天理教の時間「家族円満」

TENRIKYO

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

  1. 2日前

    共に栄える理

    共に栄える理  東京都在住  松村 登美和 今年の夏も、厳しい暑さが続いています。振り返ると、ちょうど一年前は、今頃の季節からスーパーマーケットの棚からお米がなくなり始めて、以来「令和の米騒動」と呼ばれる状況が続いています。 3月からは政府備蓄米の放出が始まり、我が家も安い米を入手しようと、スーパーマーケットやドラッグストアのチラシをこまめにチェックするようになりました。 6月に近所のスーパーで、一回目の放出分の米を5キロ3,500円で買ったのですが、その時妻と「今まで4,500円ぐらいしていたから、たすかるね」「でもよく考えたら、去年の今頃は5キロ2,000円ちょっとだったよなあ。やっぱり高くなったなあ」などと話をしていました。 その夜、テレビでお米の値段について話題になっていました。「消費者にとっては安い方がありがたいけれども、生産者の農家からすれば、今までの値段は安すぎた」との内容でした。 番組では、農業関係者の方が「生産者側にとっての適正価格は?」とインタビューされて、「5キロで最低3,000円は…」「3,000円から4,000円」「3,500円は欲しい」など、それぞれの相場観を語っていました。 私は「もうちょっと安い方がいいなあ」と思いながら見ていたのですが、妻は「そう言えば、結婚した頃は今よりだいぶ、お米の値段は高かったわよね。農家の方にしてみれば、値段が下がり過ぎるのも辛いわよね」と言いました。 その時にふと、天理教教祖・中山みき様「おやさま」のあるお言葉が、頭の中をよぎりました。それは「高う買うて安う売りなはれや」というお言葉です。 天理教には、教祖が時々にお教え下されたお言葉などをまとめた『天理教教祖伝逸話篇』という書物があります。その中の一遍に記されている内容を少し紹介します。 ある時、43歳になる男性が、教祖のもとへ詣りました。その時、教祖が「あんた、家業は何をなさる」と、お尋ねになりました。男性が、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と、お答えすると、教祖は、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と、仰せになりました。 ところが男性は、どう考えても、「高う買うて、安う売る」という意味が分かりません。そんな事をすれば、損をして、商売が出来ないように思われる。そこで、早くから信仰をしていた先輩に尋ねたところ、こう諭されたそうです。 「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理である」。 男性はそれを聞いて、初めて「成る程」と得心がいった、という逸話です。 私は米にせよ何にせよ、安い方がありがたいと思う訳ですが、確かに妻の言う通り、作る側にしてみれば、それが辛い状況につながることもあるのです。 天理教では、「自分さえ良ければ人はどうでもよい」という考え方は、「我が身可愛い」ほこりの心遣いである、と神様から戒められています。それを妻の一言で思い出しました。 ところで、今回改めてこの逸話を呼んで、一つ心に留まった一文があります。それは「問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ」という部分です。「理で立つ」とは、どういった意味なのでしょうか。 問屋から高く買えば、問屋は喜びます。そうしたことで信頼関係を築き上げられれば、例えば商品が品薄になった時でも、多少なりと融通してもらえるかもしれません。また、お客に安い値段で売っていれば、客足は伸びていくでしょう。それが人情というものです。 しかし、男性に諭し話をした先輩は、そうした義理人情だけで「自分の店が立つ」と話したのではないように感じます。 自分の利益を優先する態度を「利己主義」と言います。その反対にあるのが「利他」の精神です。他人のために心を使ったり行動をしたりすることです。 親神様は、世界中の人間の「陽気ぐらし」をお望みになっています。ですから、そうした「他人が良いように」との態度や心遣いをお喜び下さいます。そして、そのような心遣いが出来る人には、親神様は大きな徳、ご守護を下さいます。 つまり「理で立つ」とは、「問屋を泣かさないように」「お客が喜ぶように」という真実ある態度を親神様がご覧下さり、ご守護を下さる。それが「天の理」で立つ、ということではないかと思うのです。問屋やお客が応援してくれるのも、見えない親神様のお働きの顕れなのかもしれません。 さて現在、稲刈りが早く行われる地域では、すでに米の収穫時期を迎えています。今年も全国各地で、親神天理王命様の十全のお働きを頂いて、順調に米の収穫が進むことを願っています。そして、今年の新米は、農家も立ち、自分も立ち、共に栄える理が頂けるように、入手の仕方を考えたいと思います。 おふでさき御執筆 ここでよくご紹介する「おふでさき」とは、天理教教祖・中山みき様「おやさま」が、親神様の思召しのままに、和歌の形式で筆に記された書き物のことを指します。   このよふハりいでせめたるせかいなり  なにかよろづを歌のりでせめ (一 21)   せめるとててざしするでハないほどに  くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22)   なにもかもちがハん事ハよけれども  ちがいあるなら歌でしらする (一 23) この世は理詰めの世界である。つまり、すべては親神様のご守護によって成り立つ世界であるということです。その理というもの、すなわちご守護の流れというものを、手で指し示したり口で諭すのではなく、筆によって教えていく。 そして、その理由について「これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに知らし置いた」(M37・8・23)と、一度聞いただけでは忘れやすい私たちの上を思ってのことであると仰せられます。 さらに続けて、「ふでさきというは、軽いようで重い。軽い心持ってはいけん。話の台であろう。取り違いありてはならん。」(M37・8・23)と、一首々々、軽い心で受け取ってはならないと戒めておられます。 さて、「おふでさき」ご執筆のご様子について、教祖はこのように語られています。 「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見ている。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで』と、仰っしゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思いましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ』と、仰っしゃりました。七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひとり動きました。天から、神様がしましたのや。 書くだけ書いたら手がしびれて、動かんようになりました。『心鎮めて、これを読んでみて、分からんこと尋ねよ』と、仰っしゃった。自分でに分からんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである」   だん/\とふてにしらしてあるほどに  はやく心にさとりとるよふ (四 72) とのお歌があります。親神様は、私たちに「おふでさき」のお歌を日々繰り返し繰り返し味わい、心に深く治め、この世界の真実を早く悟りとることを、切に願っておられるのです。 (終)

