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田舎坊主の読み聞かせ法話
田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです
和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー
もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。
人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。

田舎坊主の読み聞かせ法‪話‬ 田舎坊主 森田良恒

    • Religion & Spirituality

田舎坊主の読み聞かせ法話
田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです
和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー
もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。
人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。

    田舎坊主七転八倒<はじめに>

    田舎坊主七転八倒<はじめに>

    はじめに

    しかたなくいやいや寺の後を継ぎ、必死で駈けぬけた40年、いや50年でした。

    最初は、坊主をするかぎりは専業でという意地がかえって自分を追いつめ、毎日もがいていたように思います。

    しかし、少し前向きに歩み始めて十年ほどたつと不思議なもので、一から始めた日行参りも軌道にのり、習いはじめたご詠歌はもともと学生時代には声明が得意だったこともあって習得が早く、師範を許され、習いたいという生徒も出てました。最盛期には七カ所で教室ができるほどになりました。

    その上、独学で練習していた津軽三味線も習いたいという生徒ができ、三味線森田会として三つの教室をもつことになったのです。

    そのころは週のうち5日はご詠歌と三味線の教室で教えていました。

    また、ある私立の進学高校から非常勤講師で招かれ、先生として七年勤務し、さらに35歳のときには和歌山県内でも最年少の公民館長を拝命することになったのです。

    そして公民館長を10年つとめると、役場からも声がかかり、これも非常勤で教育委員会に勤務することになりました。

    難病の次女が五歳で亡くなったことから、患者会の全国副代表をつとめることにもなり、毎月出張で上京していました。

    人生は不思議なもので、何もすることがなった若いころがうそのように、多忙を極めるようになっていたのです。

    その間、時代とともに私をとりまく状況は大きく変化し、昔は嫌がっていた坊主も、役場つとめも、学校の先生もみな経験し、はじめに自分が決めたものとはまったくちがった人生を歩んでいたのです。

    この本は、私の小坊主時代や、坊主となって本来のつとめである法事、お盆、お葬式という行事のなかで経験したこと、印象的に記憶に残っていることなどのエピソードをしたためたものです。

    お聴き戴いている皆さまには、田舎寺の縁側で住職の四方山話を聞いているつもりで、楽しく気楽に聴いていただければなにより幸いです。

    合掌


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    • 5 min
    田舎坊主の七転八倒<ご案内トレーラー>

    田舎坊主の七転八倒<ご案内トレーラー>

    いつもお聴きいただきありがとうございます

    5月3日(金)からはシーズン5に入ります

    今度の本は2015年に出版した「田舎坊主の七転八倒」という本です

    この本の内容は、私個人のいわばカミングアウトバージョンです

    引き続きぜひお聴きください


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    • 1 min
    田舎坊主の求不得苦<おわりに>

    田舎坊主の求不得苦<おわりに>

    人は必ず、あっちへ行く。

    あっちはとは、だれひとり帰ってきて現地報告したことのないところだ。

    そんなことは分かっていても、自分はまだあっちへは行かないと多くの人は思っている。

    どちらかというとあのお年寄りが先で、自分はまだ。

    あの病院通いばかりしている人が先で自分はまだ。

    そう思っている。 



    「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」という句がある。



    この句には二つの意味を含んでいる。

    ひとつは、

    「海水の中で水に濡れなければ仕事にならない海女でさえ、時雨に濡れて体調を崩すことのないように、死を説き、死を厭わない僧である私でもほんとうの悟りを得て仏さまのところにいくまでは体調に配慮して薬も飲むんだよ。」という意味だ。



    ふたつは、

    「海女さんは海にもぐって貝などを採ってそれを生業にしている。例外なく海にもぐればそのからだを濡らすことは分かっていても、その海に入るところまでの浜で時雨が降ってくれば、それには濡れないように蓑を着るものだ。人も例外なく死がやってくることはみんな知っているが、いよいよそのときが来るまで自分の死を考えないものだ。」という意味だ。



