流れのほとりに キリスト教たんぽぽ教会
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- 宗教/スピリチュアル
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キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。
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福音と成長~まだ見ぬ結実を求めて~(コリント人への手紙第一14章1節~12節)
序)福音はすべての人を神様の計画の主役にした
・「異言」=「グロッサ(舌)」はペンテコステの最初の聖霊のみわざであり、福音が全人類、全言語のものとなったことの印である。
・使徒ペテロは「青年は幻を~老人は夢を」「しもべ、はしため」というように年齢も社会身分も関係なく、すべての人がイエスと共に主役になったことを語った。
1)「グロッサ(異言)」競争に翻弄されたコリント教会
・福音のもたらす世界は、みんなが主役で、みんなが脇役。しかし、この世は選ばれたエリートを主役にしたがる世界。「グロッサ」の賜物が、エリートの印と考えたコリント教会は混乱に陥っていた。
・「私は、あなたがたがみな異言で語ることを願います」は、キリスト者が異言を求めるべきと言う根拠ではない。自分しか成長させない異言で自分を育てて、教会を成長させる大人のスタートラインに立てという皮肉。
・異言によっては人は救われないし、成長させることもない。意味の解らない言葉では神の恵みはわからない。通訳者不在なら黙ること。
2)愛という御霊の賜物を求めよ!
・1 節の翻訳は、愛と御霊の賜物の2つがある印象だが、2つで1つである。愛は、すべてを生かす御霊の最大の賜物である。
・自分のうちに「愛がない」と嘆くのは愚か。愛はイエス様から来る。福音によってイエス様とつながっているのだから、あとは蛇口をひねるだけ。愛すると決めた時、愛が与えられていく。
・神の恵みは誰かに運ぶために与えられる。キリスト信仰は自己完結しない。
3)預言するために御霊の賜物を求めよ!
・1 節には「ヒナ」という目的を示す言葉があるが翻訳されていない。愛と言う御霊の賜物を受けて預言し、預言が教会を成長させる(=建て上げる)という流れになっている。
・教会の成長とは、神の宮になること。神殿が建つなら、いのちの水があふれ流れ、周囲が果樹園になる。教会の成長は、教会の周囲の状況で測られる。私たちの変化・成長はそのための手段であり目的ではない。
・キリスト者の愛の働きを促す言葉のわざが「預言」=福音を本当にわかるようにすること。それは礼拝メッセージを聞いて行い、失敗を分かち合うことで実現する。自慢話とお節介はNG。
結)日本の福音宣教が結実しない理由は、きっとここに。
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福音と交わり~食卓は礼拝を越えて~(コリント人への手紙第一11章17節~33節)
序)福音からの逸脱~経済格差の助長、貧困の放置~
・十字架と復活の前後には食卓の場面が多い。昇天後も、弟子たちは食事のたびごとに目に見えないホストであるイエスの食卓に連なっていることを覚えた。ここに「交わり(コイノニア)」が生まれた。これが教会の原点である。(使徒 2:42 参照)
1)愛餐、礼拝、聖餐式
・毎週日曜日に集まるのがキリスト信仰のあり方ではない。聖書が描くのは生活の場、食事というありふれた日常において、よみがえりの主を覚え、儀式ばらずに賛美と祈りをもって礼拝すること。
・そこに生まれる「交わり」が「義と平和を追求するものとなる」こと。
・共に食べられない時、交わりは破れている、破られていく。和解なくして食卓なし。主の食卓に連なることができるのは、十字架による赦しがあるから。そして、この赦しが人間関係に広がること(=平和)が神の期待。
・聖餐はこのことの象徴であり、日常が吟味されなくては、ただの儀式になる。
2)コリント教会に起きていたこと~ふさわしくない仕方~
・はじまりの教会は、毎日、共に集まって食事(愛餐)をし、引き続いて聖餐が行われていた。当時はたいてい、経済的に余裕のある人が、教会の集まりのために、自分の家、自分のリビングルームを提供していた。
・労働時間の短いお金持ちが先に食事をしてしまい、貧しい労働者は腹ペコのまま過ごす。その結果、栄養失調、病気、死人も出ていた。
・「空腹な人は家で食べなさい(34 節)」は大いなる皮肉。金持ち=「空腹な人」である。本当に空腹な貧しい人は家に帰っても食べられない。
・パウロの真意は「食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」
3)福音にまっすぐ生きるために
・主イエスがされた食事は「感謝して分け与える」もの。他者に「いのちを与える」ものであり、「他人のいのちを奪う」ものではない。この聖餐と日々の食卓に矛盾はないか。吟味が求められる。
・2000 年前よりも現代は、世界がつながり、答えが簡単に出ない時代。構造的な問題が多い。これをひっくり返す積極的アクションが求められる。信仰と希望と愛は、ここで発揮すべきもの。
結)「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」
・「日ごと」=「来るべき」という特殊な言葉。「今日、私が口にする食べ物が、来るべき糧=御国の食事となるように」という意味がある。
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福音と伝道~すべての人に届くために~(コリント人への手紙第一9章19節~27節)
序)福音=十字架+復活(神がキリストを通してなさったみわざ)
・十字架は、人間が無条件に愛されていることを伝える。
・復活は、神の愛を受けた者が、古いものから解放され、新しくされる希望を示す。
1)伝道は、「説明」ではなく「変化」によって「伝える」こと
・人が神様に向かうのは、説得されることではなく、人の本当の変化こそ、福音の証しである。
・「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」は「ユダヤ人にわかるように語りました」ではない!
