Kobe Haruki Haruki
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- Religion & Spirituality
日頃聖書で学んだこと、個人的に興味をもったことををシェアします。
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アブラムの救いから日本の福音宣教を考える
みなさんこんにちは。本日は、死後の魂について、そして私達の務めについて、アブラムの救いを確認しながらお話させていただいておきたいと思います。
正しい福音を確実に聞いたことがあったかどうか分からず、ですので福音に対して信じる応答をできたのか、信じなかったのか、そもそも福音を聞かずして亡くなられたのか、そのような方々の魂の行き先がどうなったのか、私たちは、安易に論じることができないのではないかなあ、と僕は思っています。
というのは、福音を信じなくて旅立たれたように見える方がいたとしても、神様は、人に直接啓示を与えることができるので、その方が死ぬ1秒前にその啓示によって信仰を持つことだってあり得ると思うんですね。だから、最終的にどうなったかは天国に行かないと分からない。ですので、僕たちは断定的に魂の行き先を論じることはできないんじゃないかなあというのが僕の立場なんですね。
私たちが天国に行った時、思いがけない人に再会できる可能性があると思うんですね。え?いつの間に信じてたの?って。
だから、出会った全ての人の救いのために祈っていくということは、とても大切なことなのではないかなと思うんですね。
一方、信仰を持った者としての務めは、あらゆる人に正しい福音をのべ伝えていくことだと思うんですね。そのために私たちは、周りの家族や友人より先に救われたんじゃないでしょうか?
あらゆる人に正しい福音を宣べ伝えるという言い方をしているのは、未信者の方だけでなく、信者と思われている方に対しても正しい福音を宣べ伝えていく必要があるのではと私は思っているんですね。
それには2つ理由があって、1つは、正しい福音を聞いて信じてその人は救われていても、その人が必ずしも正しい福音のバトンパスができるとは限らないから、正しい福音、正しい救いの教理を確認することは非常に大事なのではないかなと思うからなんですね。
もう1つは、自分は洗礼も受けたしクリスチャンだと思っていたのに、死んでみるとそこは天国じゃなかった、という方がめちゃめちゃたくさんいる可能性があると僕は思うからなんですね。
救いにおいて重要なことは、洗礼を受けたかどうかではないんです。神様を信じたかどうかでもないんです。
キリストが私たちの罪のために死なれて、葬られて、3日目によみがえられ、今も生きておられるそのような救い主なるお方だと信頼するかどうかが救いの分かれ道なんですね。
つまり、ただ単に神を信じるとかではなくて、キリストが何をされたどのようなお方なんだという信仰の内容があるということが重要なんですね。キリスト教でいう救いに至るためには、救いに至るための信仰の内容が必要なんですね。
言葉が悪くて申し訳ないですが、内容のない信仰のことは妄信とか、狂信と言うんですね。
聖書信仰というのは、聖書の1巻目の創世記から始まって、常に信仰には内容があるんですね。内容とは神様の言葉です。
例えば、アブラハムが、名前がアブラムだった当時、創世記15章の話です。15章の5ー6節で、天のパパに数えきれない満天の星空の下に連れて行かれて、空の星の数のようにあなたの子孫を増やすということを改めて言われて、そうなんだとついに信じたからその時にアブラム -
主の御名を呼び求めるとは?
