天理教の時間「家族円満」

TENRIKYO
天理教の時間「家族円満」

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

  1. 4D AGO

    「ありがたい」と思う

    「ありがたい」と思う 大阪府在住  山本 達則 どのご家庭でも、毎日の生活の中で一日として「同じ日」というのは無いと思います。「今朝は夫がご機嫌斜め」「奥さんは体調が優れない」「子供はご機嫌で学校へ」こんな日があると思えば、次の日は「夫は仕事がうまくいって上機嫌」「でも、子供が朝から熱っぽい」「奥さんは子供の世話で朝からばたばた」など、よくあることと言えば、よくある家庭での日常だと思います。 しかし、「よくあること」で片付けられないような一大事が起きたり、「何でこんなことになってしまったのか」と頭を抱えるような経験をすることもあります。 以前、私の息子が大学生になってバイクの免許を取りました。息子は早速、先輩から中古のバイクを譲ってもらうことになり、それを先輩の自宅まで取りに行くことになりました。 天理教の教会である我が家の妻は、「バイクを取りに行くなら、神様にお礼とお願いをしてから行きなさいよ」と声をかけました。息子はちょっと邪魔くさそうに、「帰ってからするわ」と答えましたが、妻は負けじと「先にしなさい」と。息子は渋々でしたが、神殿に上がり、神様にお礼とお願いをしてから、意気揚々と出かけて行きました。 しばらくして、息子から家に電話がかかってきました。「先輩からバイクをもらって、帰る途中でスリップ事故を起こした」と。幸い単独事故で、どなたに迷惑をかけることもなく、バイクが少し壊れたのと、息子が軽い怪我をしたということで、迎えに行くことになりました。バイクは修理が必要で、車屋さんに修理をお願いして、息子を車に乗せて自宅へ戻りました。 息子は帰りの道中で、「最悪や、お願いしていったのに」とやり場のない怒りを妻にぶつけました。その息子の様子を見て、妻は「何言ってるの。神様にお礼とお願いをしていったから、このくらいの事故で済ましてもらったんやで。お願いをしていかなかったら、今頃病院かもしれんよ」と言いました。 私はその二人の会話を聞いて、正に「言い得て妙」だと思いました。物事には色んな捉え方があることを、改めて実感させてもらいました。 確かに息子が言うところの「最悪だ」ということも、うなずけると言えばうなずけます。でも、この時の息子に「嬉しい」という気持ちはありません。 同じ結果であっても、「この程度で済ましてもらえて良かった」と思うことができれば「嬉しい」。物事の捉え方によって、同じ結果でも「良かった」と思うこともできれば、「最悪だ」と思うこともある。物事の見方は決して一方向でないのです。 得てしてお互いは、自分に無いものを持っている人に心を奪われ、自分にとって損な出来事に出合うと心を濁します。当たり前と言えば当たり前かも知れません。 天理教では、人間の身体をはじめ、生活の中の人間関係、更には周りの環境や手にするものすべてが神様からの「かりもの」であり、私たちが自由にできる我がものは「心」だけだと教えられます。その心の持ちようが、自分の人生を良くもすれば、悪くもすると聞かせて頂きます。 自分に無いものを持っている人に出会った時、「うらやましい」「どうして自分にはそれが無いのか」と心を濁す時は、おそらく自分の見えている方向の半分しか見えていないのではないでしょうか。 自分に無いものを持っている人は、確かに目の前にいるのかも知れませんが、実は自分が持っているものを持っていない人も、目を凝らせば世の中には沢山おられるのです。 当たり前だと思いがちな、目が見える、話ができる、耳が聞こえる、歩ける、食べられる…。言い出せばきりがありませんが、その当たり前と思い込んでいることが出来ずに、悩み苦しんでいる方は、世の中に沢山おられます。 方向を変えて、そちらの方を見ることが出来れば、自分が持っていないものを持っている人に出会っても、「ありがたい」という心が湧いてくるのではないでしょうか。 私の息子のように、思い通りにならないことに出合って、不足をするという自由もあります。しかし、自由に使える心の最高の使い方は、どんなことが起きても、その中に喜びを見つけていくことだと教えて頂きます。 「喜べば 喜び事が喜んで 喜び連れて喜びに来る」という川柳を聞いたことがあります。 日々の生活の中の些細なことでも、あるいは人生の中で大きな分岐点になるような出来事でも、常に喜べる方向の見方をしていきたいと思います。それが、自分以外の誰かの喜びにつながっていれば、なお良いかもしれません。 いつも住みよい所へ どんな人の人生にも、いつしか転機が訪れます。ある出会いが、その人の生き方自体を決定的に変えてしまうこともあるでしょう。 明治十七年二月のこと。神戸・三宮駅の助役をしていた増野正兵衛さんは、十数年来、脚気などに悩まされていました。また、妻のいとさんは、三年越しのソコヒを患っており、何人もの名医にかかっても為すすべなく、ただ失明を待つばかりという状態でした。その頃いとさんは、知人から「天理王命様は、まことに霊験のあらたかな神様である」と聞き、それなら一つ夫婦で話を聞いてみよう、ということになりました。 その時聞いた知人の話によると、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の心になって、神様にもたれなさい」また、「食物は皆、親神様のお与えであるから、毒になるものは一つもない」と。 そこで正兵衛さん、病気のためにやめていたお酒でしたが、その日にあげたお神酒を頂いてみたところ、翌朝はすこぶる身体の調子がよく、さらにいとさんの目も、一夜のうちに白黒が分かるようになりました。 早速に夫婦揃って神様にお礼を申し上げ、話を聞いた知人宅へも行って喜びを告げました。ところが帰宅すると、どうしたことか、日暮れを待たずにいとさんはまた目が見えなくなってしまいました。 この時夫婦で相談し、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない」と語り合い、夫婦心を合わせ、朝夕一心にお願いをしました。すると正兵衛さんは十五日間ですっきりご守護頂き、いとさんの目も、三十日間で元通り見えるようになったのです。 その年の四月、正兵衛さんは初めておぢば帰りをし、教祖にお目通りさせて頂きました。教祖は、「正兵衛さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならんで」と、やさしく仰せ下さいました。このお言葉に強く感激した正兵衛さんは、仕事も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、おたすけに奔走しました。しかし、おぢばを離れると、どういうものか、身体の調子が良くありません。 そこで教祖に伺うと、「いつも住みよい所へ住むが宜かろう」と仰せられました。この時、正兵衛さんは、どうでもお屋敷へ寄せて頂こうと、堅く決心したのでした。(教祖伝逸話篇145「いつも住みよい所へ」) おぢばを離れると身体の具合が悪くなり、訪ねていくと良くなるといったことを繰り返し経験した正兵衛さん。不思議なことに、教祖の御前に出ると、信仰的な疑問も家庭の悩みも一瞬にして解けてしまったといいます。 まさに教祖のお側こそ、正兵衛さんにとっての「住みよい所」でありました。後に明治二十三年、正兵衛さんといとさんは、夫婦揃ってお屋敷へ住み込むこととなったのでした。 (終)