・聖書的な伝道は、誰もが幸せになれる。宗教的な勧誘や、布教は不要!
2)どこに向かって「変化」するのか
・復活の光のもと、どのような「新しさ」に向かっていけばいいのか。
→過去の傷、負い目、コンプレックスから解放されること、自由になること。自分のすべてを受け入れ、神と人を愛するために用いていただく。
・「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」~「「弱い人たちには、弱い者になりました。」には違和感がある。パウロは生粋のユダヤ人であるし、弱さ(おそらく病気)は選びようがない不可抗力である。
→この違和感に、私たちの目指す「新しさ」がある。パウロは、自分のあり方を「どうしようもないもの」ではなくて、神様からのものとして、意識的に受け取り直している。これが「自由にされる」ということ。
・そうしない間は「犠牲者(=奴隷)」として生きてしまいやすく、変化成長できない。キリスト信仰者は、生まれる前から存在した神の愛を信じることで「犠牲者」を脱して、成熟していくことができる。
・「自分の過去が、自分の現在を作っており、それは変えられないし、逃れられない」というのは偽りである。過去のもたらす鎖(罪も死も)は十字架と復活によって、すでに打ち砕かれている。過去の出来事は変わらなくても、その意味は、キリストの愛によって変えられる。
・例:病気を得ても、病気の奴隷にはならず、病気を奴隷にして、キリストに生きた河野牧師の詩「病まなければ」
結)過去は「私」を縛らない。誰かとつながるロープである。
・イエス様が勝利し、あなたがイエス様に出会ったゆえに、あなたの人生は、やり直しが要らない!
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福音と礼拝~裏切りからの解放~(コリント人への手紙第一10章1節~14節)
序)「福音」は何をもたらすのか
・「福音」は「偶像礼拝」からの解放を全人類にもたらす。
・聖書の言う「偶像礼拝」とは異教の礼拝儀式や宗教的慣習に連なることとは次元が違う。正統的キリスト教の礼拝に参加しつつ偶像礼拝者となることは誰にでも起こり得る。
1)偶像礼拝者は「滅ぼされる」とは?
・パウロは、出エジプトの出来事と福音による出来事を重ねながら語る。
・神様の恵みは十分だったが「彼らの大部分はみこころにかなわず、荒野で滅ぼされた」とあり、偶像礼拝に陥るなら神の民は滅ぼされると語る。
・「滅び」とは、永遠のいのちが取り上げられることではない。教会として機能不全になり、神の子としての使命が果たせなくなるということ。そのようなキリスト者の集いを神は忍耐されるが、畳むこともある。
2)聖書の言う「偶像礼拝」とは何か?
・偶像礼拝の入口は「不安」である。(出エジプト記 32 章 1節参照)
・「不安」は私たちが有限であることの裏返しであり、生きている限りつきまとうもの。問題はこの対処法である。
・偶像礼拝は、この不安を自分で完全にコントロールすることを求める心の働きから生まれる。「絶対」を約束するものに依存しようとする。
・福音は「この世に絶対はなく、ただ絶対の神がおられる」と示す。唯一絶対の神は、人間にご自分から離れた「絶対」を提供することはない。
・私たちが望むとき、望むように、望むものが与えられることはないゆえに、不安になることはあり得る。
3)「ひがみ」の陰に偶像あり
・礼拝はその対象に「最高の価値を与えること」である。クリスチャンに忍び寄る偶像礼拝の最たるものは、「不安」を誰かとの比較で解消しようとすること。これは結局、自分以外の人(神も)を信用しない。
・神の愛(存在そのものを尊いと愛して下さること)で満足せず、それに何かを加えようとするところに偶像礼拝の本質がある。
結)偶像礼拝という「誘惑/試練」から逃げるために
・「偶像礼拝者を追い出せ」とは言われていない。「偶像礼拝から逃げるように」勧められている。脱出の道があるから。福音の道は「不安」はあるが、「裏切り」はない。真実の神が共におられる。
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福音と教会~創造の回復のために~(コリント人への手紙第一3章6節~17節)
序)「福音への応答に力を集め」るために
・「福音」をキイワードに御言葉を学ぶ 7 週間を過ごす。
1)「福音」とは何か。
・Ⅰコリント 15 章 1 節~に明確な定義がある。福音とは神がキリストにおいて行われた事であり、エッセンスは十字架と復活である。
・福音=福音書といって差し支えない。これを「聖書(=旧約)に書いてあるとおり」理解する必要がある。
