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哲学や思想や歴史や心理や脳や倫理などについてのエッセーです。

考える塾 in TAIPEI Takashi Jome

    • 社会/文化
    • 5.0 • 2件の評価

哲学や思想や歴史や心理や脳や倫理などについてのエッセーです。

    倫理記号の恣意性⑤の感想の続き

    倫理記号の恣意性⑤の感想の続き

    仏教の十二縁起と、キリスト教の楽園追放の類似性              イヴの原罪とアダムの原罪                                ジョン・スチュアート・ミルの質的功利主義、ベンサムの功利主義からの逸脱                             異なる3つの論理体系

    • 42分
    倫理記号の恣意性⑤効率・自由 vs 道徳・公平、『歴史の終わり』と民主主義vsAI独裁主義、ヴィットゲンシュタインの『論理哲学論考』、ゲーデルの不完全性定理、ジョン・スチュアート

    倫理記号の恣意性⑤効率・自由 vs 道徳・公平、『歴史の終わり』と民主主義vsAI独裁主義、ヴィットゲンシュタインの『論理哲学論考』、ゲーデルの不完全性定理、ジョン・スチュアート

     ポンペオ米国務長官が七月二十三日に、中国の人権抑圧・領土拡張・経済的不公正と、その理念的基盤であるマルクス・レーニン主義に対し、宣戦布告とも解釈できる演説を行ったことで、新型コロナウィルスで混乱の中にある世界は新冷戦時代へ突入することになりました。現代の世界には、エリート階級が政策決定の権限を独占する体制と、自由と民主主義を標榜する体制の二種類の国家に分類することができますが、中国は前者、アメリカは後者の正義を代表する国家だと言えるでしょう。
     しかし、中国の不正義を糾弾したポンペオ氏のアメリカの中にも相矛盾する複数の正義があり、必ずしも一枚岩とは言えません。自由と民主主義を標榜する社会の正義の一つには、最大多数の最大幸福を目指して経済的効率性を高めようとする功利主義や、他者の権利を侵害しない限りあらゆる個人の自由を認めるべきだと考えるリバタリアニズム≪自由至上主義≫があります。
     例えば、アメリカの軍隊ではベトナム戦争まで徴兵制が実施されていましたが、全国民が兵役の義務を持ち国家の防衛に責任を負うべきだという考え方に対して、功利主義やリバタリアニズムはそれぞれの立場で異議を唱え、金銭を支払って兵役の義務を他者に代行させるという南北戦争時代の制度の正当性を主張します。 
     まず功利主義は、金銭を支払う者はそれによって兵役を回避するという利益を得るし、兵役を代行する者はそれによって金銭という利益が得られるため、双方の幸福が最大化されていると言います。またリバタリアニズムは、双方が自分の意思で多額の金銭を支払ったり、兵役を代行したりしている以上、この制度は自由の原理に適合していると言います。
     その一方で、アメリカには両者の主張に対する反論もあります。その一つは、「兵役は国民が平等に負うべき義務であり、民主主義国家においては、あらゆる階層の人々とその愛する伴侶や子供や孫の全てが戦場に行かなければならない可能性があればこそ、政策決定者も簡単には戦争を起こせないのだ」というものです。平等な兵役こそ戦争を防ぎ平和を守るという論理です。イラク戦争では、戦場に赴いた志願兵の多くが低所得者層で、戦争を主導した政治家など富裕層の割合は低かったという事実があります。兵役の平等が崩れた社会は戦争を起こしやすい一面があるのです。また、兵役代行を引き受ける者の多くが金銭的に貧しい階層出身だという事実は、徴兵回避が貧しい者を奴隷的拘束に置くのと同じ状態になることを示しており、自由の原理にも矛盾しています。
     経済効率や自由という正義と、道徳や公平という正義が、ここに対立しているのです。