  2. JUN 6

    不登校から学んだ親心

    不登校から学んだ親心 福岡県在住  内山 真太朗 教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。 自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。 私は小学四年生から中学三年生までの約6年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。 なぜ学校に行かなかったか? いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。 突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ?」「学校の何が嫌いなの?」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい!」などと説得されたりしました。 教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。 そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ?」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。 しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。 でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の6年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。 そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて9年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。 すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。 この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。 教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。 そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。 私が不登校をしていた時、両親は、我が子の事情を通して色々と思案を重ね、「子供が15歳になるまでは、親のいんねん通りの姿をお見せ頂く」との教え通り、まずは自分たちの通り方、信仰姿勢を見つめ直そうと、様々な心定めをしたのです。 特に、子供の事情を解決するには親へのつなぎが大切だ、とのことから、上級教会への日参を欠かさない。そして月に一度、教会の元をさかのぼり、おぢばまでつながる全ての上級教会へ参拝するという心を定め、約13年の長きにわたって、私のために懸命に通ってくれていたのです。 私はその話を聞くまで、自分が不登校の中頑張ったから、厳しい高校生活を頑張ったから、今こうして通れているのだとばかり思っていました。しかしその陰には、我が子を思う両親の長きにわたる真実の伏せ込みがあったのです。そのおかげで、今の自分があるのだということに気づかされました。 今、私は4児の父親であり、そして、自分と同じような境遇の子供達との関わりを与えていただいています。彼らに直接、たすけの手を差しのべると同時に、彼らが将来「不登校していたから、引きこもりの時期があったから今の幸せな自分がある」と思ってもらえるよう、神様への伏せ込みをさせて頂いています。 日々、心を尽くして伏せ込んでいれば、教祖は必ず良い方向へとお導きくださいます。親を立てたその先には、子供が立派に育っていきます。 人をたすけるにも子供を育てるにも、まずは自分が、神様や人に喜んで頂けるような真実の心で日々通ることを、大切にしていきたいと思います。 だけど有難い「匂い」 嗅覚というのは五感の一つです。五感とは、目、視覚。耳、聴覚。鼻、嗅覚。舌、味覚。そして手で触る、触覚の五つですね。なかでも嗅覚は、人間がはるか大昔に身につけた能力のようです。視覚は、どちらかというと新しい能力のようです。 なぜ、そんなことが分かるのか。五感で得た情報はすべて脳に伝えられ、脳が判断を下します。物を見たときに「これは花だな」「花のなかでもチューリップだな」「チューリップのなかでも綺麗だな」というふうに感じるわけです。これはかなり高度な処理です。 これに対して、嗅覚はもっと直接的です。たとえば、臭い匂いを嗅いだ瞬間に「臭い!」となります。識別も何もありません。いきなり臭いのです。これは嗅覚の特徴です。面白いものですね。 嗅覚には、ほかにもいろいろな特徴があります。たとえば、良い香りだと思う香水でも、濃くなり過ぎると臭く感じるようになります。しかし、その場に長くいると慣れてしまうのです。これも判断するとか、脳が感じるとかではありませんね。 私たちがテレビを見ているとき、その場面を視覚と聴覚で想像します。この二つで十分想像できるのですが、もし、さらにリアルになって、テレビから匂いが出てきたらどうでしょう。新鮮な海産物の調理のシーン。トイレで化粧直しをするドラマのシーン。画面が変わるたびに匂いがするとしたら、おそらく部屋がさまざまな匂いでいっぱいになって、テレビを見ていられなくなるでしょう。 一方、視覚は見たくなければ遮断できます。目をつぶればいいのです。聴覚も聞きたくなければ耳を覆えばいい。口は閉じれば食べずに済みます。触覚は触らなければいいのです。 嗅覚はどうでしょうか。鼻をつまめばいいようなものですが、呼吸の役割もありますから、いつまでもつまんでいるわけにはいきません。結局、匂いというのは拒絶できないのです。五感のうち、より本能的で避けられない感覚、これが嗅覚なのです。 女性は成長するにつれて、自分や家族とは違う匂いを本能的に求めるといいます。ですから年ごろになると、お父さんの匂いは嫌になる。彼氏の匂いがいいのです。結婚して子供が生まれると、今度は子供を守ろうとする本能が働いて、自分や子供、家族以外の他人の匂いがだめになります。つまり、夫の匂いがだめになるのです。 男からすれば困ったことで、父親は娘をいくら可愛がっても、年ごろになると相手にしてもらえない。夫は子供が生まれたら、妻から相手にしてもらえないの

  3. MAY 30

    真実の種と肥やし

    真実の種と肥やし 埼玉県在住 関根 健一 私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。 現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。 中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。 しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます!」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。 しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。 ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。 建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。 そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。 もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。 一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。 先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。 私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。 しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。 その時、関連業者の担当者がポツリと、「Aさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。 この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からAさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。 教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。(137「言葉一つ」) 人間の息は、口を大きく開いて「ハ~」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ~」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。 他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その思いを受け継いだ先人たちは、「声は肥」肥やしであると例えました。 これは「声」と「肥」の単なる語呂合わせではなく、深い意味を持つ言葉だと思います。肥やしは、それだけを土に蒔いても意味を成しません。作物を育てるためには、「種」が必要です。 仕事ならば、まずしっかりとした技術や誠実な取り組みが「種」となり、その上で気持ちの良い挨拶や言葉が「肥やし」となって、より良い仕事へとつながる。おたすけの現場であれば、「どうしてもたすかって頂きたい」という思いと、真実を尽くす行いが「種」となり、そこに温かい言葉が「肥やし」となってご守護へとつながる。 つまり、人生を豊かにするためには「種」となる誠実な心や行動が必要であり、そこで心からあふれ出す温かな言葉が発せられることで、種が芽を出し、豊かな実りにつながるのです。 人生の実りを豊かにするための種と肥やし、どちらも大切にしていきたいと思います。 待っていたで 私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供の帰りを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。 文久元年、西田コトさんは、歯が痛むので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」ということを聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と温かく迎えられました。(教祖伝逸話篇8「一寸身上に」) また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のために、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かなお言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠回りをして」) どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびておられたかのようにして、迎え入れられています。 様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安な中、「待っていたで」と温かく迎えられた人々は、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。 親神様が人類の親であるなら、私たちの生活は、親神様による壮大な子育ての中にあるのではないでしょうか。親は常に子供の成人を待ち、大きく立派に育つことを願っています。 お言葉に、   たん/\と月日にち/\をもハくわ  をふくの人をまつばかりやで  (十三 84)   この人をどふゆう事でまつならば  一れつわがこたすけたいから  (十三 85) とあります。 親神様が「待つ」ということの背景には、「一れつわがこたすけたい」とあるように、子供が少しでも陽気ぐらしに近づけるように導いてやりたい、との大いなる親心があるのです。子供の成長には時間がかかります。私たちも時間をかけてじっくりと、親神様の思いに沿う、たすけ合いの心を培いたいものです。 (終)