  2. 8月22日

    心を込めたサービス券

    心を込めたサービス券                 大阪府在住  山本 達則 日々の街角での布教活動では、沢山の方々との出会いがあります。その中のお一人とのお話です。 いつも布教活動をしている駅周辺で、自転車整理の仕事をされている70代のAさんが、いつ頃からか声をかけて下さるようになりました。「おはよう。今日も頑張ってるな」と、いつも気持ちの良い笑顔で声を掛けて下さいました。 そのAさんが、ある時から「はい、これご褒美」と言って、新聞の切り抜きの餃子のサービス券を私の手に握らせて下さるようになりました。それはいつの間にか、毎週月曜日のルーティンのようになって、私が駅前に行くとすぐに満面の笑顔で近寄って来られ、餃子のサービス券を下さいました。 ある日のこと、いつもは裸のサービス券が、その日は小さなポチ袋に入っていました。私が「わざわざ入れて下さったんですか?」と聞くと、「これでちょっとはいい事あるかな」と、少し照れながら手渡して下さいました。 私が「きっとあると思います」と言うと、びっくりしたような顔で「ほんまか?なんでや?」と言われるので、「僕が喜んでいるからです」と答えると、「そうか、そういうもんなんや」と嬉しそうに言われました。それからは、餃子のサービス券は、必ずポチ袋に入れて渡して下さいました。 ところが半年ほど経つと、ある日を境に、ぱったりとAさんと出会わなくなりました。心配になり、同僚の方に聞いてみると、身体を壊して休んでおられるということでした。 住所は個人情報なので教えられないという事でしたが、いつもの雑談の中で聞いていた辺りを何となく探していると、意外と簡単にお宅が見つかり訪ねてみました。 インターホンを押すと中からAさんが出てこられ、少し驚いた様子でしたが、心配になって訪ねた事を説明すると、快く迎えて下さいました。聞くと、持病の腰痛がひどくなり、一日中立ちっぱなしの仕事が難しくなったとの事でした。 それより私が驚いたのは、「腰がましになったら、持っていこうと思ってたんや」と言って、5枚のポチ袋に入ったサービス券を下さった事でした。 それから、しばらくお話を聞かせて頂くことが出来ました。Aさんには娘さんが一人おられ、数年前に結婚されました。 しかし、一年ほど前から夫婦仲がうまくいっておらず、実家に帰ってきては愚痴や不満をこぼすことが多くなってきました。最近では離婚についても言い始め、孫の事を思うと何とかならないものかと、夫婦で心配ばかりしているという事でした。 「でもな…」とAさんは続けて話して下さいました。 「あんた、前に自分が喜んでるから、自分を喜ばしてくれたから、餃子のサービス券でもいい事あるって言うてくれたな。だから、娘のことも自分ら親だけは喜んでやろうと思って、娘にも話してみたんやで。世の中には結婚したくても出来ない人もいるし、子供を欲しいと思っていても授からない人もいる。旦那さんに対しても、不満や愚痴をこぼしたくなるような事があるにせよ、それは旦那さんがいるからで、いなければそんな事も出来ないもんなって、そう話してみたんや。娘は黙って聞いておった。親である自分だけは、心配するだけでなくて、喜んでやろうと思ってんねん。これでええんやろ、天理さん」 Aさんは満面の笑顔で話して下さいました。 「そうなんですよ。私たちの日常の中では、自分にとって都合のいい事、悪い事、喜べる事、喜べない事、楽しい事、腹立たしい事、色んな事がありますが、それは私たちがそう判断しているだけなんです。それらすべては、私たちが陽気ぐらしをするために神様が与えて下さっている姿ですから、それをどう喜ぶか。そのための努力を、神様は私たちに期待されているんだと思います。 だから、あまり面白くない事が起きても、その中で喜びを見つける努力をする。そうすると、次に何が起きても、それまでよりも喜べる心になるというのが、天理教の教えの一つなんですよ」 私がそう言うと、Aさんは、「うん、うん、ほんまやな」とうなずきながら聞いて下さいました。 それからしばらくして、Aさんは仕事に復帰されました。そして、「今日もいい音してるな」と拍子木の音を褒めて下さった後で、「はい、これ」と言って、ポチ袋に入れた餃子のサービス券を下さいました。 日常生活での「家族円満」への道は、喜べないような中であっても、少しでも喜ぶ努力をすることが一番の近道なのではないかと改めて思いました。 梶本宗太郎さん 小さい頃から、教祖のお屋敷へ引き寄せられ、その教祖の温かい親心にふれ、生涯を信仰にささげた者は数多くいます。 教祖のひ孫にあたる梶本宗太郎さんも、その一人です。小さい頃の教祖との思い出を、このように語っています。 教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同士遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。 それでも、「今、やったやないか」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。 櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。 私は、曾孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、  「早う、一人で来るようになったらなあ」 と、仰せ下された、という。(『教祖伝逸話篇』193「早う一人で」) 教祖の懐に抱かれながら成長し、家族共々お屋敷へ入り込み、教会本部に長らく務めた宗太郎さんは、後年、このようなお話をしています。 このお屋敷に連れ帰られたみなさまこそ、まことに幸福な方々であります。 だれ一人として不足な心づかいで帰りている者がありましょうか。病気をたすけてもらったうれしさとか、今までは内々も、親子、兄弟、夫婦の中をむつまじく暮らせなかったが、教えの理を聞かしていただき、内々が互い互いの心の改良ができて円満に通させていただいているとか、そのうれしさを神様に報告申し上げるとか、親神様のひざ元に参りて心のさんげをさせていただきたいとか、今後は道の上で働かせていただく決心を告げ奉るとか、でありまして、何万の人々は和気藹々のうちにお屋敷にお帰りになったのであります。 お言葉にも、   をもしろやをふくの人があつまりて   天のあたゑとゆうてくるそや   (四12)   にち/\にみにさハりつくまたきたか   神のまちかねこれをしらすに   (四13) とお諭しありますごとく、喜び勇んで帰るみなさまを、神様は日々にお待ちかねておいでになります。 まさに、教祖に引き寄せられた喜びそのままに、宗太郎さんは生涯をこの道の信仰に捧げたのでした。(終)

