東京閾値 TBS Podcast
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- 사회 및 문화
「ずっとそこにあった東京に気づく」をコンセプトに、ディレクターが毎週、東京にゆかりのある方、普段余り顧みられない東京の一角に赴いてインタビューを試みるドキュメント番組。
20年間、上野公園の階段で似顔絵師をしている男性が語る余りにピンポイントな東京史、東洋一の歓楽街・新宿で生まれ育った玉袋筋太郎さんが語る衝撃の少年時代の思い出などなど、その人の中にしかない「東京」をじっくり伺います。
番組作りの参考のため、以下のアンケートにご協力をお願いいたします。
https://www.tbs.co.jp/radio/podcast/en.html
制作:TBSラジオ
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《秋葉原ラジオセンター》御年93の店主が営む、菊地無線電機 #25
秋葉原駅すぐ隣にある「ラジオセンター」。開業は1949年。様々な細かい電子パーツを扱う店舗が犇めき合うこの小さな商業施設の二階にあるのが今回、お邪魔した「菊地無線電機」。店主の菊地さんは昭和4年(1929年)生まれの94歳。先ほどの阿久悠より八つ年上であり、同級生に誰がいるのかといえばオードリー・ヘプバーンです。放送でもあった通り、さらりと「GHQ」や「進駐軍」という単語を繰り出されます。それこそ「区役所の人」くらいの軽さで。歴史の地層が眼前に聳え、崩れ、肩まで埋まります。
赤坂に生まれ芸者さんに可愛がられていた幼少時代の話などは溝口健二が撮ってないのがおかしいほど。毎日のように赤坂に通勤している我々からすれば、赤坂は「吉そば」がある町です。あとは「スナック玉ちゃん」でしょうか。間違っても芸者さんがいる町ではないのです。
さて戦前から戦後にかけての壮絶なエピソードが語られるなか、徐々に私たちの心に翳りが生じ、広がっていくのがわかります。ある意味では「告白」に近いのですが私たち(少なくとも筆者)は、ラジオ番組の仕事をしていながらもいわゆる電器としての「ラジオ」を所持していないのでした。気づけばradikoで聴くようになって久しく、「菊地無線電機」に陳列されている様々なラジオの部品を見ても、一体何の部品かまるで分からないのでした。世の趨勢に従ったと言えば簡単ですが、それでも呵責はベトついて離れません。
「ラジオはね、あんまり聴かないんです」
インタビューの終盤に飛び出した菊地さんのこの言葉は、ラジオを持たぬ呵責の中にいた私たちからすれば、福音でした。菊地さんは七十年以上、ラジオの部品を販売していらっしゃいますが、別段ラジオ番組がお好きというわけではなかったのです。なんというか「ラジオ」と「番組」を扱う人間のそれぞれの凹凸が噛み合った気がします。
恐らく「ラジオ」はこれからも変わっていくのでしょう。
御知らせの通り、今回で『東京閾値』の地上波における放送は一旦終了となります。ご愛聴いただいた方々には感謝を通り越して、なんというかもう、同じ家系図に組み込まれたい、そんな想いでいっぱいです。本当に、本当に、ありがとうございました。
さて次の『東京閾値』はどんな「ラジオ」になるのでしょうか。はたまた上野公園の階段下にいたお二人はお元気でしょうか。南蒲田の人々は「えちごや」というラーメン屋を思い出したでしょうか。浅草で髪を切った時の代金は経費になるのでしょうか。東京閾値は、ずっとそこにあります。
甚謝:洛田二十日(スタッフ)
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台風前、浅草地下商店街にて #23
大型台風13号が東京に最接近したその日、松重ディレクターと筆者は「こんな日だからこそ、どんな方がいるのだろう」と息巻いて浅草地下商店街へと向かったのです。
誰もいません。本当に、誰も。全休符。ただ錆色の沈黙が広がるばかり。「何で誰もいないんだろうか」など思わず愚問が唇から溢れましたが、答えは今ほど述べた通りでした。台風です。人は、帰るのです。同語反復も良いところです。
加えて時刻はまだ夕方。17時を回ったか回らないか。シャッターが下ろされた飲食店の営業時間は18時以降が多いのです。浅草地下商店街に直結の地下鉄へと続く道を人々が帰っていくなか、時間、やること、持て余せるもの全てを持て余して天井を見上げればむき出しのダクトより、水が滴り落ちてきます。いかなる俳人をしても風流を見出せない水滴が、床に溜まっていきます。
諦めてはいけません。幸いにも浅草地下商店街入り口に座っていた男性にお話を伺うことができました。男性は普段、浅草、押上周辺を主に拠点とされており、今は台風を避けるため、一時的に地下商店街に座っておられたとのこと。
