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田舎坊主の読み聞かせ法話
田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです
和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー
もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。
人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。

田舎坊主の読み聞かせ法‪話‬ 田舎坊主 森田良恒

    • Religion & Spirituality

田舎坊主の読み聞かせ法話
田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです
和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー
もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。
人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。

    田舎坊主の七転八倒<飲みすぎました>

    田舎坊主の七転八倒<飲みすぎました>

    法事などで僧侶に出す食事のことを「斎(とき)」といいます。

    平成に変わるまでは、本膳・二の膳が一般的で三の膳がつくところもありました。

    このうち三の膳は家で待ってる家族のためのものと聞いたことがありますが、現在ではもっぱら幕の内が主流となっています。

    お釈迦さまの時代から僧侶に食事を提供することはとても大きな功徳があるとされてきました。

    「斎」について、お盆の行事が始まりとされます。

    古来インドでは、4月15日から7月15日の雨期の間、僧侶は外出を禁じられ、合同で室内で修行する安居(あんご)という期間がありました。

    その安居が明ければ「僧侶たちに斎を施し、供養しなさい」とすすめられたことが斎を施すはじまりであり、お盆の起源となったとあります。



    また、こんな逸話があります。

    お釈迦さまの弟子であるモッガラーナ(目連)が、餓鬼道というつらい地獄の一つに落ちた母を救うため、その方法をお釈迦さまに聞きました。そもそも、モッガラーナ(目連)の母が餓鬼道に落ちた理由は、他を愛することがなかったからです。

    子どもであるモッガラーナ(目連)はなによりも大切に、あふれるほどの愛情をもって育ててきたけれど、母は他の子どもや人には目もくれず、それらを大切にし愛する心がなかったため、餓鬼道に落ちたのです。

    そのため、他を思う心を持つ実践として、人々の幸せや平安を願う修行をしている僧侶たちに食事を提供することがとても大切なことだとモッガラーナ(目連)はお釈迦さまに諭されたのです。

    そしてこのことがお盆の行事である「お施餓鬼」として、自分の先祖や縁故だけをお祀りするのではなく「三界萬霊抜苦与楽」と書かれた、自分と縁のない仏さまにも水を手向けるお盆の習慣ができたのでしょう。



    また、お寺の護寺運営の費用としてほとんどの寺院が檀家さんから「斎米(ときまい)」と称する志納金をいただいています。

    昔は春と秋に麦や米などでお寺に納められていましたが、今ではほとんどお金で納められます。

    お寺の護持運営といいながら、かつては専業坊主では食べていけなかったため、これが基本給みたいなもので、坊主の食いぶちだったようです。

    ちなみに私の田舎寺では現在、年間2500円の斎米料をいただいていますが、光熱費や本堂のお供え物、修繕費などまさに護寺管理費に消えてしまいます。いじましい話しですが、当時の斎米料は1000円だったため、法事での斎には助けられたものです。



    今ではこの田舎でも専業農家は少なくなり、法事に集まる人は勤め人が多く、法事も土・日曜日や休日で、平日に法事をおこなう家はほとんどありません。そのため休日に法事が重なり、どうしても食事に同席することができなくなり、お布施とは別にお膳料を包んでくれる家が多くなりました。

    アメリカ向けのミカン栽培が最盛期だった昭和五十年ころは、農家は専業で勤め人も少なく、檀家のほとんどが農家の人たちで、休日平日を問わず法事をしてくれたので必ずと言っていいほど法事のあとの食事、斎をいただくことが多かったのです。



    そんなある日の法事でいつものとおり上座に座り、当家の親戚の人たちと杯を交わしているうち、

    「なかなか若はんは、いける口や

    • 10 min
    田舎坊主の七転八倒<塔婆が逆>

    田舎坊主の七転八倒<塔婆が逆>

    法事には塔婆がつきものです。塔婆、正式には卒塔婆です。



    当地ではこの塔婆、亡くなられた方の戒名を書いたものと、施主当家の先祖代々の菩提供養を書いたものの二本が基本的なもので、法事のご先祖が複数霊あればそのぶん塔婆の本数が増えることになります。