  3. 8月15日

    心コロコロ

    心コロコロ 岡山県在住  山﨑 石根 一般的に、「社寺などに金銭・物品を寄付すること」を「寄進」と言いますが、天理教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進として神様がお受け取り下さるとして、それを「ひのきしん」と教えられます。 私たちのように教会で生活する者や、天理教を信仰している家庭では、この「ひのきしん」という言葉は、幼少期から身近にある言葉でした。 3月末に岡山市にある大教会で、子どもたちが100人以上集まる大きな行事がありました。 そこで、天理教の代表者である真柱様から子どもたちへ「告辞」というお言葉を戴いたのですが、その中で「親神様への感謝の気持ちを行動に表すことを『ひのきしん』といいます」と説明をされていました。 また、私も子どもたちに神様のお話をする立場にありましたので、その時に同じように「ひのきしん」の意味について触れ、「親神様への感謝の心があるか、ないかが重要なんですよ」とお伝えしました。 つまり、「どんなにたくさんお手伝いをしたとしても、嫌々したり、文句を言いながらしてしまうと、ひのきしんにはならないし、反対に、たとえ落ち葉一枚だけを拾ったとしても、そこに神様への感謝の心があれば、それは立派なひのきしんになるんですよ」と、「行いよりも心が大切」というお話をしたのです。 おつとめと、このお話などを聞く式典が終わると、いよいよお楽しみ行事です。たくさんの模擬店や楽しいイベントがあり、最後のビンゴ大会では、みんな何かしら景品が当たって大喜びでした。とりわけ、この春中学生になる三男は、なんと1000円分のクオカードをゲットし、「やっぱり僕はひのきしんいっぱいしとるけぇなぁ」と、得意気に報告に来ました。 さて、月が変わり4月1日の夜のことです。妻がその日の午後の神殿掃除を、三男がいつになく真剣に手伝ってくれたと、教えてくれました。 私は感心して本人にお礼を言うと、「いや、有り難いと思ってするって知らんかったから」と言うのです。 「え、どういうこと?」と尋ねると、「この前のととの話で、元気な身体を使わせてもらって有り難うと思ってするって初めて分かったんよ。ひのきしんは心なんじゃろう? 僕は心入れ替えたんじゃ」と言うではありませんか。 こういうことを恥ずかしげもなく言えるところが、天然キャラである三男の魅力なのですが、何とも話し手冥利に尽きる反応です。 そして、三男は次のように続けたのです。 「そうやって神殿掃除を頑張ったら、そのあと、お姉ちゃんにUNOで二回もボロ勝ちしたんで。やっぱり運が上がってきたわ!」 子どもの素直さに本当に嬉しい思いがしたのと同時に、神様のお話を伝えた大人の私自身も、もっともっと心がけなければならないなぁと襟を正したのでした。 すると、続けて妻がその日のお昼にあった出来事も教えてくれました。 妻の誕生日を三日後に控えていたのですが、三男が早くも誕生日プレゼントをくれたとのこと。しかも、先日のビンゴ大会で当てたクオカード1000円分を全部くれたと言うのです。 「私は『ええよぉ、自分で使いねぇ』と言うたんやけど、『ええから、お母ちゃんの欲しいもんが分からんけぇ、これで欲しいものを買いねぇ』と言うばかりで、挙句の果てには『僕は欲しいものないけぇ』と言うんよ」 と、妻は照れながら、そして嬉しそうに伝えてくれました。 なんとまあ、心を入れ替えた人は素晴らしいなぁと、私は自然と笑みがこぼれました。 嬉しい出来事はまだまだ続きます。 我が家では、小学五年生から毎月500円のお小遣いを与えるようにしています。この春、五年生になる末娘にとっては、ずっとずっと我慢して、待ちに待ったお小遣い。この4月1日に念願の500円をやっとゲットしました。すると、そのお小遣いの中から、さっそく妻が大好きなチョコビスケットを買って、プレゼントしてくれたのです。 さらに中3のお姉ちゃん。中3になっても我が家では同じく500円のお小遣いです。それなのに、妻の好きなルマンドとプリンをプレゼントに買ってくれて、ほぼお小遣いを使い切っている始末でした。 もちろん妻は妻で、「私は嬉しすぎて、三男からもらったクオカードを、あの子にどうやって返そうかと今、思案中…」と言うので、私は自分の妻、そして我が子ながら感心、感激の至りでした。 しかし、はたと気づきました。実は私の誕生日は3月で、つい二週間ほど前だったのです。 「あれあれ? よう考えたら、ととの誕生日には誰もプレゼントくれんかったで~」と言うと、三男が間髪入れずに答えました。 「それは、まだ心を入れ替える前じゃったんじゃがぁ」 これには一本取られました。 続けて「来年楽しみにしといて」と言ってくれた彼に、「コロコロ変わらず、どうか一年後まで心を入れ替えた状態でありますように…」と、私は祈るように伝えましたが、もちろんこれは冗談です。 そう思ってくれた「心」が嬉しいし、むしろ「心」だけで十分なんです。それが親というものだよなぁと思った時に、人間の親である神様も、きっと「行い」そのものよりも「心」がどうであるかを喜ばれるんだろうなぁと、あらためて感じました。 今日もまた、親神様に感謝の心で「ひのきしん」です。 御退屈でございましょう 教祖は、参拝人のいない時には、お居間にお一人でいるのが常でした。お寂しいのではないだろうか、と考える者は当然いて、そんな信者と教祖にまつわる色々な逸話が残っています。 井筒梅治郎さんは、いつも台の上にジッとお座りになっている教祖のご様子に、御退屈ではあろうまいかと、どこかへ御案内しようと思い、「さぞ御退屈でございましょう」と申し上げると、教祖は、 「ここへ、一寸顔をつけてごらん」 と仰せになり、御自分の片手を差し出されました。梅治郎さんがその袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りが見えました。ちょうど牡丹の花の季節のことであり、梅治郎さんは、教祖は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と恐れ入ったといいます。(教祖伝逸話篇76「牡丹の花盛り」) また、ある時、教祖は、村上幸三郎さんに、 「幻を見せてやろう」 と仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が見えるようになされました。そこには、煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている姿が見えました。そこで幸三郎さんがお屋敷から自分の村へ戻り、早速煙草畑へ行ったところ、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たのと全く同じように、生き生きと茂っていたのです。それを見て幸三郎さんは、安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏したのです。 というのも、幸三郎さんはおたすけに専念する余り、田畑の仕事は作男にまかせきりでした。まかされた作男は、精一杯煙草造りに励み、そのよく茂った様子を一度見てほしい、と言っていたのですが、幸三郎さんはおたすけに精進する余り一度も見に行く暇がなかったのです。 もちろん、おたすけの日々の中でも、いつも心の片隅に煙草畑のことが気にかかっていました。そういう中でおぢばへ帰らせて頂いた時のことで、幸三郎さんは、教祖の子供をおいたわり下さる親心に、いまさらのように深く感激したのでした。(教祖伝逸話篇97「煙草畑」) さて、教祖は、ある時、梶本ひささんに、  「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年でも、帰られぬやろうなあ」と仰せられました。海の外までもこの御教えが広まる日を、見抜き見通されてのお言葉と伝えられます。(教祖伝逸話篇168「船遊び」) 教祖がもし自由に船遊びをされたなら、そのご様子はどのようなものであったのでしょうか。想像は果てしなく広がります。教祖はお屋敷にいながらにして、広い世界の様子を、いつでも隈なくご覧になっておられたのです。 (終)

