リジョイス聖書日課

RCJメディアミニストリー

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

  1. 6時間前

    高ぶりを打ち砕く神(エゼキエル書 28章)

    …「お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。』…しかし、お前は人であって神ではない。」 (エゼキエル書28章2節) ここには「わたしは神だ」(2節)と高ぶるティルスの君主に対する裁きの言葉が語られています。 ティルスは商いに成功し、繁栄を極めた都市でした。そのとき、富をもたらした自らの知恵を誇り、「わたしは神だ」と言うほどにおごり高ぶってしまったのです。 しかし、主は「お前は人であって神ではない」と仰せになります。被造物である人間が高ぶり、神のようになり、神の座を占めようとすることは、神への挑戦にほかなりません。それゆえ、神はティルスの高ぶりを、裁きをもって打ち砕かれます。そして「最も暴虐な外国人」(7節)であるバビロン軍により、ティルスは滅ぼされるのです。 ティルスに高ぶりをもたらしたのはこの世の富でした。私たちは、主イエスが「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタ6章24節)と語り、天に富を積むことの大切さを教えてくださったことを思い起こしたいと思います。信仰者は、所有する富もまた、神の手のうちにあり、神によって与えられたものと受け止めます。自らに栄光を帰するのではなく、むしろ神の栄光をほめたたえましょう。なぜなら、神はこの地上のどんな富にも優る天の祝福を豊かに持っておられるからです。 【祈り】 まことの神のみを神とする祝福を豊かに味わわせてください。あなたを喜んで証しできるように。

  2. 1日前

    福音は分裂と癒しをもたらす(ルカによる福音書 12章49-56節)

    「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」 (ルカによる福音書12章51節) 主イエスが、平和ではなく「分裂」をもたらすために来たとおっしゃるのは、驚くべきことです。しかし、この言葉は真実です。日本でクリスチャンとして生きていくことは簡単ではありません。信仰が原因で大切な家族や友人との関係がぎくしゃくしたり、壊れたりした経験のある方は、決して少なくないでしょう。真理を愛し、主イエスに従う道は、神と隣人同士の間に真の平和をもたらしますが、反対に、引き裂かれるような苦しい経験をもたらすこともあります。 私たちが忘れてならないのは、主イエスご自身が、愛する者と引き裂かれるという苦しみを、誰よりも深く、また激しく経験されたお方であるということです。主イエスは、親しい家族や弟子たちからの無理解に苦しまれました。何よりも、切り離しがたく一つである父なる神と引き裂かれる苦しみを、十字架上で味わわれました。それは、本来、罪人である私たちが味わうべき苦しみでした。 主のこの苦しみをとおして、神と私たちとの間のまことの平和が実現したことを、心に深く刻みます。そして、愛する人と引き裂かれる、その苦しみをとおして、その傷を癒すまことの平和が神からもたらされることを信じます。 【祈り】 私たちの引き裂かれる思いをも、あなたが誰よりも知っておられます。そして、あなたが必ず癒しを与えてくださることを信じて感謝します。

  3. 2日前

    決して揺らぐことのない世界の完成(詩編 93編)

    主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 (詩編93編1節) 詩編93編は、「主こそ王」という言葉で始まる詩編のひとつです。主が、世界の王として、威厳と力を衣のようにまとい、王座に就かれる姿が歌われています。主なる王の支配する世界は「固く据えられ、決して揺らぐことはない」と。 しかし、現実はどうでしょうか。この世界は罪と悪が満ちており、戦争、暴力、権力争い、自然災害があり、さまざまな生活苦があります。詩人も、絶対的な主に挑む勢力があることを知っています。3、4節の「潮」が「打ち寄せる響きをあげ」、「大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波」がそれです。地上には、王に逆らう力が存在しているのです。 それでも詩人は落胆していません。その理由が5節の「あなたの定めは確かであり、あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限り」です。 「あなたの定め」とは聖書全体に貫かれている神の約束、救いのメッセージです。主なる王の支配は、新約の今もイエス・キリストによってなお継続しており、その支配は終末に至ります。主なる王が創造の御業を完成にまで導かれるのです。そして、そのときこそ「決して揺らぐことのない世界」の完成です。私たちキリスト者は完成に向けて歩んでいるのです。 【祈り】 私たちが主の定めに信頼して歩み、「決して揺らぐことのない世界」へと導き入れられますように。

