『朝妻一郎 たかなる心の歌-マイ・ジュークボックス-』

朝妻一郎ポッドキャスト
『朝妻一郎 たかなる心の歌-マイ・ジュークボックス-』

(株)フジパシフィックミュージック 代表取締役会長 朝妻一郎が音楽と共に歩んだ人生を振り返り、時代を彩った名曲や思い出深い人達のエピソードを毎週伝えていきます。 各エピソードには音楽制作の現場での出来事や音楽著作権の歴史等、朝妻一郎ならではの興味深い話が織り交ぜられます。 あの名曲の裏話や時代の目撃者としてのリアルな証言など、ミュージックビジネスに興味のある方は必聴です。 構成:「月刊てりとりぃ」編集部 協力:東京エンターテイメント

  1. 16/12/2566

    #45 【特別対談:林哲司④】林哲司さんの作品で朝妻が挑んだ海外進出とその功績

    第45回は、前回に引き続きゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談(最終回)をお送りします。シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、今年2023年デビュー50周年を迎えられました。今回は、林さんの楽曲に可能性を感じた朝妻が、当時としては珍しかった作家の海外進出を図ったエピソードを中心に。MIDEM(世界最大級の音楽見本市)にて、イギリスのロックバンド・ジグソーに気に入られ、その作品がビルボードにチャートインした経緯をお話しします。また、名物プロデューサーであったTBS渡辺正文さんのお仕事ぶりやお人柄について。そして、この50周年の集大成として発売される数々の作品群や11月5日(日)に東京国際フォーラムで開催される『林哲司50周年記念コンサート』についてお話をいたします。(当コンテンツはコンサート開催前に配信したYouTubeコンテンツを基に編集しています。) 【TBS渡辺正文氏とのお仕事やお人柄】 ●渡辺正文 “ギョロナベさん”の愛称で知られる音楽番組プロデューサー。TBS『東京音楽祭』を総指揮したことで知られる。なお、なかにし礼の著作『世界は俺が回してる』は渡辺正文の生涯を描いた小説。 ●『Sound In S』(サウンド・イン “S“) 1974年4月から1981年3月までTBS系列局で放送されていた音楽番組。 ●康珍化(1953年6月24日 - )1979年にアン・ルイスの「シャンプー」で作詞家デビュー。林哲司とのコンビでは「悲しい色やね」をはじめ数多くのヒット曲を送り出している。 ●サマーワイン(1988年) 林哲司が竹内まりや「SEPTEMBER」、松原みき「真夜中のドア」をヒットさせた直後に発表し、日本のAORの先駆的作品となったサード・アルバム。 ●PARACHUTE (パラシュート) 国内の若手一流ミュージシャンが集結して結成されたフュージョンバンド。バンド名の由来は、「どこからでも(パラレルに)シュートが撃てるバンドを標榜したことによる。 ●テレビドラマ『もう一度春』 1981年1月から同年4月までTBSで放送されていたテレビドラマ。 主演の伊藤ゆかりが主題歌「強がり」のほか、劇中の音楽も担当した。 ●レス・ポール「世界は日の出を待っている」(原題:The World Is Waiting for the Sunrise) 1918年に、ジーン・ロックハート(作詞)とアーネスト・セイツ(作曲)によって書かれた曲。1951年にキャピトル・レコード発表されたレス・ポールとメリー・フォード盤は、ミリオンセラーに輝いている。 ●ペドロ&カプリシャス 日本のバンド。ジャズ、フォークからラテンロックなど洋楽のテイストを取り入れたアダルト・コンテンポラリーのサウンドで人気を博したグループ 【宣伝までも見据えた驚異のプロデュース力】 【当時珍しかった作家の海外進出を図った朝妻の挑戦】 【MIDEMで高く評価されジグソーが録音した林さんの作品】 ●MIDEM 毎年1月にフランスのカンヌで開催される、世界最大規模の国際音楽産業見本市。音楽に携わる人々が各国の著作権ルールを認め合い、グローバルな情報交換をする場。 ●Jigsaw (ジグソー) 1966年〜1981年まで活動していたイギリスのロックバンド。 「君にさよなら(原題:If I Have To Go Away)」(1977年)の作曲は林哲司が担当。この曲は全英・全米ともにチャートインする快挙。 【海外アーティストへの作品提供を通じて気づかされたこと】 ●ウインドスウェプト フジパシフィックミュージックが親会社のフジテレビと共同でアメリカに作った音楽出版。 【“林哲司50周年記念コンサート”について】 【50周年の集大成となるCD-BOXと記念書籍について】

    16 นาที
  2. 15/12/2566

    #44 【特別対談:林哲司③】「September」と「真夜中のドア〜stay with me」

    第44回は、前回に引き続きゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談をお送りします。シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、今年2023年デビュー50周年を迎えられました。今回は、林さんの代表曲である「September」と「真夜中のドア〜stay with me」の2曲が同時期に制作されたにも関わらず真逆の作曲法であったという貴重な制作秘話を中心に、同じく代表作である「悲しい色やね」で痛感した歌詞の大切さについて。また、造詣の深い映画音楽への見解や、昨今の“シティポップ”再評価について等、多岐に渡る豊潤な対話となっております。 【昨今盛んなコライト(共同制作)の事情】 【映画音楽の現状への見解】 ●マックス・スタイナー (1888年5月10日 - 1971年12月28日) オーストリア生まれのアメリカの映画音楽作曲家。代表作に『トップ・ハット』(1935年)『風と共に去りぬ』(1939年)『カサブランカ』(1942年)『君去りし後』(1944年)などがある。 ●ヴィクター・ヤング(1899年8月8日 - 1956年11月10日) アメリカの作曲家、指揮者、編曲家、ヴァイオリン奏者。代表曲としてジャズのスタンダードとなった「星影のステラ」、映画音楽では『シェーン』(1953年)『八十日間世界一周』(1956年)などがある。 ●トーキー 映像と音声を同調させて再生する映画のこと。 サイレント映画(無声映画)の対義語として“トーキー映画(発声映画)”と呼ばれる。 ●ヘンリー・マンシーニ「ムーン・リバー」(原題:「Moon River」) 映画『ティファニーで朝食を』(1961年)の劇中で、主演のオードリー・ヘプバーンが歌った曲(作詞:ジョニー・マーサー 作曲:ヘンリー・マンシーニ)。1961年のアカデミー歌曲賞を受賞した他、グラミー賞では最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀編曲賞の3部門を受賞した。 ●B. J. トーマス「雨にぬれても」(原題:「Raindrops Keep Fallin’ on My Head」) 1969年に公開されたジョージ・ロイ・ヒル監督の西部劇『明日に向って撃て!』(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid)の挿入歌で、B. J. トーマスの歌唱で知られる曲。同映画は、アメリカン・ニュー・シネマの代表作のひとつ。 【映画音楽の制作スタイルの画期的な変化】 ●『イージーライダー』(1969年) アメリカで1969年に公開されたピーター・フォンダとデニス・ホッパーが出演したアメリカン・ニューシネマの代表作(日本では1970年公開)。ステッペンウルフによる主題歌「ワイルドでいこう!」やロジャー・マッギンによる「イージー・ライダーのバラード」をはじめとする楽曲で構成したサウンドトラック・アルバムは1969年8月にダンヒル・レコードから発売された。 【バート・バカラックとエンニオ・モリコーネ】 ●『第三の男』(1949年)(原題:「The Third Man」) キャロル・リード監督による第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワール。アントン・カラスが作曲したテーマ曲は映画公開後、1950年代最大のヒット曲となった。 このテーマ曲は、映画の登場人物の名前から「ハリー・ライムのテーマ」と呼ばれている。 ●チター オーストリア・ドイツ・スイス等ドイツ語圏を中心に弾かれている民族楽器。5本のメロディー弦と30本以上の伴奏弦を横に張り、メロディー弦を右手の親指にはめた金属製の爪で弾くもの。 【若者に流行する“ファスト映画”や“早送り再生”について】 【最近の“シティポップ”再評価について】 【同時期の「September」と「真夜中のドア」の作曲法の違い】 ●松原みき「真夜中のドア〜Stay With Me」 松原みきのデビュー・シングルで、1979年11月5日にキャニオン・レコード(現・ポニーキャニオン)から発売された楽曲。発売から41年後の2020年にリバイバルヒットし、現在は、シティ・ポップを代表する作品として知られている。 ●竹内まりや「SEPTEMBER」 竹内まりやが1979年8月21日にRCA(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)より3枚目のシングルとして発売した楽曲。この曲で同年12月開催の『第21回日本レコード大賞』新人賞を獲得している。 ●宮田茂樹(1949年11月4日 - 2022年7月29日) 日本の音楽プロデューサー。制作に携わったアーティストは、大貫妙子、竹内まりや、EPO、ムーンライダーズ、鈴木さえ子、LITTLE CREATURES、ジョアン・ジルベルトなど多数。学生時代には、5人組コーラス・グループ “リバティ・ベルス”のメンバーとして、筒美京平が楽曲提供していた南沙織のバック・コーラスなどを務めていた。 ●The Happenings 「See You In September」 1959年にザ・テンポスが最初に録音した曲で、ザ・ハプニングスは、1966年にシングルとしてリリースし、ビルボード・チャートで最高3位を記録した。 【「悲しい色やね」で痛感した歌詞、言葉の大切さ】 ●上田正樹「悲しい色やね -OSAKA BAY BLUES-」 (作詞:康珍化 作曲:林哲司 編曲:星勝) 1982年10月21日にリリースされた上田正樹のシングル曲。 【「September」のディレクター宮田氏の絶対的センスと功績】 【「真夜中のドア」のディレクター金子氏の仕事】 【韓国人音楽プロデューサーNight Tempoの功績】 ●Night Tempo シティ・ポップ・ブームを牽引した韓国のDJ兼プロデューサー。