これまでの職歴やご出身、普段のルーティンなど男性は訥々と初対面の我々にお話してくださいました。一点、どうしても気になることがありました。男性は、指輪をはめていらっしゃったのです。薬指に。
訊いて、よいのでしょうか。
ちらほら、地下商店街のお店のシャッターが開き始めています。天井から床に滴った水を店主の方がモップで拭いております。そろそろ台風の夜が始まろうとしています。振り返れば男性はもう、別の拠点へと向かっておりました。
文責:洛田二十日(スタッフ)
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台風前、浅草地下商店街にて《後編》 #24
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23区唯一の自然島に人は住んでいるのか《妙見島》#19
「今日は何も為なかった。心は塞ふさがれている。昼間べか舟で「長」と妙見島へ渡り、土筆を摘んだ。柳も折って来た。慰まない。寝よう。」
「今日昼「長」をのせて青べか舟で大川を漕いだ。妙見島へ上って枯草の上に仰臥て微風の温かい陽を身に浴びた。」
山本周五郎が残した「青べか日記」において、妙見島はこのように登場しております。なお「長」とは今もある吉野屋の四代目主人であった長太郎さんのこと。
この日記が書かれたのは昭和三年頃。若かりし山本周五郎が少年と連れ立って、妙見島にべか舟で上陸し、つくしを摘んだり、枯れ草の上に寝転がったり、随分と長閑な時間を過ごしたことがわかります。
筆者も松重ディレクターと連れ立って向かいましたが、そこに広がっていたのは「サイバーパンク」な工場地帯。周五郎、話が違うではありませんか。土砂運搬用の大型トラックが道路を往き交い、昼寝などしようものなら轢かれるだけです。
「青べか日記」の時代から百年近くが経過し、すっかり「工業島」となった妙見島。ここで働いている方にお話を伺おうというのが今回の『東京閾値』です。
何名かの方に簡単にお話を伺ったのですが、共通していたのは「特に妙見島に愛着はない」ということ。いくら二十三区唯一の「自然島」と言われていようが、タモリ倶楽部がやってこようが、そこに勤めている方からすれば「職場」に過ぎません。
さて、気のせいでしょうか。
午後6時を過ぎて、急激に人の数が少なくなってきています。工場の稼働もなくなり、トラックもどんどん島から出るばかり。
嫌な予感がします。
そういえば、この妙見島に住んでいる方はいらっしゃるのでしょうか。いないなら、この帰宅ラッシュを逃したら、妙見島は無人島になってしまうのでは。もしそうなったら撮れ高不足です。いよいよ島唯一の老舗ラブホテル「ルナ」の入り口で誰かくるのを待つしかないのでしょうか。
島に灯りが消え、希望も消え、宵闇に包まれる中、はるか向こうに赤い火が見えました。人魂でしょうか。いや、タバコです。希望の火です。まだ人が残っていました。でも一体、どうしてこんな時間まで。
「会社の寮に、住んでるんですよ」
まごうことなき、妙見島で暮らしている島民でした。
大きな会社があれば、会社寮があっても不思議ではありません。
男性はこれから十分かかけて、浦安へひとり飲みに行かれるとのこと。
「青べか日記」のような長閑で楽しげな雰囲気が男性から伝わってきます。
護岸と堤防工事ですっかり輪郭が固められた妙見島。地図でみればその形状は驚くほど「べか舟」に似ているのです。
副読本:山本周五郎『青べか物語』と『青べか日記』
文責:洛田二十日(スタッフ)
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上野公園階段、交わらぬ二人《上野》#11
これは、ロケ中の話。
「いないじゃないですか、どうするんですか」
松重ディレクターが早くも半狂乱に陥いり、筆者に詰め寄ってきますが、筆者もまた同じ気持ちのため「いないわけない!そんなはずはない」と、負けずに激昂しては、あたりを探し回ります。
なにせ今日は、上野公園階段下にいらっしゃる似顔絵師の方々にお話を伺おうという目論見だったのですが、上野公園階段下に行けどもの、似顔絵師の方がいないのです。かつて芸術家が集ったパリ・モンマルトルになぞらえ「上野モンマルトル」と一部で称されていた方々が、まるでいないのです。
当然、このままでは『東京閾値』は成立しません。ただ30分間、上野公園の各所にある「知らない人の銅像」の説明文を読み上げる放送になるのです。(主に、ボードワン博士について。)