    塔婆はおうちで読経を済ませたあとみんなで墓参りの際に持参し、墓石の後ろか塔婆立てにさし、故人の供養をするものです。



    現在ではこの塔婆、お寺が用意し、法事の依頼があれば前もって書いておいて法事当日に持参するのですが、私が小坊主の頃は、田舎といえども小さな雑貨店があって、そこで当家が必要な本数の塔婆を買い求め、床の間にしつらえられた祭壇の横に墨汁の入った硯とともにその当家が準備していました。

    来客が正座し、その衆人環視のなか、法事が始まる前、おもむろに幅7センチ長さ90センチの塔婆を左手で持ち、右手に墨を含ませた筆を持ってサラサラ、サラと格好良く梵字から始まって戒名を書くのですが・・・。

    そんなふうにうまくいけばいいのですが、そもそも世間一般には「坊主は字が上手」と間違った(?)常識が流布しているなかで、愚僧は字が汚いことこの上なく、苦手なのです。

    しかも法事にひとりでいきはじめてまもなくの頃です。法事のお客さま全員の目が一点筆先に集中するのですから、緊張するのなんのって・・・・。

    しかし、ここで逃げることもできないため、取りあえず、祭壇の位牌を見ながらやっとのことで2本の塔婆を書き終えました。

    ところが、どうも塔婆の姿がおかしいのです。

    立てて祭壇に並べてみると・・・・上下逆なのです。



    昭和48年ごろの塔婆は現在のように梵字の部分が五輪塔のような切り込みがなく、上部が緩やかな三角に面取りされ、足下は土中に差し込むために鋭く矢先のように切り込まれています。

    それでも本来なら間違うことはないのですが、あまりの緊張にそのときは足もと部分から梵字を書きはじめてしまったようです。

    祭壇に立ててすぐ気づいたので、

    「申し訳ないです。塔婆を天地逆に書いてしまいました」と話したところ、

    「いやあ、べつに分からへんからいいですよ」と、はっきり上下逆と分かるにもかかわらず、施主さんはいやな顔一つせず優しく了解してくれました。

     

    何十年も前の昔のことなのに、そのときのことは今でもはっきり記憶に残っています。

    そしてそのとき、人の間違いを、あるときには優しく受け入れ、包み込むことの大切さを学んだように思いますが、いまだに私自身実行できているか大いに疑問に思うこの頃であります。

    合掌


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    • 6 min
    田舎坊主の七転八倒<天井がまるでお肉>

    田舎坊主の七転八倒<天井がまるでお肉>

    檀家さんにとって私のような小坊主でも、寺の跡継ぎができた安心感やもの珍しさもあり、法事も新鮮な感じがするとかで、案外歓迎されているように思います。

    しかし法事の後、「斎(とき)」とよばれる食事の席につきますが、食事をいただいていて皆さんだんだんお酒が回ってると、法衣を着て上座に座っている坊主であっても、参列者から

    「今の若いもんは・・・」という話になることがたびたびあります。

    昭和50年ごろ、法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりで、小学校の校庭にまでサツマイモを植えてそれを主食とした世代です。

    しかしイモだけでは足らずイモの蔓まで食料にしたという飢えた時代を体験した人の、食べ物に限らず、なによりも物の大切さを話す言葉には大きな説得力がありました。

    それに比べて、私は高野山の宿坊で小坊主時代を過ごし、ご馳走と呼べるものは食べられていなかったとはいえ、白いご飯だけはタップリあったし、おかずはなくても空腹になることはありませんでした。

    ですからほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがないのです。

    そんな私がひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、法衣を着て法事を勤めるためには、せめてほんとうの空腹感を経験する必要があると思い始めました。

    そこで断食です。

    私がお世話になった断食道場には、多くの人が内臓の調子を整えるために来られていました。

    そこでは最長の断食期間が一ヶ月で、そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっています。

    しかし私はこれを修行と思い、どんなことが起こっても自分が責任をとるということで、無理にお願いして本断食を二週間にさせてもらうことになりました。

    これで、はじめの一週間が減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まりました。

    本断食中には夜、布団に入ると空腹にさいなまれ、部屋の天然木の天井板がまるでお肉が並んでいるように見えるといった妄想にかられました。

    ようやく本断食が終わり、減食開始から22日目に復食が始まりました。久しぶりに食べものを口にすることができる日が来たのです。

    食べものといっても一日二杯のおも湯です。

    ところが、このただのお粥の汁のようなおも湯が、なんと美味しいこと!美味しいこと!