    20 นาที
  3. 14/12/2566

    #43【特別対談:林哲司②】 バート・バカラックとフランシス・レイ

    第43回は、前回に引き続きゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談をお送りします。シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、2023年デビュー50周年を迎えられました。林さんが好きな映画音楽から習得した作曲・編曲法や、大学時代に感銘を受け自身の音楽人生に影響を受けたバート・バカラック、フランシス・レイについてのお話を伺います。また、念願の作曲家になる以前に編曲家として研鑽を積んだことの意義やメロディと歌詞の大切さについての考察、他にも大作曲家・筒美京平さんとのエピソードもお届けいたします。 【映画音楽から習得した作曲・編曲法】 ●ザ・フィルム・シンフォニック・オーケストラ 日本グラモフォンがスタジオミュージシャンを集めて録音した実体のないオーケストラ。ミシェル・クレマン楽団、クリス・カーペンター楽団、モーリス・ルクレール楽団など60年代から70年代にかけてレコード会社各社は、同様のスタイルで映画音楽、イージーリスニングのレコードを制作していた。 ●“ソノシート” 1958年、フランスで開発された塩化ビニール製のレコードが“フォノシート”。 朝日新聞社の系列会社として設立された朝日ソノプレス社(のちの朝日ソノラマ)によって“ソノシート”として商標登録される。非常に安価で大量生産しやすいことが特徴で、1960年代の音楽雑誌の付録として広く使用されていた。 ●『Your Hit Parade(ユアヒットパレード)』 1955年から1976年にかけて文化放送で放送されたラジオ番組。 日本において洋楽をベストテン形式で紹介した最初の番組といわれている。 ●フランシス・レイ(1932年4月26日 - 2018年11月7日) フランス・ニース出身の作曲家。多くの映画音楽を作曲したが、とりわけ『男と女』や『白い恋人たち』の監督、クロード・ルルーシュとの名コンビで知られている。1970年度アカデミー賞で『ある愛の詩』が作曲賞受賞。 ●バート・バカラック(1928年5月12日- 2023年2月8日) アメリカの作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー、歌手にして楽団指揮者。作詞家のハル・デヴィッドとのコンビで多くのヒット曲を作曲した。 【大学時代に感銘を受けたバート・バカラックの作品】 ●『バート・バカラックの世界』(原題:Make It Easy On Yourself) 1969年に発表されたバート・バカラックのアルバム。 邦題は『サウンド・クリエイター/バート・バカラックの世界』。 【バカラックと対極にあるフランシス・レイとの比較】 【朝妻がレコード解説を書いていた当時のこと】 【遠回りでも現在に繋がる“辿らなければいけなかった道”】 【作曲家・筒美京平の卓越したセンス】 ●筒美京平(1940年5月28日 - 2020年10月7日) 本名・渡辺栄吉。日本グラモフォンの洋楽担当ディレクターを経て作曲家、編曲家として活躍。幅広いジャンルにわたって多数のヒット曲を世に送り出した、昭和後期から平成期の日本を代表する作曲家。 ●ハッスル本多 本名・本多慧。ビクター・レコードの宣伝マンを経てプロデュースしたDr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレスの「セクシー・バス・ストップ」が大ヒット、その後、林哲司を起用し、イースタン・ギャングをプロデュースするなど、和製ディスコの礎を築いた。 【アメリカのミュージックシーンの変容と驚き】

    26 นาที
  4. 14/12/2566

    #42 【特別対談:林哲司①】林哲司さんとフジパシフィックの出会い

    第42回はゲストに作曲家の林哲司さんをお迎えしての特別対談をお送りします。 シティポップを代表するメロディメーカーである林哲司さんは、2023年デビュー50周年を迎えられました。林さんが楽器の演奏や作曲を始めるきっかけになった音楽体験のこと、学生時代に影響を受けた音楽についてのお話を伺います。また、作曲家になる以前に経験された音楽雑誌のライターや編集の仕事を通して見聞を広め、研鑽を積まれたというエピソードをお届けいたします。 ●「僕の隣りの孤独」(1973年):林哲司のデビュー・シングル。ポリドール・レコードより発売。 【林哲司さんとフジパシフィックの出会い】 ●多賀英典(1943年3月1日 - ): 日本の音楽プロデューサー、映画プロデューサー、実業家。小椋佳や井上陽水の作品を手がけた後、独立。キティ・レコードやキティ・フィルムをグループ会社として持つキティ・グループの創業者で、現在は会長を務めている。 ●金子章平 ( 1946年1月20日 - 2011年10月16日逝去): 加藤登紀子、中山ラビ、カルメン・マキ&OZ、井上陽水、安全地帯などのプロデューサーとして活躍。 ●PMP(パシフィック音楽出版の略称): 1966年にニッポン放送の子会社として設立。 2015年に現在のフジパシフィックミュージックに商号を変更。 ●株式会社日音: 1963年、日本音楽出版株式会社として設立し、TBSホールディングスの機能子会社として、「1971年に現在の社名に改称。邦楽曲5万曲以上、洋楽曲100万曲以上の著作権管理をするほか、原盤制作、作家マネージメントなどを手がける。 ●JCM(株式会社セントラルミュージックの略称): 文化放送の子会社で、音楽出版ならびにラジオ放送番組の制作を手掛ける。 ●ザ・フォーク・クルセダーズ: 1960年代後半にデビューした音楽制作集団で、フォークルという略称でも呼ばれる。当初5人のメンバーで活動を始めるが、メンバーが異動、プロデビュー時には、加藤和彦、北山修、はしだのりひこの3人で活動。 【兄達からの影響と最初に触れた楽器】 ●ポール・アンカ(1941年7月30日- ) カナダ出身のシンガー・ソングライター。ニール・セダカやデル・シャノンと共に、ポップスの草創期を代表するアーティスト。 【クリフ・リチャードに触れ、ギターを手に取る】 ●クリフ・リチャード(1940年10月14日 - ) バックバンドのシャドウズと共に、ビートルズ時代が到来する前の1950年代末から1960年代初めにかけてイギリスのポップミュージック・シーンを席巻したアーティスト。 【大学進学での上京と映画音楽からの影響】 【ヤマハの音楽スクールで学んだことと貴重な出会い】 ●村井邦彦(1945年3月4日 - ) 作曲家・編曲家・プロデューサー。1960年代後半、慶應大学在学中より本格的に作曲を始め、森山良子、赤い鳥、タイガース、トワ・エ・モワらに作品を提供。69年、音楽出版社アルファミュージックを設立。77年にはアルファレコードの創業者、プロデューサーとして荒井由実(現・松任谷由実)や、細野晴臣が在籍したティン・パン・アレーを見いだし、YMOを世界に送り出して成功に導いた。現在は米国ロサンゼルス在住。 ●萩田光雄(1946年6月16日 - ): 作曲家、編曲家、音楽プロデューサー。1975年に布施明の「シクラメンのかほり」、翌1976年に梓みちよの「メランコリー」で日本レコード大賞編曲賞を2年連続で受賞。関連書籍として『ヒット曲の料理人 編曲家萩田光雄の時代』(リットーミュージック)がある。 ●船山基紀(1951年1月13日 - ): 作曲家、編曲家、キーボーディスト、音楽プロデューサー。1977年、編曲を手がけた沢田研二「勝手にしやがれ」が、第19回日本レコード大賞を受賞アイドル、アーティストら編曲した曲は2700曲を超える。 【音楽制作現場のアルバイトからキャリアをスタート】 ●渡辺貞夫(1933年2月1日 - ) ジャズミュージシャン・作曲家。「ナベサダ」の愛称で、サックス奏者・フルート奏者としてジャズ、フュージョンの分野で活動を展開。1962年に、バークリー音楽院に留学。1965年に帰国後、多くの内外ミュージシャンと共演し、ボサノヴァをジャズの世界に紹介した。 【音楽雑誌のライター/編集時代の思い出】 ●月刊音楽雑誌『ライトミュージック』 70年代に財団法人ヤマハ音楽振興会が発行。 ●フォルスター事務所 米国の放送会社NBCの東京支社長ジョージ・トーマス・フォルスターが、連合国最高司令官から著作権仲介業務の許可を受け、NBC東京支局内で業務を開始した会社。当初の業務は、主に海外の出版社から日本語に翻訳出版する権利を取得の上で、日本の出版社に許諾するという仕事だった。 【ヤマハの音楽スクールと “ポプコン”の功績】 ●ポプコン 『ヤマハポピュラーソングコンテスト』の略称。ヤマハ音楽振興会の主催で1969年から1986年まで行われたフォーク、ポップス、ロックの音楽コンテスト。 ●川上源一(1912年1月30日 - 2002年5月25日) 日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社)の第4代社長。ヤマハ音楽教室を全国で展開して音楽教育の裾野を広げるほか、『ヤマハポピュラーソングコンテスト』や『世界歌謡祭』などを開催して、1970年代から80年代のフォークソングとロックミュージックの隆盛に貢献した。

