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#4 「身体がぬくもるきに」 山本一‪力‬ 聴くおいしい記憶

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キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。

今回は、第4回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「身体がぬくもるきに」をお届けします。

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「身体がぬくもるきに」 山本一力

減塩意識の高まりという、時代の流れに逆行することにもなりそうだが······。興りは半世紀以上の昔にさかのぼる。「ええ塩加減が美味い粕汁を作るコツやきに」亡母は出刃包丁で叩き切ったブリのあらに、気前よく塩をまぶした。「だいこん・ニンジン・コンニャク・油揚げを、あんたが好きなばあ、短冊に刻んでいれたらええきに」それじゃあ、味の決め手となる酒粕は?「灘やら伏見やらと面倒なことは言わんと、酒粕やったらなんでもかまわんがやき」量はどうするのかと問うたら。「あんたが好きなばあ溶かしたらええ」ばあとは「ぐらいに」を意味する土佐弁だ。真新しいブリのあらにまぶす塩以外のことは、酒粕までもすべてばあで片付けていた。鍋の内で煮えたぎっている湯に、ブリをドサドサッ。一気に鎮まった湯が再び沸騰したら、表面に浮いたアクを取り除く。そのあと短冊に刻んだ具をドサドサッ。鍋にふたをかぶせて、ブリと具がほどよく煮えるのを待つ。湯気が立ち始めたらふたを取り、味噌漉しでたっぷりの酒粕を溶かす。「粕の甘みとブリの塩とが、うまいこと混ざりおうてくれるように、あとはいらんことせんと、煮えるがを待つがぞね」頃合いを見て味見をする。「ちょっと味が足らんかなと思うたら、それが一番ええ出来になっちゅうときやきに」おたまに落とした少量の醤油を足して、ゆっくりとかき回せば出来上がりだ。粕汁は上品な椀ではなく、無骨な肉厚のどんぶりによそう。あらが盛り上がるばあに。そしてどんぶりよりもさらに大きな器を、ガラ入れとして使う。「粕汁は出来立てが値打ちやきにねえ。よそわれたら親の仇に会うたと思うて、ものも言わんと食べないかん」親の教えに従い、わたしはハフハフ言いつつ、夢中で食べた。おふくろの味だと思い込んでいた粕汁。なんと親父が母に伝授した一品だったと知ったのは、成人したあとだった。わたしがまだ四歳のとき、両親は協議離婚した。別れた真の理由がなにだったのかは、両親ともに鬼籍に入って久しいいまでは、知る手立てもないのだが……。別れた亭主に教わった粕汁を、おふくろは我が子に伝えていた。大事な一品として。ブリの塩加減が美味さを決めるコツ。思えばこれを言うときの母は、伝授してくれた男に思いを馳せるような表情をしていた。                   *                   いまではうちのカミさんの得意料理だ。ブリを鍋に入れたあとには、亡母よろしく短冊に切った具をドサドサッと。出来上がりはどんぶりで、ものも言わずに。食すれば身体が芯からぬくもるのは、酒粕の効能のみにあらずだ。

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今回は、第4回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「身体がぬくもるきに」をお届けします。

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「身体がぬくもるきに」 山本一力

減塩意識の高まりという、時代の流れに逆行することにもなりそうだが······。興りは半世紀以上の昔にさかのぼる。「ええ塩加減が美味い粕汁を作るコツやきに」亡母は出刃包丁で叩き切ったブリのあらに、気前よく塩をまぶした。「だいこん・ニンジン・コンニャク・油揚げを、あんたが好きなばあ、短冊に刻んでいれたらええきに」それじゃあ、味の決め手となる酒粕は?「灘やら伏見やらと面倒なことは言わんと、酒粕やったらなんでもかまわんがやき」量はどうするのかと問うたら。「あんたが好きなばあ溶かしたらええ」ばあとは「ぐらいに」を意味する土佐弁だ。真新しいブリのあらにまぶす塩以外のことは、酒粕までもすべてばあで片付けていた。鍋の内で煮えたぎっている湯に、ブリをドサドサッ。一気に鎮まった湯が再び沸騰したら、表面に浮いたアクを取り除く。そのあと短冊に刻んだ具をドサドサッ。鍋にふたをかぶせて、ブリと具がほどよく煮えるのを待つ。湯気が立ち始めたらふたを取り、味噌漉しでたっぷりの酒粕を溶かす。「粕の甘みとブリの塩とが、うまいこと混ざりおうてくれるように、あとはいらんことせんと、煮えるがを待つがぞね」頃合いを見て味見をする。「ちょっと味が足らんかなと思うたら、それが一番ええ出来になっちゅうときやきに」おたまに落とした少量の醤油を足して、ゆっくりとかき回せば出来上がりだ。粕汁は上品な椀ではなく、無骨な肉厚のどんぶりによそう。あらが盛り上がるばあに。そしてどんぶりよりもさらに大きな器を、ガラ入れとして使う。「粕汁は出来立てが値打ちやきにねえ。よそわれたら親の仇に会うたと思うて、ものも言わんと食べないかん」親の教えに従い、わたしはハフハフ言いつつ、夢中で食べた。おふくろの味だと思い込んでいた粕汁。なんと親父が母に伝授した一品だったと知ったのは、成人したあとだった。わたしがまだ四歳のとき、両親は協議離婚した。別れた真の理由がなにだったのかは、両親ともに鬼籍に入って久しいいまでは、知る手立てもないのだが……。別れた亭主に教わった粕汁を、おふくろは我が子に伝えていた。大事な一品として。ブリの塩加減が美味さを決めるコツ。思えばこれを言うときの母は、伝授してくれた男に思いを馳せるような表情をしていた。                   *                   いまではうちのカミさんの得意料理だ。ブリを鍋に入れたあとには、亡母よろしく短冊に切った具をドサドサッと。出来上がりはどんぶりで、ものも言わずに。食すれば身体が芯からぬくもるのは、酒粕の効能のみにあらずだ。

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