  4. 8月8日

    待ちに待ったカラオケ

    待ちに待ったカラオケ                埼玉県在住  関根 健一 小学生のあこがれの職業に「YouTuber」がランクインした時、ニュースがこぞって取り上げて話題になったことは記憶に新しいですが、今ではランキングに並んでいても、特に話題にならなくなってきました。さらに時代は先に進んで、動画配信サービスやAIなどが日常にあふれて、人々の娯楽というものは多岐にわたっています。 私が小学生の頃はというと、専らテレビが娯楽の中心でした。その頃、同級生の間では戦隊ヒーローやアニメが流行っていましたが、印象的な子供向けのドラマもたくさんあったと記憶しています。 中でも「あばれはっちゃく」というドラマが、私にとっては毎週の楽しみの一つでした。やんちゃで情にもろい昔ながらのガキ大将の主人公を同世代の男の子が演じ、5代目まで続いた人気シリーズで、児童向け小説が原作でした。 各回の細かい内容は覚えていませんが、学校から自宅へ帰った主人公がランドセルを放り投げて一目散に遊びに出かけていくシーンや、主人公の破天荒ぶりに「父ちゃん、情けなくて涙が出てくらあ!」と父親が叱りつけるシーンなどが大好きで、放送された次の日に学校で友達とモノマネをしたことを今でもしっかり覚えています。 その頃の私は、あばれはっちゃくの主人公の性格とは真逆で、外で活発に遊ぶよりも家の中で遊ぶのが好きで、木登りや虫取りなど、当時の男の子達が夢中になっていた遊びがどちらかというと苦手でした。 自分が出来ないからこそドラマの主人公に憧れを抱き、毎週楽しみにしていたのかもしれません。そんな子供の頃の思い出もあってか、「元気に遊ぶ子供」のイメージは、いつもランドセルを放り投げて遊びに行くあばれはっちゃくの主人公の姿です。 やがて生まれてきた我が家の子供たちは、二人とも女の子だったので、あばれはっちゃくとはちょっと違いましたが、長女が特別支援学校に通うことになり、障害のある子供たちの「遊び」の環境には別の問題も多いことを教えてもらいました。 遊びは、子供たちに多くの学びを与えてくれます。小学生になると、ほとんどの子が、親がいなくても子供同士で約束して公園で待ち合わせをしたり、お互いの家を行き来したりするようになりますが、障害のある子供たちはそのようなことが出来ません。 そんな自分たちで遊ぶことが難しい子供たちのために、平成24年度から「放課後等デイサービス」という制度ができました。 一般の学童保育は保護者が働いていて不在の時間、子供を預かることが目的ですが、放課後等デイサービスは、障害があって支援が必要な子供に対して、様々な体験を提供し、健全な育成を保障していくことが目的です。 我が家の長女も、制度が始まった当初からこのサービスを利用してきました。放課後の時間、必要な支援を受けながら、本を読んだりゲームをしたり、同級生だけでなく、小学生から高校生までの幅広い年代の子供たちとの交流を通じて、色々な体験をさせてもらいました。この場で培われた感受性は、彼女の現在にまでとても大きな影響を与えています。 高校を卒業すると放課後等デイサービスの制度は使えなくなり、今度は成人向けの福祉サービスの中で暮らすことになります。長女は現在、生活介護サービスという制度を利用して、日中を事業所で過ごしています。 働くというよりも、日中を穏やかに過ごすことが目的ですが、ここでは最高65歳までの方がサービスの対象となるため、放課後等デイサービスの頃よりも、さらに幅広い年代の利用者さんと関わることになります。 人と関わることが好きな長女は、行き始めてすぐに施設の雰囲気に馴染みました。それと同時に、先輩たちが長年の経験から様々なサービスを使って充実した生活を送っていることを見聞きして、大いに刺激を受けました。 そのうち、自分から「お出かけに行きたい」などと言い出しました。施設の職員さんに聞いてみると、「この前、〇〇さんがお出かけした話を聞いたから、自分も行きたいと思ったのかもしれません」と教えてくれました。 そこで、長女にどこに行きたいのか聞いてみると、「Kさんとカラオケに行きたい」と言うのです。Kさんとは、おしゃれな服を着て、ピンクの可愛い車に乗って週に何度か送迎の介助に来ている女性のヘルパーさんのことで、いつも長女の話し相手になってくれるので、一緒に行きたいと思ったようです。 長女の希望を叶えるべく、Kさんの所属している事業所とも相談して、二か月後に移動支援サービスを使って、Kさんご指名でカラオケに行くことが決まりました。 長女にそのことを伝えると、翌朝、起きて着替える時から「Kさんとカラオケに行くんだ~」「嵐の歌を一緒に歌うんだ~」と、家を出るまでずっとその話をしています。帰宅しても、寝るまでの時間、思い出すと「Kさんとカラオケに行くんだ~」と二か月の間、ほぼ毎日繰り返し言っていました。 普段送迎に来てくれるKさんも、「当日は車で3時に迎えに行くね」とか、「カラオケは車椅子が入れるお店を予約したよ」と声を掛けてくれて、益々楽しみになっていったようです。 やがて当日を迎え、移動も含めて3時間を過ごして帰宅しました。大好きなKさんと大好きなカラオケに行って、本人はご満悦の様子で、目をキラキラさせながら「楽しかった~!」「また行くんだ~!」と話してくれました。 そんな長女の姿を見て、次女がボソッと「教祖がおっしゃる『たんのう』の意味が少し分かった気がする」と言いました。それを聞いた私は「なるほど!」と膝を打つ思いでした。 自分で考えて自由に行動できる身で考えると、たった3時間、移動してカラオケに行くだけなら、今すぐにでも出来ます。しかし、障害のある長女は、海外旅行にでも行くかのように、数か月前から待ちわび、準備をして、当日、その時間を精一杯楽しんできました。 「たんのうは前生いんねんのさんげ」とも聞かせて頂きます。たんのうすることはなかなか難しいことだと常々思っていましたが、出来ないことに目を向けるのではなく、出来る中で精一杯楽しむ長女の姿に、たんのうすることのヒントをもらえた気がします。そして、そこに気づいた次女の素直さにも頭が下がります。 私たちの幸せは、どこかから持ってこなければ存在しないものではなく、今の自分の中に十分にあるのだと思います。心の中にある幸せをたくさん見つけられるように、長女の姿と次女の素直さをお手本にしていきたいと思います。 真実の願いは埋もれない 人間には誰しも欲があります。「よくのないものなけれども」と、みかぐらうたにあるように、欲のない人間はいないと親神様は仰っています。生きるうえで必要な欲もありますから、ある程度は許されていると考えても良さそうです。 ところが、人間というものはいかにも欲深くて厚かましい。おつとめで親神様に拝礼をしている時、どんなことを願っているでしょうか。自分の健康な身体にお礼を申し上げる、今日も結構な目覚めを頂けた、あるいは身近な家族か親戚が病気で臥せっているのでたすけて欲しい、上司との関係で悩んでいる友人の気分が少しでも晴れますように…。このような謙虚なお願いなら親神様はお受け取り下さるでしょう。 ところが、なかには「もっとお金が儲かりますように」だとか、努力もせずに「テストの点数が上がりますように」なんていうお願いをする人もいるでしょう。親神様も、時に何千、何万ものお願いを一度に聞かれるわけですから、そんな自分勝手なお願いまでは手が回らないかも知れません。 親神様は、そんなたくさんのお願いの中でも、「私のことはどうでもいいのです。困っているあの人のことを、どうかたすけてください」という声を、スーッと聞き入れて下さるのではないでしょうか。 「ほしい、ほしい」と求めてばかりいる人と、「あの人をたすけてください」と真剣に祈りを捧げている人とでは、神殿で額づく際にも、おのずと醸し出す雰囲気が違ってきます。ですから、後者のような真実の願いは、どんなに大勢の人の中でも埋もれず、確実に親神様の元に届くのです。 「おふでさき」に、   をやのめにかのふた

