説教・聖書メッセージ「みちことば」

Taichi Araki
説教・聖書メッセージ「みちことば」

聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。

  1. それでもいいよね

    6月8日

    それでもいいよね

    2025年6月8日 聖霊降臨日 赦しの教会 「誰の罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される」 ヨハネ20・23「それでもいいよね」 教会には、決して相手を否定しない人が多いと思います。相手を肯定して、安心させて「ここにいていい」と感じさせます。そんな努力の背後にはその人が受けているイエスさまの赦しが透けて見えます。 まず自分が「それでもいい」と神さまから赦されてはじめて、人を赦すことができます。肯定することができます。互いに赦しあい、日常生活で神の赦しを現す、赦しの教会になることができます。 逆に自分が心から赦されていないと、人の弱さと悪を赦せません。否定してしまいます。ギリシャ語で「赦す」とは「手放す」という意味で、赦さないとは「握りしめる」です。神さまに手放せないのです。 イエスさまは私たちが赦されるために、私たちの弱さと悪をその身に受けて殺されました。そして復活して神に赦された「御心にかなう新しい生涯」を与えられます。 それがヨハネ福音書による聖霊降臨です。イエスさまは自分の息を、ご自分が生きた赦しの精神を弟子たち、私たちに吹き込みます。イエスさまは私たちをご自分の代理とし、この世で人を赦し続けられます。「私が赦したように、あなたも赦しなさい」。私たちが赦せばその人は神の前で赦されます。大きな責任ですし、大きな喜びです。 ただし「どんな悪人でも赦せ」ではありません。赦しの条件は悔い改めです。だから悔い改めのない場合は「赦さないまま」にすベきです。そしてその違いを識別するのもまた、聖霊の働きです。 教会生活でイエスさまの赦しの霊が降臨するのが、罪の赦しが与えられる、洗礼と懺悔です。一生に一度、洗礼においてその人の罪の根源は赦されます。毎週の懺悔と赦しの祈りは、その洗礼の恵みの延長です。そこでこそ私たちは神から赦された新しい自分を受け取るのです。「弱さと悪は私が受けた。だから、あなたはそれでいい」と。 洗礼と懺悔に働く聖霊が私たちに、赦しの教会となるように呼びかけています。 「イエスさまはあなたを赦される。だから、ここにいていい。それでもいい。それでもいいよね。」

    19分
  2. 神と抱き合う

    6月1日

    神と抱き合う

    「わたしのいる所に共におらせてください」(ヨハネ17:24) 2025年6月1日 昇天後主日 一か月半の入院から退院した日、お祝いに3人家族でピザを食べに行きました。回復と再会の喜びが溢れて、普段はそんなことしないのに、抱き合って肩を組んで商店街を歩きました。体で家族愛の交わりを感じました。「抱き合って喜ぶ」復活の朝もそうですし、クリムトの描く男女が抱き合ってキスすることもそうです。体は愛を感じる、愛を感じさせるために造られたのです。 イエスさまの肉体も同じです。イエスさまが昇天されたとき、聖書のイメージでは「体から魂が抜け出た」とはありません。体ごと天に昇られた、とあります。(使1:9)  上を向く祈りの姿勢は大切ですが、実際の「天」はオゾン層の上ではなく神の場所、神の次元、神の胸のことです。それはヨハネ17章では「父と子が互いの内にいる愛の交わり」です。イエスさまは肉体をもって今そこにいます。 この天が地に来る、それが復活の時です。神は私たちと同じ肉体を取られました。そしてその肉体で私たちの罪を引き受けて死に、新しい肉体に復活し、人間の肉体を天に運びました。それは私たちの肉体が、最終的には復活し、神さまと体ごと抱き合うためです。父と子と聖霊と抱き合い、肩を組むことです。それが「わたしのいる所に共におらせる」イエスさまの目的です。 天が来る復活の時、私たちの肉体は完全に癒されます。受け容れた自分らしさとしての病や障害はそのまま、全ての苦しみは消え、体ごと神の愛の交わりに入ります。天が来る復活の時、それは既に始まっています。 聖餐は天の写し絵です。聖餐で目に見えるパンを食するとき、目に見えない天上のイエスさまと抱き合っています。 そして地上の社会では、イエスさまと肩を組み、体で神の愛を示すように呼ばれています。「み子の体のえだ」です。(陪餐後)それは訪問、微笑み、優しい言葉、手紙、プレゼント、なんでもいいから私たちの肉体を愛に使う。そうすれば私たちを通して天が地に来て、復活の時が始まり、主が現れるのです。 陪餐で抱き締め、肩を組んでくれるイエスさまの声を聞きましょう。「天上で私と抱き合ってほしい。体で愛を感じてほしい。地上では私と肩を組んでほしい。私の体のえだとなり、私の愛を伝えてほしい。」

    16分
  3. いないところに

    5月25日

    いないところに

    「弁護者が、、、ことごとく思い起こさせてくださる。」 ヨハネ福音書14・26 2025年5月25日 復活節第6主日 死を理解できない小さい子には「お父(母)さんは、お星さまになったんだよ」と伝えます。死がすべての終わりではなく、大好きな人は、新しい形で共にいることを伝えようとします。 イエスの昇天は「その人間性が神の内に入る」という栄光ある祝福ですが、それが見えない弟子たちは別れの悲しみにありました。昇天してしまうと「ここにはいない」と不在を感じるのです。 2千年後の私たちも主の不在を感じます。どれだけイエスさまの話を聞いても、どれだけ「主は共にいる」と言い聞かせても「今ここにいるはいない。不在だ」と。 この不在感に対して主は「弁護者」を父がお遣わしになる、と予告されました。聖霊の別名です。法廷に立つ自分を助けてくれる弁護人のイメージです。その敵は「イエスさまはいない」という不在感です。 弁護者はイエスさまの存在を「思い起こさせ」、想起させ、その不在に対して私たちを弁護します。 (14・26)主が新しい形で共にいてくださる時代を聖霊が始めます。  聖霊が働いて主の存在を想起させるもの。それが聖書の言葉です。「イエスさまはこう言われた、こうされた、こう生きてこう死に、復活された」と弟子たちは語り継ぎ、それが聖書になりました。その後の世代も私たちも、聖書の言葉を祈り、愛唱聖句として覚え、読んでいく中で聖霊が働き、新しい形で共にいる主イエスさまの存在に触れます。 ただ、一人で聖書を読むのは困難です。だからこそ聖霊が働き「私はそこに現れる」と主が約束された聖餐に集まり、聖書に聴くのです。役に立つアイデアでも処世訓でもない「今ここでわたしはあなたと共にいる」と呼びかける主の声を、聖霊が聞かせてくれるのです。 イエスさまが「いないところ」と思うところで弁護者は働きます。 「わたしはあなたの弁護者だ。イエスさまがいないところに私は来て、新しい形、目に見えない形、霊的な形でイエスさまをあなたに感じさせる。そしてあなたを弁護する。不在感からあなたを護る。」 「そしてあなたの大好きなあの人も、イエスさまと一緒に、あなたに感じさせてあげるから。」

    17分
  4. 否定の真ん中に

    5月1日

    否定の真ん中に

    2025年4月27日 復活節第2主日 否定の真ん中に立つ 「イエスが来て真ん中に立ち」 ヨハネ福音書20・19 教区主教不在で教区はこれからどうなるのか。少子高齢化でこの教会はどうなるのか。また、個人的にもこれからの人生はどうなるのか。不安が不安を呼び、主イエスさまを忘れるとき、私たちは自分自身を否定してしまいます。これではダメだ、と。 最初のクリスチャンたちは命の不安がありました。師匠を殺したユダヤ人たちが自分たちの命をも狙っているのです。そしてイエスさまが復活した、と聞いてもなお、恐怖と不安に囚われて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。「イエスさまはいない。これから、どうなるのか。」 しかしこんなところに入っては来られないと思った復活のイエスさまが、鍵のかかった戸を通り過ぎて、不安で否定的な弟子たちの真ん中に立ったのです。そして言われました。「あなたがたに平和があるように。」「心配することはない。ほら、あなたたちの真ん中に私はいるじゃないか」と肯定されたのです。 そして癒えた手と脇腹の傷を見せられます。それは自分たちの否定的な心が受け取られ、消し去られた証拠です。だから弟子達は喜びました。否定を消し去り、愛する先生が私たちの真ん中に立って肯定してくださる。そして聖霊を吹き込み、人を肯定していく宣教へと派遣されました。 これは聖餐式の体験です。毎週その週の初めの日、新しい創造の日、イエスさまは否定的な教会の真ん中に立ち、復活の命で肯定されます。御体の赦しを見せ、主の平和を与え、聖霊を吹き込み、赦しの使命を与えられます。 教区が、教会が、個人が、自分自身に対して否定的になるとき、聖餐式のなかで復活のキリストに真ん中に立ってもらいましょう。そして聞き取りましょう。 「大丈夫。あなたたちがどれだけ否定的でも、私が真ん中に立ち、あなたたちと共に働くから。」

    17分
  5. 4月20日

    復活、それは新しい創造

    2025年4月20日 復活日 復活、それは新しい創造 「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか」 ルカ24.5 今、毎晩祈っている人のお一人がガンと闘っています。4人の子のママで、純真で明るく素敵な方です。病気に負けないように、人生を楽しんでおられます。私は祈ります。「命の創造主なる神さま、どうか抗癌剤が効いて癌細胞を死滅させてください。」 復活とは、命の創造主の「今、既にここで」働く力です。死後の世界の話だけではありません。既に働くイエス様の命の支配力です。病と死と罪に勝つ力です。天使が言うように「死者の中に捜しても見つからない、生きておられる方」です。 天地は創造主によって良いものとして創られ祝福されました。人間は身も心も、創造主が愛を込めて造った最高傑作、神の似姿です。 しかしアダムが象徴する全人類は「神に成り代わろうとする罪」によって死に支配されました。死の力は魂にも及び、人間は神をも人をも愛さない罪に支配されます。古代イスラエルもまたこの罪によって国を滅ぼしました。そんな中で「新しい創造」への希望が語り継がれてきていました。(イザヤ65・17) その天地の新しい創造の初めがイエスさまの復活です。神は私たち人間を愛しています。生かしたいのです。一人の人となり、罪と死を引き受けて死ぬことで、罪と死を死滅させました。白血球も共に犠牲になることで、抗がん剤がガン細胞を死滅させるようなものです。 そして復活し、新しい創造が始まりました。共に死に、共に新しく生まれました。新しいアダムです。それ以後イエスさまによって、聖霊によって、弟子たちによって、世の命は創り変え続けられています。 もちろん未だ新創造は完成していません。病気は治らず、人は罪を犯し、愛する人は死にます。新創造の完成は、私たちが死んだ後に来る、新しい天地が降る終わりの時まで待たたなければなりません。 しかしイエスさまは復活した。この事実が「私たち人間の内には復活の力が既に働いている」ことの証拠です。ガン細胞の消えたレントゲン画像のようなものです。まだ実感していなくても、確かに癒されています。既に創造主が私たちを愛して、私たちの内に働いています。 新創造の主に祈ります。「どうかあなたが、抗癌剤を通して働き、彼女を癒してくださいますように。」 新創造の主は語りかけます。「私はあなたを愛している。そして新しく創造する。生かす。だから、病気を前にして、死を前にして、決して負けずに信じていなさい。」

