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#6 「おぬくとおこげ」 山本一‪力‬ 聴くおいしい記憶

    • フード

キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。

今回は、第6回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「おぬくとおこげ」をお届けします。

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「おぬくとおこげ」 山本一力

細い稼ぎで妹とわたしを養育していた母は、朝食を大事にした。こどもを学校に送り出すと、自分も仕事に出た。検番(芸者周旋所)の帳場という仕事柄、帰宅は深夜だ。しかも一年を通じて休みは数日だけである。こどもと一緒は朝食だけだ。ゆえに母は毎朝釜でごはんを炊き、おぬく(炊きたて)を一緒に食べた。釜の周りや底にへばりついていた焦げ飯は、おひつにうつしたごはんの上に載っていた。学校から帰ったあとは塩を散らした小さな手で、焦げ飯を握った。毎日の小遣いが5円だった子には、おこげの握り飯はもっとも身近なおやつだった。電気釜(炊飯器)新発売時、家電メーカーは「もうおこげの心配は無用です」と謳った。釜で炊くごはんは、気を抜けばたちまち焦げた。電気釜は家庭からおこげを追い払った。釜にできた焦げ飯の塩おにぎりをもう一度と、願う気を募らせていたら……2014年の年の瀬。3泊した福島県磐梯熱海の宿で、願いがかなった。初日の夕食で、釜炊きのおぬくだと分かった。大きな釜に、ずっしり重たい木のふた。大きさは違うが、こども時分に炊きたてをおひつにうつした、あの釜と同じに見えた。ならばおこげもあるはずだと思い、宿のおねえさんに問うた。「ほかのお客様がよそわれたあとなら、できています」まさにその通りだった。釜の周りや底には、あのおこげがくっついていた。しゃもじで剥がしてくれたおねえさんの手は、水仕事で荒れていた。山の水は飛び切り美味い。そして冷たい。おいしいごはんを供するために、指先が凍えそうになるあの水で、毎日何升もの米を研ぐに違いない。素敵な笑顔は作り物ではないことを、おねえさんの両手が教えてくれた。茶碗によそわれた、焦げ色まで美味そうなおこげ。昔を思い出しつつ、塩をパラパラッ。こどものころに味わえたあの美味さが、茶碗に凝縮されていた。その後は朝食でも夕食でも、塩を散らしたおこげばかりを食していた。様子を見ていたおねえさんが……「塩もいいですが、お醤油もおいしいですよ」言われた通りに醤油を垂らした。焦げたごはんと醤油が絡まり合っている。運んだ口のなかで、互いの美味さが溶け合ったのだろう。塩もいいが、醤油をまとったおこげは、呑み込むことまで惜しまれた。福島県は全国有数の米どころである。山間の温泉地は、雪国となって年を越す。その雪が解けてできた水は、石清水もかくやの美味さである。恵まれた素材の美味さを引き出すのは、宿泊客を大事に思う、おねえさんのあの両手だ。

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食を通して、誰かを大切に想う気持ち、そして感謝の気持ち。そのすべてが積み重なって「おいしい記憶」へと、つながりま

キッコーマンは、食にまつわる楽しさやうれしさをつづっていただく「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセー、作文コンテストを応援しています。

今回は、第6回「あなたの『おいしい記憶』をおしえてください。」エッセーコンテスト」のために直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセー「おぬくとおこげ」をお届けします。

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「おぬくとおこげ」 山本一力

細い稼ぎで妹とわたしを養育していた母は、朝食を大事にした。こどもを学校に送り出すと、自分も仕事に出た。検番(芸者周旋所)の帳場という仕事柄、帰宅は深夜だ。しかも一年を通じて休みは数日だけである。こどもと一緒は朝食だけだ。ゆえに母は毎朝釜でごはんを炊き、おぬく(炊きたて)を一緒に食べた。釜の周りや底にへばりついていた焦げ飯は、おひつにうつしたごはんの上に載っていた。学校から帰ったあとは塩を散らした小さな手で、焦げ飯を握った。毎日の小遣いが5円だった子には、おこげの握り飯はもっとも身近なおやつだった。電気釜(炊飯器)新発売時、家電メーカーは「もうおこげの心配は無用です」と謳った。釜で炊くごはんは、気を抜けばたちまち焦げた。電気釜は家庭からおこげを追い払った。釜にできた焦げ飯の塩おにぎりをもう一度と、願う気を募らせていたら……2014年の年の瀬。3泊した福島県磐梯熱海の宿で、願いがかなった。初日の夕食で、釜炊きのおぬくだと分かった。大きな釜に、ずっしり重たい木のふた。大きさは違うが、こども時分に炊きたてをおひつにうつした、あの釜と同じに見えた。ならばおこげもあるはずだと思い、宿のおねえさんに問うた。「ほかのお客様がよそわれたあとなら、できています」まさにその通りだった。釜の周りや底には、あのおこげがくっついていた。しゃもじで剥がしてくれたおねえさんの手は、水仕事で荒れていた。山の水は飛び切り美味い。そして冷たい。おいしいごはんを供するために、指先が凍えそうになるあの水で、毎日何升もの米を研ぐに違いない。素敵な笑顔は作り物ではないことを、おねえさんの両手が教えてくれた。茶碗によそわれた、焦げ色まで美味そうなおこげ。昔を思い出しつつ、塩をパラパラッ。こどものころに味わえたあの美味さが、茶碗に凝縮されていた。その後は朝食でも夕食でも、塩を散らしたおこげばかりを食していた。様子を見ていたおねえさんが……「塩もいいですが、お醤油もおいしいですよ」言われた通りに醤油を垂らした。焦げたごはんと醤油が絡まり合っている。運んだ口のなかで、互いの美味さが溶け合ったのだろう。塩もいいが、醤油をまとったおこげは、呑み込むことまで惜しまれた。福島県は全国有数の米どころである。山間の温泉地は、雪国となって年を越す。その雪が解けてできた水は、石清水もかくやの美味さである。恵まれた素材の美味さを引き出すのは、宿泊客を大事に思う、おねえさんのあの両手だ。

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食を通して、誰かを大切に想う気持ち、そして感謝の気持ち。そのすべてが積み重なって「おいしい記憶」へと、つながりま

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