  5. 8月1日

    まいたる種は…

    まいたる種は… 福岡県在住  内山 真太朗   にち/\に心つくしたものだねを  神がたしかにうけとりている   しんぢつに神のうけとるものだねわ  いつになりてもくさるめわなし   たん/\とこのものだねがはへたなら  これまつだいのこふきなるそや 今日は、この三首のお歌に込められた神様の親心を悟った話。結婚14年目に突入し、現在教会長をつとめている私と妻との、ちょっと甘酸っぱい話をお聞き頂きたいと思います。 私と妻との出会いは今から20年前、お互いハタチの時です。私は天理大学の学生、妻は静岡県在住のOLで、当時はまだSNSもなかった時代、インターネット上の音楽系サイトで知り合い、未信仰だった彼女を初めておぢばに案内したことをきっかけに、交際が始まりました。 6年間にも及んだ遠距離恋愛の中で、何度もおぢばを案内し、お道の話をする機会も増え、別席も運んでくれました。私にとっては初めてお連れする別席者で、交際相手とあって丹精に熱が入っていました。 交際して6年の月日が流れ、「この人となら」と思い、お互い結婚を決意しました。しかし、私は福岡県の天理教の教会長後継者、妻は静岡県でお茶工場を営む社長の一人娘。あまりにも境遇がかけ離れていて、反対されるのを覚悟で妻のご両親へ挨拶に伺いました。 新調したスーツを着て、ご両親を前に、緊張しながら「どうか、娘さんと結婚させてください…」しばらく沈黙がありましたが、「二人で決めたことなら」と、ご両親とも快く結婚を承諾して下さいました。 すると妻のお母様から、「結婚の前に天理教の勉強をさせたい」との思いがけない申し出があり、妻は教えを学ぶため、結婚前に修養科を志願してくれました。さらに三か月間の修養科修了後には、教会生活を学ぶため、半年間大教会の住み込み女子青年としてつとめてくれました。 天理教のことを全く知らなかった妻は、結婚前に多くの教友と出会い、導いて頂き、お互い26歳の秋、大勢の方々に祝福されながら、大教会で結婚式と披露宴を挙げさせて頂きました。 世界中の人とつながれるインターネット上で、偶然出会った素敵な女性との結婚。私にとってこんなにありがたい事はありませんでした。 さて、話は結婚式の数日前に遡ります。教会の前会長夫婦である祖父母から「話がある」と、妻と二人で呼び出されました。80歳を超えて尚、誰よりも信仰に厳しい祖父母。よもや結婚を反対されるのでは? そんな不安をもって祖父母のもとへ行くと、祖父がこのような話を聞かせてくれました。 「今回の結婚、本当に嬉しく思う。実は、おじいちゃんは今から60年前、戦争が終わってハタチの時、確かな信仰をつかむために、当時出来たばかりの天理教校専修科に入学したんだ。二年間色んなことを経験して学んだが、この信仰を信じ切ることが出来ず、神様をつかみ切ることが出来なかった。これではいけない、どうしても神様をつかみたいと思って、専修科を卒業してすぐに福岡から横浜へ単独布教に出ようと決意したんだ。でも当時お金がなくて、片道切符で横浜まで行こうとしたけれど、お金が足りずに静岡駅で下車して、その周辺を布教に歩いていたんだよ」 妻の実家であるお茶工場は静岡駅から徒歩10分ほど。何と、60年前に祖父が布教に歩いた地域とは、妻の実家がある場所そのものだったのです。 祖父は続けて、「60年前に布教した時は大した成果は見せて頂けず、あの時の布教は無駄だったと思ったし、今までずっとそう思っていた。でも、静岡の地で伏せこんだ種を神様はちゃんとお受け取り下さって、60年後に今こうして、お前のお嫁さんという形で芽を吹いて帰ってきた。私たちにとって、これほどありがたく、嬉しいことはない。本当にありがとう」と涙ながらに話してくれました。 話を聞いて鳥肌が立ちました。妻はインターネットでたまたま私と出会い、お道を知り、修養科を修了し教会の住み込みをつとめ、結婚して教会へ来ることになった。それはすべて自分の成したことだと思っていました。しかしそれは大きな間違いで、その背景には60年前の祖父の真実の伏せこみがあり、今にして思えば、妻との出会いは偶然ではなく、すべては親神様が出会わせて下さった必然だったのです。 天理教では「まいたる種はみな生える」と教えて頂きます。日々にまいた種、つまり自分の日々の行いは、やがては自分や子孫に返ってくるのです。 まいた種によっては一日で生えてくる種もあれば、一か月で生えてくる種もある。一年、二年で生えてくる種もあれば、このように60年経ってようやく生えてくる種もある。いずれにしても、真実の種をまけば親神様はお喜び下さり、いつか必ず素晴らしい形で芽吹かせて下さる。そのことを身をもって実感した妻との結婚でした。 私たち夫婦は4人の子供たちを授かっています。祖父をはじめ親々の伏せこみのおかげで今の自分達があるということを肝に銘じ、今度は私たちが子供達のため、そしてまだ見ぬ孫達のために、親神様、教祖にお喜び頂ける種をまくことを目標に通っていきたいと思います。 だけど有難い「『感謝』から『報恩』へ」 最近、親による子供の虐待や育児放棄が社会問題になっています。それに伴い、「親は子供を育てる責任と義務がある」とか、「子供には育てられる権利がある」というようなことが言われます。私は、この「責任」や「義務」「権利」というようなものからは、「感謝」の心は生まれないと思うのです。「責任があるから」「権利があるから」といった感覚では、子供は親に「育ててもらって当たり前」であって、そこに感謝の心の生まれる余地はありません。 お道では、そうしたことに気づいていただきたいとの思いから、「感謝 慎み たすけあい」という標語を作って、教会の前などに横断幕を掲げてきました。 「感謝」という言葉は、一般社会でもよく使われます。「親に感謝しています」「お世話になって大変感謝しています」などと言いますね。しかし本当に大事なのは、その先だと思うのです。それは「報恩=恩を報じる」ということです。「感謝」は、いわば「報恩」への入り口なのです。 三代真柱・中山善衛様は、教会巡教などの際に、よく「報恩感謝」とご揮毫くださいました。三代真柱様が真柱をお務めの時代は、真柱様が「報恩」とお書きになって、継承者であられた善司様が「感謝」と続けられました。善司様が跡をお継ぎになってからは、真柱様が「報恩」とお書きになって、三代真柱様が「感謝」とお書きになりました。 私は「感謝」という言葉は、「報恩」という言葉と結びつかないことには、あまり意味がないと思うのです。たとえば「親に感謝します」と口にするだけでなく、親に育ててもらった「恩」、産んでもらった「恩」を感じることが大切だということです。 「恩」には「返す」という行為が伴います。そう言うと、嫌々させられると感じる人もいるかもしれません。しかし実際には、恩を感じたら返したくなるものではないでしょうか。たとえば恩師に贈り物をするときに、嫌々する人はないでしょう。何を贈ったら喜んでくれるだろうかと、品物を選んでいるときからうれしいものです。恩返しというのは、そういうものだと思います。 親に恩を感じると、それを返したくなる。これは親孝行です。親孝行というのは、しなければならないからするのではなく、せずにおれないからするのです。 親神様のご恩も同じだと思います。この道は「ご恩報じの道」ともいいますが、ご恩を感じなければ通れないのです。親神様のご守護を有難いと思う心があればこそ、「させてもらいたい」「やらずにおれない」という気持ちになるのです。 私たちが毎日こうして元気でいられるのは、第一に親神様のご守護のおかげです。そして、産み育ててくれた親のおかげ、周囲の人たちのおかげ、学校の先生のおかげもあれば、仲間のおかげもあるでしょう。実は、人間はこうした「おかげ」を感じ、「恩」を感じて、それに応えようとするなかに、「生き甲斐」や「喜び」を見いだし、「幸せ」を味わうことができるのです。 私たちは、一人でも多くの人をおぢばへ連れ帰らせていただき、別席を運んでもらおうと努めさ