    17分
  6. あなたもこのなかにいるんだよ

    4月13日

    あなたもこのなかにいるんだよ

    「主は振り向いて、ペトロを見つめられた」 ルカ福音書22・61  神が私たちを新しく創り変えようと、私達の罪を受けて殺され、罪を滅ぼす。この愛の物語のどこかにあなたはいて、主はあなたを見つめておられます。   中心は主イエスさま。父への従順を貫き、罪を背負われます。私たちの罪の苦しみを背負われます。 ゲッセマネの弟子たち。イエス様の祈りについていけず眠ってしまう祈りの薄っぺらさ、集中力のなさ。  ペトロ。愛する先生を三度も否定する臆病さ弱さ。彼を見つめるイエス様の哀しみ。号泣する悲しみ。       ユダ。強い王への望みが叶わないと知って抱く、憎しみと裏切り。 大祭司と長老たち。神殿と律法の恵みを分かち合わない強欲さ。自分を批判する者を亡き者にしようとする、排他性。神の子を崇めず自分を崇める、偶像礼拝。  中庭に集まった女中。ペトロに対する週刊誌のような詮索心。  見張り。イエス様を侮辱し、ののしり、目隠しをして殴る暴力性。  ピラト。イエスは無実だと知りつつ群衆のために死刑にした保身。  ヘロデ。気晴らしに奇跡を見たがっただけの不遜さ、無理解。  群衆。棕櫚の葉で大歓迎したにも関わらず、望んだ革命を起こさないと知ると「殺せ、殺せ」と叫んで死刑を求める集団心理、狂気。  悪人であるのにイエスに代わって釈放されたバラバの幸運、驚き。  願わない形で主の十字架を背負わせられた、キレネ人シモンの従順と、神の導き。  女性たち。弟子たちが見捨てても、泣きながらついていく悲しみ。  議員と兵士。十字架の主を「自分を救わないユダヤ人の王」と言う真実の言葉であざ笑う皮肉。  イエス様と共に十字架に付けられた罪びと。そこまで神の近くにいても悟らなかった愚かさ。 対して赦しを願ったもう一人の罪びと。イエス様の真実を知り、楽園を願って叶えられた喜び。  「御手に私の霊を委ねます」と委ねて死なれた主イエスさまの最期の信頼。私たちの最期は? 百人隊長。イエスさまの無実と、罪を肩代わりに死んだ正しさを見てとった悟り。未信徒の悟り。  アリマタヤのヨセフと、ガリラヤから来た婦人たち。イエス様の遺体を丁重に葬ったの、絶望と希望。  祈りによって物語に入り、私たちの罪を受けて私たちを創り変えようとされている、イエスさまの生き様、神の愛に触れましょう。

    8分
  7. 神さまの教会愛

    4月7日

    神さまの教会愛

    「収穫を納めさせるために」 ルカ福音書20・10 2025年4月6日 大斎節第5主日  今年度の祈りの一つは「将来構想委員会を通して次世代の教会愛が育まれますように」です。そして私たちの教会愛の源は、神さまの教会愛です。 イザヤ書5章で神さまは「ぶどう畑の愛の歌」を歌います。肥沃な丘を掘り起こし、丁寧に石を除き、最上級のぶどうを植え、絞り場を作り、見張りのやぐらまで建てます。私たちの霊的ルーツであるイスラエルはそれほどまでに神に愛された宝の民でした。  このイメージを受け継いでイエスさまは「ぶどう畑と農夫の譬え」を語られました。主人は神さま、ぶどう畑はイスラエルの民、農夫は指導者、僕らは預言者、愛する息子はイエスさまご自身のことです。 主人は愛するぶどう畑を農夫らに貸して旅に出ます。秋になり収穫を受け取るために僕を遣わしますが、農夫らは一人、二人、三人と暴力を振るって追い返します。そこで主人は「敬ってくれるだろう」と愛する息子を送りますが、その子を外に放り出して殺します。怒った主人は農夫たちを殺して他の人たちに与えるだろう、と言うのです。 本来農夫にとって、ぶどう畑で働くことは大きな喜びでした。主人と共にぶどう畑を愛し、その実りを収穫し、分かち合い、愛の歌を共に歌う。素晴らしい喜びです。しかし収穫した農夫は変わります。分かち合うことが惜しくなったのです。一緒に喜ぶことを拒否したのです。 神の愛の収穫を分かち合わない古いイスラエルは滅び、ぶどう園は復活のイエスさまを信じる新しいイスラエル、に与えられました。死んだ息子も、人知を超えて復活し、新しい民の要になります。もちろん収穫を共に喜ぶためにです。 神さまは教会を愛して、様々な恵みを与えられます。洗礼、聖餐、み言葉、祈り、兄弟姉妹の交わり。そして何より愛する息子、イエスさまの存在を与えられます。 そして願われます。私と一緒に教会を愛して欲しい。私の愛を収穫して欲しい。み言葉の慰めを、陪餐の赦しを、信仰の明るさを、祈りの深さを、交わりの楽しさを、そして何より主イエスとの親しい友情を。まず自分がたくさん収穫して、それを私と分かちあってほしい。また兄弟姉妹と。そして「ぶどう畑の愛の歌」を共に歌って喜ぼう、と。 イエスさまは来週、私たちの強欲の結果、外に放り出されて殺されます。神さまに帰り、教会愛を育み、収穫を分かち合い、魂の死から復活の命へとゴールしましょう。 聖歌を歌って主の呼びかけに応えましょう。 「さぁ、一緒に歌おう、ぶどう畑の愛の歌を。」