二人して上野公園を隅から隅まで血眼で歩き周れば、国立西洋美術館にある「考える人」の銅像が目に入り、「上野公園で平日昼間に、思索にふけっている人たちに何を考えていたか聞いてみよう」なんて企画に一瞬傾き始めた折、再び最初の階段に戻ってみれば、ハットに作務衣、丸メガネに白い顎髭。絶妙に芸術家の可能性がある風貌の方が、緑茶ハイを飲みながら、思索にふけっております。もしかしたら、この方、ここに居た似顔絵師の方々について知っているかもしれない、ということで、
「恐れ入ります。ここに似顔絵師の方、いらっしゃいませんでした?」
「ここに俺は二十年いるけれど、今はもう似顔絵師は一人だねえ」
これが、占い師松山さんとの出会いでした。まさかの、定点観測者でした。
これは、放送直前の話。
「ヤクザって言葉、放送で使えるんでしたっけ?」「これ、どこまで放送に乗せて良いと思います?」といったLINEが筆者のスマホに流れ込みます。松重が、例のごとく半狂乱なのです。
追加取材でお会いできた似顔絵師の方の話があまりにもスリリングであり、それでいて占い師、松山さんのお話とも食い違っていたので編集脳が破裂しそうでした。とはいえ、きっとその人の中に、それぞれの真実があるのです。無理に整合性を保つことはありません。あとヤクザが使っていい単語かどうかは分かりません。
百年後、二人がいた場所にそれぞれ、一切目を合わさない銅像が立つことを、祈ります。解説文もまた、食い違っていますように。
文責:洛田二十日(スタッフ)
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中野ブロードウェイ地下で58年間商いを続ける「フナリヤ」 #20
「ちょっとインタビューの間、うろちょろしていてください」
ディレクターの松重にそう言われたので、構成スタッフの筆者は「うろちょろ」を余儀なくされました。場所はサブカルの聖地、中野ブロードウェイの地下に拡がる商店街。
今回、訪れた先は中野ブロードウェイ開業当初から店を構えている珍味、乾物のお店フナリヤさん。そのご主人である坂本さんにお話を伺えることになったのです。諸々の理由を加味した上で「ここは一人で行った方が良い」という判断を松重は下し、同行する筆者に対し冒頭の指示を直前になり与えたのでした。
さて、遠くで松重がフナリヤのご主人にインタビューする声を聴きながら、致し方なくこの「放送後記」をすぐ近くのベンチで書き始めます。大の大人は急に言われても理由なく「うろちょろ」できないものです。なにせ仕事で来たのですから。自分を納得させるだけの大義名分が欲しいものです。
インタビューが行われている間は、その周囲の様子に関する記録を残すことにしましょう。
「じゃあもう六十年近く、フナリヤさんはあるのですか」
いつにも増して松重の声が地下商店街によく聞こえます。なぜでしょうか。そもそも、地下商店街が閑散としているのです。思えば、フナリヤさんの周囲の商店もシャッターを下ろしていました。どうやら水曜日は定休日の商店が多いようです。降ろされたシャッター群が、松重の声を反響し、増幅。
もともと築地に勤めて入られたご主人の坂本さんが恩人であり、中野ブロードウェイの生みの親でもある実業家にして医学博士でもあった宮田慶三郎氏との運命的な出会いの様子がほぼ「館内放送」レベルで響いております。
ベンチの前には「ソフトクリーム」と「うどん」というサービスエリアの良いところだけを煮詰めたような「デイリーチコ」があるのですが、半分だけシャッターが下ろされ「今日、うどん側はお休みです」という紙が貼られ、ベンチの壁側には「アイスクリームを食べないでください」という注意書きが。買ったら最後、食べ歩くしかないのです。これを買えば「うろちょろ」できる言い訳が成立しますが、「うろちょろ代」が経費になるとは到底思えません。詰みです。勝手に。
視線を上にずらすと「このベンチはお年寄り専用です。」という注意書きが。迂闊でした。人こそいませんでしたが、原則としてここに居座ることはよくないのです。それ即ち「うろちょろ」しなくてはならないことを意味します。
「居場所がないので致し方ない」という大義名分を提げ、堂々と地下商店街をうろちょろしてみれば、結句のところ閑散。中心にある鮮魚店や青果店はお休み。ただ、奥に進めば、占い処、アジア食品店、お茶屋さんなど、実に渋いお店は営業しており、さらに向こうにはこれまた実に渋い乾物屋さんが見えて来ました。若い男が、なんだか店主に、マイクを向けています。というか、松重です。フナリヤさんです。東京閾値です。あっという間に一周してしまいました。
「今はね、お店同士の繋がりは、あんまり、ないね」
何とも世知辛いお話が聞こえてきます。地下商店街の横の繋がりもお店の入れ替わりとともに弱まっているのです。そして筆者もまた今、誰とも繋がっておりません。何だ、「うろちょろしてい