「「頭が真っ白で、何も考えられなかった」原爆投下から3日後に路面電車の運転再開…“運転士第1号”の10代少女が語るあの日の記憶」 「75年は草木も生えない」と言われた、広島の“復興のシンボル”路面電車。戦時中、運転をしていたのは10代の少女でした。中村モリノさん(97)。被爆電車としていまも現役で走る、思い出の路面電車。当時、働き盛りの男性が兵士として徴兵され、代わりに電車を動かしていたのは“女学生”でした。中村さんもその1人です。1943年、電車の運転士を養成するため設立されたのが「広島電鉄家政女学校」です。戦況が悪化すると、人手不足はますます深刻に。「まだ(運転の)試験を受けていないと言ったが、運転士がいないから行けと言われた」と話す中村さんは、「運転士第1号」となりました。そして迎えたあの日。広島の街は、一瞬にして焦土と化しました。中村モリノさん(97):小さい女の子が「水をちょうだい、水をちょうだい」と言うが、(当時)やけどをした人に水を飲ませたら死ぬと言われていたので、死んだらいけないと思って(水を)あげなかった。何年たっても忘れません、あの声は。女学校の生徒は30人が犠牲に。しかし、原爆投下からわずか3日後に運転が再開。中村さんたち女学生も電車に乗りました。中村さんは「ずーっと焼け野原。頭が真っ白。何も考えられなかった」と話します。中村さんがあの日の記憶を語るのは、二度と同じ悲劇を繰り返さないためです。中村モリノさん(97):自分の命や友達を大事にするということを少しでもわかってもらえたらと思う。人の命をとることはしないようにしてほしい。戦後、廃校となった“幻”の女学校。彼女たちが懸命に走らせた路面電車は、“復興のシンボル”として平和への思いをのせ、きょうも広島の街を走り続けています。
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- FrequencyUpdated daily
- Published6 August 2025 at 03:48 UTC
- Length2 min
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