
“Heretic” by Hakushu KITAHARA ( Unabridged ) 北原白秋『邪宗門』(全) (19)
Part 19
狂へる椿
ああ、暮春。
なべて悩まし。
溶けゆく雲のまろがり、
大ぞらのにほひも、ゆめも。
ああ、暮春。
大理石のまぶしきにほひ――
幾基の墓の日向に
照りかへし、
くわと入る光。
ものやはき眩暈の甘き恐怖よ。
あかあかと狂ひいでぬる薮椿、
自棄に熱病む霊か、見よ、枝もたわわに
狂ひ咲き、
狂ひいでぬる赤き花、
赤き譫言。
そがかたへなる崖の上、
うち湿り、熱り、まぶしく、また、ねぶく
大路に淀むもののおと。
人力車夫は
ひとつらね青白の幌をならべぬ。
客を待つこころごころに。
ああ、暮春。
さあれ、また、うちも向へる
いと高く暗き崖には、
窓もなき牢獄の壁の
長き列、はては閉せる
灰黒の重き裏門。
はたやいま落つる日ひびき、
照りあかる窪地のそらの
いづこにか、
さはひとり、
湿り吹きゆく
幼ごころの日のうれひ、
そのちやるめらの
笛の曲。
笛の曲…………
かくて、はた、病みぬる椿、
赤く、赤く、狂へる椿。
四十一年六月
吊橋のにほひ
夏の日の激しき光
噴きいづる銀の濃雲に照りうかび、
雲は熔けてひたおもて大河筋に射かへせば、
見よ、眩暈く水の面、波も真白に
声もなき潮のさしひき。
そがうへに懸る吊橋。
煤けたる黝の鉄の桁構、
半月形の幾円み絶えつつ続くかげに、見よ、
薄らに青む水の色、あるは煉瓦の
円柱映ろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀色の光のなかに、
そろひゆく櫂のなげきしらしらと、
或は仄の水鳥のそことしもなき音のうれひ、
河岸の氷室の壁も、はた、ただに真昼の
白蝋の冷みの沈黙。
かくてただ悩む吊橋、
なべてみな真白き水の面、はた、光、
ただにたゆたふ眩暈の、恐怖の、仄の哀愁の
銀の真昼に、色重き鉄のにほひぞ
鬱憂に吊られ圧さるる。
鋼鉄のにほひに噎び、
絶えずまた直裸なる男の子
真白に光り、ひとならび、力あふるる面して
柵の上より躍り入る、水の飛沫や、
白金に濡れてかがやく。
真白なる真夏の真昼。
汗滴るしとどの熱に薄曇り、
暈みて歎く吊橋のにほひ目当にたぎち来る
小蒸汽船の灰ばめる鈍き唸や、
日は光り、煙うづまく。
四十一年八月
硝子切るひと
君は切る、
色あかき硝子の板を。
落日さす暮春の窓に、
いそがしく撰びいでつつ。
君は切る、
金剛の石のわかさに。
茴香酒のごときひとすぢ
つと引きつ、切りつ、忘れつ。
君は切る、
色あかき硝子の板を。
君は切る、君は切る。
四十年十二月
Information
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- FrequencyMonthly
- Published11 April 2025 at 15:00 UTC
- Season6