説教・聖書メッセージ「みちことば」

Taichi Araki

聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。

  1. 祈りが聞かれるとは

    4D AGO

    祈りが聞かれるとは

    祈りは人を変える 「しつように頼めば」 ルカ福音書11・8 病気の癒しを祈ります。そして時に思います。「神さま、なぜ祈りを聞いてくださらないのですか。」そんな私たちにイエスさまは教えます。「祈りは必ず聞かれる。」 それが「真夜中のパン」の譬えです。夜中に旅人にパンを準備せねばならず、友の家に行きます。ですが戸締りをし子供らと寝静まっていて断られます。それでも「しつように頼めば」友情ゆえではなく迷惑がゆえに願いを聞いてくれる。神はもっと慈しみ深いのだから、あなたの祈りを必ず聞く。だから諦めず祈り続けなさい、と。  ただしそれは自分の都合の良いようになるのとは違います。   イエスさまこそ「しつように頼み」祈られた方です。「み国(神の支配)が来ますように」と祈りました。み心です。そして祈りの中で変わっていきました。山上の変容で十字架の使命を受け入れ、ゲッセマネの園で自分の心をみ心に委ねました。そう祈り続けることで、イエスさまは死に逝く者から、復活の命に輝く者へと変わり、神の国が開きました。この神の国こそイエスさまが祈り求めたものだったのです。 祈る人は変えられます。み心に沿うように変えられ、神はそれを成就します。振り返ればそれこそが自分の本当の願い、本当に求めていたことだったのだと気づくのです。それが人間の成就です。 代祷で個人的な祈りも献げましょう。み心に沿うように変えられ本当の願いを成就して頂くために。 「父は本当の願いを成就される。だから、しつように祈りなさい。」   ——「ある無名兵士の詩」--- 成功したいと力を神に求めたが、謙虚に従うようにと、弱くされた。 より偉大なことをしたいと健康を求めたが、より善いことをするようにと病弱が与えられた。 幸せになりたいと財産を求めたが、賢明になるようにと貧困が与えられた。 称賛されたいと成功を求めたが、神を必要とするようにと弱さが与えられた。 人生を謳歌したいと多くの物を求めたが、命だけが与えられ、どんな物でも喜べるようになった。 願ったことは何一つ与えられなかったが、求めていたことはすべて 与えられた。 ほとんど自分の思い通りにはならなかったが、言葉にならない祈りはすべて聞かれた。 色んな人がいるが、私は最も豊かに祝福された人だ。

    22 min
  2. 聴くというもてなし

    JUL 20

    聴くというもてなし

    「マルタ、マルタ、必要なことはただ一つだけだ」 ルカ10・41 2025年7月20日 聖霊降臨後第5主日(特定10) 「働き者の姉が叱られて、なんでボーッとしている妹が誉められるのか」という声が聞こえてきそうです。 ですがイエスさまは、もてなしの働きを軽視したのではありません。そうではなく、多忙さゆえに「思い悩み、心を乱し」て妹に不満を募らせているマルタに愛を込めて語り掛けているのです。「マルタ、マルタ」と。(10・41)それは放蕩息子の兄に愛を込めて「子よ」と呼びかけた父と同じです。 マルタは一同の洗足の用意や、ぶどう酒や、料理のことで頭がいっぱいで、ゲスト本人の存在は二の次になっていました。だから「必要なことはただ一つだけだ」と。 その唯一必要なおもてなしとはゲストの言葉と心に聴くことです。 今、ベタニアの自宅に迎え入れた目の前のこのお方は神の子。このお方はエルサレムの十字架と復活へと進むにあたって、赦しを語られている。「わたしがあなたの代わりに死ぬのだから、あなたの罪は赦される。」 この方の望みは洗足でも酒でも料理でもない。自分の言葉を、神の言葉として聞くこと。 教会生活も同じ。教会委員、礼拝奉仕、掃除、婦人会、そして献金も・・・。私たちは様々な奉仕で主をもてなしています。喜びです。ですが時に、摩擦や虚しさに「思い悩み、心を乱します。」そんな時に心に覚えましょう。最重要のもてなしはゲストの話しを聴くことだと。 このフェルメールの絵は、礼拝堂への献品だったそうです。礼拝は聴くというもてなしです。聖書と説教を通して主の言葉に聴きます。聖別祷とご聖体で自らを現す主の存在に聴きます。「あなたのために与えられた主イエスキリストの体。」  人生も同じ。イエスさまを心にお迎えするために「思い悩み、乱した心」を全て捨てて今、目の前におられるゲストの言葉に聴き入る。「私はあなたと共にいる」「恐れることはない」「あなたの罪は赦された」。その祈りの時々に、主が一回きりで語り掛けてくださる言葉を必死に聴き取りましょう。 それは日常の中で大切な人の心に聴くことです。困難ですが自分の「思い悩み、乱した心」を一旦横に置いて相手の心に聴くとき、本心が現れ、主が共に居て祝福して下さり、未来が見えてきます。 そして主は喜ばれます。「よく聴いてくれた。ここに来てよかった。」 そして気づくのです。イエスさまこそ、ずっと自分の気持を聴き、天で、もてなしてくださっていた、と。

