yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ TOKYO FM
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- Maatschappij en cultuur
風も、雨も、自ら鳴っているのではありません。 何かに当たり、何かにはじかれ、音を奏でているのです。 誰かに出会い、誰かと別れ、私たちは日常という音を、共鳴させあっています。 YESとNOの狭間で。 今週、あなたは、自分に言いましたか? YES!ささやかに、小文字で、yes!明日への希望の風に吹かれながら、自分にyes!と言ったひとたちの物語をお聴きください。
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第454話『周りのひとを幸せにする』-【福井にまつわるレジェンド篇】慈善活動家 林歌子-
福井県出身の、児童福祉の先駆者がいます。
林歌子(はやし・うたこ)。
明治時代から、大正、昭和と、社会事業活動に生涯を捧げた歌子の功績は、大きく3つあります。
ひとつは、アルコール依存症で悩むひとのための禁酒に関する活動。
2つ目は、女性の人権尊重のもとに遊郭廃止を訴え続けたこと。
そして3つ目が、孤児院を設立し、恵まれない子どもたちの生活や心のケアのために尽力したこと。
当時は、男性の慈善活動でさえ、思うように世間に受け入れられなかった時代。
女性の歌子に至っては、疎んじられるどころか、狂人というレッテルを貼られ、ひどい仕打ちを受けたのです。
それでも、歌子は、活動を止めませんでした。
稼いだ金、集めた寄付金は、惜しげもなく、全部、困っているひとのため、慈善活動のために差し出したのです。
彼女は、特別、強く、清い心を持ったひとだったのでしょうか。
評論家・小林秀雄の妹で劇作家の、高見澤潤子(たかみざわ・じゅんこ)は、小説『林歌子の生涯 涙とともに蒔くものは』の中で、歌子も、迷い、惑い、葛藤を繰り返す、ひとりの人間に過ぎなかったことを描いています。
さらに、小橋勝之助(こばし・かつのすけ)、小橋実之助(こばし・じつのすけ)という兄弟との出会いがなければ、歌子の偉業はなかったかもしれません。
大阪にある彼女の墓石には、こんな言葉が刻まれています。
「暁の ねざめ静かに祈るなり おのがなすべき 今日のつとめを」
歌子にとって、なすべきつとめとは「周りのひとを幸せにすること」でした。
なぜ、彼女はそう考えるようになったのでしょうか。
幾多の試練を乗り越えたレジェンド・林歌子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第453話『準備をおこたらない』-【福井にまつわるレジェンド篇】探検家 ロイ・チャップマン・アンドリュース-
福井県は、恐竜王国として有名ですが、今からおよそ100年前に、世界で初めて恐竜の卵を見つけた探検家の名前をご存知でしょうか。
ロイ・チャップマン・アンドリュース。
映画『インディ・ジョーンズ』のモデルとも言われている彼が、恐竜探検隊の隊長として中央アジアに出かけたのは、1922年のことでした。
それから60年後の1982年、福井県勝山市で、白亜紀前期、1億2千万年前のワニ類化石が発見されました。
ここから、福井県の恐竜化石発掘の歴史が始まり、日本のおよそ8割の恐竜の化石が、福井県で見つかっています。
なぜ、福井県で多くの恐竜の化石が発掘されたのか。
主な理由は、二つです。
ひとつは、恐竜が生きていた頃に、陸、川や湖などでたまった地層の中でも、骨などが特にたくさんかき集められた部分、いわゆる「ボーンベッド」を発見することができたこと。
化石が出やすい、「手取層群」が広く分布していたのです。
さらに、福井県が早くから大規模で集中的な発掘を粘り強く続けてきたことも、大きな要因としてあげられます。
福井駅西口に降り立てば、たくさんの恐竜の動くモニュメントが出迎えてくれます。
子どもから大人までロマンを感じる恐竜の世界に魅かれ、探検に一生を捧げた男、ロイ・チャップマン・アンドリュースは、映画のように、クジラ、オオカミ、盗賊に襲われ、危機一髪でまぬがれてきました。