    19 นาที
  5. 05/04/2565

    #41 【音楽出版ビジネスの先達たち④】永島達司さん【後編】 / 戦後の海外アーティストの日本公演を手掛けた第一人者、永島達司さん

    音楽出版ビジネスの先達たちの中から、戦後の海外アーティストの日本公演を手掛けた第一人者で、「ビートルズを日本に呼んだ男」こと永島達司さんについて。日本初のプロモーター、キョードー東京の創業者・永島達司さんが世界中のミュージシャンから多大な信頼を得て、著作権の管理に至った経緯を当時の永島さんとの会話や憧れにも似た永島さんの風格を感じられるエピソードを交えながら回想します。 ●舞台「ビューティフル」:キャロル・キングの半生を描いたジュークボックス・ミュージカル。彼女が作詞作曲した曲のみならず、最初の夫ジェリー・ゴフィンと共に作曲した曲のほか、バリー・マン、シンシア・ワイル、フィル・スペクターらの楽曲が使用されている。 【永島達司さんと音楽出版ビジネス】 ●「雨の御堂筋」:ザ・ベンチャーズが日本で発表したシングル。台湾出身の歌手・欧陽菲菲が、1971年9月に日本で発売したデビューシングルでもある。 【国内外から信望を集めた永島達司さん】 【来日したアーティストの著作権は永島達司さんに】 ●MIDEM(Marché International du Disque de I’ Édition Musicale et de la Vidéo Musique):毎年1月フランスのカンヌで開催される、世界最大規模の国際音楽産業見本市。 【A&Mレコードの音楽出版社ロンドールとの契約を振り返る】 ●チャック・ケイ(1941/8/28 – 2021/2/1):1960年代にフィレス・レコードでキャリアをスタート。アルドン・ミュージック、〈A&M〉の出版部門アルモ・アーヴィングを経て、1980年にデビッド・ゲフィンと音楽出版社〈ゲフィン・ケイ〉を設立。その後、ワーナーチャペルの会長に就任、1988年にフジパシフィック音楽出版と共に音楽出版社ウインドスェプト・パシフィック・ミュージックを設立した。ロジャー・ニコルスやポール・ウィリアムスらを見出した人物でもある。 ●フィル・スペクター(1939/12/26 – 2021/1/16):1960年代前半、“ウォール・オブ・サウンド”と呼ばれるモノラル録音と緻密なアレンジによるサウンドでヒットを連発。70年代以降もジョン・レノンやラモーンズなどのプロデュースを手掛けた音楽プロデューサー。 【ウインドスェプト・パシフィック・ミュージック設立の余波】 【音楽出版社ロンドールの権利の行方】 *朝妻一郎「たかなる心の歌」#41までお楽しみいただきありがとうございます。次の企画スタートは5月中頃を予定しております。次回開始までしばらくお待ちください。

    13 นาที
  6. 29/03/2565

    #40【音楽出版ビジネスの先達たち③】永島達司さん【前編】 / 世界中のミュージシャンから多大な信頼を得た永島達司さん