    このふたつの意味はどちらかというと対照的だが、後者の意味の方が深いような気がする。



    お釈迦さまは「匙の 汁に浸って その味を知らず」と説いた。



    香り高いコーヒーにシュガーやミルクを入れ、スプーンでひと混ぜしてもそのスプーンはコーヒーの味も香りも分からないように、私たちは生きてるあいだに自分の周囲で、突然の事故や災害、病気などで亡くなる人を常に目や耳にして知っているのに、そのスプーンのようにいつまでも自分のこととして考えないというのだ。

     

    あっちへ行くのは「あすかも知れない」と思い生きることで、どれだけ大切に生きることができるのだろうか。



     いま険悪中の友人と仲直りしとかないと・・・・

     借りた義理は心を込めて返しておかないと・・・・

    あやまる機会を逸している人は早めにあやまっとかないと・・・・

     何かの役に立ちたいと思っているならすぐ実行しないと・・・・

     いまあなたが必要とされているならそのために尽くさないと・・・・

     さあ、すぐ実践してみてはどうだろう。

    合掌


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    • 5 min
    田舎坊主の求不得苦<いまを生きる>

    田舎坊主の求不得苦<いまを生きる>

    私が町役場で社会同和教育指導員という辞令をいただいていた1994年11月のことである。

    人権週間にあわせて人権教育講演会を開催することになった。担当者はそれぞれ意見を出して講演者の選定に当たった。

    とりわけ人権の話となれば聴衆者も少なく、ときには難解な講義形式で話される先生もあることから町民から敬遠されることが多かったのだ。

    私は予算の関係もあるが、人権と言えども楽しく話してくれる人はいないかと考え、最終的にタレントのレオナルド熊さんに決めたのである。

    レオナルド熊さんといえば、1980年ごろ、いま名脇役の渋い俳優として活躍する石倉三郎氏とお笑いコンビを組んで大活躍し、ニッカポッカのズボンに腹巻き、チョビ髭をつけた格好でおおいに笑わせてくれた。

    レオナルド熊さんに、「講演テーマを何にしましょうか」と聞いたところ、「いまを生きる」にして下さいといわれた。

    失礼だと思ったがもう一度聞き直した。テレビに出てくる熊さんと「いまを生きる」がピンと結びつかなかったのだ。やはり、

    「『いまを生きる』でお願いします」と、念を押された。

    このテーマについては講演会の当日、控え室で次のようなこと聞かせていただいた。



    「先月のことなんだけど、医者に行ったら末期の膀胱ガンだっていわれたのよ。いつまでの命かは医者は言わなかったけどさ、あんまり長くないんだよ、っていうかそう思ってるの。ちょうど和歌山に来る前に友だちが『ガン祝いの会』ってのを開いてくれてさ、励ましてもらったっていうか、みんなに笑わせてもらってきたのよ。この講演会の話があったときテーマを何にするか聞かれて、俺にゃあ似あわねえけど『いまを生きる』しかないと思ったんだ。」と、話してくれた。

     私はもちろんそんなことは知るよしもなかったから、その話に驚かされるとともに、末期ガンの体で和歌山に来てくれたことも「いまを生きる」に含まれていることにはじめて気がついた。

     