みなさんこんにちは。主の御名を呼び求めるという事に対して、根強く大きな誤解があるので、このテーマでもう1度配信させてもらいます。
聖書を読むときの最も大切なポイントを2つに絞るとするならば、
①1つ目は、子供のような心で書かれてある言葉をそのまま受け止めるということです。つまり、第1コリントの15:2の後半に、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。とあるので、福音によって救われて、そうでなければ信じたことは無駄になってしまうというそれ以外の意味はないということです。そのことを、子供のような心で、そのまま受け止めるということです。②もう1つは、その聖書が書かれた当時の、ユダヤ人にとって、その言葉がどのような意味を持ったかということです。ユダヤ的にへブル的に言うと、主の御名というのは、日本語的に言う、イエス様の名前だけの意味ではないんです。主の御名というのは、聖書が書かれた当時のユダヤ人の文化的に、ヘブル的には、主ご自身のことをあらわしています。イエス・キリストご自身のことです。ユダヤ人たちには、聖書に、"あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。"出エジプト記 20章7節 聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会とあるので、神の名前の代わりに別の言葉を持ってきたんですね。シェムっていうのは、名前です。ハッシェムは、英語でいうThe nameを表しています。The nameというと神のことを表すんです。ですので、ヘブル的に、主の御名というのは、主ご自身の実態を表しているんです。だから、主の御名というのは、イエス・キリストご自身の性質の全てを表しています。そして、呼び求めるというのは、信仰を持って救いを求めて祈る事です。信仰を持ち、救いを求めて祈るということです。"「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。"ローマ人への手紙 10章13~17節 聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会ですので、主の御名を呼び求めるというのは、主であるイエス・キリストの性質の全てに信頼を置いて、救いを呼び求めるということです。つまり、イエス・キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた、つまり今も生きておられるそのようなお方なんだと、全幅の信頼を置いて救いを呼び求めるということです。だからこうあるんです。"私がどのようなことばで福音を伝えたか -
救われるために唯一必要なのは福音を信じること
緊急の配信です。
緊急の必要性を感じて、原稿なしに喋っているので、聞き苦しいところもあるとは思いますが、聞いていただけたら幸いです。
福音を信じていなくても、イエスの名を呼べば救われるのではなく、福音を信じることが唯一の救われる道であることを聖書的に解説しました。
特に下記の太字下線の聖書の言葉を子供のような心で受け入れることがとても大事なのではないかなと思っております。
"兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、"コリント人への手紙 第一 15章1~4節聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会
救われるために唯一必要なのは福音を信じること.m4a -
緊急の祈りのリクエスト!!
皆さん今日は。今日は緊急の祈りのリクエストがあるので急遽この内容を配信させてもります。僕の大切な友人の弟さんの、北野よしまさ さんという方が、末期の難病なのですが、明後日の水曜日まで命がもたない可能性があると主治医に言われたそうです。ですので、よしまささんに正しい福音が届いて、彼がそれを信じることのできるようにお祈りいただけたら嬉しいです。(急遽大阪の街中の電源をお借りできるコンビニに入って充電しながら録音したので、雑音だらけですみません。)
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律法主義的信仰の話
話は違いますが、前回の「主の御名を呼び求める者はみな救われる」とは?の解説記事を書き足しましたので良かったらブログか、Podcastのエピソードメモ欄を見てみてもらえると嬉しいです!
律法主義的信仰の話.m4a -
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」とは?
みなさんこんにちは。今回は、「主の御名を呼び求める者はみな救われる」とはどういうことなのかを考えてみたいと思います。
というのは、福音を知らなくても、イエスがメシア(救い主)なる神なんだと認めて、心からイエス様を呼び求めたら救われるんだと信じてしまっている人が身近にいたからです。ですので、皆さんも、間違って伝道してしまうことがないようにこの投稿をさせてもらうことにいたしました。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のですという言葉は、ローマ人への手紙 10章13節にある聖書の言葉なんです。この部分だけを見ているならば、確かに福音をしらなくても、救われる方法があるように読めてしまうかも知れません。しかし、大切なことは、聖書は文脈で読まなければいけないということです。ですので、この13節だけでなく、17節までの文脈で読んでみると、全然違った見え方がしてくると思うので、ご一緒に読んでみたいと思います。聖書箇所の中の()内は、私の補足説明です。
ローマ人への手紙 10章13~17節 聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会
"「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。
「なんと美しいことか、良い知らせ(福音のこと)を伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」とイザヤは言っています。
ですから、信仰(ここは文脈的には救いに至る信仰のこと)は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことば(福音のこと)を通して実現するのです。"
詳しくは音声解説に譲りますが、ここでは、救われる方法が述べられています。誰かが遣わされて、福音を宣べ伝えてくれたから、福音を聞いて、さらにその福音を信じたから、その人は、主の御名を呼び求められるんだということが書いてあるんですね。
つまり、福音を知らなくても、イエスがメシア(救い主)なる神なんだと認めて、心からイエス様を呼び求めたら救われるという事は決して書いておらず、
福音を聞いたから福音を知っていて、その福音を信じたから、その人は、主の御名を呼び求められるようになったという話なんですね。
この人は、主の御名を呼び求める前に、福音を聞いて信じていたんです。
じゃあその福音とは何かと言うと、パウロがコリントの人への手紙の15章ではっきりと述べられています。
コリント人への手紙 第一 15章1~11節 聖書 新改訳2017〓2017新日本聖書刊行会
"兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって