林 芙美子 放浪記第一部 その5

林芙美子 新版放浪記 第一部

参照テキスト:青空文庫図書カード№1813

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参考サイト:鹿鳴
★ 上記より参考させていただきました。ありがとうございました。  

楊白花 胡皇后
陽春二三月 楊柳齊作花 春風一夜入閨闥 楊花飄蕩落南家 含情出戸脚無力 拾得楊花涙沾臆 秋去春來雙燕子 愿含楊花入●裏     

陽春二三月 楊柳 斉(ひと)しく花を作(な)す 春風 一夜 閏闥(けいたつ)に入り 楊花 飄蕩して南家に落つ 情を含みて戸(こ)を出づれば脚に力無く 楊花を拾ひ得て涙、臆(むね)を沾(うる)おす 秋去り春來(きた)る双燕子 愿(ねが)はくは楊花を含みて●裏(かり)に入れ

(六月×日)
 雨が細かな音をたてて降っている。

陽春二三月  楊柳斉作レ花
春風一夜入二閨闥一 楊花飄蕩落二南家一
含レ情出レ戸脚無レ力 拾二得楊花一涙沾レ臆
秋去春来双燕子 願銜二楊花一入 裏一

 灯の下に横坐りになりながら、白花を恋した霊太后(れいたいごう)の詩を読んでいると、つくづく旅が恋しくなってきた。五十里さんは引っ越して来てからいつも帰りは夜更けの一時過ぎなり。階下の人は勤め人なので九時頃には寝てしまう。時々田端の駅を通過する電車や汽車の音が汐鳴りのように聞えるだけで、この辺は山住いのような静かさだった。つくづく一人が淋しくなった。楊白花のように美しいひとが欲しくなった。本を伏せていると、焦々(いらいら)して来て私は階下に降りて行くのだ。
「今頃どこへゆくの?」階下の小母さんは裁縫の手を休めて私を見ている。
「割引なのよ。」
「元気がいいのね……」
 蛇の目の傘を拡げると、動坂の活動小屋に行ってみた。看板はヤングラジャと云うのである。私は割引のヤングラジャに恋心を感じた。太湖船の東洋的なオーケストラも雨の降る日だったので嬉しかった。だけど所詮(しょせん)はどこへ行っても淋しい一人身なり。小屋が閉まると、私は又溝鼠(どぶねずみ)のように部屋へ帰って来る。「誰かお客さんのようでしたが……」小母さんの寝ぼけた声を背中に、疲れて上って来ると、吉田さんが紙を円めながらポッケットへ入れている処だった。
「おそく上って済みません。」
「いいえ、私活動へ行って来たのよ。」
「あんまりおそいんで、置手紙をしてたとこなんです。」
 別に話もない赤の他人なのだけれど、吉田さんは私に甘えてこようとしている。鴨居(かもい)につかえそうに背の高い吉田さんを見ていると、私は何か圧されそうなものを感じている。
「随分雨が降るのね……」
 これ位白ばくれておかなければ、今夜こそどうにか爆発しそうで恐ろしかった。壁に背を凭せて、かの人はじっと私の顔を凝視(みつ)めて来た。私はこの男が好きで好きでたまらなくなりそうに思えて困ってしまう。だけど、私はもう色々なものにこりこりしているのだ。私は温(おと)なしく両手を机の上にのせて、灯の光りに眼を走らせていた。私の両の手先きが小さく、慄えている。一本の棒を二人で一生懸命に押しあっている気持ちなり。
「貴女は私を嬲(なぶ)っているんじゃないんですか?」
「どうして?」
 何と云う間の抜けた受太刀だろう。私の生々しい感傷の中へ巻き込まれていらっしゃるきりではありませんか……私は口の内につぶやきながら、このひとをこのままこさせなくするのも一寸淋しい気がしていた。ああ友達が欲しい。こうした優しさを持ったお友達が欲しいのだけれども……私は何時(いつ)か涙があふれていた。
 いっその事、ひと思いに死にたいとも思う。かの人は私を睨(にら)み殺すのかも知れない。生唾が舌の上を走った。私は自分がみじめに思えて仕方がなかった。別れた男との幾月かを送ったこの部屋の中に、色々な夢がまだ泳いでいて私を苦しくしているのだ。――引っ越さなくてはとてもたまらないと思う。私は机に伏さったまま郊外のさわやかな夏景色を頭に描いていた。雨の情熱はいっそう高まって来て、苦しくて仕方がない。「僕を愛して下さい。だまって僕を愛して下さい!」「だからだまって、私も愛しているではありませんか……」せめて手を握る事によってこの青年の胸が癒(いや)されるならば……。私はもう男に迷うことは恐ろしいのだ。貞操のない私の体だけども、まだどこかに私の一生を託す男が出てこないとも限らないもの。でもこの人は新鮮な血の匂いを持っている。厚い胸、青い眉、太陽のような眼。ああ私は激流のような激しさで泣いているのだ。