・新約聖書に収められている福音書以外の文書は、大まかに言って福音からの逸脱に対応するために書かれている。
・Ⅰコリントは「生活における複雑なすべての問題を『福音』というレンズを通して見直す」ことを求める書物である。
2)「福音から生まれたもの」は何か。
・「新しい人(人類)」と呼ばれる聖霊を宿した人間共同体(社会)である教会が、福音から生まれたものである。イースターからペンテコステの7 週間をかけて、これは歴史の中で実現した。
・「教会」はただの宗教団体ではなく、神様がこの世界に造りたかった新しい現実(あらゆる違いを越えてひとつになる世界)である。
・コリント教会の逸脱は、教会が何かをわかっておらず、教師の好みに基づいてグループを作り対抗意識を燃やしてしまったこと。
3)「教会」とは何か、何のためにあるのか。
・「神の畑」+「神の建物」=「神の宮」=教会である。
・「神の畑」…「畑」と訳されたギリシャ語は新約聖書で唯一ここだけ。普通の畑ではない。ここに「植える」のは「樹木」で、この動詞は、創世記 2 章 8 節のギリシャ語訳で、エデンの園を「設けた」と使われる。
・「神の畑(フィールド)」の中心に「神の建物」が建てられて、神殿(神の宮)が完成するはずだった。ソロモン神殿の壁模様はそのことを示す。
・ここでパウロが念頭に置いているのはエゼキエルの神殿で、複合建築物である。私たちが福音に応答して生きるなら、永遠に残る「金、銀、宝石」の建物になり、逸脱するなら「木、草、藁」となる。再臨の時に真かが試されるが、さばきは目的ではない。
・福音は、教会(=神殿)を生み出し、神殿は世界を癒す(=創造の回復)。
結)「教会」は「新しい世界」への突破口であり、せめぎ合いの場
・教会に力を注ぐことで、世界が発展する世界を求めていこう。
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新しいいのちに生きる(ローマ人への手紙6章1節~11節)
序)イエス・キリストは死者の中からよみがえった!
・イースターとは、私たち人類が「新しいいのち」に生きることができるようになった日である。
1)「古いいのち」とその特徴
・「死なないように生きる」こと、「死ぬまで」に、このいのちをどうするかに心砕くこと、それ自体は問題ないのだが、死を恐れるあまり「自分を生かすために、他者から奪う」生き方をしてしまう。これが「古いいのち」
・「古いいのち」の特徴は「してもらう幸せ」を追求すること。欠乏感を満たすことに動機づけられた生き方。他人に左右され、罪の奴隷に陥る。
2)「新しいいのち」とその特徴
・「人を生かすために、自分を与える」パターンを生み出す。「してもらう幸せ」から「していく幸せ」を追求するように変わっていく。
・「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい。」ルカ 6:31
・社会生活上の「していく幸せ」の追求とは違う。建前ではなく、本音のところで「新しいいのち」に生きること。
3)「古いいのち」に生きる私たちに与えられる救い
・「古い人(いのち)」を自覚する者には、救いがある。
・イエス・キリストを信じて知ることが「新しいいのち」に生きる方法。
・第一歩は、イエス・キリストを自分の救い主だと認め、助けを願うこと。そのためにはイエス様が新しいいのちに人を生かすことのできる力ある方と認め、信じる必要がある。それは、主イエスのよみがえりを信じることと裏表の関係である。
・信じたその時に、その人は主イエスとひとつになる。これは目に見えない霊的出来事であるが、洗礼(バプテスマ)はこれを体験させてくれる。御言葉によってイエス様の真実を信じ、応答して行動すると、主の力を体験する(=知る)。これが「新しいいのち」のパターン
結)残念なクリスチャンにならないために
・「目に見えること」に惑わされたり、教会が誤って伝えてしまったイメージにとどまっていたりすると、クリスチャンであっても「古いいのち」のままということは起こり得る。
・何度も何度も、自分がイエス様の死(十字架は古い自分の墓場)とよみがえりのいのちに一つになっていることを思い起こすことが鍵。
・死の力は打ち破られたことを信じて踏み出すと、これを体験する。
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カスタマーレビュー
シャロームのある暮らし創り。
教会から街の未来を創ろう。
よりよい未来の為に、キリスト教会に何ができるか。
教会堂や集会の中身を良くするのはもちろん、未来を生きる子どもたちに胸を張れること。
だから始めています。新しい街創り。
シャロームのある暮らし創り。