リジョイス聖書日課 RCJメディアミニストリー
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- Religie en spiritualiteit
リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。
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神が求めるまことの礼拝とは何か(詩編 50編)
告白を神へのいけにえとしてささげ
いと高き神に満願の献げ物をせよ。
…わたしをお前に似たものと見なすのか。
(詩編50編14節、21節)
神は、天と地を証人として、ご自分の民を告発しておられます(1、4節)。この詩編は十戒の詩編と呼ばれることがあります。
第一は、神への服従と感謝の伴わない献げ物や礼拝への警告(7~15節)です。神は全被造物の所有者であって、本来、犠牲の献げ物を必要とするお方ではありません。「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」とあるとおり(サム上15章22節)、神が求めておられるのは、心からの服従と感謝を伴う礼拝です。
第二は、神の掟を唱えながら生活では隣人を顧みず、神の約束の律法を無視する生き方に対する警告(16~21節)です。盗みや姦淫、中傷といった罪の数々に対して、神は「わたしはお前を責める」と言われます。
神を私たち罪人と似たものと見なして侮ってはなりません(21節)。真実な礼拝と隣人への健全で温かい関わりは、神を神とするところでしか成り立たないのです。
かつては神の怒りとのろいのもとにあった私たちです。それが今やキリストにあって、神への感謝の告白をささげ、神の御前に自らを正す者とされています。御子が真実な方を知る力を与えてくださったのですから、この方にあって神をあがめながら歩もうではありませんか。
【祈り】
砕かれた心と感謝をもって、礼拝をささげる者とならせてください。 -
神の掟に結び合わされ赦され生きる(ヨハネの手紙一 2章1-11節)
神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。…神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。
(ヨハネの手紙一2章3節~5節)
法や掟は一つの目的に人間を結び合わせます。「神の掟」は、私たちを何に結び合わせるでしょうか。
ヨハネの手紙は「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」と教えます(2章10節)。「神の掟」が私たちを縛りつけようとするもの、それは愛です。愛し合うことです。しかも、それは愛し続けるという継続的で不断の行為としてです。一度きりであるならば、愛は美しいかたちを保てるかもしれません。しかし、愛し続けようとするならば破れが生じます。ボロがでます。が、そのとき、私たちは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(3章1節)という御言葉のありがたさを聞き直すでしょう。「イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されている」(2章12節)という神の赦しの偉大さに気づき直すでしょう。
私たちを愛に繋ぎ留める「神の掟」は。自分の破れも隣人の欠けも、それは神に赦されうるものとして、絶望しないことを求めます。神の愛の中に活きよ、と私たちの生き方を正します。そのうえに小さな愛を積み重ね続けよ、と私たちを励まします。
この日、「神の掟」の光のもとに、この世にある法を見つめ直します。
【祈り】
主よ、私たちを愛と赦しに結び合わせてくださいました。赦し合うことをあきらめることがないよう、あなたの光の中を歩ませてください。 -
主と同じ姿にかえられる(コリントの信徒への手紙二 3章)
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。
(コリントの信徒への手紙二3章18節)
パウロはここで、聖化の祝福について語ります。「主の霊のおられるところに自由があります」(17節)。罪と死の縄目を解いて永遠の命に甦られたキリストの霊こそ、地上の何者にも縛られず、支配されない真の自由の霊です。この自由の霊が、罪と死の法則に、あるいは朽ちゆくもろもろの偽りの霊に支配され、がんじがらめにされていた人間のうちに住まわれるなら、人間もまた真の自由へと解き放たれます。聖霊を受けることによって、救われた人間の新しい生が、キリストにある歩みが始まりを告げるのです。
新しい人間の歩みは「栄光から栄光へと」「主と同じ姿に造りかえられて」いく歩みです。聖霊に生かされているすべての者が「顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出し」ます。一人ひとりのキリスト者の顔に、主の御顔の輝きがくもりなく照り返されます。そして「主と同じ姿に造りかえられ」ていくのです。