    講演会には多くの町民が来てくれた。

    講演では熊さんは元気いっぱい話してくれた。



    ・テレビで売れるようになる少しに結核で入院していて、ほんとうは病弱なこと。

    ・笑いが止まらないほどテレビの出演が多くなってきたこと。

    ・社会をいじくって笑いを作ってきたこと。

    ・売れてくるとコマーシャルの出演要請が来て、そのなかでも社会をいじくるセリフが大うけとなって、当時そのセリフがはやり言葉となったこと。

    ・そうなればさらに仕事がどんどん増えてきたこと。

    ・ギャラはどんどん上がり、お金がばっさばっさ入ってきたこと。

    ・収入は銀行に貯金しないでタンス預金だったこと。

    ・タンスがいっぱいになって入らなくなったので、押し入れ預金になったこと。

    ・その押し入れもいっぱいになって、タンスの戸を開けたらお金があふれ出てきたこと。

    ・お金が邪魔になって面倒くさくなってきたこと。



     人権講演会場はおおきな笑いに包まれた。



    最後に熊さんは、

    「もともとからだが弱かったから、ほんとうに一生けんめいがんばりましたよ。

    いつ死ぬかも分からなかったからね。

    そのときそのとき手をぬかず、やってきたからよかったんだね。

    いましかないと思って生きること。それしかないね。

    ありがとう。」

    そう言って壇

    • 8 min
    田舎坊主の求不得苦<命の布施>

    田舎坊主の求不得苦<命の布施>

    私たちは食事の前に「いただきます」、食後は「ご馳走さまです」という。

    ある中学校の講演で「いただきますはだれに言いますか?」という質問をした。

    子どもたちに「きのう何を食べましたか?」と聞くと、「おでん」と答えてくれた。

    「おでんの中の何を食べましたか?」

    と聞くと、「たまご、ダイコン、牛すじ」と答えてくれた。

    私たちは誰かのために働いたり、誰かの役に立つ作業をすれば報酬がいただける。会社に行って働けばお給料がいただける。

    でも、たまごやダイコンや牛すじを食べればあなたの栄養となりエネルギー

    となり命になるのに、鶏や牛やだいこんに報酬は渡らない。

    お父さんが働いたお給料で、お母さんが鶏や牛やダイコンなどのお買い物をしてお金を支払っても、それはお店や卸業者や生産者に手渡されて、鶏や牛やだいこんには渡らない。

    それどころか牛が解体処理場にいくとき涙を流すといい、鶏は狭いケージの中を精一杯羽ばたいて出ようとしないという。

    すでに彼らは殺されることを悟っているのだ。

    ダイコンは花を咲かせ種を蓄えるまで、大地に精いっぱい根を張ってなかなか抜かれまいとふんばるのだ。

    これらの命をいただくのだから、自然に「いただきます」とでてくるのだ。

    そして食べ終わればわざわざ「いただいた命で馳せ走ることができます」という意味の

    「ご馳走さま」と言って、感謝の言葉で締めくくるのだ。



    以前は「たべる」を「喰」とも書いた。この字は人がひざまずいて食べものを口に運んでいるようすからできた象形文字だそうだ。

    人が食べものを口にすることによって「𠆢」の下に「口」がとり込まれ、この文字が変化して「命」という文字ができている。

    仏教では、鶏や牛やダイコンのようにその命を提供し、人はそれを食しその命をつないでいる行為を、インドの古い言葉、梵語で「ダーナ(布施)」というのだ。「ダーナ」は日本では「檀那」となり、寺に布施する人を意味し、布施する家は「檀家」ということになる。

    さらに「ダーナ」は英語圏では「ドナー」と変化する。

    今では医療用語の「ドナー(提供者)」として普及しているが、本来はなんの報酬も求めず、他を生かすことが語源なのだ。

    私たちは日々無数の食べものの「ダーナ(布施)」という行為で自分の命を生かさせてもらっているのだ。

    だから「いただきます」は毎日の食卓にのぼる食べものに対して言っているのであって、お父さんやお母さんに言うのではないのだ。



    私の娘が胆道閉鎖症という難病で死んだ四年後、平成元年に世界で四例目、日本で初めての生体肝移植がおこなわれた。ドナーは父親で、レシピエントとして手術を受けた子どもの病気は同じ胆道閉鎖症だった。

    日本で脳死移植が認められるまでの緊急避難的に実施された手術であったが、各方面から「あなたは、やらないのか」という同病患者家族へのプレッシャーが社会に生まれるなどとして「問題がある」との声が多くあがったのを覚えている。