どんなに危険な目にあっても、探検をやめることはありませんでした。
彼は、好きだったのです。
未知の世界に出会うことが。
そして、新しい自分を発見することが。
アンドリュースは、「冒険」という言葉を嫌いました。
「大切なのは、準備。探検には準備が必要だ。でも、冒険には往々にして準備がない」
大胆であり、繊細。
そこに探検家としての矜持があったのです。
恐竜の生態をひもとく扉を最初に開いた賢人、ロイ・チャップマン・アンドリュースが人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第452話『挑戦をやめない』-【今年メモリアルなレジェンド篇】画家 エドヴァルド・ムンク-
今年、没後80年を迎える、世紀末の画家がいます。
エドヴァルド・ムンク。
名画『叫び』で世界的に有名な、ノルウェー出身のムンクは、幼い頃から身内の死を経験し、内省的で孤独。
内にこもるような印象がありますが、実は類まれなる、挑戦のひとでもありました。
それは、『叫び』を画く一年前、1892年11月の出来事。
ムンクは、ドイツ・ベルリン芸術協会から、「個展を開きませんか」という招待を受けました。
パリで学んだ印象派の呪縛に苦しみ、自分の画風を模索していた29歳のムンクにとって、それは新しい作品に挑戦する最高のチャンスでした。
文字通り、寝食を忘れ、制作に没頭。
油彩55点を画き上げ、ベルリンに乗り込んだのです。
のちに「愛のシリーズ」と呼ばれる、『窓辺の接吻』や『愛と痛み』などの作品群は、人間の内面を真摯に描き切った自信作でした。
しかし、世紀末の暗さや、抽象的で難解な作風は、保守的なベルリンの批評家たちには理解されず、皇帝ウィルヘルムもこれらを認めず、新聞記者たちは、ムンクを「芸術を毒殺するもの」と揶揄したのです。
展覧会は、わずか一週間で打ち切り。
前代未聞の事件は、「ムンク・スキャンダル」として、世界中のマスコミが取り上げました。
まわりの心無い言葉に、人一倍繊細なムンクは、ひどく傷つきましたが、画くことを諦めたりしませんでした。
それどころか、翌年、最高傑作『叫び』を世に送り出すのです。
彼は、誹謗中傷の嵐の中、自分が描くべき主題を見つけました。
それは、『愛』。
暗く、病んだような画風に思えますが、彼が最も描きたかったのは、愛、そして表層的ではない人間の強さ、だったのです。
誰に何を言われても、一つの作品を何度も書き直し、自分が信じた道を突き進んだレジェンド、エドヴァルド・ムンクが人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第451話『変化を怖がらない』-【今年メモリアルなレジェンド篇】ミュージシャン デヴィッド・ボウイ-
今年、デビュー60周年を迎える、イングランド出身のカリスマ・ロック・ミュージシャンがいます。
デヴィッド・ボウイ。
1964年、広告会社で会社員をしていたボウイは、ひそかに音楽シーンで名をなすことを夢見て、実業家、ジョン・ブルームに手紙を書きます。
「ブライアン・エプスタインがビートルズにしたことを、僕たちにしてみませんか?」
ブルームは、自宅のパーティに、当時、ボウイが所属していたバンド「デイヴィー・ジョーンズ&ザ・キング・ビーズ」を呼びました。
デイヴィー・ジョーンズとは、芸名ボウイを名乗る前の彼の名前。
このパーティでの演奏がきっかけで、同年6月5日、デビューシングル『リザ・ジェーン』が発売されました。
翌年、きっぱり会社を辞めてしまうのですが、このシングルがさっぱり売れません。
ちなみに、2年前に発売されたビートルズのデビュー曲『ラヴ・ミー・ドゥ』は、ミュージックウィーク誌トップ50で最高位17位を記録。
翌年のシングル『プリーズ・プリーズ・ミー』は、メロディメーカー誌シングルトップ50で、1位を獲得しています。
ボウイがシングルを出しても、全く売れない時期が続きます。
挙句の果て、同じ名前のデイヴィー・ジョーンズという名のボーカルが、アメリカで大ブレイク。
そのバンドの名は、モンキーズでした。
名前を変えることを余儀なくされた彼は、1966年、デヴィッド・ボウイを名乗ることにします。
ボウイとは、アメリカの開拓者、ジェームズ・ボウイ。