「主と同じ姿に造りかえられ」ていくプロセスを、ある神学者は病が徐々に癒やされていく道筋になぞらえています。聖化は瞬時にして完成するのではありません。その途上にはたたかいも試みもあるでしょう。しかし、私たちのうちに生きて働く聖霊の恵みは確かです。
【祈り】
私たちをも主と同じ姿に造りかえてくださる、この大いなる恵みに感謝し、この身を聖霊に委ねます。 -
キリストの香りを放つ(コリントの信徒への手紙二 2章)
わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
(コリントの信徒への手紙二2章15節)
パウロは、「わたしたちは…神の言葉を売り物にせず…語っています」と述べます(17節)。「売り物にする」とは、たとえば商人がぶどう酒を水で薄めて売るようなことです。いつの時代にも神の言葉を水で薄める誘惑が存在します。神の言葉をいかに忠実に語るかということよりも、人が喜ぶ耳に心地よい言葉を語ることの誘惑です。
十字架の言葉が水で薄められて売られるとき、見かけは魅力的で、耳に心地よく、人びとを惹きつけるかのように見えることがあるかもしれません。しかし、もはやそこには人の命と死を分かつ神の権威は失われています。人を死から命へと至らせるキリストのよき香り(16節)は薄れています。
神の言葉が人間の手によっておとしめられることがあってはなりません。当然、そこでは教会は神の力に生き得ません。神の言葉が混じりけのないしかたで語られるなら、御言葉は人を喜ばせるよりも、まずそこに集まる一人ひとりの存在の根本を問う言葉となるでしょう。
神の言葉とは本来そのような言葉です。救いの言葉は審判の言葉でもあります。説教者の務めは、キリストの口となってキリストを忠実に語ることです。
【祈り】
キリストの言葉をキリストの言葉として語り、聞くことへと私たちをうながしてください。 -
恵みにより聖とされた者たち(コリントの信徒への手紙二 1章)
…コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。
(コリントの信徒への手紙二1章1節)
「コリントの信徒への手紙二」の宛先の部分で、著者である使徒パウロはコリント教会の信徒たちに「聖なる者たち」と呼びかけています。「聖」という言葉は、聖書においては神とのかかわりにおける区分、分離を表す語です。
すなわち「聖なる者」とは聖なる神に属する者、神の所有としてこの世から区別され、分離されている者を言います。この罪の世にあって神の憐れみを受けて救いへと選ばれ、世にある者とは別に取り分けられた者が聖徒です。その者の実質がどうかということ以前に、神が彼らを聖なる者とされたという事実が先立つのです。
コリント教会の人びとは、自力でみずからを神の求める水準にまで高めることができるゆえに聖徒と呼ばれるのではありません。またこれから努力して、聖徒と呼ばれるにふさわしい実質を築き上げていかなければならないというのでもありません。パウロは彼らについて、今すでに神にあって聖なる者だと言うのです。
この教会が異教世界から贖い出されてきたばかりの弱い、乳飲み子のような教会であったとしても、彼らをご自分の宝の民とされた神の選びの恵みは変わることも、揺らぐこともないのです。
【祈り】
ただひたすらなる恵みにより、私たちをも聖なる者としてくださったことを感謝いたします。 -
神よ願くば汝の栄光を仰がしめ給へ(ローマの信徒への手紙 11章36節)
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
(ローマの信徒への手紙11章36節)
78年前のきょう、日本キリスト改革派教会は「神よ願くば汝の栄光を仰がしめ給へ。我等与へられし一切を汝に捧ぐれば、汝のみを我等の神、我等の希望と仰がせ給へ。汝が我等の衷に肇め給ひし大なる聖業を完遂せしめ給へ」との「創立宣言」をもって、神の御前にその歩みを始めました。きょうまでの歳月を、神が先輩たちの賜物を豊かに用いてくださり、福音が宣べ伝えられてきたこと、その導きに心からの感謝をささげます。
きょう、「有神的人生観乃至世界観こそ新日本建設の唯一の確なる基礎なりとは、日本基督改革派教会の主張の第一点にして、我らの熱心此処に在り」との情熱に心を打たれながら、「世界は将に転換しつゝあり」との認識を、私たちは私たちに与えられたこの時代において再確認します。「新たなる世代は最早胎動を開始せり」との自覚に背中を押されます。
神は、罪にうずくまる人間への救いを永遠の御旨による御計画のもとに、「御子イエス・キリストの歴史的贖罪事業を以て歴史の中に実現」してくださいました。教会は主イエス・キリストの言葉と聖霊の御業それ自体が罪人を救ってくださることを信じ、託された福音伝道の使命に励みます。終末的栄光に向かいつつあることを目覚めて見つめながら。
【祈り】
「神よ、願わくはあなたの栄光を仰がせてください」(「創立宣言」公認現代語訳)。