リジョイス聖書日課

RCJメディアミニストリー

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

  1. 9H AGO

    私たちの心を満たす主の御言葉(エゼキエル書 23章)

    「お前はわたしを忘れ、わたしを後ろに投げ捨てたのだから、不貞と淫行の責めを自分で負わねばならぬ。」 (エゼキエル書23章35節) 23章では、サマリアとエルサレムが二人の姉妹「オホラとオホリバ」にたとえられています。二人は主なる神のものとされ、祝福を与えられていました(4節)。しかし、オホラすなわちサマリアは、神が共にある幸いを知りながら異国のものに心を惹かれ、霊的な不貞により、裁きを受けます(5~10節)。オホリバすなわちエルサレムは、サマリアの愚かさを見ながらも立ち帰らず、さらにひどかったと指摘されます。彼女は神の民であることを忘れ、その喜びを捨て去りました(11~21節)。主なる神は、彼女を憎む者の手に彼女を渡すとおっしゃいます(28節)。 霊的に満たされないとき、私たちの心は渇き、心を潤すものを求めます。私たちの心を惹きつけ、離さないものが、私たちのまわりにあふれています。お金や名声、権力。それらは私たちの心を惹きつける「心の偶像」になります。これらは神を愛する喜びを見えなくし、偽りの潤いで私たちの心を占領します。しかし、そのような偶像が本当に心を潤すことはありません。そして、神は生きておられ、私たちの心を見ておられます。 真の意味で私たちの心を満たすのは、主の御言葉であり、心からの礼拝です。きょうも主は、ご自身の御言葉をもって私たちの心を満たし、私たちを生かしてくださいます。 【祈り】 主よ、心の偶像を取り去り、私たちを心からの礼拝へと導いてください。

  2. 1D AGO

    神の義と聖を侮る者への主の憤り(エゼキエル書 22章)

    「そのとき、お前たちは主なるわたしが、憤りをお前たちの上に注いだことを知るようになる。」 (エゼキエル書22章22節) 「神の義と聖を侮る」罪の極みと、罪に対する主なる神の憤りと裁きが描かれています。主なる神は、「自分のために偶像を造って、自らを汚す都よ」と、エルサレムの人びとの罪を糾弾します(3節)。エルサレムには虐げられる異国人や社会的弱さの中にある者たちがおり(7、8節)、不品行や不正によって歪められている秩序があり(9~13節)、神の民の罪が極みに達していました。神の御心を忘れたエルサレムの罪を、主なる神は見逃されません。神はエルサレムの罪を憤り、その憤りは金滓を溶かす炉のように燃え上がると言われます(19~22節)。 主イエスは、律法学者とファリサイ派の人びとをはじめとする、表面を取り繕う指導者たちを、「偽善者」と糾弾されました(マタ23章28節)。それは、神が神の義と聖を侮る者らに憤るお方であることを示し、神に立ち帰らせるための叱責です。 私たちもまた、それぞれの歩みの中で信仰が問われます。罪の現実の中で、神の御前に執り成してくださる御子イエス・キリストへと導かれるのです(ヘブ7章25節)。主は憤りに任せて私たちを滅ぼすのではありません。かえって、常に生きて執り成してくださる救い主へと、私たちを導き帰してくださるのです。 【祈り】 私たちに執り成し手である主イエス・キリストをお与えくださり、ありがとうございます。

  3. 2D AGO

    神の民に向けられた主の怒り(エゼキエル書 21章)