    27 min
  3. 損得勘定なし 「誰が…隣人になったと思うか」 ルカ福音書10・3

    JUL 13

    損得勘定なし 「誰が…隣人になったと思うか」 ルカ福音書10・3

    専門家は無条件の隣人愛を避けようと、イエスさまに問いました。「隣人を自分のように愛しなさい、と言いますが私の隣人とは誰ですか。」敵と味方に線を引き、愛の義務を狭めたいのです。味方は愛しますけれど敵は愛さなくてもいいでしょ、と。 当時のイエスさまたち古代ユダヤ人と、北王国の末裔であるサマリア人とは、敵と味方で殺し合うほど激しく対立していました。 また日常生活でも、いけないことですが、損得勘定で人を分けてしまっているときがあります。あの人は味方、あの人は敵。味方を愛せば得をします。感謝されたり、褒められたり、よくされたりするでしょう。ですが敵を愛しても何の得もしません。それどころか感謝されず、ほめられず、骨折り損をするでしょう。 あるユダヤ人が治安の悪いエルサレムからの道で強盗に合い、半裸で捨てられました。そのままでは死んでしまいます。そこに同じユダヤ人の祭司が来ます。「あぁ助かった、味方の聖職者だ」と思った瞬間、祭司は見て見ぬふりをして通り過ぎました。損得勘定をしたのです。面倒だ、危ない、穢れる。味方じゃない、と。同じようにレビ人も損得勘定をして通り過ぎました。 そして最後に来たのは敵のサマリア人。「ああダメだ、敵だ、絶対助けてくれない」と諦めた瞬間、その人は敵と味方の損得勘定をせず、はらわたからの憐みに突き動かされ、近寄り、薬を注ぎ、包帯をし、ろばに乗せ、宿屋へ連れ、一晩中介抱し、銀貨を二回も払って更なる介抱を主人に頼んだのです。 イエスさまは問います。「誰が隣人になったか」「助けた人です」「行ってあなたも同じようになれ」。 隣人とは「損得勘定で決める相手」ではなく「あなたがなる存在」だと。人について損得勘定をせずに、その人を助けるとき、私たちは「隣人になる」。そのとき始めて私たちは、あくせくした損得勘定から自由になり、救われます。 私たちが神の敵であっても、イエスさまは私たちのために死に、隣人となってくださいます。この「隣人」と共に、損得勘定から自由になり「隣人」となりましょう。 あなたのために『隣人となって』与えられた主イエス・キリストの体。

    20 min
  4. 今、私の旅について来い

    JUN 29

    今、私の旅について来い

    「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」ルカ9・62 2025年6月29日 聖霊降臨後第3主日(特定8) 厳しすぎる。できない。そんな人にはついて行けない。 エリヤが旅の途上で弟子となるエリシャを召したとき、エリシャは牛に鋤を引かせて畑を耕していました。その時は師匠に従う前に両親に分かれを告げることが許されました。 しかし今、イエスさまはご自分の旅について来る決心を、家族に別れを告げることよりも、父親を葬ることよりも優先させました。エリシャの姿を念頭に置き「鋤で耕し始めた農夫が後ろを振り返れば、その道筋は歪んでしまう」と。今、真っ直ぐに私だけを見てついて来い。十戒も命じた父母を敬うことよりも、家族よりも、私の旅について来る決心を、いま、しなさいと。 これはカルトのように社会の全てを拒否する禁令を出したのではありません。この世のどんな責任を負っていようとも、主が決めるその時には「今、私はイエスさまに従う」という決心をしなさい、と。イエスさまについて行くこと、従うことは切迫した、緊急の決断です。「一年後では遅い、明日では遅い、今日、いま、私に従いなさい」と。 実際には、私たちは父母を丁重に弔い、家族を大切にいます。しかし本質的に一番大切なのは「今、主イエスさまに従う決断」です。 私にとってそれは神学校に行く決心でした。資格を取ってしばらく働いてから牧師になろうと考えていた私に、恩師は「資格なんて要らない。今、神学校へ行け」と言われました。そして私は鏡に映る自分に見つめられて、その切迫性を感じました。「いましかないのだ。」 皆さまにとって「今しかない」と決心したのはいつでしょうか。洗礼や、堅信を受けたとき、結婚を決めたとき、人を赦したとき、困難にあっても希望を捨てないと決心したとき。そのような決心のときを通して、イエスさまは「今、私の旅に付いて来い」と呼びかけてこられます。躊躇せずに付いて来い、と。 そして私たちがついて行くイエスさまの旅は、罪の赦しを実現するために死んで復活する旅です。イエスさまこそ家族よりも何よりも、神の赦しを求める決断をされました。それだけ緊急の事柄なのです。 旅路を歩むイエスさまの背中だけを見て付いていきましょう。 「今、私について来い。そして私 と共に赦しを実現しよう。」