    • 1 時間
    倫理記号の恣意性④リバタリアニズム

    倫理記号の恣意性④リバタリアニズム

     歴史の教科書には、国王や貴族に奴隷的拘束を強いられていた民衆が、自らの選択と決断によって生きる「自由」を求めて革命を起こす姿が記されています。イギリスの市民革命やアメリカ独立戦争やフランス革命は、近代社会の誕生を象徴する出来事ですが、これらの革命で人々が獲得を目指した最も重要な権利は「自由」でした。そして、権力によって奴隷的に拘束される牢獄のような状態は否定され、自らの意志で行動できることが、現代の人権思想の根本原理となったのでした。
     しかし、社会全体の利益を追求する時には、この「自由」が制限されても仕方がないという考え方もあります。例えば、感染力の高いウィルスが流行して人々の命を脅かす時、人間の自由な移動・行動がその繁殖を拡大してしまうなら、それは制限されなければならないという考えです。あるいは、社会全体の発展を促進するためには、指導者が強い権限を発揮して様々な政策を進めていかなければならないため、その体制に批判的な言動は厳しく取り締まるべきだという考えです。
     こうした「最大多数の最大幸福」を追求する考え方に対し、それよりも個人の「自由」が優越するとして、他者の自由を制限しない限りどんな行動も認められるべきだと考える思想を「自由至上主義・リバタリアニズム」と言い、この思想を掲げる人々はリバタリアンと呼ばれています。
     リバタリアンは、自由を制限するどんな制度も法律も慣習も宗教も全て排除していくべきだと主張し、国家による道徳的規制に反対します。そして、職業選択の自由、信仰の自由、言論の自由、婚姻の自由が認められるべきであるように、働かない自由、信仰を否定する自由、性的・暴力的表現をする自由、同性婚の自由を越えて他の動物と婚姻する自由なども、制限されてはならないと考えます。妊娠中絶が制限されるべきでないのと同様に、自殺する自由や、依頼されれば自殺を助ける自由も人間にはあり、命を捨てても自分の臓器を売る自由さえあると言います。
     彼らは、国家による経済的自己選択権の侵害を強く批判し、福祉政策のために税金や社会保険料が徴収されることに反対しています。貧しい人々や身体的ハンディキャップを持つ人々の救済は、国家がやらずとも、マイクロソフト創始者のビル・ゲイツや大投資家ウォーレン・バフェットなどの富豪が自ら好んで行うため、税の徴収による労働意欲や消費意欲の抑制は経済にとって害があるだけだと言うのです。
     世界一の先進国であるアメリカ合衆国に現在も公的健康保険制度が無いのは、こうした原理的な自由主義に対する強い信仰があるためだと考えられます。

    • 1 時間18分
    倫理記号の恣意性③最大多数の最大幸福

    倫理記号の恣意性③最大多数の最大幸福

     イギリスの道徳哲学者ジェレミー・ベンサムは、道徳の至高の原理とは苦痛に対する快楽の割合を最大化することだという、功利主義の原理を確立しました。人間がとるべき正しい行いとは、快楽や幸福を増やし、苦痛や苦難を減らす、「効用」の最大化であるというわけです。
     1884年、ミニョネット号というイギリス船が沈没し、ボートで漂流していた四人の船乗りたちが、水も食料もない限界状況に追い込まれた結果、悲惨な効用の最大化を迫られました。衰弱して死の淵にあった一人を二人が殺害したのです。残り一人は殺人に断固反対したものの、共に死体を食料とし、三人は生き残りました。数日後に救出された三人は、当局に事実をありのままに告げて逮捕されます。殺人を犯した二人が起訴され、反対した一人は釈放されました。裁判の結果、二人には死刑が宣告されますが、ヴィクトリア女王の特赦により禁固六ヶ月に減刑されました。
     二人の殺人行為は、現代では緊急避難と呼ばれるもので、非常事態における違法行為は、それによって生じた損害より、避けようとした損害の方が大きい場合、罪に問われないことになっています。この当時のイギリスでは、まだその制度が論争中で法制化されていなかったため、殺人罪が適用されたのでした。
     ベンサムは、公的諸政策の根底に置くべき道徳原理として、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化するべきだ」とし、幸福計算を提唱しました。これは、データを集めてある行為の生む快と苦の量を計算し、その量によって政策の善悪を決めることです。この計算に基づけば、ミニョネット号の例でも、殺人を犯した二人の行為は正しかったことになります。では、殺人に反対したもう一人は間違っていたのでしょうか。
     ベンサムの功利主義を継ぎ、これを改良しようとしたジョン・スチュワート・ミルは、人間の自由意志を重視し、幸福の量よりも質に基づく道徳原理を説きました。「人間は、自分の望む行為が他者に危害を加えない限りにおいて、好きなことをすることが出来る」というのがその主張です。
     「ゲド戦記」で有名な、アーシュラ・K・ル=グウィンが「オメラスから歩み去る人々」という小説を書いています。あるところに、オメラスという幸福に満ちた豊かな町がありました。しかし、町の片隅の不潔で劣悪な地下室には、なぜか知能の低い一人の少女が閉じ込められています。少女は「ここから出して」と訴えているのですが、人々に無視され続けます。この町の幸福は、この少女の犠牲と引き換えに与えられていたからです。少女を救えば、町の人々がみな不幸になるよう定められています。ほとんどの人々は時折思い出したように言い訳をしながらも、町の幸福を享受し続けます。ところが、中にはそれを恥じて、この町を歩み去る人々もいます。
     あなたなら、この町に居続けますか?
    それともオメラスから歩み去りますか?
    それとも、少女を救って町中を不幸にしますか。