  4. MAY 23

    あっぱれスピーチ

    あっぱれスピーチ  岡山県在住  山﨑 石根 我が家の子どもたちが通う中学校では、毎年3学期になると「私の主張発表会」という行事が開催されます。受験生ではない中1と中2の生徒全員が3分ずつスピーチの原稿を作って、クラスで発表し、みんなで評価をし合う行事です。 発表会の日は参観日も兼ねているので、中2の娘が「お母ちゃん、聞きに来てよ」とお願いをしていましたが、当日、妻は教会の御用があったため、参加が叶いませんでした。ですので、私が「ととは行けるで」と伝えるも、「ととは来なくていい」と、悲しい返事です。 そして迎えた当日、私は都合をつけることが出来たので、学校に足を運びました。他のクラスも覗きましたが、どの生徒たちの発表も目を見張るような素晴らしい内容ばかりです。環境問題や人権問題、SDGsなど大人顔負けのテーマが続き、いよいよ娘の番になりました。 教卓の前に立った彼女は、「当たり前と有り難さ」と元気な声でタイトルを述べると、「皆さんは生きる有り難さを感じたことがありますか? また、それはどんな時ですか? 少し考えてみてください」と、雄弁に語り始めました。 私はタイトルを聞き、「おや?」と思いました。そして、話の内容を聞いていくうちに、「やっぱり!」という気持ちになりました。 それは約一年前の教会の行事で、私が参加した子どもたちに話した「神様の話」そのものだったからです。娘の話には「天理教」とか「神様」という単語は出てこないものの、「当たり前ということはこの世の中に一切ない。当たり前の対義語は〝ありがたい〟だから、日々の当たり前に感謝をして、生きる喜びを感じることが大切だ」というような、私たちが信仰生活で大切にしている内容だったのです。 親のひいき目を抜きにしても、娘の発表は実に圧巻のパフォーマンスであり、日頃から講話を務める教会長の私に勝るとも劣らない、少しも引けをとらない堂々としたスピーチでした。 帰宅後、妻に発表会での様子を伝えた私は、娘に「ととの真似やったなぁ」と少し意地悪を言いました。すると彼女は、「ととの真似じゃないし! 私のオリジナルやし!」と怒ります。 すかさず妻が援護射撃をしてきました。 「いや、考えてみてよ。あなたの原稿を見て、今回のスピーチを考えたわけでもないし、一年も前に聞いた話をこうやって自分の言葉で再現できる、しかも自分の主張に変えられるって、これって考えてみたら、ものすごく立派なことじゃない?」 妻にそう言われ、私も「そうだよな…」と得心しました。 内容は私の影響を受けていたとしても、彼女自身がそれを胸の内に飲み込んで、「こういうことかな?」と消化し、そして「自分の言葉でみんなに伝えたい」と思って、スピーチで表現してくれたのです。そのことを思うと、私は何だかとても嬉しい気持ちになったのでした。 さて、この行事は、発表後に生徒同士で内容や原稿、パフォーマンスの部分をお互いに評価し合い、先生の評価とあわせてクラスの代表を選びます。さらに、その中から学年代表に選ばれると、市が主催する行事に出場できることになるのです。 残念ながら、娘はクラスの代表には選ばれたものの、学年の代表には選ばれませんでした。しかし、彼女が堂々とみんなの前で、私たちの信仰の基本中の基本である「感謝の気持ちの大切さ」を伝えてくれたことが、私たちにとっては大きな大きな喜びであり、金メダルをあげたくなるような雄姿でした。 「育てるで育つ、育てにゃ育たん。肥えを置けば肥えが効く。古き新しきは言わん。真実あれば一つの理がある」(M21・9・24) という神様のお言葉があります。 私たち夫婦も、子どもを育てる前に、私たち自身が信仰的に育っていくことが大切だと、常々自分たちに言い聞かせているつもりです。素晴らしい神様の御教えや、教祖のぬくもりを何とか子どもたちに伝えたい。そのために私たちがまずこの教えを実践し、その後ろ姿を見て、子どもたちに伝わればと願ってやまない毎日なのです。 その中で、私たち夫婦が唯一「これだけは…」と自信を持って言える信仰実践は、「ありがとう」をたくさん口にしていることでしょうか。未熟な故に失敗や反省の尽きない毎日ですが、おそらくどの家庭にも、またどの夫婦にも負けないぐらい、「ありがとう」「ありがとう」とお互いに言葉にしているかなと自負しています。 もちろん、それなりに夫婦ゲンカもすれば、親子ゲンカもよくします。ですので、思春期を迎えたお年頃の娘は、最近では「ととの理不尽さにいっぱい気づくようになった」と度々指摘するようになってきました。 外でどんなに綺麗ごとや偉そうなことを言っていても、行動が伴っていない私の姿に思う所がたくさんあるのでしょう。 彼女にその矛盾を指摘される度に、神様から問いかけられているような心持ちになり、反省する毎日ではあります。とは言え、それと同じぐらい何かある度に妻にお礼を言い、子どもたちにお礼を言い、そして就寝前も必ずお互いにお礼を言い合うようにしています。 そんな私たちの後ろ姿もまた、彼女には感じる所がきっとあったはずです。なので、私たちは完璧なお手本にはなれていませんが、「当たり前のことは一切ない。毎日の当たり前に〝有り難い〟と感謝して、生きる喜びを味わおう」と友達に主張してくれた彼女の姿が、親として嬉しくて仕方がなかったのです。 長女に、「今回のととの話をパクったこと、『天理教の時間』の話に使っていい?」と尋ねました。すると彼女は、「だ・か・ら、ととの話をパクってないんだってば!」と怒ります。 そうですね。よくよく考えると、これは私の話ではなくて、教祖が教えて下さった教えであり、親神様のご守護のお話です。 私の話が素晴らしいのではなく、娘の話が素晴らしいのでもなく、親神様のご守護、教祖の教えが素晴らしいんだよなぁと改めて実感しました。そのことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと、切に願う毎日です。 この家へやって来る者に 「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である」(教祖伝3章「みちすがら」) これは、教祖がこの教えを伝え始められた当初、「貧に落ち切れ」との親神様の思召しのまにまに、食べ物や着る物、金銭に至るまで、次々と困っている人々に施される道中に示されたお言葉です。これこそ、私たち一人ひとりを可愛い我が子と思われ、その帰りを待ちわびておられる真の親のお言葉と言えるでしょう。 さて、人類のふるさと「ぢば」に帰って来た子供たちを、教祖はいかにお迎え下されたのか。具体的に数々の逸話が残されています。 文久三年、辻忠作さんが初めてお屋敷へ帰り、妹のくらさんの気の間違いのおたすけを願い出ると、教祖は、「此所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と仰せられました。 このぢばは、世界八方をご守護下される親神天理王命様がお鎮まりになる所であり、どんな病も必ずたすけて頂ける。しかし、お腹が減ったからご飯を食べて、さあ元気になった、という訳にはいかない。心迷わずしっかり信心する中に、日々だんだんと薄紙をはぐようにご守護頂ける、とお聞かせ下されたのです。 また、文久四年、山中忠七さんの妻・そのさんが、二年越しの痔の病が悪化して危篤の容態となりました。この時、忠七さんが初めてお屋敷へ帰らせて頂くと、教祖から次のようなお言葉がありました。 「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」(教祖伝逸話篇11「神が引き寄せた」) 親神様が深いいんねんを見定めて、引き寄せたのであるから、病気は心配することはないと、お話し下されています。 教祖は、直筆による「おふでさき」に、   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) と記されています。 真実の親の思案というものは、かわいい我が子たちをどのようにたすけようかと、いつもそのことばか

