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豪雨は容赦なく降り続き、金沢駅東口広場はまるで沈みゆく盆地のように水が溜まり始めていた。もてなしドームの残骸が打ち捨てられ、プリマコフ中佐率いる人民軍部隊は、破壊されたオフィスビルの軒下に展開していた。
黒木為朝特殊作戦群群長は、防弾ベストの上から無線を握った。濡れた戦闘服から水が滴る。冷たい雨は、もはや兵士たちの動きすら鈍らせていた。
「――群長、プリマコフ中佐の位置確認」
「距離420。座標は東口広場、赤い瓦礫の残骸横」
「狙撃可能距離、風速計算済み」
「……射撃許可を」
黒木は双眼鏡の奥で、カーキ色のレインパーカー姿の男を確認した。頭に軍帽を被り、周囲の隊員たちに無言の指示を送り続けるその男。その背筋の張り、無駄のない動き……プリマコフ本人だ。
「……プリマコフ中佐、間違いない」
黒木は呼吸を整え、冷徹な声で命じた。
「“狛犬1”、撃て」
**
約400m離れた位置。駅東口の旧市街地側にある9階建てオフィスビルの屋上。冷たい雨が照準スコープのレンズに当たるのを、スナイパーは親指の甲で静かに拭った。
【特殊作戦群・狙撃手:コールサイン“狛犬1”】
静かに息を吐く。照準の十字線がプリマコフの胸部にぴたりと重なる。プリマコフが次の指示を出そうと歩みを進めた、まさにその瞬間――
「……Fire」
ズドン。
周囲の雷鳴と区別もつかぬ轟音が夜空を切り裂いた。.338ラプアマグナムの弾頭が高初速で発射され、一直線に標的へ。
プリマコフの胸部に着弾。中佐は一歩、二歩とふらつき……信じられぬという表情を浮かべたまま膝をつき、崩れ落ちた。
カーキ色の外套が、雨に濡れた御影石の上に無惨に広がる。
「……目標沈黙」
狛犬1の無感情な報告が無線に乗った。
**
同じころ。駅東側、離れた旧ビジネスホテルの屋上。こちらも黒木と同じく事前展開していた、卯辰一郎がその一部始終を高倍率スコープで見届けていた。元・自衛隊特務部隊の戦闘教官。その経験豊富な視線が、プリマコフの最期を確かに捉えた。
「……完璧だ」
卯辰は低く唸った。着弾のタイミング、風速と降雨の影響、標的の移動予測すら織り込んだその射撃。
(今の自衛隊狙撃手はここまで到達しているのか……黒木、お前の部隊、育てたな)
彼は一瞬だけわずかに口元を緩めた。だがすぐに戦場の現実に意識を戻す。
(あとはプリマコフ部隊がどう動くか……この雨、この地形、そしてこの混乱。戦はまだ終わっていない)
卯辰はスコープ越しに広場全体を注視し続けた。重たい雨音だけが、鼓膜を塞ぐように降り注いでいた。
金沢駅東口 広場
プリマコフ中佐が倒れた瞬間、その場の空気が凍り付いた。
もてなしドームの残骸の向こう、散開していたツヴァイスタン兵たちが一斉に動きを止める。
中佐の指揮下という絶対命令系統を失った部隊は、瞬時に連携の糸を失った。
「――目標沈黙。」
特殊作戦群の狙撃班が無線で報告する。
「よくやった」
黒木群長は静かに応じた。だが、次の瞬間、その表情がわずかに曇る。
「……?」
遠くから轟く、低い地鳴りのような異音。
地上の誰もがそれを聞き取り、微かに顔を上げた。
ゴォォォォォ――
駅ビルの北側。曲がりくねった浅野川の上流方向から、膨大な水流の奔流音が押し寄せてきた。
直後、警報サイレンと同時に市防災無線が全域に響く。
《【緊急安全確保】浅野川流域で大規模堤防決壊!周辺地域は即時避難!大至急、高台もしくは建物高層階へ退避せよ!》
黒木の耳にもそのアナウンスが届いた。
「……浅野川、決壊……?」
その呟きは、冷静な群長の声とは思えないほど低く重かった。
次の瞬間、駅東口側のビルの谷間から、泥水と瓦礫が混ざり合った濁流が轟音を立てて迫ってくるのが目に映った。
プリマコフ中佐の部隊も気づいた。
装備を抱え、蜘蛛の子を散らすように撤退行動に移ろうとしたが、すでに遅い。
第一波の濁流が音もなく広場を呑み込む。
倒壊した車両や標識を押し流しながら、冷たい激流が容赦なく進軍していく。
ドォォン……ッ!