  6. 7月25日

    令和元年台風15号

    令和元年台風15号 千葉県在住  中臺 眞治 今から6年前、令和元年9月の真夜中、強力な台風の到来により、私共の暮らす千葉県では多くの住居が被災しました。私共がお預かりしている教会も屋根が一部損傷し、雨漏りで壁が崩れる被害を受けました。轟音と共に建物は揺れ続け、停電し、私自身も恐怖を感じたのを覚えています。 夜が明け、台風が落ち着いたのを見計らって外へ出ると、道路には車が通れないほど屋根瓦やトタンなどが散乱し、電信柱が倒れている地域もありました。 被災から6日後、同じ市内に暮らす天理教の教会長さんから相談の電話がありました。「80代の信者さんが自分でブルーシートを張ろうとしているんだけど、困っているようなので行ってもらえませんか?」とのこと。「分かりました」と答えてすぐに向かいました。 聞いた住所地に到着すると、玄関前にそのご主人が立っておられたのですが、目を真っ赤に腫らして、身体は震えていました。話を伺うと、「何日も頑張ったけど、足が震えてこれ以上出来ません」とのこと。 早速2階の屋根に上がると、そこにはブルーシートと土嚢が置いてあり、ご主人が必至に作業をされた形跡がありました。 私は作業を終えた後、なぜ高齢のご主人がこんな危険なことを自分でしようと思ったのか不思議に思い、尋ねました。 「あちこちの業者に頼んだけれど、どこも百件以上待ちで、しかも築40年を超える家は受け付けできませんと断られてしまったんだよ。雨漏りで漏電しないか心配で夜も眠れなくて…」 ご主人の話を聞いて、今この街には同じ悩みを抱えて苦しんでいる方が大勢おられることを知りました。 その後、教会に戻り、妻とこれからのことについて相談しました。実はこの出来事の前日に、地域の社会福祉協議会の職員さんから「高齢者の方のお宅のブルーシートを張ってもらえませんか?」と相談の電話があったのです。 しかし、私たちには屋根に上がるための梯子もなければ、それを運ぶトラックもありません。さらにこの時、妻は次女を身ごもっており、すでに臨月を迎え、いつ生まれてくるか分からない状況でもありました。 そんな中で、私たち夫婦は神様から何を問われているのだろうか? 一通り話を終え、妻に「ブルーシート張り、させてもらいたいと思うけど、どう思う?」と尋ねると、快く賛成し、背中を押してくれました。 今、当時のことを振り返ると、自分でしたことは最初に「させてもらおう」と覚悟を決めたことぐらいで、あとはすべて神様の段取りの中で動かせて頂いたように感じています。作業の初日から、70代の高所作業車のオペレーターの方が「一緒にやろう」と仰って下さり、梯子を使わなくても作業ができました。 さらに一週間ほどしてからは、災害ボランティア団体の方々が装備の貸し出しや技術提供をして下さり、おかげで安全に活動をすることができました。また、SNSを使い、協力して下さる方を募ったところ、4か月間で延べ300人以上、天理教を信仰する方々が全国から駆けつけて下さり、沢山のブルーシートを張ることができました。 どれも神様が巡り合わせて下さった不思議な出会いだと感じ、心が勇む日々でした。また、被災した私共の教会はそのままにしていたのですが、上級の報徳分教会長を務める兄が、「せっかくだからカッコよくしよう。材料費はうちで出すから大丈夫だよ」と、経済的に厳しい状況の私たち家族を気遣うばかりでなく、とてもおしゃれで素敵な空間にしてくれました。本当にありがたかったです。 こうした被災地でのひのきしんを経験された方々からは、同じような話を度々耳にします。 「最初に被害の光景を目にした時には、こんな不条理なことがあるのかという思いが沸き起こった。でもこうした状況にも、神様の何かしらの親心が込められていると信じたくて動き始めた。そうしていざ動き始めてみると、神様の『段取り』や『先回りのご守護』と感じられる出来事がいくつもあり、神様の親心を感じた」といったお話です。 天理教の原典「おふでさき」では、   だん/\になにかの事もみへてくる  いかなるみちもみなたのしめよ (四 22) と記されています。 このお言葉は、自分にとって都合の良いことだけではなく、たとえ不条理と感じる出来事が起きてきたとしても、そこにも神様の親心が込められているのだと信じ、勇んで通る。そうした中で、「神様によってたすけられている」という現実が立ち現れた時、陽気ぐらしへ導いてくださる親心を実感できる。そのことを教えられているのではないでしょうか。 少し話は変わるのですが、この活動に参加している天理教の信仰者は、社会福祉協議会の職員さんから「ひのきしんさん」と呼ばれていました。私たちがそのように名乗っていたわけではありませんが、「ひのきしん」という天理教用語やその意味をご存じで、そのように呼んで下さいました。 「ひのきしん」の意味について、『天理教教典』には、「日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる」と記されています。 ひのきしんは、神様のお働きによって生かされて生きていることを自覚し、そこから湧き上がる喜びの発露としての行いであり、周囲に向けては「一れつきょうだい」の教えに基づくたすけあいの実践へとつながっていきます。活動中、私自身がいつもこのような思いであったかどうかはともかく、駆けつけて下さった方々からは、常にそのような思いを感じていました。 令和元年台風15号での活動以降、多くの方とのつながりが生まれ、現在は教会として地域での様々なたすけ合い活動を行うようになりました。当時、被災地へひのきしんに駆けつけて下さった皆様のおかげであり、日々感謝しています。 いんねんというは心の道 病気になったり、経済的な苦境に陥ったり、人生の苦難は様々にやってきます。そうなるには社会的条件や、人間の目から見た運不運という要素もあるでしょうが、結局のところ、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任で受け止めなければなりません。 たとえば、子供が道で石につまずいて転んでしまい、なかなか泣き止まない時、親はどうするでしょう。石ころを手にして、「石がこんな所にあるから転んだんだ、悪いのはこの石だ!」と、石を蹴飛ばしてやる。この場合、子供は納得して泣き止むかもしれませんが、大人の世界では通用しない論理です。 これでは、お金で苦労している時、自分のせいではない、社会が悪いんだ、と泣き言をこぼしているようなもので、大人であれば、現実を直視し、それに耐えなければなりません。そして、天理教のいんねんという教理は、まさしく大人の世界の話なのです。 「いんねんというは心の道」(M40・4・8) このお言葉がいんねんのはっきりした定義の一つです。道とは長く続くものです。つまりいんねんとして表れてくるのは、昨日今日の短い間の心の話ではないというのが大事な点です。 「人を理不尽に怒鳴りつけたら急にお腹が痛くなった」というような、すぐに短絡的に現れることなら分かりやすいのですが、そんな単純なものではないということです。 意識の流れには連続した歴史があります。その人が生きてきた年月の分だけ心の歴史があり、それが「心の道」と言われるものです。心は日々、瞬間々々に使うもので、それはすぐに消えてしまうかのように思えますが、神様の目を通して「理」として蓄積され、その人の人格を形成していきます。 お言葉にも、 「世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんねんもある」(M28・7・22) と、はっきりと示されています。 いんねんとは言わば、心の倉庫のようなもので、毎日愚痴や不足で通っている人は、それが貯まって巨大な蔵を作っているわけですから、そこから良質な出来事は生まれにくいでしょう。日々の小さな喜びの積み重ねが、やがては大きな天の与えとなって、陽気づくめの暮らしへとつながるのです。 (終)