    しかし、そのときの執刀医は、「このような状況のなかで、肝硬変で余命いくばくもないわが子を前にして、自分の肝臓を切ってでも助けたいという父親の心中を聞いたとき、主治医としてはこれしか方法はないと確信した。」

    と、日本初の手術

    • 10 min
    田舎坊主の求不得苦<僕のおばあちゃん>

    田舎坊主の求不得苦<僕のおばあちゃん>

    学生のころ中村久子さんの『こころの手足』(春秋社)を読んだ。

    中村久子さんは幼いころの凍傷が原因で脱疽(体組織が壊死していくこと)となり両手両足を切断することになる。

    母の深い愛情で育てられ、残った短い手で編み物もできるまでになった。

    成人したころ実母は再婚したが、再婚相手の継父に興行師に身売りされてしまうのだ。

    日々の生活は、両手両足のない姿を見世物として舞台に上がらされ、母から教わった生きる手立ての裁縫や編み物などは哀しい哉、皮肉にも見世物として役に立ったのである。

    自分の体は仏からいただいたもので、なにひとつ恨んでいないと語り、むしろ手足のない不自由な体であるからこそ強く生きることができたと述懐されている。

    『こころの手足』のなかに次のような詩がある。



    さわやかな 秋の朝



     「タオル 取ってちょうだい」

     「おーい」と答える

      良人(おっと)がある

     「ハーイ」という

      娘がおる

      歯をみがく

      義歯の取り外し

      かおを洗う

      短いけれど

      指のない

      まるい

      つよい手が

      何でもしてくれる

      断端(きれはし)に骨のない

      やわらかい腕もある

      何でもしてくれる

      短い手もある



      ある ある ある

      みんなある



      さわやかな

      秋の朝



    何もなくても、幸せを感じることができるのだ。

    しかし何もないと思っているのは私の方であり、中村久子さんにはいっぱいあるのだ。

    「無一物 無尽蔵」とはこのことなのだ。

    この本を泣きながら読んだころ、そう思った。



    私の祖母も両手は中村久子さんのようだった。手首の10㎝位下から、断端(きれはし)に骨のないやわらかい腕だった。

    私が生を受け、物ごころがついたころから祖母は手がなかったのでまったく違和感もなくその姿を受け入れていた。

    中学に上がったころ父から祖母の手がなくなった理由を聞かせてもらった。



    私の自坊、不動寺は50mほどの急坂を上がったところにある。

    寺の敷地内の北側に大岩盤が地表に現れ、その岩盤を基礎石に利用して本堂は建てられている。

    あるとき、熱を出した父を祖母が背負って紀ノ川沿いの診療所へ行くとき、寺の近くの坂道で父を背負ったまま倒れたそうである。

    その当時はもちろん舗装されているわけではなく、牛にくびきをつけた荷車がその地道の坂道を行き来していた。

    そんな急な坂道で子どもを背負ったまま倒れ、両手をついた傷口からばい菌が入ったのだ。

    祖母は自分は大丈夫とばかり、ろくに医者に診てもらうこともなく、子どもである父のことを気づかい、診療所をあとにしたのである。

    その後、医者に診せたといっても、まともな抗生物質も薬剤も十分ではない時代のこと、やがて祖母の両手は腫れあがってきた。

    ついには両手とも脱疽となり、全身に壊死が広がる前に手首から一〇センチくらいのところから両方切断しなければならなくなったのである。

     

    しかし、私の知っている祖母は、いつも着物を着て、長火鉢にすわり、キセルできざみの煙草をふかしていた。

    断端に骨のないやわらかい手でキセルにうまくきざみの煙草をつめるのである。もちろんマッチも上手に使った。

    長火鉢の端には針山もついていて、自分の着物の繕いは全部自

    • 11 min

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