、微かな背景音が残されていた。入不二さんの自宅近くの学校では、運動会の予行演習が開催されていて、遠くで響く「今、最後の追い上げです」という放送部の実況のようだった。ここ数年来、私たちの日常は、季節感も時間感覚もぼんやりしたままだ。そんな中でも地球は回って、季節はめぐっている。







    秋空を見上げれば、高く見える。地球に接近する隕石の軌道は、天文学者が観測してくれている。そして哲学者入不二は、人間の概念の動きを見つめて、哲学している。こうして、私たちの暮らしと自由は安全に保たれ、また明日からの生活を前に、安心して眠ることができるのだ。























    インタビュー







    ※音声の書

    • 1 hr 9 min
    闇を浮遊する視点から物語を紡ぐ

    闇を浮遊する視点から物語を紡ぐ

    (インタビュー◎2020年8月5日テレビ会議にて Music: Korehiko Kazama)



    清水将吾さんは、大学講師として働く傍ら、東京を中心とした様々な場所で哲学カフェの進行役を務めている。「傍ら…」といっても、清水さんの場合、一方が本業で一方が副業というわけではなさそうだ。「哲学的な謎について人と対話する」ことを中心に据えて、国や分野の境を越えて学びの場を選び、仕事や依頼を受け続けてきた。そして今年の夏、一冊の哲学ファンタジーが上梓された。タイトルは『大いなる夜の物語』。41の謎で構成され、新社会人の登場人物の視点を借りて展開する。清水さんが20代の頃に考え始めた謎も含まれるが、数年前に一冊の物語にしようと決めてからは、「神話の力を借りてスルスルと書き進めることができた」という。

    この物語は一風変わっている。一般的な物語では、主人公や書き手の視点という一定の場所から、様々な時空間で起きたことを理解して読み進めることができる。一方『大いなる夜の物語』では、この視点が動くのだ。動くのは時間や空間だけではない。主人公から登場人物へ、その登場人物から書き手へ、さらに地球から宇宙へ、オリオン座の裏側に行ったかと思うとまた物語の主人公の視点に戻ってきたりもする。

    幼少期の清水少年は、シンガポールやアメリカや日本を行き来しつつ、『少年ジャンプ』で日本の漫画文化に慣れ親しんで育った。その後、日本の大学院を修了してからはイギリスに渡り、そのまま哲学の学位を取得する。人生の3分の1は日本語圏外の国で暮らしてきたことになる。清水少年の視点は、空間的に大きく移動してきたが、清水将吾という一人の人としての視点は変わらない。このことが物語の中心的な哲学的な謎にも繋がっている。視点という「儚い点」が存在すること、そしてそれが今日も明日も持続していること、これは一体、どういうことなのか。

    清水さんの哲学者としての原点となるこの謎は、物語の中で視点の動きとして現れている。縦横無尽に動くその描写で、軽い目眩すら覚えるほど。

    こうした描写と既存の文学的・物語的表現の共通性を探るため、川端康成の『雪国』冒頭の英訳や、隕石落下について国立科学博物館が伝えるプレスリリースを清水さんに朗読して頂いた。

    任意の動く点を名もない誰かの視点として物語を始められる日本語表現に対して、英語表現は、ユークリッド空間上で “I” や “You” や “the train”として人や物の位置を指差しながら展開する箱のようでもある。『雪国』や隕石落下を伝える日本語表現は、実に巧妙に、しかし極めて自然に、任意の視点を世界の開けとして導入して、動かすことができる。その誰かの視点を通して、変わる風景や、移動する列車、隕石の形や色を、私の目の前にあるものとして感じることができる。

    ひょっとしたら清水さんの哲学的な謎は、清水さんが様々な境界を移動する過程で託された、隕石の破片でもあるのかもしれない。その正体の解明は、物語の執筆を通して、読者とともに進められている。

     

    インタビュー

    誰かの視点を借りて体験する

     



    田中:改めまして田中です。本日は最近本を出された『大いなる夜の物語』という本を出された清水将吾さんをお迎えしております。この哲楽ラジオですけど

    • 49 min
    手話で因果論を解体する

    手話で因果論を解体する

    (インタビュー◎2016年11月11日 シルバード洋菓子店にて Music: Korehiko Kazama)