  7. 7月18日

    吐く息引く息一つの加減で内々治まる

    吐く息引く息一つの加減で内々治まる 東京都在住  松村 登美和 先だって、仕事先の人間関係で悩む人から着信がありました。「一生懸命働いているのに、上司や同僚が認めてくれない」といった話でした。役目柄、そのような相談事によく出会います。 2、30分話を聞いて電話を切った後で、妻が「いつもご苦労様」と言ってくれました。そして続いて、「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ~」と、少し冗談交じりの一言を付け加えました。 その言葉を聞いて、私は背筋がピンと伸びる思いで、忘れかけていた昔の出来事を思い出しました。 それは妻が20代で、私が30代の頃の経験です。私たち夫婦には現在3人の子供がおり、また妻は流産を2回経験しています。そのうち初めの数回、妻は産後に40度近い高熱が数日間続いたことがありました。病院で診察してもらっても原因がわからず、ただ熱が下がるのを待つばかりでした。 私たち夫婦は、普段は東京に住みながら、月に数回奈良県天理市へと足を運び、神様の御用を勤めています。今の時代では「マタニティハラスメント」とお叱りを受けてしまうかもしれませんが、その当時、私は出産前後も家を留守にすることが多く、妻が東京に残ることが重なりました。 何度目かの出産の後、私が天理にいるときに、妻が再び高熱を出しました。その報せを聞いて、私は一緒に御用を勤めていた先輩に「妻に、そうした発熱が度々起こるんです。それも私が東京を留守にしている時が多いんです」と話をしました。するとその先輩が、アドバイスを下さいました。 「奥さんに電話してる? 天理で御用ができるのは、留守を預かる奥さんのお蔭だよ。すぐに帰れなくても、毎日一回はお礼の電話ぐらいしなくちゃ。俺はいつもしているよ」。 なるほど、それはそうだなと思い、それ以後、私も妻に一日一回は電話をかけて、感謝の言葉を伝えるようにしました。すると妻は、電話越しにも分かるほど喜んでくれて、熱はピタリと下がり、それからはひどい高熱が出ることはなくなりました。 天理教教祖・中山みき様が、ある男性にお諭しになったお言葉が残されています。 「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹を立てる、気儘癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」 私たちは中山みき様のことを、親しみを込めて「おやさま」とお呼びしていますが、教祖は続けてその男性に、「あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように」と仰せられました。 私は元来、腹立ちの性分を持っていることを自覚しています。同時に、教祖が仰るように、外では人付き合いが良いのですが、家に帰ると安心感からなのか、ぶっきらぼうになったり、ガミガミ腹を立てたり、めんどくさそうに家族と接してしまう自分がいます。 妻が発熱した時も、振り返ってみれば、人の相談事には耳を傾けるのに、常に私に愛情を注いでくれている産後の妻を顧みず、電話の一本もかけていないのが実情でした。 妻の「私の話も聞いてくれたら嬉しいなあ~」との言葉を聞いて、「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」との教祖のお言葉をあらためて思い出しました。妻の口から出た冗談交じりの言葉は、私の性分も抑え込んでくれる絶妙の加減で、本当に頭の下がる思いでした。教祖が140年以上も前にお話になったことなのに、まるで今の自分に向けてお諭し下されているように感じました。 口に出す言葉の加減で、家庭内や職場、近所付き合いが丸く治まっていく。それが「吐く息引く息一つの加減で内々治まる」ということなのだと思います。もし腹が立ってしまった時に、その感情をそのまま言葉に乗せて相手にぶつけてしまえばトラブルに発展します。そのような気持ちになったら、一旦言葉を飲み込んで引いてみなければなりません。 また、妻の体調が悪い時には、「大丈夫か」と声をかけ、感謝の気持ちを伝える。そうした言葉を日頃から出すよう心がければ、内々は幸せに治まっていくでしょう。 人間の息は、冷たくなった相手の心を温めることもできれば、たかぶっている感情を鎮めることもできます。寒い冬、冷えてかじかんだ手に息を吹きかけて温めたり、また同じ息で熱い飲み物を冷ますこともできます。 心が弱っている人には温かく声をかけ、横断歩道を飛び出しそうな子供には大声で注意をする。 妻のように、言葉の使い方の加減ができるような人間になりたいと思います。それができれば、きっと私たちはお互いにもっと幸せになれるでしょう。 松村吉太郎さん 人は、何ごとも自分の勝手になるものと思い、とかく自分ひとりの苦楽や利害にとらわれがちになります。このような自己中心的な心遣いは、本人にとっては都合がいいかもしれませんが、まわりの人々や世の中にとっての迷惑、苦悩の原因となります。 人間は、きょうだいのように仲良くたすけ合って暮らすのが本来の姿ですから、私たちお互いは、自己中心的な心遣いを慎まなくてはなりません。 明治十九年の夏のことです。 当時ハタチの青年、松村吉太郎さんは、大阪の村役場へつとめながら、教祖のいらっしゃるお屋敷へ熱心に帰らせていただいていました。 ところが、若くて多少学問の素養もある吉太郎さんには、お屋敷へ寄り集う人々の教養のなさや、粗野な振る舞いなどが異様に映り、軽侮の念すら抱いていました。 ある日、吉太郎さんが教祖にお目通りすると、教祖は、「この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや」と仰せになりました。 教祖からこのお言葉を承って、吉太郎さんは心の底から高慢のさんげをしました。そしてその生涯を、信仰の道一筋に歩んでいったのです。 後年、吉太郎さんは、「神様は身の内にある」と題して、このようなお話をしています。 「かりものの理とは、私ども人間の体は私どもがつくったものでもなければ、また、私どもの心のままに自由になるものでもありませぬ。すでに我がものでないとしますれば、だれのものでありましょう。すなわち、神様のものでありまして、神様はこの体を、ただしばらく、私ども人間にお貸し下されたのであります。 われわれのすること、思うことで、神様がお知りなさらぬことは一つもありません。どんな小さい心づかいでも、みな神様に響かぬということはないのです。 しかして、人間の心は肉体と同じく、初め神様から賦け与えられしものでありまするが、心だけは自由を付けて下さってあるがために、その心だけは借りものの肉体と異にして、心そのものが、すなわち自分ということになっているのでござります。 ゆえにわれわれは、自分の心をいずれのほうにでも自由に立て替え、どんな良いことでも悪いことでもすることができるので、そこでその心づかいがむずかしいのであります。 人間というものは、自分さえ都合よければよい、他人はどんなに困っていてもかまわぬなど、自分勝手の了見をのみ、出すことになりますが、これすなわち、ほしい、おしい、かわい、にくい、うらみ、はらだち、よく、こうまん、八つのほこりによるのであります。 八つのほこりと本来の誠とは、あたかも仇敵のごとく、八つのほこりがはびこれば、本来の誠は光をくらまし、本来の誠が強ければ、八つのほこりは自ら治まるというありさまにて、詮ずるところ、八つのほこりさえ起こらなければ、罪悪禍害の生ずる原因はないのであります。」 (終)

  8. 7月11日

    「にをいがけ」ってこういう事!?