  5. MAY 16

    出直し

    出直し  千葉県在住  中臺 眞治 今から21年前、私が大学を卒業して間もない頃の話です。ある日の朝、父から電話があり、「Aさんが今、入院していて、いつ出直してもおかしくない病気なんだけど、今日は用があってどうしても行くことが出来ないから、お前、代わりに行っておさづけを取り次いできてくれないか?」と言われました。 Aさんというのは80代の男性で、若い頃から熱心に信仰を続けてきた方です。 それに対して当時の私は、おさづけの理は拝戴していたものの、ほとんど取り次いだことはありませんでした。また、Aさんとは小さい頃に少し面識があっただけで、お話した記憶もほとんどありませんでした。 そういう自分が、病気でもうすぐ出直すかもしれないという人の所に行っていいのだろうか?と迷いましたが、父から「Aさんは昔から熱心に信仰をされてきた方だから。行けば喜んでくれるから」と言われ、「分かりました」とその御用を受けることにしました。 すぐに電車を乗り継ぎ、Aさんの入院している病院へと向かいましたが、道中は緊張でいっぱいでした。死は人間にとって大きな悩み。Aさんは身体的に苦しい中で、精神的にも死と向き合っておられる。今どんな気持ちなのだろうか? どう声をかけたらいいのか? 頭の中ではそのことばかり考えていましたが、結局、答えの分からないまま病室へと入りました。 早速Aさんと目が合いました。長年お会いしていない方だったので、私が誰か分からないだろうと思い、まずは自己紹介と挨拶をしました。すると 「あー眞治君かい。大きくなったね」と私のことを覚えていて下さり、嬉しい気持ちになりました。 そして「ご飯は食べれてますか?」「眠れてますか?」と何気ない会話を始めたのですが、途中からはAさんの方から色々とお話をして下さいました。 30分ほどのお話の中で特に印象に残っているのは、戦後間もない物のない時代の話でした。 「教会につながる者同士で、みんながあったまれる場所を作ろうという話になったんだ。それぞれが貧しい中ではあったけれども、コートを買ったつもり、御馳走を食べたつもりになって、釘やトタン、垂木などの材料を買って持ち寄って、手作りで教会建物を建てたんだよ」と、若い時代に人のたすかりを願って歩まれた日々の事を懐かしそうに語っておられました。 さらに続けて、「僕はね、死ぬのは全然怖くないんだよ。借りた物を返すだけのことでしょ。これから神様の懐に抱かれると思うと、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないんだよ」と、本当に嬉しそうな顔で私に聞かせて下さいました。 天理教の原典『おふでさき』では、   このものを四ねんいせんにむかいとり  神がだきしめこれがしよこや  (三 109) と記され、神様によって迎え取られた魂は、そのあたたかい懐に抱かれるのだと教えて下さっています。 また、天理教では死ぬことを「出直し」と言います。死ぬことがこの世で生きることの終わりを意味するのに対して、出直しは、古くなった着物を新しい着物に着替えるように、お借りした身体を神様にお返しし、また新しい身体をお借りして、再びこの世に出直して帰ってくることを意味しています。 教祖・中山みき様は、末女こかん様の出直しに際して、「可愛相に。早く帰っておいで」と優しくねぎらわれました。先ほどのAさんの言葉は、こうした教えを信じ、人にもそう伝えてきたからこそ自然と湧いてきた思いだったのではないでしょうか。 その後のAさんですが、体調の回復にともない退院され、家族の元へと帰っていかれました。そして何度か入退院を繰り返し、数年後に出直されました。 葬儀の日、私はこの時のAさんの言葉を思い起こしながら、Aさんは悔いのない人生を生きたのだなと感じ、自分もそのような人生を生きられたらなと思いました。 この出来事から21年が経ち、今、私がどう考えているのかと言えば、「悔いもないし、いつ出直すことになってもいい」などという気持ちにはなっていません。まだまだ生かしていただきたいと願っています。 しかし、いつかは出直す。その現実は変えようがありませんが、だからこそ、今、生かされていることに感謝しながら、一日一日を大切に過ごしたいものだと考えています。そしていつの日かAさんのように、恐れずに穏やかに、その時を迎えることができたらと願っています。 また、身近な人の出直しを見送る側になった際には、深い悲しみや苦しみに心が覆われてしまい、その克服には長い時間がかかるかもしれません。しかし、信仰がそれらを受け入れるための支えとなり、生きる力を与えてくれるものになると信じています。 一あっての二 この教えでは、物事にふさわしい旬や、順序というものをとても重要な角目としています。旬に合わせて順序良く処すれば、物事はスムーズに運び、万事順調な道を歩ませて頂けるのです。 神様のお言葉に、 「席と言う一あっての二、何程賢うても、晴天の中でも、日々の雨もあれば、旬々の理を聞いてくれ。聞き分けねば一時道とは言わん」(M26・12・16) とあります。 一があって二がある。二があって一があるのではない。それはいくら賢い者であっても、その順序を覆すことはできません。人間の知恵や考えだけでは、どうにもならないものがあるということです。 私たちの生活の源であるところの自然現象、晴天や雨のご守護、暖かい寒いというのは、人知の支配が及ぶところではありません。また、農作物を育てるには、それぞれの旬に応じて丹精を込めなければなりません。 ある道の先人は、このように語っています。 「考えてみまするに、神様のお恵みの大きいことは、人間心では計り知ることができませぬ。この寒い冬の日に、夏のあの暑い日がどこにあるかと思えましょう。また、夏の日に、この冬がどこにあると思えましょうか。けれども、天然自然の理が巡れば、ここに春夏秋冬の旬というものができて、それぞれに応じてご守護を下さるのであります。 これは、人間の力でどうすることもできません。ただ今、庭を見渡しますると、葉は落ち尽くしており、木の根を分けても、どこにも葉や花の影は見当たりませぬが、時至りて春来たれば、花も咲き、葉も茂り、実も結ぶのであります。 この道は、ただ人間心でこしらえた教えやない、元の神・実の神、親の道でありまして、天に口なし、教祖の口を借りて説いてくれた道でありますから、守らにゃならん、聞かにゃならん、通らにゃならん教えであります。 何ごとも天理に任せてさえおれば、なんにも案じることも心配もいりませぬ。それを、人間心としてどうやらすると、天理に逆らうと、例えば、南風の吹いているのに南に向かって行くようなもの。ゆえに舟が進まぬ。どうやらすると覆ることがあるけれども、南風の時には北へ向かって舟を進めさえすれば、早く港へ舟を着けることができる。天の理とてもそのとおり、理に従って行きさえすれば、苦しみもなく、安全にこの世を渡ることができるのであります。」 (終)