  4. 3日前

    ろばの子に乗った王を仰ぐ(ヨハネによる福音書 12章12-19節)

    「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」 (ヨハネによる福音書12章15節) ろばの子に乗った王のみもとで、私たちは知りました。 剣は私たちを幸せにはしない。剣は人間の命を奪うことしかできない。人間同士が命を奪い合うことにしか用いられない。富もまた私たちを幸せにはしない。富のあるところ、私たちはそれを奪い合って、肥え太る者たちの一方で、奪われ、飢えて死んでいく人びとを生みだす世界をつくることしかできない。強さは私たちを幸せにはしない。私たちが強い力を持ったなら、果てしなくおごり高ぶり、力の弱い者たちをおさえつけることにしかその力を用いることはできない。 聖霊によって霊の目を開かれた者たちは知るのです。ろばの子に乗った王のみもとでこそ、人は真に幸せな命を生きることができる。この王はどんなに小さな命も殺さず、豊かに生かす王であられる。どんなに弱い存在をも愛し、慈しむ王であられる。この王の統治する国にこそ、まことの愛と平和が満ちている。命の喜びが満ちている。 ろばの子に乗った王こそ、まことの王です。この王に従っていく道こそ、愛と平和の道です。この道を歩む者は幸いです。それゆえ、私たちはこの王にぬかずくのです。 【祈り】 私たちの目を開き、ろばの子に乗った王をさやかに仰ぐことができるよう、助け導いてください。

  5. 4日前

    豪華商船ティルスの沈没(エゼキエル書 27章)

    「漕ぎ手がお前を大海原に漕ぎ出したが、東風がお前を打ち砕いた、海の真ん中で。」 (エゼキエル書27章26節) ティルスはエルサレムの滅亡によって、その利益が自分に回って来ることを喜んでいました。けれども、その喜びは長くは続きません。 ここでは、比べ得るもののないティルスの美しさが、豪華に造られた商船にたとえられています(4~10節)。その姿は自ら「美しさの極み」と称するほど繁栄の絶頂にありました。世界中の富が交易品としてティルスを介して行き交っていました(11~24節)。にもかかわらず、その豪華な商船ティルスは大海原の真ん中で東からの暴風にあおられ、そのすばらしい富、商品、船乗り、戦士もろとも、沈没してしまうのです。その東風とは、バビロン軍の攻撃を表しています。かつてエルサレムを嘲ったティルスには、同じ命運が待っていたのです。 ティルスは、自分だけが豊かになったのではありません。「お前は海を超えて商品を輸出し…豊かな富と産物で、地上の王たちを富ませた」とも語られています(33節)。この意味では、商業の正道を行っていました。しかし、不思議なほどに、どこにもティルスが神に栄光を帰したことを示す言葉はありません。 すべてのものは神が与えてくださいます。世の富は、与えられたものとして感謝し、謙虚に受け止め、神のために用いたいと思います。 【祈り】 与えられたすべてのものを、あなたのために用いさせてください。

  6. 5日前

    愛のない利己主義への裁き(エゼキエル書 26章)

