
“Heretic” by Hakushu KITAHARA ( Unabridged ) 北原白秋『邪宗門』(全) (17)
Part 17
盲ひし沼
午後六時、血紅色の日の光
盲ひし沼にふりそそぎ、濁の水の
声もなく傷き眩む生おびえ。
鉄の匂のひと冷み沁みは入れども、
影うつす煙草工場の煉瓦壁。
眼も痛ましき香のけぶり、機械とどろく。
鳴ききたる鵝島のうから
しらしらと水に飛び入る。
午後六時、また噴きなやむ管の湯気、
壁に凭りたる素裸の若者ひとり
腕拭き鉄の匂にうち噎ぶ。
はた、あかあかと蒸気鑵音なく叫び、
そこここに咲きこぼれたる芹の花、
あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。
声もなき鵞鳥のうから
色みだし水に消え入る
午後六時、鵞鳥の見たる水底は
血潮したたる沼の面の負傷の光
かき濁る泥の臭みに疲れつつ、
水死の人の骨のごとちらぼふなかに
もの鈍き鉛の魚のめくるめき、
はた浮びくる妄念の赤きわななき。
逃げいづる鵞鳥のうから
鳴きさやぎ汀を走る。
午後六時、あな水底より浮びくる
赤きわななき――妄念の猛ると見れば、
強き煙草に、鉄の香に、わかき男に、
顔いだす硝子の窓の少女らに血潮したたり、
歓楽の極の恐怖の日のおびえ、
顫ひ高まる苦痛ぞ朱にくづるる。
刹那、ふと太く湯気吐き
吼えいづる休息の笛。
四十一年七月
青き光
哀れ、みな悩み入る、夏の夜のいと青き光のなかに、
ほの白き鉄の橋、洞円き穹窿の煉瓦、
かげに来て米炊ぐ泥舟の鉢の撫子、
そを見ると見下せる人々が倦みし面も。
はた絶えず、悩ましの角光り電車すぎゆく
河岸なみの白き壁あはあはと瓦斯も点れど、
うち向ふ暗き葉柳震慄きつ、さは震慄きつ、
後よりはた泣くは青白き屋の幽霊。
いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、
饐えて病むわかき日の薄暮のゆめ。――
幽霊の屋よりか洩れきたる呪はしの音の
交響体のくるしみのややありて交りおびゆる。
いづこにかうち囃す幻燈の伴奏の進行曲、
かげのごと往来する白の衣うかびつれつつ、
映りゆく絵のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。――
そのかげに苦痛の暗きこゑまじりもだゆる。
なべてみな悩み入る、夏の夜のいと青き光のなかに。――
蒸し暑き軟ら風もの甘き汗に揺れつつ、
ほつほつと点もれゆく水の面のなやみの燈、
鹹からき執の譜よ………み空には星ぞうまるる。
かくてなほ悩み顫ふわかき日の薄暮のゆめ。――
見よ、苦き闇の滓街衢には淀みとろげど、
新にもしぶきいづる星の華――泡のなげきに
色青き酒のごと空は、はた、なべて澄みゆく。
四十一年七月
樅のふたもと
うちけぶる樅のふたもと。
薄暮の山の半腹のすすき原、
若草色の夕あかり濡れにぞ濡るる
雨の日のもののしらべの微妙さに、
なやみ幽けき Chopin の楽のしたたり
やはらかに絶えず霧するにほやかさ。
ああ、さはあかれ、嗟嘆の樅のふたもと。
はやにほふ樅のふたもと。
いつしかに色にほひゆく靄のすそ、
しみらに燃ゆる日の薄黄、映らふみどり、
ひそやかに暗き夢弾く列並の
遠の山々おしなべてものやはらかに、
近ほとりほのめきそむる歌の曲。
ああ、はやにほへ、嗟嘆の樅のふたもと。
燃えいづる樅のふたもと。
濡れ滴る柑子の色のひとつらね、
深き青みの重りにまじらひけぶる
山の端の縺れのなやみ、あるはまた
かすかに覗く空のゆめ、雲のあからみ、
晩夏の入日に噎ぶ夕ながめ。
ああ、また燃ゆれ、嗟嘆の樅のふたもと。
色うつる樅のふたもと。
しめやげる葬の曲のかなしみの
幽かにもののなまめきに揺曳くなべに、
沈みゆく雲の青みの階調、
はた、さまざまのあこがれの吐息の薫、
薄れつつうつらふきはの日のおびえ。
ああ、はた、響け、嵯嘆の樅のふたもと。
饐え暗む樅のふたもと。
燃えのこる想のうるみひえびえと、
はや夜の沈黙しのびねに弾きも絶え入る
列並の山のくるしみ、ひと叢の
柑子の靄のおぼめきも音にこそ呻け、
おしなべて御龕の空ぞ饐えよどむ。
ああ、見よ、悩む、嗟嘆の樅のふたもと。
暮れて立つ樅のふたもと。
声もなき悲願の通夜のすすりなき
薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦、
いつしかに篳篥あかる谷のそら、
ほのめき顫ふ月魄のうれひ沁みつつ
夢青む忘我の原の靄の色。
ああ、さは顫へ嗟嘆の樅のふたもと。
四十一年二月
Information
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- FrequencyMonthly
- Published7 February 2025 at 15:00 UTC
- Season6