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#3 「おおきに!」 山本一‪力‬ 聴くおいしい記憶

    • フード

キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。

今回は、第3回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「おおきに!」をお届けします。

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「おおきに!」 山本一力

「おいしいステーキなら、ブルックリンに行くのが一番です」キタオカさんは標準語で言い切った。日本航空を退職後も、そのまま彼の地に残り、いまに至るほどのニューヨーク好き。彼女の博識と人柄のよさと英語力を評価したメトロポリタン美術館は、ボランティアの案内役に任じていると他のひとにうかがった。兵庫県に生まれ育った彼女は、就職を機に東京に移った。が、言葉遣いは変えずに。「ボランティアで日本語も教えています」生徒はみんな関西弁ですわ……彼女の明るい笑い声まで関西弁に聞こえた。「ニューヨークでステーキを食べるなら、どこがお薦めですか?」2011年の春。雑談のなかで問うたら、即座に冒頭の答えが返ってきた。「地下鉄でも行けますが、昼間に限ります」理由のひとつは治安を考えてである。安全な街だが、夜は暗い。 旅人は昼の方がいいと。「ディナーの予約は、とるのが大変やから」歴代大統領もひいきにしており、夜の予約は至難だというのが理由その二だった。そんな次第で、彼女・カミさん・小生の三人で正午に出向いた。もちろん彼女が事前予約をいれた日の正午に、である。注文したのはトマト、ベーコン、ステーキの三種だ。トマトは直径10センチを超える大型。皿に輪切りを並べたシンプルな一品だが、岩塩との相性が見事。酸味と塩の調和を堪能した。ベーコンは5ミリの分厚さ。注文時に「何切れ?」と問われた意味がよく分かった。そして主役、ステーキの登場である。注文したのは『ステーキ・フォー・ツー』。 三人なら、これで充分だと彼女。ウエイターとやり取りする英語は、流暢なこと至極だ。オーダーを終えた彼女は「醤油はありますか?」と尋ねた。「ノー!」ウエイターは即答した。彼女は得心顔でうなずいた。ピーター・ルーガーは自家製のステーキ・ソースが評判で、販売もしているほどだ。客にはそのソースが供されていた。ウエイターが下がったとき、彼女はバッグをまさぐり、クリーム色の丸大豆しょうゆミニパックを取り出した。「ここのソースもおいしいけど、やっぱりこれが一番ですねん」ウエイターの目に触れぬように、ナプキンの下に袋の山を隠した。運ばれてきたステーキは骨付きで、焼き加減も見事。研ぎのいいナイフで切り分けたウエイターは、三人それぞれにサーブした。ステーキ・ソースの注がれた器と一緒に、彼は同じ形をしたカラの器をキタオカさんの前に置いた。ウエイターの目が、ナプキンの膨らみの下に注がれていた。「おおきに!」キタオカさんの正調関西弁が弾けた。

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忘れられない味、一緒に食卓を囲んだ人、その時の会話……そんな「おいしい記憶」を思い出

キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。

今回は、第3回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「おおきに!」をお届けします。

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「おおきに!」 山本一力

「おいしいステーキなら、ブルックリンに行くのが一番です」キタオカさんは標準語で言い切った。日本航空を退職後も、そのまま彼の地に残り、いまに至るほどのニューヨーク好き。彼女の博識と人柄のよさと英語力を評価したメトロポリタン美術館は、ボランティアの案内役に任じていると他のひとにうかがった。兵庫県に生まれ育った彼女は、就職を機に東京に移った。が、言葉遣いは変えずに。「ボランティアで日本語も教えています」生徒はみんな関西弁ですわ……彼女の明るい笑い声まで関西弁に聞こえた。「ニューヨークでステーキを食べるなら、どこがお薦めですか?」2011年の春。雑談のなかで問うたら、即座に冒頭の答えが返ってきた。「地下鉄でも行けますが、昼間に限ります」理由のひとつは治安を考えてである。安全な街だが、夜は暗い。 旅人は昼の方がいいと。「ディナーの予約は、とるのが大変やから」歴代大統領もひいきにしており、夜の予約は至難だというのが理由その二だった。そんな次第で、彼女・カミさん・小生の三人で正午に出向いた。もちろん彼女が事前予約をいれた日の正午に、である。注文したのはトマト、ベーコン、ステーキの三種だ。トマトは直径10センチを超える大型。皿に輪切りを並べたシンプルな一品だが、岩塩との相性が見事。酸味と塩の調和を堪能した。ベーコンは5ミリの分厚さ。注文時に「何切れ?」と問われた意味がよく分かった。そして主役、ステーキの登場である。注文したのは『ステーキ・フォー・ツー』。 三人なら、これで充分だと彼女。ウエイターとやり取りする英語は、流暢なこと至極だ。オーダーを終えた彼女は「醤油はありますか?」と尋ねた。「ノー!」ウエイターは即答した。彼女は得心顔でうなずいた。ピーター・ルーガーは自家製のステーキ・ソースが評判で、販売もしているほどだ。客にはそのソースが供されていた。ウエイターが下がったとき、彼女はバッグをまさぐり、クリーム色の丸大豆しょうゆミニパックを取り出した。「ここのソースもおいしいけど、やっぱりこれが一番ですねん」ウエイターの目に触れぬように、ナプキンの下に袋の山を隠した。運ばれてきたステーキは骨付きで、焼き加減も見事。研ぎのいいナイフで切り分けたウエイターは、三人それぞれにサーブした。ステーキ・ソースの注がれた器と一緒に、彼は同じ形をしたカラの器をキタオカさんの前に置いた。ウエイターの目が、ナプキンの膨らみの下に注がれていた。「おおきに!」キタオカさんの正調関西弁が弾けた。

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忘れられない味、一緒に食卓を囲んだ人、その時の会話……そんな「おいしい記憶」を思い出

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