    高山守さんは、東京大学で哲学を教えていた。2013年に同大を定年退職した後、社会活動への関心もあり地元の手話講習会に通い始めた。

    生まれは東京の江戸川区小岩。高校時代の倫理の授業では、教員に敵対心を抱かせるほど「物事の根本を掴まなければ気がすまない」性分だったというう。「なぜ生きるのか」の答えを求めるためキリスト教にも強い関心を持った高山青年は、商社マンになるという未来を思い描きつつも、哲学の道に舵を切る。東大の学部生当時全盛だったドイツ哲学の中でも、カントを精読するも、実存的な問いかけに対する満足のいく議論を見い出すことはできなかった。博士課程で後に40年近くかけて取り組むことになるヘーゲルに出会い、これだとのめり込んだ。

    東京大学を定年するまでテーマにしていたのは、自由と因果をめぐる問題だ。世界には、「自然法則による因果性だけでなく、自由による因果性もある」のか、「自由は存在せず、すべてが自然法則によって起こる」のか。この二つの命題の対立は、『純粋理性批判』でカントが論じた第3アンチノミーとして知られるが、そこからヘーゲルを経て、高山さんは、因果論そのものを解体しながら人間の自由のあり方を記述する道を追い求めてきた。高山さんは、一貫して、原因と結果のつながりによって世界を因果的に了解することは間違っていると考えている。2010年と2013年に出された2冊の著作に因果の解体と自由のあり方の議論を収め、定年後は、しばらくアカデミックな哲学の世界からは遠ざかろうと考えて、ただの「ジジイ」として手話を習い始めた。ところが、過去とはしばらく別れるつもりだった手話の世界で、因果解体論を裏づける表現を見つけてしまった。「世界の因果的な了解は音声言語の認識の枠内にあり、そしてそれは間違っている。一方で自由な行為の一つ一つが自分という人間を形作る」。68歳になった今、高山さんは手話講習会の上級コースに通いながら、そう考えている。物理学者の中には、こうした問題領域がおよそ理解できず、論難に終始する人もいるが、高山さんの研究は進んでいる。

    この冬、日本手話学会で「手話言語と因果表現」というテーマで発表する。手話言語を用いたアプローチ自体、哲学史上稀に見る試みで、これから踏み出される高山さんの第一歩は、月面に初めて降り立ったアームストロングのそれと重なる。何せ、音声言語の形式による認識の限界によって生み出された哲学上の大問題が、手話の力で瓦解するかもしれないからだ。

    昨年度、国の研究費の不採用通知を受けた高山さんは、「大風呂敷を広げ過ぎて、支離滅裂な思い込みをしているだけかもしれない」と笑っている。音声言語話者である研究者たちが、その限界に目を向けて、高山さんの研究を見守ることができるのか。それが問題だ。

     

    インタビューは「哲学者に会いにゆこう 2」でお読み頂けます。

    • 36 min
    第2回現代哲学ラボ音源公開!永井均の哲学の賑やかさと密やかさ

    第2回現代哲学ラボ音源公開!永井均の哲学の賑やかさと密やかさ

    インタビュー

    2015年7月25日 ホテル&レジデンス六本木ニシロクラボにて

    ゲスト:永井均

    聞き手:森岡正博

    進行:田中さをり

    Music: 風間コレヒコ、紀々

     

    田中:本日は、第二回現代哲学ラボを、ホテル&レジデンス六本木にて公開インタビュー形式でお届けしてまいります。全編を通して、ぷねうま舎のご提供でお届けいたします。冒頭の音楽は風間コレヒコで「Body and Nobody」、たくさんの方々に支えていただいて、こんな素敵な場所で、こんな素敵な音楽とともに、公開収録をお届けできるまでになりました。お集まり頂いたみなさま、ありがとうございます。本日のゲストは永井均さんをお迎えしておりまして、インタビュアーは森岡正博さんにお務め頂きます。それではさっそくお迎えしましょう。大きな拍手でお願いします。

     

    永井均氏との出会い

    森岡:森岡です。公開インタビューということで、永井さんとのトークを始めたいと思います。みなさん、もちろん永井さんのことは十分ご存知だと思いますけれども、まず、私の目から見て永井さんの簡単なご紹介をしたあとで、二冊、最近御本を出されていますけれども、その中から最近私が気になったことを中心にいろいろお聞きしたり、ちょっと疑問を呈したりというような感じで、いろんなところから永井さんの考えていることを探っていきたいと思います。

    まず、永井さんと私の出会いというのは実はかなり古くて、もう実はあんまり覚えていないんですが、確か一九八〇年代ですよね。私がまだ大学院生だったんじゃないかと思いますが、ちょうどその時に永井さんが、あれは慶応の紀要の論文でしょうかね、大学紀要と学会誌にも論文を書かれていて。それがいわゆる永井のキーワードになった〈私〉……。これは何と読めば、山鍵ですか?