    18 min
  5. それでもいいよね

    JUN 8

    それでもいいよね

    2025年6月8日 聖霊降臨日 赦しの教会 「誰の罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される」 ヨハネ20・23「それでもいいよね」 教会には、決して相手を否定しない人が多いと思います。相手を肯定して、安心させて「ここにいていい」と感じさせます。そんな努力の背後にはその人が受けているイエスさまの赦しが透けて見えます。 まず自分が「それでもいい」と神さまから赦されてはじめて、人を赦すことができます。肯定することができます。互いに赦しあい、日常生活で神の赦しを現す、赦しの教会になることができます。 逆に自分が心から赦されていないと、人の弱さと悪を赦せません。否定してしまいます。ギリシャ語で「赦す」とは「手放す」という意味で、赦さないとは「握りしめる」です。神さまに手放せないのです。 イエスさまは私たちが赦されるために、私たちの弱さと悪をその身に受けて殺されました。そして復活して神に赦された「御心にかなう新しい生涯」を与えられます。 それがヨハネ福音書による聖霊降臨です。イエスさまは自分の息を、ご自分が生きた赦しの精神を弟子たち、私たちに吹き込みます。イエスさまは私たちをご自分の代理とし、この世で人を赦し続けられます。「私が赦したように、あなたも赦しなさい」。私たちが赦せばその人は神の前で赦されます。大きな責任ですし、大きな喜びです。 ただし「どんな悪人でも赦せ」ではありません。赦しの条件は悔い改めです。だから悔い改めのない場合は「赦さないまま」にすベきです。そしてその違いを識別するのもまた、聖霊の働きです。 教会生活でイエスさまの赦しの霊が降臨するのが、罪の赦しが与えられる、洗礼と懺悔です。一生に一度、洗礼においてその人の罪の根源は赦されます。毎週の懺悔と赦しの祈りは、その洗礼の恵みの延長です。そこでこそ私たちは神から赦された新しい自分を受け取るのです。「弱さと悪は私が受けた。だから、あなたはそれでいい」と。 洗礼と懺悔に働く聖霊が私たちに、赦しの教会となるように呼びかけています。 「イエスさまはあなたを赦される。だから、ここにいていい。それでもいい。それでもいいよね。」

    19 min
  6. 神と抱き合う

    JUN 1

    神と抱き合う

    「わたしのいる所に共におらせてください」(ヨハネ17:24) 2025年6月1日 昇天後主日 一か月半の入院から退院した日、お祝いに3人家族でピザを食べに行きました。回復と再会の喜びが溢れて、普段はそんなことしないのに、抱き合って肩を組んで商店街を歩きました。体で家族愛の交わりを感じました。「抱き合って喜ぶ」復活の朝もそうですし、クリムトの描く男女が抱き合ってキスすることもそうです。体は愛を感じる、愛を感じさせるために造られたのです。 イエスさまの肉体も同じです。イエスさまが昇天されたとき、聖書のイメージでは「体から魂が抜け出た」とはありません。体ごと天に昇られた、とあります。(使1:9)  上を向く祈りの姿勢は大切ですが、実際の「天」はオゾン層の上ではなく神の場所、神の次元、神の胸のことです。それはヨハネ17章では「父と子が互いの内にいる愛の交わり」です。イエスさまは肉体をもって今そこにいます。 この天が地に来る、それが復活の時です。神は私たちと同じ肉体を取られました。そしてその肉体で私たちの罪を引き受けて死に、新しい肉体に復活し、人間の肉体を天に運びました。それは私たちの肉体が、最終的には復活し、神さまと体ごと抱き合うためです。父と子と聖霊と抱き合い、肩を組むことです。それが「わたしのいる所に共におらせる」イエスさまの目的です。 天が来る復活の時、私たちの肉体は完全に癒されます。受け容れた自分らしさとしての病や障害はそのまま、全ての苦しみは消え、体ごと神の愛の交わりに入ります。天が来る復活の時、それは既に始まっています。 聖餐は天の写し絵です。聖餐で目に見えるパンを食するとき、目に見えない天上のイエスさまと抱き合っています。 そして地上の社会では、イエスさまと肩を組み、体で神の愛を示すように呼ばれています。「み子の体のえだ」です。(陪餐後)それは訪問、微笑み、優しい言葉、手紙、プレゼント、なんでもいいから私たちの肉体を愛に使う。そうすれば私たちを通して天が地に来て、復活の時が始まり、主が現れるのです。 陪餐で抱き締め、肩を組んでくれるイエスさまの声を聞きましょう。「天上で私と抱き合ってほしい。体で愛を感じてほしい。地上では私と肩を組んでほしい。私の体のえだとなり、私の愛を伝えてほしい。」