    「剣をもとの鞘に納めよ。お前が創造された場所、お前の出身地で、わたしはお前を裁く。」 (エゼキエル書21章35節) 主なる神は、預言者エゼキエルをとおしてイスラエルの罪に対する怒りとご自身の剣による裁きを示されます。神の怒りの火はすべての者に向けられ、地の面がことごとく焦土と化すほどです(3節)。バビロンによってイスラエルの国は滅亡し、神の剣は確かに滅びをもたらしました。 すべての罪は神の前に思い起こされ、逃れることのできる者はいません。裁き主の権威を授けられた者が訪れることを、主は預言者をとおして示しておられます(32節)。 主イエスは、その権威ある者として私たちのもとに来られました。しかし、そのお方は、引き渡される夜、剣を抜いた弟子に「剣をさやに納めなさい」とおっしゃいました(マタ26章52節)。それは、私たちを裁きから贖いへと導く、救いのメッセージです。十字架の御業によって、主イエスご自身が神の裁きを引き受けて、赦しの恵みに私たちを入れてくださいました。主イエスは、「悔い改めて福音を信じなさい」と、私たちを招いておられます。 そして、今や使徒パウロをとおして、「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と命じられています(エフェ6章17節)。救いの兜を授かった者として、喜びの内を歩んでまいりましょう。 【祈り】 主よ、神の怒りの剣の裁きを赦された者として、霊の剣をもって歩むことができるよう導いてください。

  4. 3D AGO

    罪の悲惨に働きかける主なる神(エゼキエル書 20章)

    「わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」 (エゼキエル書20章44節) イスラエルの長老たちがエゼキエルのもとを訪ね、主の御心を求めた、第七年の第五の月の十日(1節)とは、エルサレム陥落の五年前、紀元前591年の八月のことでした。長老たちに告げられたのは、彼らの歩んできた罪に対する、神の怒りでした。 主は長老たちに、人が主と共に生きるための掟に背き続けてきたイスラエルの罪の歴史を突きつけます(13節)。神と共に歩むことを拒むだけでなく、偶像に信頼し、安息日を汚してきたイスラエルの民に、主は怒りを示されます。そして、ご自身の働きかけをとおして、「わたしは生きている」と、繰り返し示されます。背きを繰り返すイスラエルの民に対して、神は忍耐強く彼らを導かれました。神は、イスラエルの歴史をとおして、私たちが背き続けるにもかかわらず、神はご自身の民を救い続けられるという恵みを、私たちに示しておられます。 主なる神は、私たちに働きかけ、生き方の方向転換を迫ってこられます。それは、主が生きておられる証拠です。主イエス・キリストの十字架をとおして神の憐れみが示され、私たちは悔い改めへと導かれます(ロマ2章4節)。忍耐をもって私たちを導かれる主が、きょうもあなたと共にいて、働きかけてくださいます。 【祈り】 主よ、御言葉をとおして、私たちの歩みに働きかけ、私たちを御心に従うものとして導いてください。

  5. 4D AGO

    ユダの王たちの運命(エゼキエル書 19章)

    イスラエルの君侯たちのために、あなたは悲しみの歌をうたって、言いなさい。 (エゼキエル書19章1節~2節) 19章では、ユダ王国が「雌獅子」、ユダ王国の三人の王、ヨアハズ、ヨヤキン、ゼデキヤが「子獅子」とたとえられて、その運命が語られています。この三人の王いずれも「主の目に悪とされることをことごとく」行いました。その裁きが主なる神から下ります。ヨアハズは「罠に捕らえられ、鉤にかけられ」エジプトで幽閉されました。また、ヨヤキンも罠に捕らえられ、バビロンの王のもとに連行され、獄に閉じ込められました。そして、ゼデキヤを中心とするユダも「東風」(バビロンによる攻撃)により、滅ぼされる運命にあることが語られます。 このように国は亡び、希望はもはやついえたような状況でありました。ダビデの子孫による王国は終了したかに思えたのです。しかし、主の契約は来るべきダビデの子であるメシア、主イエスにより成就するのです。主なる神はご自分の契約を捨て去ることなく、ユダの民の思いをはるかに超えた形で神の国を興し、進展させ、そして完成させてくださいます。 私たちも、キリストにある将来と希望がついえたかのような思いに囚われる時があります。しかし、主のご計画は永遠に不滅です。人にはわからなくとも確実に前に進んでいて、完成へと至るのです。今日もその主に信頼して歩んでいきましょう。 【祈り】 主よ、どうか私たちがあなたの永遠のご計画を信じることができるようにしてください。アーメン