     

    永井:山括弧(やまかっこ)ですね。

     

    森岡:山括弧ですか。〈私〉(やまかっこのわたし)についての論文があって、それがたまたま研究室にあったので読んで、衝撃を受けたんですよ。何かちょうどその時、私も似たようなことをずっと考えていて。その時に、似たようなことをもうすでに考えて論文にしている人がいる、というのですごく驚いて。それでどこかでお会いしてちょっとお話をしたと思いますが、何を話したか、私の方からはまったく覚えていません。何か覚えていますか?

     

    永井:覚えていないですね。会ったことは覚えていて、確か東大の近くですね。

     

    森岡:東大の赤門の前で待ち合わせた気がするんですけどね。

     

    永井:あのあたりで喋ったことは(覚えていますが)、中身は全然覚えていないですね。

     

    森岡:ねえ、全然覚えていないですね。おかしいですね。そのとき私、こっちから本当に会いたいなと思ってお会いした。その頃は永井さん、まったく無名ですからね。そのあと本を出されて、「〈私〉のメタフィジックス」[1]というのが八六年ですかね。勁草書房から出されて。それで注目を浴びたんですが、ちょうどその二年後に私も同じ勁草書房から、「生命学への招待」[2]という、生命倫理の本を出した、というような感じになっていますね。そのあとはみなさんご存知の通りなんです。私が永井さんの書いたものを読んでいるといつも思うんですが、問題意識がすごく首尾一貫し

    • 1 hr 5 min
    芙蓉の花と存在の一義性

    芙蓉の花と存在の一義性

    (インタビュー◎2015年10月5日 慶応義塾大学にて Music: Korehiko Kazama)





     

     

     



     

     

     

    山内志朗さんは、慶應義塾大学で哲学を教えている。生まれは山形県。奈良時代に始まったとされる山岳宗教に修験道があるが、その行者である山伏たちが修行した山々のふもとに育った。山中で厳しい修行を行う山伏は明治期に廃業を余儀なくされ、今では体験修行しかできないものの、山内さんの3代前の祖先までは山伏だったため、幼い頃からスピリチュアルなものに関心があったという。

    催眠術や心理学にも関心を寄せていた山内少年は、中学時代に深夜のラジオ番組を通してキリスト教に触れる機会を得る。番組が提供していた通信講座で初めて聖書を手にして以来、ニーチェやキルケゴール、フロイト、さらにはカントまで書物の山々を渡り歩いた。そうして、東京大学文学部哲学科に進学することになる。

    安保闘争時代、山内さんが東大に入学した76年はまだ学生運動も活発で、同級生たちはフーコーのブルジョア気質を皮肉り、哲学思想について熱弁をふるっていた。一方で、山形で聖書と近代哲学を行き来してきた山内青年は、ハイデガーの代表作の『存在と時間』を一字一句書き取りながら独学を開始する。当時すでに時代の寵児であった廣松渉の講義で、ようやくその哲学を理解することができたという。

    さらにその後、恩師の坂部恵を通してライプニッツに出会い、その「謎めいた」魅力に取り憑かれ、ドイツ語からラテン語・ギリシャ語の古典語学習に時間を費やした。山内さんが35歳で出版した中世哲学の入門書『普遍論争』が文庫化されたときに、坂部はこんな解説を寄せている。

    トマス・クーンやフーコーなどのパラダイム・思考図式の転換を説く断続史観を紹介し論ずるひとは多くても、そうした方法を哲学史・思想史に実地にまで応用する仕事は、わが国ではきわめてすくない。山内氏の仕事がそうした稀の事例のひとつであることをここで控えめな著者に代わって言い添えておくのも無駄ではないだろう。( 『普遍論争—近代の潮流としての』平凡社・2008年:p.321より)