(六月×日)
 淋しく候。くだらなく候。金が欲しく候。北海道あたりの、アカシヤの香る並樹道を一人できままに歩いてみたいものなり。
「もう起きましたか……」
 珍らしく五十里さんの声が障子の外でしている。
「ええ起きていますよ。」
 日曜なので五十里さんと静栄さんと三人で久しぶりに、吉祥寺(きちじょうじ)の宮崎光男さんのアメチョコハウスに遊びに行ってみる。夕方ポーチで犬と遊んでいたら、上野山と云う洋画を描く人が遊びに来た。私はこの人と会うのは二度目だ。私がおさない頃、近松さんの家に女中にはいっていた時、この人は茫々としたむさくるしい姿で、牛の画を売りに来たことがあった。子供さんがジフテリヤで、大変侘し気な風采(ふうさい)だったのをおぼえている。靴をそろえる時、まるで河馬(かば)の口みたいに靴の底が離れていたものだった。私は小さい釘(くぎ)を持って来ると、そっと止めておいてあげた事がある。きっとこの人は気がつかなかったかも知れない。上野山さんは飄々と酒を呑みよく話している。夜、上野山氏は一人で帰って行った。

地球の廻転椅子に腰を掛けて
ガタンとひとまわりすれば
引きずる赤いスリッパが
片っ方飛んでしまった。

淋しいな……
オーイと呼んでも
誰も私のスリッパを取ってはくれぬ
度胸をきめて
廻転椅子から飛び降り
飛んだスリッパを取りに行こうか。

臆病な私の手はしっかり
廻転椅子にすがっている
オーイ誰でもいい
思い切り私の横面を
はりとばしてくれ
そしてはいているスリッパも飛ばしてくれ
私はゆっくり眠りたいのだ。

 落ちつかない寝床の中で、私はこんな詩を頭に描いた。下で三時の鳩時計が鳴っている。

     *

(六月×日)
 世界は星と人とより成る。エミイル・ヴェルハアレンの「世界」と云う詩を読んでいるとこんな事が書いてあった。何もかもあくびばかりの世の中である。私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。人よ、攀(よ)じ難いあの山がいかに高いとても、飛躍の念さえ切ならば、恐れるなかれ不可能の、金の駿馬(しゅんめ)をせめたてよ。――実につまらない詩だけれども、才子と見えて実に巧(うま)い言葉を知っている。金の駿馬をせめたてよか……窓を横ぎって紅い風船が飛んで行く。呆然たり、呆然たり、呆然たりか……。何と住みにくい浮世でございましょう。
 故郷より手紙が来る。
 ――現金主義になって、自分の口すぎ位はこっちに心配をかけないでくれ。才と云うものに自惚(うぬぼ)れてはならない。お母さんも、大分衰えている。一度帰っておいで、お前のブラブラ主義には不賛成です。――父より五円の為替。私は五円の為替を膝(ひざ)において、おありがとうござります。私はなさけなくなって、遠い故郷へ舌を出した。

(六月×日)
 前の屍室(ししつ)には、今夜は青い灯がついている。又兵隊が一人死んだのだろう。青い窓の灯を横ぎって通夜をする兵隊の影が二ツぼんやりうつっている。
「あら! 螢(ほたる)が飛んどる。」

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