    19分
  8. 懇願する神さま

    3月30日

    懇願する神さま

    2025年3月30大斎節第4主日  「父は出て来て懇願した」ルカ15・28  自分を棚に上げて思ってしまうときがあります。「なんであんな人が教会にいるんだ。なんであんな人が聖職なんだ」。自分は素直に誠実に教会生活を送ろうとしてきた。そう思えば思うほど、赦しがたくなります。  放蕩息子の兄は真面目で正しい、模範的な良き息子です。親不孝者の弟が、父を死んだものとして財産を分捕って出ていき、娼婦らに金をつぎ込んでいる間も、兄はずっと父に従順に働いてきました。  しかしその弟が全財産をすって帰って来たとき、父は、家長の威厳を捨てて、家から走り出て来て弟を抱きしめ、最上級の仔牛を屠って大宴会を始めたのです。  兄は宴会の音楽や踊りを聞いて怒りました。それは正しいことです。「不公平だ!家族を捨てて出て行った人間をあなたは罰するどころか宴会までして歓迎する。自分には友だちとの宴会のために仔山羊一匹すらくれなかったのに、あいつには仔牛一頭をも与える。なぜ正しい私は報われず、あいつのような悪人が赦されるんですか!」 兄は怒りの故に父を「お父さん」と呼べず、弟を「あなたのあの息子」と呼んで不満を爆発させます。宴を祝う家に入ろうともしません。  すると父は、弟を見て家から走り出て来たのと同じように、怒る兄を見て家から走り出て来ます。そしてこう呼んで「懇願する」のです。  「息子よ、私の財産は既に全部お前のものじゃないか。お前の弟は遠くへ行って死んだも同然だったのに、生きて帰って来た。私とお前の弟は泣いて喜んでいる。どうかこの私の喜びを、一緒に喜んでくれ。一緒に宴会を祝ってくれ。」   父に懇願された兄はどうしたでしょうか。聖書には書いておらず、それは読者一人一人が兄弟姉妹に対する態度で答えることです。  神への帰還を祝う宴会、聖餐。父なる神はそこから出て来て私たちに懇願します。「自分の正しさを超えて、共に喜んでくれ。お前の弟が、妹が帰って来た。喜んでくれ。」 その声を聞くと相手を憎む自分の小さい視野が、慈しみに満ちた神さまのもっと大きな視野に広がっていきます。それが祝福です。 聖餐共同体としての教会。自分だけが恵みを受けるのではなく、兄弟姉妹が赦しと恵みを受けることを喜び合う教会になりましょう。 そして死から命への旅を共にしましょう。復活の祝宴に至るまで。

    22分

番組について

聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。

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