リジョイス聖書日課

RCJメディアミニストリー

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

  1. 1時間前

    被造物も隷属から解放される(ローマの信徒への手紙 8章)

    つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。 (ローマの信徒への手紙8章21節) パウロは8章で被造世界の苦しみの問題を取り上げます。彼は20節で「被造物は虚無に服しています」と述べています。私たちが生きている世界には、本当にいろいろな問題があります。戦争があり、暴力の連鎖があり、憎しみがあり、人間疎外があります。富んだ国があり、飢餓に瀕している国があります。環境問題があり、疫病の問題があります。パウロはその世界の問題を「虚無」という言葉で言い表しました。虚無とは、むなしさということです。目的がないということです。存在が本来の意味を失っているのです。 神が創造された世界は良き世界でした。まさに虚無と対極にあるような世界でした。しかし、人間が堕落したときから、「土は呪われるもの」となりました。人間の堕落の結果は被造世界全体に及びました。 イエス・キリストの福音は、その被造世界をも救うものです。十字架の血は万物を神と和解させるものです(コロ1章20節)。被造物は今、「共にうめき、共に産みの苦しみを味わってい」ます(ロマ8章22節)。しかし、救いの完成の時には、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」のです。世界の希望はただキリストにあります。 【祈り】 主よ、十字架の血は万物の和解をもたらしてくださいました。私たちは、その救いの完成を待ち望みます。

  2. 1日前

    内在する罪を確かに救う福音の恵み(ローマの信徒への手紙 7章)

    わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。 (ローマの信徒への手紙7章15節) パウロはこの7章で、自らに内在する罪を嘆いています。15節で彼は言います。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。 一言で言えば、自分の内側が分裂しているということです。望んでいることを実行しないで、憎んでいることをしてしまう。彼は律法の命じることを正しいと認め、律法の禁じることを憎んでいました。しかし、彼は、その行いにおいては律法と対立することをしてしまうのです。 これはパウロだけのことでありません。私たちもそうではないでしょうか。「あんなことしなければ良かった」「あんなこと言わなければ良かった」と思って後悔することがあるのではないでしょうか。自分でも嫌だと思うようなことをしてしまう。そういうことが自分を苦しめ、人を傷つけ、それによってさらに自分を苦しめるということがあるのではないでしょうか。パウロもまた、そういう自分に苦悩したのです。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と嘆きました(24節)。しかし、嘆きで終わったのではありません。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と述べます(25節)。そのような惨めな私たちを救うのが、キリストの福音です。 【祈り】 主よ、本当に惨めなわたしを救ってくださる恵みに感謝いたします。

  3. 2日前

    義のための道具として自らを献げる(ローマの信徒への手紙 6章)

    かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 (ローマの信徒への手紙6章13節) パウロは13節で、「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」「五体を義のための道具として神に献げなさい」と命じました。ここでパウロは、人間は自らを神に献げるか、罪に献げるかの二つに一つしかないことを明らかにしています。 この「道具」は「武器」とも訳されます。また「献げる」という語も軍隊用語だと言われます。つまり、パウロはここで二つの支配を厳しく対決させています。両者の中間はありません。神の支配と罪の支配という二つの対立する支配の間にあって、私たちは、どちらかの支配者に武器として用いられるしかないのです。 神に用いられる武器となるか、それとも罪に用いられる武器となるかです。その「あれか、これか」の選択の中で、パウロははっきりと決断をもって神に自らを献げるようにと命じています。 しかし、私たちは生まれたままの自分を義のための道具として献げることはできません。生まれつきの古い自分は、根が腐っているからです。しかし、キリストの復活のゆえに私たちは新しくなりました。キリストのゆえに新しくなったということが、私たちが自らを義のための道具として、神に献げることができる唯一の根拠です。 【祈り】 主よ、キリストのゆえに新しくなった者として、自らを神に献げます。

  4. 3日前

    恵みの契約の代表者であるキリスト(ローマの信徒への手紙 5章)

    一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。 (ローマの信徒への手紙5章19節) 5章の後半では、アダムとキリストが対比されています。アダムとキリストの共通点は、一人の人の行為が、多くの人またすべての人に決定的な影響を与えることです。アダムの堕落の効果が彼一人のものに留まることなくすべての人に及んだように、キリストの贖いの業も、その効果は彼一人のものではなく、私たちすべてに及びました。彼らはいずれも契約の代表者でした。それゆえ、その効果が彼らによって代表される人びとに及んだのです。 しかしパウロは共通点だけでなく、相違点も明らかにしています。第一は、動機の違いです。アダムの動機は「自己主張」でしたが、キリストの動機は「自己犠牲」でした。 第二は、性質の違いです。アダムの行為は、神の御心に背くことでしたが、キリストの行為は、神の御心に従うことでした。 第三は、効力の違いです。アダムの不従順は、有罪判決をもたらしました。すなわち、死がすべての人を支配するようになりました。それに対してキリストの従順は、ご自身の民に義と赦しをもたらしました。 イエス・キリストは恵みの契約の代表者です。それゆえ、キリストが勝ち取ってくださった義と赦しが確かに私たちに与えられています。 【祈り】 主よ、契約の代表者として私たちのために獲得してくださった大いなる恵みに感謝いたします。

  5. 4日前

    束縛ではなく自由を(ルカによる福音書 13章10-17節)

