生き方研究会|善く生きるために。

【虚無編|最終回】あなたの生きづらさはどこから?

虚無編最終回。近代シリーズ、ここまでお付き合いくださりありがとうございました!長々やってきましたが、言いたいことは全部この回に詰まっています。ここから聴いてもらっても構いません。

今回のシリーズでは扱っている「理性」という言葉について、補足。(細かい話なので、スルーでも構いません。)

理性という言葉を聞くと「自分の頭で考える力」と思いがちですが、もともとはそうではありませんでした。中世の人々にとって理性は、神がつくった世界の秩序を理解するための力でした。理性を使うことは、ただ考えることではなく、神の真理に近づくことだったのです。

その考え方は近代の哲学者たちにも残っていました。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、その確かさを支えていたのは「神は人間をだますことはない」という信念でした。ライプニッツもまた、世界の調和は神の理性の表れであり、人間の理性はその一部をのぞき見る窓のようなものだと考えました。つまり理性とは、単なる「頭のはたらき」ではなく、神の普遍的な理性につながる道だったのです。

ところが啓蒙の時代に入ると、この神とのつながりが薄れていきます。宗教の力が弱まり、「神が決めたから正しい」という共通の基準がなくなる一方で、科学が力を持ち始めました。科学では「誰がやっても同じ結果が出る」ことが大切にされます。そこで理性も、「普遍的な真理をめざすもの」から「みんなが確認できて納得できるもの」を探す力へと変わっていったのです。

こうして、神の真理に向かう窓口だった理性は、次第に「多数派の意見」や「みんなの合意」にすり替わっていきました。その結果、人は外の基準に頼ることが多くなり、自分の判断を信じにくくなったと言えるのではないでしょうか。

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