    音楽出版ビジネスの先達たちの中から、戦後の海外アーティストの日本公演を手掛けた第一人者で、「ビートルズを日本に呼んだ男」こと永島達司さんについて。日本初のプロモーター、キョードー東京の創業者・永島達司さんと知り合ったきっかけに始まり、永島さんが音楽出版社を設立されるに至った経緯をご紹介します。後に日本の芸能ビジネスを確立させた方々との関わり合いや、世界中のミュージシャンから多大な信頼を得た永島さんが日本の音楽シーンへ与えた影響と功績を回想します。 【永島達司さんと知り合うきっかけ】 ●永島達司(1926/4/26 – 1999/5/2):日本初のプロモーター。1953年に「新々プロダクション」を設立。1957年に社名を協同企画(現・キョードー東京)に変更した。戦後の海外アーティストの日本公演を手掛けた第一人者で、海外では「タッツ・ナガシマ」の愛称で呼ばれた。 【日本の音楽・芸能ビジネスへの永島さんの影響力】 ●渡邊晋(1927/3/2 – 1987/1/31):日本の実業家・芸能プロモーターで、ベーシスト(渡辺晋と表記される場合も)。日本の芸能事務所の草分け、渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。 ●渡辺晋とシックス・ジョーズ:渡邊晋が早稲田大学在学中の1951年に、松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、猪俣猛(ドラム)らと結成したグループ。渡邊はリーダー兼ベーシストとして活動した。 ●井原高忠(1929/6/6 – 2014/9/14):日本のテレビプロデューサー。日本テレビのプロデューサーとして知られ、同局で制作局次長、第一制作局長を歴任後、井原高忠事務所を設立し取締役を務めた。ザ・ピーナッツやとんねるずのユニット名の考案者としても知られる。 ●チャック・ワゴン・ボーイズ:黒田美治が井原高忠らと共に結成し、鳥尾敬孝や寺本圭一も後に加入した日本最初期のウエスタン・バンド。 ●堀威夫(1932/10/15 – ):1948年に、バンド、ワイキキ・ハワイアンズを結成。明治大学商学部時代の1952年、小坂一也、井原高忠らと共に学生バンドのワゴン・マスターズにスカウトされ、ギタリストとして活躍。その後、有限会社堀プロダクション社長、株式会社ホリプロダクション社長、株式会社ホリプロ社長、社団法人日本音楽事業者協会理事長などを歴任した。 【永島達司さんのマネージャー時代】 ●「好きなんだ!(I Love You)/平尾昌晃」(1959年):平尾昌晃のシングル曲。日本での売上は10万枚程度だったが、ハワイでは地元ラジオ局が流したのを機にリクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒット。1959年12月にハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」で日本代表として歌唱した。 【永島達司さんと音楽出版ビジネス】