彼は、テキサスの独立のために戦い抜いた英雄でした。
荒ぶる魂を抱え、ナイフを持ち歩く様は、敵を恐れさせたと言われ、彼が愛用したナイフは、ボウイ・ナイフと呼ばれました。
開拓者、それこそ、デヴィッド・ボウイが目指した姿だったのです。
ジョン・レノン、坂本龍一にも愛された伝説のロックスター、デヴィッド・ボウイが人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第450話『生活に芸術を!』-【今年メモリアルなレジェンド篇】テキスタイル・デザイナー ウィリアム・モリス-
今年、生誕190年を迎える、世界的に有名なテキスタイル・デザイナーのレジェンドがいます。
ウィリアム・モリス。
その名を知らなくても、彼がデザインした「いちご泥棒」を一度は目にしたことがあるかもしれません。
木々が生い茂る深い森を背景に描かれる、鳥といちご。
日本人にも大人気のこの作品には、モリスの思いが色濃く、凝縮されています。
彼が活動した19世紀のイギリスは、産業革命以後の華々しい技術革新と、工場の乱立。
大量生産、大量消費に経済はうるおい、人々は、表面上、便利で快適な暮らしを手に入れました。
しかし、内面はどうでしょう。
あふれかえる物質にスペースを奪われ、深く息をすることすら忘れる毎日をおくっていたのです。
モリスは、幼い頃見た風景を思い出しました。
神秘的な森。
そこには、解き明かされない秘密があり、ロマンがあり、未知への探求心がありました。
煌々と照らされる電気により、全てが明らかに映し出される生活の中にこそ、「不思議な世界」が必要であると彼は説いたのです。
大量生産による質の低下を恐れたモリスは、手仕事の刺繍や、手作りの椅子や調度品の復興を願いました。
「生活の中にこそ、芸術は必要だ」
そんな強い信念のもと、デザイナーに留まらず、詩を書き、社会主義活動に尽力し、世界をより豊かにするために、一生を捧げたのです。
迷ったときは、いつも幼い頃愛した森を想起しました。
ひとは、幼少期に見た原風景に癒され、守られる、そう信じていたのです。
モダンデザインの父、ウィリアム・モリスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは? -
第449話『道なき道を造る』-【今年メモリアルなレジェンド篇】作曲家 團伊玖磨-
今年、生誕100年を迎える、日本を代表する作曲家がいます。
團伊玖磨(だん・いくま)。
先月、ニューヨークで開催された、日本の音楽文化を世界に広めるイベント「ミュージック・フロム・ジャパン2024年音楽祭」でも、團の『ヴァイオリンと弦楽四重奏のための2章 黒と黄』が演奏されました。
彼の凄さは、作曲するジャンルの幅広さにあります。
世界的に有名なオペラ『夕鶴』や、数々の交響曲に始まり、『ぞうさん』『やぎさんゆうびん』などの童謡、さらには『ラジオ体操第二』、さまざまな学校の校歌など、多様な作品は、彼の音楽への姿勢の表れにも思えます。
團の信条、それは「豊かな音楽で世界中をあたたかくしたい」というものでした。
音楽は、自分が亡くなったあとも、何十年、何百年、残り続ける。
どんな時代のひとにも、どんな年代のひとにも、何かひとつ、優しい灯(ともしび)を残したい。
そう、願ったのです。
そんな祈りにも似た願いは、もしかしたら、彼の幼少期の体験に根差しているのかもしれません。
團が7歳のとき、祖父・團琢磨(だん・たくま)が、暗殺されたのです。
1932年3月5日 午前11時半ごろ。
東京日本橋三越本店近く、三井本館入り口で、待ち伏せていた血盟団のひとりに狙撃されました。
自分を心底可愛がってくれた、大好きな祖父の末路。
理不尽で、理解不能。
幼い伊玖磨は、この世界に何が必要で何が足りないかを、繊細な心で感じ取っていたに違いありません。
男爵の家系に生まれ、実業や政治の道が約束されていたにも関わらず、あえて親の反対を押し切り、音楽の道に進んだのです。
彼には、最初から覚悟がありました。
自分の仕事は、誰かを幸せにするものでなくてはならない。
『パイプのけむり』というエッセイでも名を成した賢人・團伊玖磨が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?