不登校から学んだ親心

天理教の時間「家族円満」

不登校から学んだ親心 福岡県在住  内山 真太朗 教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。 自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。 私は小学四年生から中学三年生までの約6年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。 なぜ学校に行かなかったか? いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。 突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ?」「学校の何が嫌いなの?」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい!」などと説得されたりしました。 教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。 そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ?」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。 しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。 でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の6年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。 そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて9年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。 すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。 この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。 教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。 そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。 私が不登校をしていた時、両親は、我が子の事情を通して色々と思案を重ね、「子供が15歳になるまでは、親のいんねん通りの姿をお見せ頂く」との教え通り、まずは自分たちの通り方、信仰姿勢を見つめ直そうと、様々な心定めをしたのです。 特に、子供の事情を解決するには親へのつなぎが大切だ、とのことから、上級教会への日参を欠かさない。そして月に一度、教会の元をさかのぼり、おぢばまでつながる全ての上級教会へ参拝するという心を定め、約13年の長きにわたって、私のために懸命に通ってくれていたのです。 私はその話を聞くまで、自分が不登校の中頑張ったから、厳しい高校生活を頑張ったから、今こうして通れているのだとばかり思っていました。しかしその陰には、我が子を思う両親の長きにわたる真実の伏せ込みがあったのです。そのおかげで、今の自分があるのだということに気づかされました。 今、私は4児の父親であり、そして、自分と同じような境遇の子供達との関わりを与えていただいています。彼らに直接、たすけの手を差しのべると同時に、彼らが将来「不登校していたから、引きこもりの時期があったから今の幸せな自分がある」と思ってもらえるよう、神様への伏せ込みをさせて頂いています。 日々、心を尽くして伏せ込んでいれば、教祖は必ず良い方向へとお導きくださいます。親を立てたその先には、子供が立派に育っていきます。 人をたすけるにも子供を育てるにも、まずは自分が、神様や人に喜んで頂けるような真実の心で日々通ることを、大切にしていきたいと思います。 だけど有難い「匂い」 嗅覚というのは五感の一つです。五感とは、目、視覚。耳、聴覚。鼻、嗅覚。舌、味覚。そして手で触る、触覚の五つですね。なかでも嗅覚は、人間がはるか大昔に身につけた能力のようです。視覚は、どちらかというと新しい能力のようです。 なぜ、そんなことが分かるのか。五感で得た情報はすべて脳に伝えられ、脳が判断を下します。物を見たときに「これは花だな」「花のなかでもチューリップだな」「チューリップのなかでも綺麗だな」というふうに感じるわけです。これはかなり高度な処理です。 これに対して、嗅覚はもっと直接的です。たとえば、臭い匂いを嗅いだ瞬間に「臭い!」となります。識別も何もありません。いきなり臭いのです。これは嗅覚の特徴です。面白いものですね。 嗅覚には、ほかにもいろいろな特徴があります。たとえば、良い香りだと思う香水でも、濃くなり過ぎると臭く感じるようになります。しかし、その場に長くいると慣れてしまうのです。これも判断するとか、脳が感じるとかではありませんね。 私たちがテレビを見ているとき、その場面を視覚と聴覚で想像します。この二つで十分想像できるのですが、もし、さらにリアルになって、テレビから匂いが出てきたらどうでしょう。新鮮な海産物の調理のシーン。トイレで化粧直しをするドラマのシーン。画面が変わるたびに匂いがするとしたら、おそらく部屋がさまざまな匂いでいっぱいになって、テレビを見ていられなくなるでしょう。 一方、視覚は見たくなければ遮断できます。目をつぶればいいのです。聴覚も聞きたくなければ耳を覆えばいい。口は閉じれば食べずに済みます。触覚は触らなければいいのです。 嗅覚はどうでしょうか。鼻をつまめばいいようなものですが、呼吸の役割もありますから、いつまでもつまんでいるわけにはいきません。結局、匂いというのは拒絶できないのです。五感のうち、より本能的で避けられない感覚、これが嗅覚なのです。 女性は成長するにつれて、自分や家族とは違う匂いを本能的に求めるといいます。ですから年ごろになると、お父さんの匂いは嫌になる。彼氏の匂いがいいのです。結婚して子供が生まれると、今度は子供を守ろうとする本能が働いて、自分や子供、家族以外の他人の匂いがだめになります。つまり、夫の匂いがだめになるのです。 男からすれば困ったことで、父親は娘をいくら可愛がっても、年ごろになると相手にしてもらえない。夫は子供が生まれたら、妻から相手にしてもらえないので

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