  6. MAY 9

    自分は自分でいいんだと思える子供に

    自分は自分でいいんだと思える子供に  静岡県在住  末吉 喜恵 子供が生まれた瞬間は「本当に、無事に生まれてきてくれてありがとう」と心から思うものです。しかし、成長してくるとその思いも段々薄まってきて、もっとこうなって欲しいとか、もっと勉強ができるようになって欲しいとか、親として欲が出てくるのではないでしょうか。 子供にとっては、親が一番最初の「おもちゃ」だと言われています。どうして親がおもちゃなのでしょうか? 実は子供は、親の反応を見て試しているようなのです。 親は自分が泣いたり動いたりすると感情豊かに反応してくれるので、子供からすれば面白いと感じるようです。子供はそんな親の反応が見たくて仕方ないのです。 ハイハイができるようになった頃から、いたずらをすると、親は自分の用事をほったらかしてすぐに対応してくれることを知っていて、その反応が見たくていたずらをしているのだと聞いたことがあります。 三女が3歳で、長男が1歳の時の話です。お絵描きが楽しくなってきた頃で、「まる」をとても上手に書いていました。 ある日、子供たちが外でケラケラ笑って遊んでいました。いつもはケンカもするのに、その日はやけに仲良く遊んでいるなと思っていました。 結構長い時間そのまま放っておいて私は家事をしていたのですが、外に出てみると、何と石を使って車にお絵描きをしていたのです。 我が家の大きなワゴン車の全面、ありとあらゆる場所にお絵描きをして、車は傷だらけになっていました。 私は驚きながらも、「すごく上手にまるや人の顔を描けてるな~。これだけ大きなキャンパスに書いたら、それは楽しかっただろうな~」などと脳天気に思いましたが…そんなこと言っている場合じゃありません!「どうしよう!夫に叱られる!」 そこで、どうやったらそのお絵描きの傷が消えるか考えました。当時いろんなアイデアを紹介しているテレビ番組があり、その中に、「歯磨き粉で簡単に車の傷が消える!」というアイデアを見たことを思い出しました。 子供たちと一緒にきれいに消そう!と、歯磨き粉とタオルを用意しました。思いの外、車がきれいになるので、子供たちも楽しそうに消す作業をしていました。 しかし、案の定この一件を知ったパパは子供たちを思い切り叱りました。子供たちも泣いて謝りました。 「人様の車に同じようなことをしたら、こんなことでは済まされない」「歯磨き粉で消したら、一時はきれいに見えても余計に傷がつく」と、私も子供たちと一緒になって叱られました。確かにそれはその通りだと反省しましたが、今となっては懐かしい思い出です。 その後も子供たちのいたずらは続きました。壁に書いてはいけないということは分かったようですが、押し入れの中だったらバレないとでも思ったのでしょうか? 今度は押し入れの中に入り、またまた絵を描いたのです。それもマジックペンで! でもその時はなぜか「車よりはマシか」と思えるようになっていたから不思議です。 他にも、わざとボールを当てて障子を破ってしまったり、色々といたずらはしていましたが、命の危険が及びそうなこと以外は、大らかに見守ろうと思っていました。そんなにガミガミ怒らなかったのが良かったのでしょうか、そのうちにいたずらはしなくなっていきました。 ついつい、悪いことをしたら叱るということばかり考えてしまいがちですが、子供は親がどうすれば自分に反応してくれるのか? どれぐらい自分のことを見てくれているのか? 内容よりもその反応の大きさであったり強さを求めているのだと思います。 叱ってばかりいると、子供自身の自己肯定感が下がってしまうので、私は子供がいたずらをした時は、それをやめようとしたタイミングで、「ママの言うこと聞いてくれたね、やめようとしてくれたね」と、プラスの言葉をかけていました。 ついマイナスの言葉になってしまいそうな所を、プラスの言葉にしようといつも心がけました。たとえば、走ってはいけない所で走った場合、「走らない!」ではなく「歩こうね」と言ったり、机の上に登ったら「登らない!」ではなく「降りようね」と表現するなど、プラスの言い方に変換する方法はいくらでもあります。 何気ない日常で、やって当たり前だと思えることでも、ちゃんと出来たねと声を掛けることを大切にしてきました。 朝一人で起きてきたら、「ちゃんと時間通りに起きて、身支度も自分でできてるね」と言ったり、「朝ご飯ちゃんと食べたね。元気に食べれるって有難いね」など。普通のことが普通にできること、当たり前のことがどれだけありがたいことなのか、口に出して言うことが大切ではないかと思います。 ちょっと見方や視点を変えることで、至る所に親神様のご守護があることに気がつきます。そこに感動できるかどうか。もっとこうしてくれたらいいのに、と子供に不足をしてしまうこともありますが、生きていること、毎日学校に行くこと、帰ってくることが当たり前ではなく、これほど結構なことはないのです。 私はある時、左足首が腫れてしまい、くるぶしの所にコブのようなものができました。正座もできなくなり、歩き方もぎこちなくなってしまいました。病院で診てもらっても原因は不明でした。 自分の何がいけなかったのかな? 正座した時にゴリっとやってしまったのかな? いけない心遣いをしてしまったのかな?と、その痛いところばかりを気にしてしまっていました。でもある時、その原因を探すのではなく、他のご守護をもっと喜ぼうと思ったのです。 目は老眼っぽくなってきたけど、しっかり見える。耳も聞こえにくくはなってきたけど、しっかり聞くことができる。 ご飯を食べてもしっかり消化されて快便だし、手も指も自由に動かせて仕事もできるし、身体のあらゆる所が健康にご守護頂いていることを感謝するようにしました。 つい、痛いところや辛いところなど、気になるところばかりに目が行きがちですが、そうではなく、もっと視点を大きく持てば、喜びの種は毎日山ほどあります。その喜びの種を探す癖を習慣に出来れば、毎日嬉しいことだらけで、辛いことも辛くなくなるのかなと思っています。 同じように、子供に対しても出来ないところが気になりがちですが、出来ないことに比べれば、出来ていることはもっとたくさんあります。その出来ている所を喜んで、プラスの言葉を掛け続けていきたいと思います。 はらだちのほこり 腹を立てたことがないという人は、おそらくいないでしょう。腹を立てるのに理由などありません。冷静に振り返れば原因をたどることも出来ますが、その場の怒りにまかせ、つい言葉に出してしまうといった経験は、誰しもあると思います。 教祖は、私たちが日常使いがちな、陽気ぐらしに反する心づかいを「ほこり」にたとえて教えられていますが、その中で「はらだち」のほこりについて、次のようにお示しくださいます。 「はらだちとは、腹が立つのは気ままからであります。心が澄まぬからであります。人が悪い事を言ったとて腹を立て、誰がどうしたとて腹を立て、自分の主張を通し、相手の言い分に耳を貸そうとしないから、腹が立つのであります。これからは腹を立てず、天の理を立てるようにするがよろしい。短気や癇癪は、自分の徳を落とすだけでなく、命を損なうことがあります」 教祖は常に、教えを求めて寄り来る人々のそれぞれの心づかいを見極められた上で、お諭し下さいます。 入信後間もない、生来気の短い青年に対しては、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」と仰せられました。 また、夫婦で熱心に信心していた桝井伊三郎さんには、次のようにお話し下さいました。 「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」 「伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」 伊三郎さんは、女房が告げ口をしたのだろうか、と疑いました