  6. 5D AGO

    執着心と不安からの解放(ルカによる福音書 12章13-21節)

    「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 (ルカによる福音書12章15節) ある人が、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と主イエスにお願いしたことが発端です。遺産に全く関心がない人は、ほとんどいないでしょう。しかし、仲が良かった兄弟関係が遺産の分与を巡って壊れてしまう事例は、残念ながら少なくありません。なぜなら、私たちの内には貪欲な思いが潜んでいるからです。 「貪欲」とは、何かに執着することです。問題は、人の執着心は底なしであるというところにあります。満足することなく、何かがまだ足りないと感じるとき、私たちの心は、物質的にいくら豊かになっても貧しいままです。ただ、金銭に対する執着心の裏には、常に将来への不安が見え隠れします。金銭への執着は、貪欲な思いだけではなく、私たちの将来に対する不安を映す鏡でもあります。 ですから、主イエスは、物質的な豊かさではなく、神の前に豊かになるようにと招いてくださいます。信仰による救いと永遠の命は、決して失われることのない財産です。神が約束しておられるこの永遠の財産に目を向けるとき、私たちは将来の不安から自由にされ、金銭への執着や貪欲からも解き放たれます。私たちは、こうして、本当の意味で豊かな人生を生きることができるのです。 【祈り】 この世の財産に奪われがちな私たちの目を、あなたの約束される永遠の財産へと向けさせてください。

  7. 6D AGO

    彼はわたしを慕う者だから(詩編 91編)

    「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。」 (詩編91編14節) 詩編91編は、試練の中で苦しみ、心揺れる信仰者への励ましとして読むことができます。 まことの神を信じ、信頼して生きていても、災いや疫病、命の危機に出会うとき、恐れや不安で押しつぶされそうになることがあります。そして、いったいわたしの何が悪かったのだろうかと考えるのです。 わたしは、数年前のコロナパンデミックの早い時期に、コロナ感染して強制入院になりました。強制入院ですから勝手に退院できません。完治して退院するか、隔離病棟で死を迎えるか、そのどちらかです。 入院中、何もできず、ぼんやり自分の歩みを振り返って考えました。今まで順風満帆というわけではありませんでしたが、でもその時々で自分にできることがあり、努力もしました。しかしこのとき、頑張れること、努力できることは何もありません。そしてただ、静かに御言葉に向かい、祈ったのです。そのときに気がつきました。神に委ねるとは、依り頼むとは、こういうことなのだと。主なる神は、何かできるから愛してくださるのではありません。 「彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう」。 【祈り】  わたしを慈しんでくださる神よ、ただあなたに依り頼み、あなたの御名をほめたたえます。

  8. AUG 1

    罪の自覚悔い改め改心(エゼキエル書 18章)

    「犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」 (エゼキエル書18章:31節) 2節にある「先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く」ということわざは、当時広く行きわたっていました。これは、今自分たちが受けている苦難の原因と責任は、自分たちよりも前の世代にあるというものです。この考えにより、自分が犯した罪の責任が他に転嫁されてしまいます。また、罪を悔い改めることもなくなります。さらにそれは、自分たちには不可避なことであるとの運命論的な悲観主義の原因となっていました。さらに、前世代の罪により自分たちを罰せられる主なる神に対しての不満がこめられています。 しかし、主なる神は、「わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く」(30節)と各人の責任を問われ、各人を個別に裁くと言われています。裁きを受けるのは自らが犯した罪のためである、罪の責任は自らにあるとします。さらに、主なる神は「あらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」(31節)、「お前たちは立ち帰って、生きよ」(32節)と、罪を捨て、悔い改めて、主なる神に立ち帰り、生きることを求めておられます。 ですから、私たちは、それぞれが自らの責任を他者に転嫁することなく、日ごとに自らの罪を自覚し、その罪を悔い改め、信仰を新たにして、主に従って歩んでいきたいと思います。 【祈り】 主よ、どうか私たちに新しい心と霊を与えてください。アーメン

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