    涙が出るほど、おいしいのです。

    このときに思いました。

    おなかが空っぽだったからこそ、おも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。

    そして足らないことを経験してみないと、豊かなものを感じることができないのだと、そのときつくづく思い知らされました。

    この断食を終えて家に帰ったとき、一ヶ月で10キロ近くやせた私を迎えてくれた母が、「痩せてかわいそうに」と、号泣するのです。

    はじめて母を泣かせてしまいました。

    思い出の断食道場は先日の火事で焼け落ちてしまいました。

    合掌


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    • 7 min
    田舎坊主の七転八倒<高野山へー親の心子知らずー>

    田舎坊主の七転八倒<高野山へー親の心子知らずー>

    親の心子知らず

    結局、高校、大学と高野山で過ごし僧侶になる修行は済ませたものの、大学卒業後の進路は寺の跡継ぎではありませんでした。

    というのも私が高野山大学で専攻したのは当時新設された社会福祉学科だったため、大学としても社会福祉学科第一期生としてできるだけ多くの卒業生を社会福祉関連に就職先を決定させるという目標を掲げていたのです。

    そのためいくつかの施設で実習や研修をおこなったうえで、私は大阪のある介護老人保健施設に就職を決めていました。

    しかし、当然ながら父親は私の就職を受け入れず、みずからが役場つとめをしながら住職をしていたことから、自分と同じような役場つとめをするか、または坊主をしながら学校の先生になるか、執拗に兼業をすすめてきたため、かえって反抗し続けた私がいました。

    このときには、父親が兼業だったからこそ私たち兄弟3人を育て上げ、大学までいかせることができたのだということを考える余裕などまったくありませんでした。

    父親に対する反抗心が、“どうせお寺を継ぐのであれば専業でやっていく”という意地のようなものを私に芽生えさせたのです。

    しかし現実はきびしいもので、お寺にいても仕事がないのです。

    若いのにぶらぶらしているように思われるのがいやで、朝8時から夕方5時まで紀ノ川で魚釣りをして時間をつぶす日が続きました。

    そんななか一番心癒やされたのは、共働きの兄夫婦にできた姪っ子の子守でした。

    かわいい姪っ子が私を慕ってくれ、子守は日々の唯一の楽しみでもありました。

    父親は兼業のため日行参りはいってませんでしたので、私は坊主専業でいくならこれではいけないと、昭和49年、古い過去帳を整理し、お参りカレンダーをつくり日行参りを始めるようにしました。

    毎日、檀家さんに「お参りさせてもらってもよろしいでしょうか?」と電話をかけ、少しずつ仕事をつくっていったものの、あるときには、「若いのにあまり仕事がなかったら、体がなまってしまわないかい?」と、皮肉をいわれることも二度や三度ではありませんでした。

    檀家さんの目を気にしながらも、ほんとうの空腹を知るために断食道場にいき、帰ってきてからはご詠歌も習い始め、専業坊主めざし五里霧中のなか、私は何かを探すように坊主が手探りで歩き始めたのです。

    合掌


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    • 6 min
    田舎坊主の七転八倒<高野山へー救いようのない小坊主ー>

    田舎坊主の七転八倒<高野山へー救いようのない小坊主ー>

    私は、坊主には絶対なりたくないと思っていました。

    男兄弟3人の末っ子で、普通高校に行き、普通大学に行き、普通のサラリーマンになると思っていたのです。

    しかし兄2人が早々に普通高校、県外の大学に行き、普通のサラリーマンになったため、あわてた父親は私を高野山高校に入れようと中学校の先生に協力を求め、説得にかかったのです。

    しかし、私の坊主への拒否反応はその話があった中学3年生の2学期の終わりごろから現れ、その後のテストというテストはすべて白紙で提出し、しまいには担任から怒られるだけではなく、職員室に連れていかれた上、職員会議の席ですべての先生に土下座をさせられる羽目と遭いました。

    この時のみじめさと悲しさは、私の脳裏から離れることはありませんでした。

    しかし、結局、高野山高校を受験することになり、入学試験は1泊2日で高野山の宿坊に宿泊することになっていて、私の説得にあたった先生が付き添ってくれることになりました。