  7. MAY 2

    メグちゃん、「ようぼく」になる

    メグちゃん、『ようぼく』になる  助産師  目黒 和加子 『ようぼく』。リスナーの皆さんには聞きなれない言葉ですよね。天理教教会本部で神様のお話を聴くことを「別席を運ぶ」と言うのですが、その別席を九回運び、おさづけの理を戴くと、ようぼくにならせて頂くことが出来ます。天理教が目指す「陽気ぐらし」に向け、教祖の手足となって働くのがようぼくです。 私の夫、メグちゃんは結婚前、天理教を全く知らない人でした。 「天理教?そんな宗教があるんだ。信教の自由は日本国憲法で保障されているから、結婚してからも遠慮なく信仰を続けてね。けれど、僕を勧誘しないでね」と言っていた彼。その彼が、ようぼくになるまでのプロセスを書いてみます。 あるお産の現場で重症仮死で生まれてきた赤ちゃんがいました。心臓はわずかに動いていますが、産声を上げません。直ちに新生児集中治療室に救急搬送したのですが、搬送先から戻ってきたドクターは思いつめた顔で、「かなり厳しい状況です…」とがっくり肩を落としています。 「こうなったら神さんしかない!」ロッカールームに飛んで行き、近所の鶴湘南分教会に電話をしました。 「赤ちゃんが重症仮死で大きい病院に運ばれました。大至急、神様にお願いしてください!」 「分かった。直ぐにお願いづとめにかかるから!」と、会長さんの力強い声。仕事が終わるや否や、車をぶっ飛ばして鶴湘南分教会へ。財布の中身を全部お供えして、赤ちゃんのたすかりを一心に祈りました。 帰宅するとメグちゃんが先に帰っていて、「今日は遅かったね。何かあったの?」と訊ねます。 「赤ちゃんが重症の仮死状態で産まれてきて、大きい病院に搬送になってん。どうでもたすかって欲しいから、鶴湘南さんに行って神さんにお願いしてきた」 「また財布をひっくり返して賽銭箱に入れてきたの?」 「だって、こうなったら神さんしかないやん」 「和加ちゃんがエラーしたから仮死状態になったの?」 「ちゃうよ。へその緒が首に三重に巻きついてて、産道通過の時に引っ張られて低酸素状態になったからやで」 「へその緒が三重に巻きついたのは和加ちゃんのせいなの?」 「ちゃうちゃう。私のせいでも、お母さんのせいでも、赤ちゃんのせいでもない。子宮の中で、たまたまそうなってん」 「それなら、どうして和加ちゃんが自分のお金をお供えするの?」 「だって、昔からのご縁があるから私が取り上げさせてもらったんやで。これは、たまたまとちゃうねん」 「昔からのご縁ってどうゆうこと?」 「前生からのご縁があるねん。今世では私が助産師としてお世話させてもらってるけど、前生では私が産婦さんや赤ちゃんにお世話になった御恩があると思ってるから。だから出来ることを精一杯させてもらうねん」 「前生?今世?御恩?よく分からないなあ。それと和加ちゃんはいつも自分のことより人を優先するのはどうして?」 「教祖がそうしてはったから」 「おやさま?おやさまって誰? こないだも大出血した産婦さんのお願いに、ボーナス全部お供えしてたよね。自分が働いたお金を他人のために使うってどういうこと?」 「他人とちゃうって。お産でかかわる産婦さんや赤ちゃんは、前生からのご縁のある人やねんって」 「う~ん。僕が生きてきた中で初めて聞く考え方と行動なんだよ。和加ちゃんを理解するには、天理教を知らないといけないようだね」 そんなことを言い出した彼は、天理教基礎講座を受講し、別席も運び始めましたが、途中で足踏み状態に。うるさく言えば運んでくれるでしょうが、自ら求める気持ちになるまで待つことにしました。 そんなある日のこと、東京のT分教会から講演依頼がありました。今回はノートパソコン、プロジェクター、スクリーンを使い、『稿本教祖伝』の「をびやためし」についてお話をするのですが、私はこういう機器類の操作が苦手。システムエンジニアのメグちゃんについて来てもらうことにしました。 広い会場で「をびやためし」のお話をしていた最中の出来事です。