    一読しただけでは、師が教え子の本に寄せた文章とはわかない。まるで昔からの同志が捧げたような解説を携え、山内さんのデビュー作は文庫化された。

    新潟大学での勤務を経て、2007年に山内さんは約20年ぶりに再び東京に戻ってきた。山内さんが働く慶應の三田キャンパスは、東京の真ん中にあるとは思えないほど、穏やかな空気が流れていて、インタビュー当日には、ふわりとした可憐な花びらが印象的な桃色の花が咲いていた。

    撮影のためにこの花の前に立って頂くと、花の名が「芙蓉」であること、さだまさしがかつてこの花を歌詞にして歌っていたこと、「ふよう」という言葉の響きが花の印象に合っていることを、鼻歌まじりに語りながら、山内さんは笑っていた。実際には、女子校の校長先生でもあり、新しい倫理学の本が出版されたばかりで、笑えないほど忙しいはずなのに。

    中世の哲学者スコトゥスが扱っていた「存在の一義性」という問題を「思い込み」で読み解こうと、山内さんは一人でまたもこの険しい迷宮に入り込んでいた。その思い込みとは、「小さいものの存在意義、個体性を重視するはずだと。それと神様との結

    • 1 hr 10 min
    不随意な身体のリアリティ

    不随意な身体のリアリティ

    (インタビュー◎2015年7月25日 ホテル&レジデンス六本木にて Music: Korehiko Kazama)

    森岡正博さんは、早稲田大学で哲学を教えている。2015年の春、27年ぶりに関西から関東に戻ってきたばかりだ。7月最後の土曜、首都高速が頭上を走る通りに面した都内のホテルで開催された「現代哲学ラボ」で、話を伺った。

    森岡さんの生まれ故郷は高知県。小学生のときに「死んだらどうなるんだろう」という問いに取り憑かれて以来、「強制的に哲学者にならされてしまった」という。その問いを抱えたまま、東京大学に進学。物理学や数学でこの問いの答えを見つけようとしたものの、期待していたものは得られず、哲学に転向した。大学院でヴィトゲンシュタインの分析哲学に出会ったときに「まさにこれだ」と感じてのめり込んだ。一方で、理系と文系の間を行き来したことから、科学技術の問題についても考えるようになり、「自分を棚上げしない」パラダイムを立ち上げようと奔走した。

    時は1980年代。その頃に登場した生命倫理学という学問分野では、脳死の問題が扱われていたものの、自分たちが倫理の問題を生み出しているという意識が欠落していることに疑問を感じ、何か別の形が必要なのではないかと森岡さんは感じたのだ。1988年、その思いが最初の本『生命学への招待―バイオエシックスを超えて』に結実する。さらに京都で就職してから数年後の1994年、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの論客たちとの対談本『電脳福祉論』を出版する。

    あらゆる技術が身体障害者や高齢者と接続するに従って、そうした人々が文明の最先端に立つことになるのではないか。そんな見通しを、5人の論客たちにぶつけたのだ。最後に橋爪大三郎氏と対談したとき、森岡さんはある素朴な未来予想をぶつける。「これから先、人間と機械が接続されるようになると、複数の人々がひとつの大きな身体を共有するようになるのではないか」と。複数の人々が大きなクレーンを同時に操縦する思考実験で、この直観を表現してみたものの、橋爪氏は否定する。それは「随意運動」に対する「麻痺」が起こっている状況であり、「身体の共有」ではありえないと。

    森岡さんはここでもまだ自分の直観を捨てきれず、複数の人々の身体が一台の車に接続され、エネルギーを供給しながら走る思考実験を出してみる。それに対しても橋爪氏は、それは「我々が太陽に依存しているのと同じで、身体の共有化ではない」と否定する。

    森岡さんは、ある程度は自分の意志に従って動くクレーンを使っているうちに自分の脳に条件づけがほどこされるようになり、そうして複数の人間の身体像が形成されれば、身体が共有されたことになるはずだ、と最後まで粘った。

    再び2015年7月。20年が経って改めて振り返ってみると、「随意運動―麻痺」という考え方は、身体のある一面しか捉えきれていないのではないかと思えた。身体の不随意な部分であっても、内臓感覚や、五感で感じる知覚なども、身体の別の側面として浮かび上がってくることに、当時から興味があった。しかしそれは個人的な興味を超えて、次の予測につながる。そうした不随意の側面をもった身体が機械を通して複数の人々と接続されると、自分の身体が拡張されるだけでなく、心も拡張され、ひいては他人の心が

    • 1 hr

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