    この期に及んでもまだ受験を受け入れることができず、高野山行きの南海電車に乗ったときから体が拒否反応を起こし、電車のなかでなんども吐いてしまったほどです。

    あとから気づいたのですが、受験の際宿泊した宿坊が私が高校大学と七年間お世話になる師僧のお寺でした。

    そこまで父親は段取りをつけていたのです。

    残念ながら、高野山高校に合格してしまい、それとともに師僧の宿坊で小坊主として住み込むことになってしまいました。

    入学当初は、はじめての下宿生活で、15歳になったばかりの少年は突然「他人の飯を食う」ことになり、しかも朝早くからの勤行、宿泊客の布団あげ、朝食の配膳、食事中のお味噌汁やご飯のおかわりの賄い、お膳の片づけ、お客さまの見送り、掃除などで強烈なホームシックにかかったこともありました。

    当時の私の日記には「おかちゃんの卵焼きが食べたい。足袋を縫ってもらいたい。」などとつづられていました。

    お客さまを送り出してやっと自分の朝食をとることができます。

    寺に古くからいる執事さんや古老などから食事をとるため、一番若手は最後の方になります。おかずはそれぞれ個別に盛られているわけではないので、どうしてもお味噌汁やおかずは残りわずかになり、ただ漬け物とご飯だけは十分にあったので空腹になることはありませんでした。

    このことが良かったのか悪かったのか高校2年生になったころには私の体重は80キロを超えていました。

    そしてこのころになると、後輩も入ってきて、それまで猫をかぶっていた私も本性が少しずつ現れてきたというか、反抗の芽が再び頭を持ち上げてきたのです。

    昭和42年当時、高野山ではお寺から出るゴミは個別に焼却場へ持っていかなければなりませんでした。軽四貨物車に積み込み先輩と二人一組で運ぶのですが、私はときどき先輩にすすめられて運転をしていました。当然無免許です。

    これが私の運転欲に火をつけたのです。

    軽四貨物車だけではなく乗用車にも乗ってみたいと思い始め、目をつけたのが住職の自家用車でした。

    もちろん車のキーはありませんから作らなければなりません。当時の車のキーは部屋のドアキーなどとよく似ていたので、五寸釘をたたいてつぶせばそれらしきものを作れるような気がしたのです

    • 12 min
    田舎坊主七転八倒<はじめに>

    田舎坊主七転八倒<はじめに>

    はじめに

    しかたなくいやいや寺の後を継ぎ、必死で駈けぬけた40年、いや50年でした。

    最初は、坊主をするかぎりは専業でという意地がかえって自分を追いつめ、毎日もがいていたように思います。

    しかし、少し前向きに歩み始めて十年ほどたつと不思議なもので、一から始めた日行参りも軌道にのり、習いはじめたご詠歌はもともと学生時代には声明が得意だったこともあって習得が早く、師範を許され、習いたいという生徒も出てました。最盛期には七カ所で教室ができるほどになりました。

    その上、独学で練習していた津軽三味線も習いたいという生徒ができ、三味線森田会として三つの教室をもつことになったのです。

    そのころは週のうち5日はご詠歌と三味線の教室で教えていました。

    また、ある私立の進学高校から非常勤講師で招かれ、先生として七年勤務し、さらに35歳のときには和歌山県内でも最年少の公民館長を拝命することになったのです。

    そして公民館長を10年つとめると、役場からも声がかかり、これも非常勤で教育委員会に勤務することになりました。

    難病の次女が五歳で亡くなったことから、患者会の全国副代表をつとめることにもなり、毎月出張で上京していました。

    人生は不思議なもので、何もすることがなった若いころがうそのように、多忙を極めるようになっていたのです。

    その間、時代とともに私をとりまく状況は大きく変化し、昔は嫌がっていた坊主も、役場つとめも、学校の先生もみな経験し、はじめに自分が決めたものとはまったくちがった人生を歩んでいたのです。

    この本は、私の小坊主時代や、坊主となって本来のつとめである法事、お盆、お葬式という行事のなかで経験したこと、印象的に記憶に残っていることなどのエピソードをしたためたものです。

    お聴き戴いている皆さまには、田舎寺の縁側で住職の四方山話を聞いているつもりで、楽しく気楽に聴いていただければなにより幸いです。

    合掌


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    • 5 min

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