林芙美子 新版放浪記 第一部

林 芙美子 放浪記第一部 その2

参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

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(十二月×日)
 朝、青梅(おうめ)街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、
「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。」
 大声で云って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、
「御飯に肉豆腐でいいですか。」と云った。
 労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。
 大きな飯丼(めしどんぶり)。葱(ねぎ)と小間切れの肉豆腐。濁った味噌汁。これだけが十銭玉一つの栄養食だ。労働者は天真に大口あけて飯を頬ばっている。涙ぐましい風景だった。天井の壁には、一食十銭よりと書いてあるのに、十銭玉一つきりのこの労働者は、すなおに大声で念を押しているのだ。私は涙ぐましい気持ちだった。御飯の盛りが私のより多いような気がしたけれども、あれで足りるかしらとも思う。その労働者はいたって朗かだった。私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭也を払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗かだと思う。だけど、あの四十近い労働者の事を思うと、これは又、十銭玉一ツで、失望、どんぞこ、墜落との紙一重なのではないだろうか――。

 お母さんだけでも東京へ来てくれれば、何とかどうにか働きようもあるのだけれど……沈むだけ沈んでチンボツしてしまった私は難破船のようなものだ。飛沫(しぶき)がかかるどころではない、ザンブザンブ潮水を呑んで、結局私も昨夜の淫売婦と、そう変った考えも持っていやしない。あの女は三十すぎていたかも知れない。私がもしも男だったら、あのまま一直線にあの夜の女に溺(おぼ)れてしまって、今朝はもう二人で死ぬる話でもしていたかもしれない。
 昼から荷物を宿屋にあずけて、神田の職業紹介所に行ってみる。

 どこへ行っても砂原のように寥々とした思いをするので、私は胸がつまった。
(お前さんに使ってもらうんじゃないよ。)
 おたんちん!
 ひょっとこ!
 馬鹿野郎!
 何と冷たい、コウマンチキな女達なのだろう――。
 桃色の吸取紙のようなカードを、紹介所の受付の女に渡すと、
「月給三十円位ですって……」
 受付女史はこうつぶやくと、私の顔を見て、せせら笑っているのだ。
「女中じゃいけないの……事務員なんて、女学校出がうろうろしているんだから駄目よ、女中なら沢山あってよ。」
 後から後から美しい女の群が雪崩れて来ている。まことにごもっともさまなことです。
 少しも得るところなし。
 紹介状は、墨汁会社と、ガソリン嬢と、伊太利(イタリア)大使館の女中との三つだった。私のふところには、もう九十銭あまりしかないのだ。夕方宿へ帰ると、芸人達が、植木鉢みたいに鏡の前に並んで、鼠色の白粉(おしろい)を顔へ塗りたくっている。
「昨夜は二分しか売れなかった。」
「藪睨(やぶにら)みじゃア買手がねえや!」
「ヘン、これだっていいって人があるんだから……」
「ハイ御苦労様なことですよ。」
 十四五の娘同士のはなしなり。

(十二月×日)
 こみあげてくる波のような哀しみ、まるで狂人になるような錯覚がおこる。マッチをすって、それで眉ずみをつけてみた。――午前十時。麹町(こうじまち)三年町の伊太利大使館へ行ってみた。
 笑って暮らしましょう。でも何だか顔がゆがみます。――異人の子が馬に乗って門から出てきた。門のそばにはこわれた門番の小屋みたいなものがあって、綺麗(きれい)な砂利が遠い玄関までつづいている。私のような女の来るところではないように思えた。地図のある、赤いジュウタンの広い室に通された。白と黒のコスチュウム、異人のおくさんって美しいと思う。遠くで見ているとなおさら美しい。さっき馬で出て行った男の子が鼻を鳴らしながら帰って来た。男の異人さんも出て来たけれど、大使さんではなく、書記官だとかって云う事だった。夫婦とも背が高くてアッパクを感じる。その白と黒のコスチュウムをつけた夫人にコック部屋を見せてもらった。コンクリートの箱の中には玉葱がゴロゴロしていて、七輪が二つ置いてあった。この七輪で、女中が自分の食べるのだけ煮たきをするのだと云うことだ。まるで廃屋のような女中部屋である。黒い鎧戸(よろいど)がおりていて石鹸(せっけん)のような外国の臭いがしている。
 結局ようりょうを得ないままで門を出てしまった。豪壮な三年町の邸町を抜けて坂を降りると、吹きあげる十二月の風に、商店の赤い旗がヒラヒラしていて心にしみた。人種が違っては人情も判りかねる、どこか他をさがしてみようかしら。電車に乗らないで、堀ばたを歩いていると、何となく故郷へ帰りたくなって来た。目当もないのに東京でまごついていたところで結局はどうにもならないと思う。電車を見ていると死ぬる事を考えるなり。
 本郷の前の家へ行ってみる。叔母さんつめたし。近松氏から郵便が来ていた。出る時に十二社(じゅうにそう)の吉井さんのところに女中が入用だから、ひょっとしたらあんたを世話してあげようと云う先生の言葉だったけれど、その手紙は薄ずみで書いた断り状だった。
 文士って薄情なのかも知れない。
 夕方新宿の街を歩いていると、何と云うこともなく男の人にすがりたくなっていた。(誰か、このいまの私を助けてくれる人はないものなのかしら……)新宿駅の陸橋に、紫色のシグナルが光ってゆれているのをじっと見ていると、涙で瞼(まぶた)がふくらんできて、私は子供のようにしゃっくりが出てきた。
 何でも当ってくだけてみようと思う。宿屋の小母さんに正直に話をしてみた。仕事がみつかるまで、下で一緒にいていいと言ってくれた。
「あんた、青バスの車掌さんにならないかね、いいのになると七十円位這入るそうだが……」
 どこかでハタハタでも焼いているのか、とても臭いにおいが流れて来る。七十円もはいれば素敵なことだ。とにかくブラさがるところをこしらえなくてはならない……。十燭(しょく)の電気のついた帳場の炬燵(こたつ)にあたって、お母アさんへ手紙を書く。
 ――ビョウキシテ、コマッテ、イルカラ、三円クメンシテ、オクッテクダサイ。
 この間の淫売婦が、いなりずしを頬ばりながらはいって来た。
「おとついはひどいめに会った。お前さんもだらしがないよ。」
「お父つぁん怒ってた?」
 電気の下で見ると、もう四十位の女で、乾いたような崩れた姿をしていた。
「私の方じゃあんなのを梟(ふくろう)と云って、色んな男を夜中に連れ込んで来るんだが、あんまり有りがたい客じゃあないんですよ。お父つぁん、油をしぼられてプンプン怒ってますよ。」
 人の好さそうな老けたお上さんは、茶を淹(い)れながらあの女の事を悪く云っていた。
 夜、お上さんにうどんを御馳走になる。明日はここの小父さんのくちぞえで青バスの車庫へ試験をうけに行ってみよう。暮れぢかくになって、落ちつき場所のない事は淋しいけれど、クヨクヨしていても仕様のない世の中だ。すべては自分の元気な体をたのみに働きましょう。電線が風ですさまじく鳴っている。木賃宿の片隅に、この小さな私は、汚れた蒲団に寝ころんで、壁に張ってある大黒さんの顔を見ながら、雲の上の御殿のような空想をしている。
(国へかえってお嫁にでも行こうかしら……)

        *

(四月×日)
 今日はメリヤス屋の安さんの案内で、地割りをしてくれるのだ