前方の左手からすすり泣く声が聞こえます。どなたかしらと見回すと、なんとT分教会の会長さんでした。 教祖は44歳の時、妊娠七か月目で流産となり、自らのお体を通して「をびやためし」をされました。それについての私の考察を聞き、男性の会長さんが涙をポロポロ流して鼻水をすすり、子供のように泣いておられるのです。その姿をメグちゃんも見ていました。 会長さんは「読むだけで終わっていた『をびやためし』の中の教祖の親心が胸に迫って。途中から泣けて泣けて…」と、目頭を押さえておられます。 帰りの車中、メグちゃんは「天理教の人は教祖のことが大好きなんだね」と呟き、何か考えている様子。そして「和加ちゃんの人生の指針となっている教祖のことを、もっと知りたい。来週、天理に行って神様のお話し聴いてきます」と言い出したのです。 結婚して13年が経ち、メグちゃんは「ようぼく」になりました。それから数か月後、メグちゃんもようぼくになったんやなあと、確信する出来事が起きたのです。 その日、メグちゃんは帰宅するなり真剣な顔をしていました。 「今朝、電車で座席に座って本を読んでたら、急に周囲がざわざわし始めて。どうしたのかなと様子を見ると、ドアの近くに男の人がうずくまって、顔面蒼白で胸を押さえて苦しんでて。けれど、周りにいる人はスマホを見てたり、外を見てたり、見てみぬふり。誰も声をかけない。ほっとけないと思って次の駅でその人を降ろして、駅員さんに連絡して。救急隊が到着するのを見届けてから出勤したら、遅刻してね。もちろん会社に電話してあったけど、上司から『お節介もほどほどに』って苦笑いされた」 私は「メグちゃん、ようやったなあ。お節介とちゃうで。おたすけやで。教祖、めっちゃ喜んではる。わたしも嬉しいわあ♡」といっぱい褒めました。 ようぼくとして年々、頼もしくなるメグちゃん。今は夫婦で教祖のカバン持ち。重さは半分、喜びは2倍になりました。 だけど有難い「安らぎの場所」 フランスでは、「パックス」と呼ばれる未婚のカップルが多いようです。そのカップルから生まれる子供が、子供全体の50%を超えたというニュースを見ました。背景には、フランスでは離婚の際に財産分与が非常に厳しいなどの諸事情があるとのことですが、正式な夫婦よりもパックスのほうが一緒にいる期間が平均して短く、違う人と一緒になるケースが多いということです。子供から見れば、正式な家族ではない両親がいて、その多くが、別れてまた別の親と一緒に暮らすようになるということです。 アメリカでは以前から離婚率が50%を超えていて、互いに離婚歴のある者同士が子連れで再婚する「ステップファミリー」が増えています。それにより、子供が大きなストレスを受けることが社会問題になっています。また、実の親による子供の誘拐まで起こっています。動機は、別れた相手が幸せになることへの妬みや、自分の子供が別の親と一緒にいるのが耐えられないということです。 つらい目に遭うのは子供たちです。お父さんとお母さんが勝手に別れてしまったと思ったら、また違うお父さんやお母さんができる、違う兄弟ができる。以前は児童養護施設に入る子供というのは、親を亡くしたケースがほとんどでした。しかし、いまは親がいるにもかかわらず、何らかの理由で育てられないからと施設に預けられる。 家庭は本来、安らぎの場所です。その家庭がなくなったり、ストレスのたまる場所であったりするのですから、子供たちにとって受難の時代です。日本でも離婚率が37%、都会では40%を超えているということです。フランスやアメリカの話は決してよそごとではありません。 もちろん昔も今も、たとえ別れたくなくても、生別、死別するカップルはあります。添い遂げたくても添い遂げられない人がいるのです。そして、大変な思いをしている子供たちがいる。その子供たちをたすけるのは誰か、家庭の温もりを伝えるのは誰かと考えたときに、教会、そしてお道の者の役割は非常に大きいと思います。 教会は昔から、身寄りのないお年寄り、行き場のない若者や子供たちを預かってきました。血のつながりがなくて