    10 นาที
  7. 22/03/2565

    #39【音楽出版ビジネスの先達たち②】村上司さん / 日本の歌謡史に数々の名曲を残した村上司さん

    日音の村上司さんについて回想します。日本の歌謡史に数々の名曲を残した村上司さんとの出会いに始まり、筒美京平さんとの関わり合いや、尾崎紀世彦「また逢う日まで」を大ヒット曲にした村上司さんのエピソード。また、村上司さんの留学先だったリーズ・ミュージックのルー・リーヴィーとボブ・ディランの話も交えながら村上司さんの功績や音楽出版社としての役割をご紹介します。 【村上司さんとの出会い】 ●村上司(1936/2/13 – 2005/6/5): 株式会社日音元代表取締役会長。大学卒業後、父親の紹介で日本レダリー(武田薬品工業とアメリカのアメリカン・サイアナミッド・カンパニーが設立した合弁会社)で勤務するが、1963年10月に日音(当時は日本音楽出版)に入社。翌年、渡米しリーズ・ミュージック(現・MCAミュージック)にて研修を受けて帰国。その後は多くの楽曲の開発とプロモートを展開し、日本の音楽出版ビジネスの先駆者となった。 ●草野昌一(1931/2/4 – 2005/6/6):日本の音楽出版ビジネスの先駆者。→他、#38を参照 ●フォルスター事務所:米国の放送会社NBCの東京支社長ジョージ・トーマス・フォルスターが、連合国最高司令官から著作権仲介業務の許可を受け、NBC東京支局内で業務を開始した会社。当初の業務は、主に海外の出版社から日本語に翻訳出版する権利を取得する上で、日本の出版社に許諾するという仕事だった。 【筒美京平さんとの仕事】 【リーズ・ミュージックへ留学した村上司さん】 ●ルー・リーヴィー(1910/12/3 – 1995/10/31):作詞家のサミー・カーンと作曲家のソール・チャップリンとともにリーズ・ミュージック・コーポレーションを設立した(のちにMCAに買収)。ヘンリー・マンシーニやジェリー・ロスらを見出したことでも知られ、ビートルズのアメリカで最初のヒット曲「I Want To Hold Your Hand」の出版をはじめ数々のヒット曲に関わった。1958年から1970年まではASCAPの理事を務めている。 【「また逢う日まで」ができるまで】 ●尾崎紀世彦「また逢う日まで」(1971年):尾崎紀世彦にとってソロ2枚目のシングル。ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」を改詩改題して尾崎紀世彦が歌った作品で、共に阿久悠作詞、筒美京平作曲。第13回日本レコード大賞・大賞受賞曲。 ●ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」(1970年):1968年春に結成し、1971年には解散した日本のグループ・サウンズバンド。その後、ソロでデビューする町田義人が在籍したことでも知られる。これは彼らにとって4枚目のシングル。 【海外で痛感した村上司さんの実力】 ●チャック・ケイ(1941/8/28 – 2021/2/1):1960年代にフィレス・レコードでキャリアをスタート。→他、#36を参照