    16 min
  7. いないところに

    MAY 25

    いないところに

    「弁護者が、、、ことごとく思い起こさせてくださる。」 ヨハネ福音書14・26 2025年5月25日 復活節第6主日 死を理解できない小さい子には「お父(母)さんは、お星さまになったんだよ」と伝えます。死がすべての終わりではなく、大好きな人は、新しい形で共にいることを伝えようとします。 イエスの昇天は「その人間性が神の内に入る」という栄光ある祝福ですが、それが見えない弟子たちは別れの悲しみにありました。昇天してしまうと「ここにはいない」と不在を感じるのです。 2千年後の私たちも主の不在を感じます。どれだけイエスさまの話を聞いても、どれだけ「主は共にいる」と言い聞かせても「今ここにいるはいない。不在だ」と。 この不在感に対して主は「弁護者」を父がお遣わしになる、と予告されました。聖霊の別名です。法廷に立つ自分を助けてくれる弁護人のイメージです。その敵は「イエスさまはいない」という不在感です。 弁護者はイエスさまの存在を「思い起こさせ」、想起させ、その不在に対して私たちを弁護します。 (14・26)主が新しい形で共にいてくださる時代を聖霊が始めます。  聖霊が働いて主の存在を想起させるもの。それが聖書の言葉です。「イエスさまはこう言われた、こうされた、こう生きてこう死に、復活された」と弟子たちは語り継ぎ、それが聖書になりました。その後の世代も私たちも、聖書の言葉を祈り、愛唱聖句として覚え、読んでいく中で聖霊が働き、新しい形で共にいる主イエスさまの存在に触れます。 ただ、一人で聖書を読むのは困難です。だからこそ聖霊が働き「私はそこに現れる」と主が約束された聖餐に集まり、聖書に聴くのです。役に立つアイデアでも処世訓でもない「今ここでわたしはあなたと共にいる」と呼びかける主の声を、聖霊が聞かせてくれるのです。 イエスさまが「いないところ」と思うところで弁護者は働きます。 「わたしはあなたの弁護者だ。イエスさまがいないところに私は来て、新しい形、目に見えない形、霊的な形でイエスさまをあなたに感じさせる。そしてあなたを弁護する。不在感からあなたを護る。」 「そしてあなたの大好きなあの人も、イエスさまと一緒に、あなたに感じさせてあげるから。」

    17 min
  8. 否定の真ん中に

    MAY 1

    否定の真ん中に

    2025年4月27日 復活節第2主日 否定の真ん中に立つ 「イエスが来て真ん中に立ち」 ヨハネ福音書20・19 教区主教不在で教区はこれからどうなるのか。少子高齢化でこの教会はどうなるのか。また、個人的にもこれからの人生はどうなるのか。不安が不安を呼び、主イエスさまを忘れるとき、私たちは自分自身を否定してしまいます。これではダメだ、と。 最初のクリスチャンたちは命の不安がありました。師匠を殺したユダヤ人たちが自分たちの命をも狙っているのです。そしてイエスさまが復活した、と聞いてもなお、恐怖と不安に囚われて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていました。「イエスさまはいない。これから、どうなるのか。」 しかしこんなところに入っては来られないと思った復活のイエスさまが、鍵のかかった戸を通り過ぎて、不安で否定的な弟子たちの真ん中に立ったのです。そして言われました。「あなたがたに平和があるように。」「心配することはない。ほら、あなたたちの真ん中に私はいるじゃないか」と肯定されたのです。 そして癒えた手と脇腹の傷を見せられます。それは自分たちの否定的な心が受け取られ、消し去られた証拠です。だから弟子達は喜びました。否定を消し去り、愛する先生が私たちの真ん中に立って肯定してくださる。そして聖霊を吹き込み、人を肯定していく宣教へと派遣されました。 これは聖餐式の体験です。毎週その週の初めの日、新しい創造の日、イエスさまは否定的な教会の真ん中に立ち、復活の命で肯定されます。御体の赦しを見せ、主の平和を与え、聖霊を吹き込み、赦しの使命を与えられます。 教区が、教会が、個人が、自分自身に対して否定的になるとき、聖餐式のなかで復活のキリストに真ん中に立ってもらいましょう。そして聞き取りましょう。 「大丈夫。あなたたちがどれだけ否定的でも、私が真ん中に立ち、あなたたちと共に働くから。」

    17 min

About

聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。