流れのほとりに

聞いて嘆いて近づこう(詩篇40篇1節~17節)

序)感謝と嘆きに挟まれて

・個人と共同体の歩みの交差点である礼拝で、人生を背負って歌う感謝の歌(新しい歌)が嘆きの日々を乗り越えていく力になる。

・感謝と嘆きに挟まれて「巻物の書」「みおしえ」を聞くのが礼拝。

1)「いけにえや穀物のささげ物」の位置づけ

・旧約の礼拝は「ささげ物」中心で、新約は「みことば」中心という表現は不適当である。みことばを聞くことは、いけにえやささげ物で交換・代替されるものではなかった。(Ⅰサムエル 15:22 参照)

・旧約時代、いけにえなしに神に近づくことはできなかった。いけにえは自分が聖なる神の前に近づき難い者だという自覚の表現である。(詩篇51:17 参照)神に近づいて、神に聞くことが求められている。

・新約において神に近づくためのいけにえは不要。なぜなら、イエス様が完全ないけにえとして永遠にささげられたから。むしろ、いけにえを用意してはいけなくなった。イエス様を信じるとは、聖なる神に近づく基準を満たしていないことを知りつつ、なお大胆に神に近づくこと。

2)神が求められること=神のニーズ

・「いけにえ(レビ 3:1)」「穀物のささげ物(同 2:1))」「全焼のささげ物(同 1:3)」「罪のきよめのささげ物(同 4:3)」は、神に近づくための「道」であり、旧約時代の人間のためのもの。

・神には物質的なニーズはない。神のニーズは人格関係的なものである。神に愛された人が神を愛し、共に生き、栄光を分かち合いたい。

・私たちが神に聞き従う時、神は満たされる(私たちは聖霊に満たされる)。それが可能になるように「耳を掘って(開いて)」くださる。

・「耳が開かれる」とき御言葉が「自分のためのことば」として聞ける。これを神学のことばでは「聖霊の照明」と呼んでいる。

・「耳が開かれる」とき「みこころを行うことを喜びとする」態度が生まれる。週ごとの礼拝で、みおしえが「内臓」に刻まれていく。

結)「みおしえ」がもたらす神の国

・「みおしえ」=トーラー(=「十のことば」がその核心)であり、神の国を創造することばである。ダビデ王家から、教会という神の王族へ。

・旧約時代、祭司は毎日礼拝し、王族は週ごとの礼拝が理想とされ、民は年に三度の礼拝に招かれた。私たちが継承しているのは王族の礼拝。