駅ビル1階のガラスが外圧に耐えきれず割れる音が聞こえた。
「全隊!緊急撤収!高所退避!」
黒木は咄嗟に無線で指示を飛ばした。
---
一方、隣接する金沢駅東口・商業ビル内部――
天井からの雨漏りがポツ、ポツと、既に水浸しの床に音を落としていた。濁流の接近に気づいた吉川と黒田は、崩れた壁の隙間から外を確認していた。
「……なんだ……?」
吉川が低く呟く。
黒田が目を細める。
「水……?」
次の瞬間、道路の奥から迫り来る濁流に気づき、黒田が息を呑む。
「……あれは……浅野川だ……氾濫してる!」
吉川は即座に判断を下し、無言で身を引いた。
振り返ると、椎名――いや、仁川征爾が、座り込んだままの姿勢で周囲をじっと見据えていた。
ただの虚脱ではなかった。
彼の目は確かに濁っていたが、同時に何かを考えている眼でもあった。
(……プリマコフが……俺を消しに来ている。)
椎名はそう悟っていた。
アルミヤプラボスディアの残党を追ってきたのではない。証拠隠滅。いや、もっと明確な“遮断”のための来訪だ。
この現場に残された「証人」。それが自分である。
(プリマコフにとって、俺の存在は“リスク”だ。あいつはそれを排除するために動いている。)
頭は冷静に回っていた。
足元に押し寄せる濁流、斥候部隊の侵入、階下での制圧戦。
だが、自分はまだ殺されていない。今のところ。
少なくとも、目の前にいるこの日本の男たち――吉川と黒田には、自分を殺す意志はないようだった。
(使える。)
そう判断した。
(今は彼らに“守られながら”、移動すべきだ。プリマコフが仕掛けた掃討部隊の網を抜けるには、盾がいる。)
その瞬間、外で重く乾いた銃声が鳴り響いた。
──ズドン
銃声は単発だった。間違いない。ライフル、それも大口径。
「……ライフルだ。」
吉川が言った。
その声に、辺りが一瞬だけ静寂に包まれた。
激しい雨の音だけが響く。射撃も怒号も消えていた。
椎名は感じ取った。
(……誰かが死んだ。……いや、“指揮官格”が、死んだ。)
誰なのかはわからない。だが、戦況の空気が変わったことは明らかだった。
明瞭な命令系統が、一瞬で失われたような感触。
沈黙の中にある、奇妙な空白。
次の瞬間――
「……音が……おかしい」
黒田が呟いた。
地下から響くような、重く、低く、湿った音。
──ゴゴゴゴ……
それは徐々に大きくなり、やがて耳に届く轟音となって押し寄せてきた。
「……来るぞ!」
吉川が叫ぶより早く、椎名は床を蹴った。
だがその身体に、突如、硬直が走った。
濁流の音。
泥と瓦礫が混ざった奔流の音。
その響きが、彼の意識を過去へと引きずり戻す。
──あれは……あの音だ。
目の前がぐらりと揺れた。
26年前。土石流が彼の家族と村を飲み込んだ、あの夜。
黒い泥が母の背を押し流し、声が消え、家が崩れ、手の中の弟の掌が冷たくなった。
すべてを一瞬で奪った、災厄の記憶。
(……そうだ。あのとき、死んだんだ。俺は。)
意識が現実と乖離しはじめる。
眼前の濁流が、過去の土石流と重なる。
(今、流されれば……あの時に戻れる。全部終わる。ツヴァイスタンも、日本も、仁川征爾も……)
楽になれる。
この戦いも、この使
Information
- Show
- FrequencyUpdated Biweekly
- PublishedAugust 8, 2025 at 8:00 PM UTC
- Length16 min
- RatingClean