    「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 (ルカによる福音書13章16節) 主イエスは、ある安息日に、十八年間も腰が曲がって苦しんできた女性を癒されました。ここには、それで憤慨する会堂長が登場します。「いかなる仕事もしてはならない」と定める十戒の安息日規定に違反していると考えたからです。 会堂長は大切なことを見落としています。安息日とは、六日間、忙しく過ごしてきた私たちの体と心を、神がいたわり、ねぎらい、ゆっくりと休ませてくださる日のことです。神との団らんの一時と、罪という病からの癒しこそ、安息日の本当の目的です。ところが、会堂長は、この女性をサタンの束縛から自由にするよりも、安息日のルールに縛りつけようとしてしまいました。 信仰生活において、強い義務感や正義感によって、自分自身だけではなく、兄弟姉妹さえも縛りつけてしまうことがあります。教会で人の言動がいちいち気になり、イライラして、心から平安も余裕も消えていくなら、気をつけなければなりません。 神はきょう、そのような私たちを安息へと招いてくださいます。神は、私たちを、心から神を楽しみ、永遠に神を喜ぶ者とするために、この日を私たちの休息の日、癒しの日、罪の赦しと自由の日としてくださいます。 【祈り】 もし私たちが自分自身や隣人を愛するよりも、縛りつけるようなことがあれば、私たちの罪を赦し、自由にしてください。

  6. 5日前

    苦難の中でも主に信頼して静かに待つ(詩編 94編)

    いかに幸いなことでしょう、主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。 (詩編94編12節~13節) 詩編94編では、神に逆らう者と、神に従う者とが対比して語られ、特に神に逆らう者の傲慢さ、非道さが鮮明に記されています。 「主よ、彼らはあなたの民を砕き、あなたの嗣業を苦しめています。やもめや寄留の民を殺し、みなしごを虐殺します。そして、彼らは言います、『主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない』と」(5~7節)。 今も世界には、同様のことが起きています。特に虐殺の矛先が貧しい者、弱い者、子どもや女性に向かうとき、私たちも「主よ、報復の神として…誇る者を罰してください」と叫びたくなります。しかし、主なる神が見ておられない場所、気づかない非道な行為はありません。 詩人は神に従う者についても言及します。「いかに幸いなことでしょう、主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます」。 詩人は、悪を行う者の矛先がたとえ自分に向けられたとしても、神の言葉、教えの中で「静かに待つ」といいます。ですが、これはあきらめではありません。最悪の状況にあっても精いっぱいの抵抗をし、そして主の裁きを待つのです。詩人の確信は22節。「主は必ずわたしのために砦の塔となり、わたしの神は避けどころとなり、岩となってくださいます」。 【祈り】 あなたに全き信頼をおいて主の裁きを待つことができますように。

  7. 6日前

    キリストの復活によって義とされる(ローマの信徒への手紙 4章)

    イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。 (ローマの信徒への手紙4章25節) 4章でパウロは、アブラハムの信仰について述べています。アブラハムが信仰によって義とされたように、私たちも彼と同じように信仰によって義とされます。旧約時代も、新約時代も、人間が救われる方法は基本的に同じです。 パウロは5節で、神は、不信心な者を義とされる方だと語ります。不信心な者、すなわち、信仰があるとは言えないような者を神は義とされます。アブラハムもその一人です。彼は立派な信仰があったから義とされたのではありません。信仰に価値があったのではありません。義とされたのは神の恵み以外の何ものでもありません。人間の側の価値に基づくものではありません。 アブラハムの信仰と義認の性格は、そのままキリスト者にも当てはまります。唯一つ違うとすれば、アブラハムが神の約束の言葉にのみ基礎を置いて信じたのに対して、キリスト者はキリストにおいて現実となった出来事に集中することです。キリスト者が信じている中心点はキリストの十字架と復活です。パウロは24節で、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます」と記しています。復活信仰こそが、キリスト教信仰の心臓部なのです。 【祈り】 主よ、あなたが、私たちが義とされるために復活されたことに感謝いたします。

  8. 8月21日

    恵みにより無償で義とされる(ローマの信徒への手紙 3章)

    ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。 (ローマの信徒への手紙3章24節) 「神の義」は、イエス・キリストを信じることにより与えられます(22節)。キリスト者は、「神の恵みにより無償で義」とされています(24節)。無償の義です。ただで与えられる義です。与えられる側にそれに相応しい価値がある訳でもなく、理由もなく、ただで与えられます。それが、パウロが語る神の義です。罪人がどんなに努力しても、持つことも作り出すこともできない義を、神が与えてくださるのです。 神が私たちを神の前に正しい、義であると判断してくださるのは、私たちの主張が正しいからではありません。また、神が赦してくださるのは、私たちの行いが正しいからではありません。何の権利もないのに、神は義を与えてくださるのです。 ですから、私たちが、自分の中に何か良い点を見出そうとするのは愚かなことです。神の前に誇れることを発見しようとすることは、愚かなことです。ですから、私たちは、自分を見つめすぎてはなりません。自分の中を掘り進んでも仕方がありません。良いものは出てきません。 私たちが目を留めるべきは、キリストのみです。イエス・キリストの十字架に心を留めるのです。その恵みの約束に信頼するのです。 【祈り】 主よ、神の前に何の正しさもない者を、ただイエス・キリストの贖いのゆえに、無償で義としてくださることに感謝いたします。

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番組について

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