    「にをいがけ」ってこういう事!?  兵庫県在住  旭 和世 次女が小学一年生になった頃、学校の運動場にあるウンテイが上手になりました。嬉しくて毎日毎日休み時間になると練習をしていたようで、家に帰ってくると、「ママ~手にマメができた~」と嬉しそうに話します。私は、「わ~、そんなマメができるまで練習するなんてすごいね!」と親子で喜んでいました。 数日後、朝の登校時間になってランドセルを背負う時、娘が「腕が痛い…」と言いました。私は筋肉痛だろうと思い、「腕を使い過ぎたんだわ。日にち薬だから大丈夫! いってらっしゃい!」と、不安そうな娘を見送りました。 そしてその日の夕方、娘は学校から帰ってくると、玄関に入るなりランドセルを下ろし、へたり込んでしまったのです。私があわてて駆け寄ると、とてもしんどそうな顔をしていて、額をさわると熱があります。驚いて、とにかくおさづけを取り次がせてもらい、娘を寝かしつけました。 夜になって会長である主人が御用を終えて帰ってきたので、事情を説明すると、すぐにおさづけを取り次いでくれました。 主人が娘に「大丈夫?しんどい?」と声をかけると、「痛い…」と言います。「どこが痛いの?」と聞き返すと、「手が痛い」とのことで、主人がふと見ると、手がグローブのようにパンパンに腫れていたのです。それを見て、これはただ事ではない!となり、急ぎ夜間の救急病院に走りました。 救急病院では、「ここでは見切れないので、明日、大きな病院に行ってください」との事で、翌日市民病院を受診しました。診察の結果は「蜂窩織炎」という病名で、傷口などから細菌が入り、それが炎症を起こして体に回ると重症化する可能性がある、とても怖い感染症だという事を知らされました。 抗生剤の点滴を24時間投与する必要があると言われ、あわてて入院することに。まさか、ウンテイのマメからこんな事態になるなんて思ってもみませんでした。私は気づいてあげられなかったことを後悔し、「本当にごめんね」と娘に謝り、しばらくの入院生活が始まりました。 点滴を開始し、数日間は安静にしていましたが、熱も下がり、腕の腫れも良くなると、すっかり元気になって、そのうち娘は「小児病棟のプレイルームで遊びたい!」と言うほど回復しました。 子供にとれば、ずっと病室にいるのは退屈です。「そうだね!遊びに行こう!」と、二人でプレイルームに行きました。そこにはすでに先客が何人かいて、みんな思い思いに遊んでいます。その中の一人のお母さんと挨拶を交わして中に入り、次女は嬉しそうに遊び始めました。 私はひとしきり遊ぶ我が子を見守っていましたが、ふと、さっきのお母さんが目に留まりました。まるでこの病棟の子供たちをみんな知っているかのように、来る子一人ひとりに声をかけ、色々とお話をしているのです。 このプレイルームの保育士さんかな? いやいや、そんな感じでもない。きっと長い間入院されていて、いろんな子と知り合いになったのかな?ぐらいに思っていました。 そして翌朝、中庭でラジオ体操をするというのでデッキに行くと、またそのお母さんがよその子に声をかけ、面倒を見ている姿がありました。 「わ~すごいな。なんかすごくあったかくて、お道の人みたいに親切なお母さんだな~」と思っていました。 その後、しばらく娘の付き添いを義理の妹に任せ、その後、主人が交代して付き添ってくれていました。すると、しばらくして主人から電話が入りました。 「あのさ~、さっきプレイルームにさやかを連れて行ったら、知らないお母さんが『あら~さやかちゃ~ん!』って話しかけてくれて、うちの子のボサボサの髪の毛を見て気の毒に思ったのか、『髪の毛くくってあげよ~』って言って綺麗に結んでくれてさ~。えらい面倒見のいい方なんやな~と思ってたんだけど、そのお母さんと話してるうちに、同じ市内にある教会の奥さんだってことが分かったんよ! しかも僕の知り合いのお姉さんでさ~、本当にびっくりしたわ~」と、主人は驚いています。 私はその話を聞いて、ビックリしたのはもちろんですが、「やっぱり!あのにをいは、お道のにをいだったんだ!やっぱり教会の奥さんだったんだ!!」と、むしろすごく納得したのです。 そのお母さんは息子さんが大けがをして、緊急で手術をし、ご守護頂きつつあるという事でした。そんな大変な事が起こっているとは思えないほど、とても明るく前向きなお道の女性だったのです。私は本当に感動して、このお母さんに私自身がお道のにをいをかけてもらったな~と思っていました。 「人の子も我子もおなしこゝろもて おふしたてゝよこのみちの人」 という初代真柱様のお言葉があります。これは、天理養徳院という児童養護施設が設立された時のお言葉です。 「人の子も我が子も、どうか同じ心をもって隔てなく育ててほしい。この道を歩む人々よ」 実に、お道のあたたかい「にをい」がいっぱい詰まったお言葉です。このお母さんは、まさにこのお言葉通りの人だと思いました。そして、そんな素敵な方に巡り合わせて頂けた事を、私は神様に感謝しました。 その後、娘もその息子さんも神様のあざやかなご守護を頂き、元気に退院することが出来ました。それ以来、そのお母さんとなかなか会うチャンスはありませんでしたが、数年経って、お互いの教会が「こども食堂」を開催しているという共通点から、再会することが出来ました。今ではたびたび会う機会があり、いつも本当に元気をもらっています あの日、娘が蜂窩織炎になっていなければ、こんな風に出逢う事もなかった私たちですが、きっと親神様が「お道のにをいがけというのはこういう事なんだよ」と、私に教えて下さったんだと思います。この出逢いは私にとって、大きなプレゼントになりました。 「人の子も我が子も同じ心をもって…」これは私の永遠のテーマです。教会の御用の時はもちろんの事、こども食堂を開催している時も、いつもこの気持ちを持っていたいと思います。 『教祖伝逸話篇』には、教祖が大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、丁寧な言葉をお使いになったお話が数多く残されています。  教祖の分け隔てない、慈悲深いお心に少しでも近づき、あのお母さんから感じたようなお道のあたたかいぬくもりと「にをい」を、醸し出していけたらなあと思っています。 ひとことの言葉 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、ある日、飯降よしゑさんに、こうお聞かせくださいました。 「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで」(教祖伝逸話篇112「一に愛想」) 日常のちょっとしたことであっても、何事にも「はい」と明るい返事をする。そして「愛想」と言われるように、ただ返事をするだけでなく、顔の表情や身のこなしなど、全身から素直さがにじみ出るような姿が大切でありましょう。 教祖は、別のお言葉においても、 「愛想の理が無けりゃ曇る。曇れば錆る」(M27・7・30) とお諭しくださいます。一つの「はい」という返事にも心を込め、また、ちょっとした言葉づかいや態度の違いにも目を向けると、世界が違って見え始め、新たな扉が開かれてゆくのです。 教祖が教えられた「みかぐらうた」に、「ひとことはなしハひのきしん」(七下り目 一ッ)とあります。「ひのきしん」とは、神様への感謝を表すご恩報じの行いを指しますが、つまり私たちが発するひとことの言葉が、神様を介してどれほどの大きな意味を持つかもしれない、ということを表しているようにも悟れます。 こんな逸話が残されています。 小西定吉さんは、不治と宣告された胸の病を、教祖にすっきりたすけて頂きました。また、同じ頃、お産の重いほうであった妻のイエさんも、楽々と安産させて頂きました。 お屋敷へお礼に参った定吉さんが、教祖に、「このような嬉しいことはございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか」と伺うと、教祖は、「人を救けるのやで」と仰せられました。 そこで、「どうしたら、人さんが救かりますか」と再びお尋ねすると、教祖は、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのや

評価とレビュー

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番組について

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。

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