    「人の子よ、ティルスがエルサレムを嘲る。『ああ、諸国民の門であったお前は打ち破られ…わたしは富み、お前は廃れる。』」 (エゼキエル書26章2節) 26章から28章にかけて、ティルスに対する滅亡の預言が語られます。 フェニキアの主要な港町であったティルスは、地中海貿易で栄え、地の利を生かした難攻不落の要塞でもありました。そのティルスが「諸国民の門」として通商の中心地であったエルサレムが滅ぼされたことにより、「わたしは富み、お前は廃れる」と言って嘲ったのです。これは、それまでエルサレムに流れ込んでいた利益をそのまま独り占めできるティルスの喜びを表しています。ティルスはエルサレムと交流がありましたが(王上5章15、16節)、エルサレムが陥落した際には、少しの同情も示さなかったのです。そのような愛のない利己主義に対して、主は裁きを下されます。 この世には、自分の幸福追求のために誰かを押しのけてでも勝とうとする競争原理が働いています。しかし、そういった世の中で、主イエスが迫害する者の滅びを喜ばず、むしろ涙をもってとりなしをされたその愛を、私たちは思い起こしたいものです。パウロが勧めているように、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣」く(ロマ12章15節)生き方こそ、私たち人間の本来のあり方です。隣人に寄り添い、とりなして祈る者でありたいと思います。 【祈り】 主イエスの愛を、わたしの内側にも宿らせてください。

  7. 6日前

    神の主権神の憐れみによる回復(エゼキエル書 25章)

    「わたしが彼らに仇を報いるとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。」 (エゼキエル書25章17節) 25章から、南ユダを取り巻く諸外国についての預言が語られますが、ここでは特にアンモン人、モアブ人、エドム人、ペリシテ人に対する滅びが警告されています。彼らは、神の民の不幸を笑って嘲り、イスラエルが神の民であることを侮り、憎しみ、復讐しました。 このとき、神の民イスラエルは、その悪のゆえに裁きを受けようとしていました。その際に、これらの国々は周囲にありながら忠告も与えず、かえってイスラエルが苦しみ滅んでゆくのを喜んで傍観し、その罪に加担しました。そのために、神は主権者として諸外国をも裁かれるのです。この御言葉は、国々がすべて神の主権のもとにあることを示しています。 神は、イスラエルが国々へと散らされても、悔い改めて主に立ち帰るとき、再びイスラエルを一つに集められるお方です(申30章1~10節)。主の契約にあっては、神の民の回復には裁きが伴います。このように、諸外国への裁きは、イスラエルの回復を予感させるものであり、実際に34章以降でイスラエルの回復が語られていきます。 このことは、神が今もなお、神の民を愛しておられることを意味します。神の憐れみの深さは私たちの想像を遥かに超えています。 【祈り】 神よ、かつてあなたに背いていた私たちが、憐れみによって回復させられたことに感謝します。

  8. 8月11日

    神が主であると知る(エゼキエル書 24章)

    「エゼキエルは、お前たちにとってしるしとなる。…すべてが実現したとき、お前たちは、わたしが主なる神であることを知るようになる。」 (エゼキエル書24章24節) バビロンがエルサレムを包囲した日、主の言葉がエゼキエルに臨みました。それは、「不貞によってお前が汚れた…わたしが憤りを晴らすまでは、清くなることは決してない」(13節)との厳しい裁きの言葉です。神の民の罪は深く、エルサレムはどう清めようとしても無駄で、神の憤りを免れないという意味です。 エゼキエルがこの悲痛な預言をした日の夕方、彼の妻が突然亡くなります。主は、その悲しみの中でも「声をあげずに悲しめ。死者の喪に服すな」と仰せになりました。エゼキエルはそのとおりに、声をあげずに悲しみ、喪に服しませんでした。 すると、人びとが「あなたが行っているこれらの事は、我々にどんな意味があるのか告げてくれないか」と尋ねて来ます。そして、エゼキエルは、彼が声をあげずに悲しんだように、エルサレムが滅ぼされてもイスラエルの民が声をあげずに悲しむようになると預言したのです。 愛する妻の急死はエゼキエルにとって深い悲しみだったはずです。それでも、信仰によって神に応答するところで、周りの人びとに神が主であると知らせることとなりました。 神がなさることには意味があります。その意味を尋ね求めながら、きょう一日の歩みが、神を指し示す歩みとなるように心に覚えましょう。 【祈り】 小さなわたしの歩みが、神の栄光を表す器として用いられますように。

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