  8. APR 25

    本当のながいき

    本当のながいき 兵庫県在住  旭 和世 私どもがお預かりさせて頂いている教会では、六年前に「こども食堂」を始めました。こども食堂を始めたきっかけは、そのスタートの少し前にさかのぼります。 当時、私は4人の子供の子育て真っ最中。三人の小学生に、末っ子は重度の心身障害児で在宅での医療的ケアをしていました。 末っ子の優子は「18トリソミー」という染色体に異常がある病気でした。病院の先生からは生涯寝たきり、一歳まで生きられる確率は一割と言われていましたが、ご守護をたくさんいただき、その頃優子は二歳を迎えようとしていました。 とはいっても自発呼吸ができないので、24時間呼吸器が手放せず、体重は新生児の赤ちゃん並みの4キロほど。発達はものすごくゆっくりで、首が据わることも、歩くことも、話すこともできず、小さなベビーベッドが彼女の居場所でした。 そんな24時間目が離せない彼女を育てながらも、教会でこども食堂ができないだろうかと考えていました。というのも、実は我が家には優子が産まれる前に、同じ18トリソミーの次男を子育てしていた経験があったので、医療的ケアにも、気持ちにも少し余裕があったのです。 次男の孝助の時は、想像を絶する医療的ケアの大変さに、ドキドキ、オロオロして気が休まることはなく、毎日が必死で余裕は全くありませんでした。私は外に出ることもなく、一日中孝助のベッドにへばりついて介護生活をしていました。 心はだんだん内向きになり、人に会うのもしんどくなり、訪問看護師さんに会う元気すらなくなっていく自分がいました。その頃はちょうど教祖130年祭の年祭活動一年目でした。「年祭の旬に一人でも多くの方にお道の素晴らしさを伝えて、おぢばに帰っていただこう!」という活気にあふれた周りの状況とは裏腹に、内向きな自分の心だけが取り残されているような気がしていました。 そんな中、教会につながる方が「孝助くんは教会の宝物だね」と言ってくださったり、近くの教会の奥さんが「和世ちゃん、孝ちゃんを連れてたとえ一軒でも二軒でもにをいがけに行くなら、私ついていくから!」と声を掛けてくださったり、「孝ちゃんに会うと元気もらえるわ!」と言って下さるかたなど、周りの皆さんの寄り添いのおかげで、私の心はだんだん外に向かうようになっていました。たとえ一軒でもにをいがけに行こう! 毎日を喜ぼう! と前を向けるようになり、大変だと思っていた日々に喜びが増えていきました。 その後、孝助は130年祭を迎える前に二歳で出直しました。突然のことに、辛い悲しい気持ちをたくさん感じながらも、それだけではない、これまでの感謝と信仰があったおかげで先を楽しみに通らせていただけることも実感していました。 その後のまさかの優子の出産! もう「喜ぶ!」しか答えはありません。忙しい中にも喜びばかりでした。 しかし、ふと「こんなにありがたい、嬉しい毎日を過ごせるようになったのも、信仰のおかげ、周りの皆さんの寄り添いのおかげ…。何か神様や地域の方々へご恩返ししなければ申し訳ないな」と思うようになり、教会に居てでもできる「にをいがけ」はないかなと考えるようになりました。 そこで、以前からやってみたいと思っていた「こども食堂」はどうだろう?と思いつきました。本当にできるのか不安もありましたが、会長である主人が心配しながらも協力してくれることになり、お料理好きな母も快く承諾してくれて、何とか活動を始めることができました。 こども食堂の日には、訪問看護師さんがその日に合わせて優子のケアに来てくださったり、優子の薬を配達していた薬剤師さんもボランティアに来てくださったりと、色々な方が教会に出入りしてくださるようになりました。コロナ禍でも活動は継続し、優子のベッドのそばでたくさんのお弁当を作ったり、子供たちの学習支援もできるようになり、教会に新鮮であたたかい空気が流れていくような気がしました。 そんな活動が軌道に乗ってきたのを見届けるかのように、優子は4歳で神様の元に戻りました。どこかで心の準備はしていたものの、やはり我が子に先立たれる寂しさは言葉にできないほど辛いことでもありました。 そんな時、ある方がこんな言葉をかけてくれました。 「孝助くんと優子ちゃんは出直したけれど、これからも周りのみんなの心に孝ちゃん、優ちゃんの名前はずっと残っていくから〝名前〟が〝生き続ける〟。それが本当の〝ながいき〟だよ」と言ってくださいました。 その言葉が本当に私の心を救ってくれました。 孝助という名前の由来は「親孝行」の〝孝〟と「人助け」の〝助〟。そして、優子の優は人の憂いに寄り添うという意味。 孝助と優子のおかげでできるようになったこども食堂の活動を通して、私たちは人の憂いに寄り添い、一人でも多くの方に喜んでもらい、助かってもらえる場所になるよう、そして何より、親神様、教祖に喜んでいただける教会になればと思って今も活動を続けています。 そんな優子の出直しから二年ほどたった頃、私たち家族に予想だにしなかったことがまたまた起こったのです。会長の弟夫婦に結婚13年目にして待望の赤ちゃんが授かったのです。もう家族中が喜んで出産を心待ちにしていました。 おふでさきに   たいないゑやどしこむのも月日なり  むまれだすのも月日せわどり (6号 131) というお言葉がありますが、出産当日、このお言葉を痛感することになります。 お産の最中に、あろうことか母胎の子宮が破裂し、緊急の帝王切開になったのです。赤ちゃんは仮死状態、母胎の止血にも時間がかかり、母子ともに命が危ないという知らせが入りました。私たちは、にわかに信じがたい状況に驚き、なんとかご守護頂きたいと皆で必死の「お願いづとめ」をつとめさせて頂きました。 その中で、命をいただけることは当たり前ではないこと、人間の力ではどうにもならないこと、親神様・教祖におすがりするしか方法がないことに改めて思い至りました。そして、奇跡的に二人ともたすけて頂くというご守護を頂いたのです。 親子共に命を落としていてもおかしくない状況の中、本当に親神様のご守護が身にしみた出産でした。 弟夫婦は生まれた男の子を「優助」と名付けました。「優子の優と孝助の助」をとったそうです。その名前を聞いて、主人も私も驚き、まるで孝助と優子が一度に帰ってきてくれたような気がして涙が出ました。 弟夫婦は親子共にない命を助けて頂いたことを心から感謝し、「これからの人生、神様にご恩返しできるように通らせて頂きたい」と、家族揃って教会の御用に勇んで勤めてくれています。 本当に思いもよらないことが幾度となく起こってきた十数年でしたが、我が子「孝助」と「優子」がこの世に産まれさせていただけた事、一緒に色々な事を乗り越え、成し遂げてきた事は、二人が生きた証としてずっと私たちの心の中に生きています。 そして今もなお、親神様のご守護の尊さを伝え続け、親孝行し続けて「本当のながいき」をしてくれています。 三才心 母親が見守る前で、幼子たちが戯れる姿は、純真無垢そのものです。きょうだい同士、たとえ掴みあいのけんかをしても、すぐにケロッと忘れて再び遊び戯れ、母親に笑顔を向けています。何ともうるわしい、無邪気な姿です。 天理教では、「さんさい心」という表現で、素直で純粋な心の大切さを教えられています。 お言葉に、 「この道の中はこうなってもどうなっても、これ三才の子供という心になってくれにゃならん」(M36・12・22) とあります。また、体調の優れない六十代の男性へのお諭しに、 「めん/\はもう生まれ更わりたように成れ。すれば、さあ/\身上何も案じる事要らん。(中略)さあ/\心は今日生まれた人の心に替えて了え。生まれ児には思わく無い」(M40・1・16) とあり、生まれたばかりの純粋な心になるよう促されています。また、教祖をめぐって、こんな逸話も残されています。 明治九年頃のこと。年のころ五、六歳の林芳松という少年が、右手を脱臼してしまい、祖母に連れられて教祖のいらっしゃるお屋敷を訪ねました。 教祖は、「ぼんぼん、よう来やはったなあ」と仰り、入口のところに置いて

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心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

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