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Bethel Church Sermon of the Week Bethel Church Redding
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- Christianity
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ベテル教会は、カリフォルニア州レディングにある牧師のビルジョンソンが率いる信者のコミュニティです。 私たちは神と人々に情熱を傾けています。
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信頼することの力
箴言3:5〜12 箴言の3章5〜12は私が子供の頃に祖母がいつも暗唱していた聖句なので、早い時から私の考え方の核になったのですが、今日はここから話したいとおもいます。5節、心でつかんだ事柄の方が思いの中にある事より影響があります。思い、知性を過小評価するのではないのですが、心にある事の影響は大きいです。あなたが自分で神の事を全て説明できるならそれはあなたの思いの中の神であり、本当の神ではないのです。いつも人生に「理解しきれない、わからない」神の事柄がある事によって私たちは信頼をするのです、信仰で歩むのです。
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空間と場所
マタイ14:22、23 使徒2:1 空間と場所という話をしましょう。私達の中の、また私達の外の空間と場所、また時間という事。 イエス様は周りの人々や押し寄せる状況などから、ご自身を離すことをされていました。マタイ14:22、23でも見られますが、イエス様はよく 山や荒野の静かな所に一人で行かれていました。そこで何をしていたかは誰も知りません、イエス様は一人で行かれたのです。 私達の人生で、一人きりになることを嫌う人や、苦手である人が多いと思いますが、イエス様が人から離れて、自分だけの時間と場所を持たれたのなら。私達にはどれだけ必要なのでしょう。主は全宇宙をかえるという偉大な働きをしておられ、忙しく、常に人がいる状態でしたが、選択によって一人きりの時間と場所を作られました。
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祈りの戦略
使徒4:29、30。使徒19:23〜38、エペソ6:12 使徒の働きの大きな流れを見る時に、あるパターンを見つけます。 聖霊が注がれ、人々が加えられ、反対と迫害が起こり、それに忍耐することに成功した時に増化するということです。ペテロが宗教リーダー達に捕らえられ、投獄され、解放された後、教会はこう祈りました。「もっと大胆さを与えてください」彼らは政治的に非難され無いように祈らず、ますます「大変なこと」が起こるような祈りをしたのです。キリストの為に立ち続けるなら、非難や迫害は避けられ無いのです。 神は「論じる為の声」を立てました、それはパウロでした。 彼の知性と訓練は非常に卓越していて、救いのすぐ後にも、人々と、信仰やその当時の社会状況を論じていました。
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父達を解き放ち、天の父を現す
今日は父の日ですから、「父達を解き放ち、天の父を現す」事を分かち合います。「父の日」と聞いた時に、多くの異なる事をそれぞれの人は考えます。 痛みや、苦しみ、喜び。または、自分は良い父ではない、失敗した父だと思う人もいるでしょう。 イエスは子として、父を現す為に来られました。私達も子として、天の父を現す事を役目として受け取っています。 敵の嘘を信じる事によって、私達が偉大な父達になる事は妨げられています。ですから、今日はその嘘を捨てる時です。
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礼拝ー平和の戦い
イザヤ60:18、62:10、詩篇8:2 、149:6 私達の戦い、霊的戦いは「肉と血に対してではなく、力、主権、暗闇の力」に対するものです。 私達が、主を賛美して、愛していけにえを捧げる時に主が立ち上がり、私達の敵に勝利し、私達に「あなたがたは勇士だ」というのです。喜ばしいことです。 イザヤ60:18 あなたの城壁を救いと呼ぼうとありますが、城壁はあなたを守る為です。安全の為。あなたは城壁の中にいるなら、悪魔が合法的にもっている。盗んで殺して破壊することから、敵の嘘に同意し無い限り守られます。これを新訳では、「救いのかぶと」と言います。ここでは、賛美は「門」とありますが、賛美は 栄光の王が入ってくることができる、主が来られるところです。 黙示録には「門」は真珠でできているとありますが、真珠は「不快」なことの中で生まれます。そのように、「不快」な時にあって、信仰によって、主の御人格をそこで賛美する時に「真珠」が作られているのです。
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礼拝とは賛美の立ち位置につくこと
ヨハネ4:23、24 礼拝とは、「賛美」をする立ち位置につくこと、賛美の心であること。なぜ礼拝をするのか、それは神様がふさわしい方であるから。神に礼拝されることが必要なのではなく、私達が主に捧げる賛美によって変えられるのです。私達が賛美の心から、礼拝をしないのなら、それは音とアクションにすぎない、賛美の心によってそれは礼拝になります。 ダビデは、羊飼いの時、敵から逃げている洞窟の中で主にあいました。礼拝していました、そして王になった時にも、心と思いと力を尽くして礼拝しました、だから、神は「私の心を追い求めるもの」と呼んだのでしょう。 手を上げて、礼拝することは、神様が私達の心地よい、慣れているゾーンから出て、もっと神様のいる場所に出てきて、会うことを招待しているとも思います。
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