    • 27分
    倫理記号の恣意性②正義の色分け

    倫理記号の恣意性②正義の色分け

     電磁波の中の十兆分の一に満たない可視光を、周波数の高い方から赤、橙、黄、緑、青、紫など更に色分けして、私たち動物は周辺環境を把握するのに活用しています。しかし、人間が「赤」と呼ぶ波長と、「橙」と呼ぶ波長の間には明確な境界線がありません。赤と黄、橙と緑など明らかに違う波長の光を反射する物体であれば誰もが同じように色分けできますが、どこまでが「青」でどこからが「紫」なのか決めるのは悩むところで、人によって判断は異なることでしょう。
     倫理における正義と不正義の色分けにも、同じことが言えます。どこまでが正義で、どこからが不正義か、そこに境界線を引くのは難しいことです。
     あなたが路面電車を運転しているとします。気が付くと、前方に五人の作業員が工具を持って線路に立っていました。ところが電車のブレーキが急にきかなくなり、このままではあなたは確実に彼らを轢いて死なせてしまいます。その時、右へと逸れる待避線が目に入ります。五人を救うにはあなたはそちらへ電車を向けなければなりません。でも、そこにも作業員が一人立っていて、そちらへ進めば確実に彼を死なせることになります。あなたならどうしますか?
     これは「トロッコ問題」と呼ばれる有名な倫理学上の課題ですが、多くの人は葛藤の末により多くの人命を守る選択肢を選ぶようです。そこでもう一つ、今度はあなたが運転士でなく、暴走する路面電車を鉄橋の上から見ている傍観者とします。電車の前方にはやはり五人の作業員が電車に気づかず作業をしています。ふと隣を見ると大変太ったあなたより体の大きな見ず知らずの人が立っていました。あなた自身の体では電車の暴走は止められそうにありませんが、隣の人の太った体を線路に突き落とせば確実に電車を止めらそうです。あなたはその人を突き落としますか?
     この場合、同じように五人を救うために一人を犠牲にする行為であるにもかかわらず、あえて殺人を犯すことは不正義だと感じる人が多いそうです。では、作業員が五人ではなく五十人だったらどうでしょう。あるいは、その太った人が死の運命にある作業員たちを見てゲラゲラ笑っていたとしたら?
     更に、あなたが一国の首相だとします。あるウィルスが流行し、感染者の二%は確実に死んでしまうとします。感染を防ぐためには経済活動を封鎖しなければなりません。しかし、そうすれば経済危機によりたくさんの命が失われます。あなたなら、どうしますか?

    • 24分
    倫理記号の恣意性①言葉と倫理の恣意性&雑談「宗教2世問題」

    倫理記号の恣意性①言葉と倫理の恣意性&雑談「宗教2世問題」

     「言語記号の恣意性」という言葉があります。19世紀のスイスの言語学者ソシュールの考えで、言葉とは、それを表す音声・文字(シニフィアン)と、それによって表される意味・概念(シニフィエ)が、合理的な必然性を必要とせずに結び付いて出来ているという考えです。
     例えば、「イス」という音声は、「人が座るための台」のことではなく、「食事や仕事や勉強をするための台」のことであってもよく、「ツクエ」という音声は「体を横たえて寝るための台」のことであってもよかったわけですが、たまたま何となく勝手気ままに(恣意的に)現在のような組み合わせになっている、ということです。
     この考え自体は、「そりゃそうだね」とすぐに納得できるものだと思います。日本人みんなで、ピーマンのことをナスと呼び、ナスのことをピーマンと呼んだって、みんなでやれば何も怖くはありません。でも、ソシュールが言う「恣意性」はそれだけで終わりではありません。
     どこかの星から手も足も腰もないボール型の体の宇宙人が地球へやってきて、日本語を勉強するとします。その時、同じ台状の形をした物体を、イス、ツクエ、ベッドと言い換えていることを知ったら、その宇宙人は「Why,Japanese people⁉」と叫び出すかもしれません。人間は、同質なモノやコトを別々の音声(シニフィアン)で名づけることにより、それぞれを私たちには異なる価値(シニフィエ)を持った存在に見立ててしまいます。そして、その言葉を知らない者には理解不能な独自の現実世界を、言葉で作り出すことが出来るのです。
     こうした言葉の恣意性に似た性質を、倫理について説明した人が二五〇〇年前の中国にいました。儒教の祖である孔子です。倫理とは、道徳やモラルに近い意味の言葉で、人間としてしなければならない行動基準のことです。「仁」=【思いやり】と「礼」=【その表現】の結びつきで倫理が出来ていると孔子は言いました。これは、言葉が意味・概念とそれを表す音声・文字で出来ているのに似ています。思いやりを表現する方法はいろいろなので「仁」と「礼」の結びつきは恣意的だし、たくさんの礼儀作法が生まれると、表現される思いやりの種類も増えていってしまいます。
     このように倫理は根源的な恣意性を持っているため、人間の心には困ったことが起きてしまいます。「伝染病が流行してるんだから外出を控えるのが思いやり」という考えが生まれる一方、「そんなことしたらいろんなお店が困ってしまうじゃないか」という考えも生まれます。何が正しいか、悩み、惑い、葛藤するのは、私達の心が背負う宿命なのでしょう。

    • 1 時間13分

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