和歌、俳句、詩。Waka, Haiku & Poem : A Journey into Japanese Verse

“Heretic” by Hakushu KITAHARA ( Unabridged ) 北原白秋『邪宗門』(全) (16)

Part 16    D 沈丁花 なまめけるわが女、汝は弾きぬ夏の日の曲、 悩ましき眼の色に、髪際の紛おしろひに、 緘みたる色あかき唇に、あるはいやしく 肉の香に倦める猥らなる頬のほほゑみに。 響かふは呪はしき執と欲、ゆめもふくらに 頸巻く毛のぬくみ、真白なるほだしの環 そがうへに我ぞ聴く、沈丁花たぎる畑を、 堪へがたき夏の日を、狂はしき甘きひびきを。 しかはあれ、またも聴く、そが畑に隣る河岸側、 色ざめし浅葱幕しどけなく張りもつらねて、 調ぶるは下司のうた、はしやげる曲馬の囃子。 その幕の羅馬字よ、くるしげに馬は嘶き、 大喇叭鄙びたる笑してまたも挑めば 生あつき色と香とひとさやぎ歎きもつるる。    E 不調子 われは見る汝が不調、――萎びたる瞳の光沢に、 衰の頬ににほふおしろひの厚き化粧に、 あはれまた褪せはてし髪の髷強きくゆりに、 肉の戦慄を、いや甘き欲の疲労を。 はた思ふ、晩夏の生あつきにほひのなかに、 倦みしごと縺れ入るいと冷やき風の吐息を。 新開の街は錆びて、色赤く猥るる屋根を、 濁りたる看板を、入り残る窓の落日を。 なべてみな整はぬ色の曲……ただに鋭き 最高音の入り雑り、埃たつ家なみのうへに、 色にぶき土蔵家の江戸芝居ひとり古りたる。 露はなる日の光、そがもとに三味はなまめき、 拍子木の歎またいと痛し古き痍に、 かくてあな衰のもののいろ空は暮れ初む。    F 赤き恐怖 わかうどよ、汝はくるし、尋めあぐむ苦悶の瞳、 秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇 みな恋の響なり、熟視むれば――調かなでて 火のごとき馬ぐるま燃え過ぐる窓のかなたを。 はた、辻の真昼どき、白楊にほひわななき、 雲浮かぶ空の色生あつく蒸しも汗ばむ 街よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、 炎上の光また眼にうつり、壁ぞ狂へる。 人もなき路のべよ、しとしとと血を滴らし 胆抜きて走る鬼、そがあとにただに餞ゑつつ 色赤き郵便函のみくるしげにひとり立ちたる。 かくてなほ窓の内すずしげに室は濡るれど、 戸外にぞ火は熾る、………哀れ、哀れ、棚の上に見よ、 水もなき消火器のうつろなる赤き戦慄。