    15 นาที
  8. 15/03/2565

    #38【音楽出版ビジネスの先達たち①】 草野昌一さん /草野昌一さんの音楽業界への功績

    音楽出版ビジネスの先達たちの中から、日本を代表する訳詞家、漣健児さんとしても有名な草野昌一さんについて回想します。当時、ミュージックライフの編集長だった草野昌一さんとの出会いや「帰って来たヨッパライ」を巡る裏話等、日本における洋楽曲の著作権管理ビジネスの先駆者であり、朝妻の先生的存在でもあった草野昌一さんについてのエピソード。 【草野昌一さんについて】 ●漣健児(1931/2/4 –2005/6/6): 本名・草野昌一。日本の音楽出版ビジネスの先駆者。漣健児名義で作詞家・訳詞家として数多くの作品を書いた(「新田宣夫」名義も)。代表作に「ステキなタイミング」「可愛いベイビー」など。 ●ミュージックライフ:シンコー・ミュージック(創刊当時は新興音楽出版社)が編集・発行した音楽雑誌。主に洋楽を取り上げた(1998年12月号をもって休刊)。 ●「赤鼻のトナカイ」(1948年):原題「Rudolph the Red-Nosed Reindeer」。ジョニー・マークス作詞・作曲のクリスマスソングで、日本語訳詞は、新田宣夫(別名 草野昌一、漣健児)の訳で広く知られている。 【パシフィック音楽出版と草野昌一さんとの関わり】 ●高崎一郎(1931/5/13–2013/8/10):元ニッポン放送プロデューサー、パシフィック音楽出版(フジパシフィック音楽出版の前身)社長。深夜ラジオ番組の草分け『オールナイトニッポン』を企画立案し、初代パーソナリティも務めた。 ●アラン・フリード(1921/12/15–1965/1/20):本名アルバート・ジェームズ・フリード。1950年代に人気を博したアメリカのラジオDJ。 ●ジョニー・ティロットソン(1938/4/20–):「Poetry in Motion」、「Cutie Pie」のヒットをはじめ、浜口庫之助が書いた「涙くんさよなら」を日本語と英語で発表するなどした日本でも知られるヴォーカリスト。高崎一郎がジョニー・ウッドマン名義で作詞し鈴木邦彦がハリー・ウィリアムス名義で書いた「ユー・アンド・ミー」のヒットも。 【「帰って来たヨッパライ」を巡る草野さんとの裏話】 ●「帰って来たヨッパライ」(1967年)ザ・フォーク・クルセダーズ→#12を参照 【草野昌一さんから学んだこと~ビートルズの著作権買収構想~】 【草野昌一さんの音楽業界への功績】 ●ABBA:ストックホルムで結成されたスウェーデンのポップ・グループ。「ダンシング・クイーン」や「マンマ・ミーア」、「マネー、マネー、マネー」など数々のヒットを出すが1982年に活動を停止。2021年11月に40年ぶりのオリジナルアルバム『ヴォヤージ』を世界同時にリリースした。 ●「ビューティフル・サンデー」(1972年):ダニエル・ブーンのシングル曲。世界的には1972年に、日本では1975年11月からテレビ番組『おはよう720』(TBS)の「キャラバンⅡ」のコーナーテーマとして起用され翌年にヒットした。

    14 นาที

เกี่ยวกับ

(株)フジパシフィックミュージック 代表取締役会長 朝妻一郎が音楽と共に歩んだ人生を振り返り、時代を彩った名曲や思い出深い人達のエピソードを毎週伝えていきます。 各エピソードには音楽制作の現場での出来事や音楽著作権の歴史等、朝妻一郎ならではの興味深い話が織り交ぜられます。 あの名曲の裏話や時代の目撃者としてのリアルな証言など、ミュージックビジネスに興味のある方は必聴です。 構成:「月刊てりとりぃ」編集部 協力:東京エンターテイメント

หากต้องการฟังตอนที่มีเนื้อหาไม่สุภาพ โปรดลงชื่อเข้า

รับทราบข่าวสารล่าสุดจากรายการนี้

ลงชื่อเข้าหรือลงทะเบียนเพื่อติดตามรายการ บันทึกตอน และรับข้อมูลอัปเดตล่าสุด

เลือกประเทศหรือภูมิภาค

แอฟริกา ตะวันออกกลาง และอินเดีย

เอเชียแปซิฟิก

ยุโรป

ละตินอเมริกาและแคริบเบียน

สหรัฐอเมริกาและแคนาดา