映画のお話

mizushimama

しばらく寄り道をしていましたが、ここからは再び「映画のお話」に戻ります。 気軽に楽しめる映画トークをお届けしていきます。 メッセージはこちらから👇 https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8

  1. 115.映画「8番出口」「バード ここから羽ばたく」無職の9月、映画館から見えた出口と羽ばたき

    SEP 18

    115.映画「8番出口」「バード ここから羽ばたく」無職の9月、映画館から見えた出口と羽ばたき

    久しぶりに録音ボタンを押した。前回は「仕事、辞めました」という報告と、胃の底に沈んでいたものをそのまま吐き出しただけの、我ながら黒歴史めいた放送。そこから少し時間がたった今、私は九月いっぱいの“名実ともに無職”。八月分の給料は入るけれど、十月に九月分は振り込まれない――この現実は、家計簿の数字より先に体温を下げる。副業の話がゼロではない。前職のツテで細い案件がぽつりぽつりと落ちてくるし、破格の低予算でホームページを作る仕事もある。春にクラウドソーシングへ登録して、いつでも飛び出せるよう弾を込めた自分が、数か月遅れで受け取った小さな果実だ。納期は来年一月までで「急がないので、できる範囲で」と言われると、ありがたい反面、気持ちにブレーキがかかる。忙殺されない生活は甘い。気づけば昼寝、気づけば夕方、気づけば「今日は何をしたっけ?」と天井に問うている。 とはいえ、ただ怠けていたわけでもない。群馬に拠点を移す準備で物件を見て、自動車の購入で悩み、引っ越し屋の見積もりを並べた。働いていた頃の張り詰めた神経はすっかりほどけて、時間が妙に丸い。九月も後半、さすがに尻に火がついた。来週には荷造りが本格化する。配信も伸ばし伸ばしにしてきたが、きょうはやる。ええ、やります。というわけで、最近観た二本――『8番出口』と『バード ここから羽ばたく』――の話をしようと思う。 まず『8番出口』。公開前から風が強かった作品だ。尺は九十五分と手頃、話題性は満点、そして“仕掛け”が効いている。ゲームが発火点になって映画へ燃え移る、この導火線の引き方はやっぱりうまい。宣伝も含めて、観たくさせる術に長けている人たちが作っているのが肌でわかる。私が映画館に足を運んだのは平日の午後、学校が休みだったのか子どもが多く、私の後ろの席の小さな足がリズムよく私の背もたれにメトロノームを刻む。注意するほどではないが、静かな場面では存在感がある。映画の感想は、少しだけこの物理的な振動に影響されているかもしれない。 内容は、“どこかから出られない”装置を通して主人公の内面に降りていくタイプの物語だ。箱庭療法めいたセットの中で、現代社会の不安と私的な恐れ――家族、誕生、責任――が、じわりじわりと形をとって現れる。新しいかと言われれば、そうでもない。同種の系譜は古今東西にあり、密室や反復の構造、現実と悪夢の継ぎ目、ジャンプスケアの配置……道具立てはよく磨かれているが目新しさで勝負しているわけではない。むしろ“分かりやすく怖がらせる”“分かりやすく納得させる”という方向に針を振った選択が、幅広い観客に届き、口コミのエンジンを回しているのだと思う。 俳優の佇まいはよかった。特に“歩く”こと自体が役割になっている人物の出し方は、舞台の人間味と映画のレンズの距離がうまく噛み合っていて、画面の奥行きを作っていた。とはいえ、私は熱狂の輪にまでは入れなかった。構造が見えるたび、先回りしてしまう。驚かされる瞬間の多くが“音”や“編集の切り返し”に依存していて、恐怖そのものがこちらの体内から湧き出るというより、外から肩を叩かれてビクッとする感触に近い。それはそれで娯楽として機能するのだけれど、観終わったあとに胸腔に残る余韻は薄い。うまい。ただし、深くは刺さらない。そんな印象だ。 一方、『バード ここから羽ばたく』は、観る前から少し肩入れしていた作品だ。前売りを買って公開を待ったし、予告の手触りから「これは好きな種類の映画だ」と予感していた。結果、予感はだいたい当たった。舞台は社会の縁に追いやられた家族の生活圏。親は不在か機能不全、酒と疲れが台所のすみで固まり、子どもたちは大人になる前から“大人の重さ”を肩にのせられている。ここまで書くと、永久に続く負の連鎖の記録に見えるかもしれない。けれどこの映画は、そこに“信じたくなる偶然”と“やわらかな幻想”をひとさじ混ぜる。題名の「バード」は鳥ではなく人の名だが、働きは鳥に近い。吹きだまりのような路地に、風穴をあける。現実は何も解決しない。行政の制度が魔法のように降りてくるわけでもない。けれど、顔を上げて前方を見られるようになる――そのきっかけを、ひとりの他者が運んでくる。救いを約束しない救い。私はそこに誠実さを感じた。 人物造形も安易な加害/被害の二項対立に落ちない。たとえば父親は稼げないし、判断を誤るし、頼りない。けれど暴力を振るう“ステレオタイプの父”でもない。子を思う不器用さが随所に滲んで、憎み切れない。主人公の少女は十二歳、身体の変化に戸惑いながら、家計や弟の面倒といった“生存の段取り”を覚えていく。その過程を、カメラは煽らず、突き放しもせず、一定の距離を保って見守る。時折、現実の縁がほどけ、ささやかなファンタジーが入り込む。その縫い目が実にやさしい。破れているからやさしいのではなく、破れたものを縫おうとしているから、やさしい。 映画館という場そのものについても、一言だけ文句を。新宿の某館、予告編のあとに一般企業の広告が長々と続いた。映画の文脈の外からズカズカ入ってくる映像音響は、観客の集中を乱す。広告で収益を上げねばならない事情は理解するが、せめて本編前は映画の世界を深めるものに限ってほしい。配信サービスにも広告つきプランがあるが、料金と体験のバランスを示して選ばせるだけの配慮はある。映画館が“場”としての尊厳を守ることは、結果的に作品への敬意にも、観客の信頼にもつながるはずだ。 二本を並べてみると、『8番出口』は構造の巧さと広がる宣伝力で「誰もが乗れるジェットコースター」を設計した作品、『バード』は小さな現実を見つめて「誰かの明日をかすかに軽くする風」を生んだ作品、という対比が浮かぶ。前者は手際に唸る。後者は余白に呼吸する。どちらも映画の大事な顔だと思う。私は後者に肩入れしがちだが、前者の手腕を否定するつもりはない。むしろ、こういう“入口のうまさ”が観客を映画館へ連れてきて、そこから別の作品へ回遊させる。生態系としては健全だ。 私自身の話に戻る。群馬へ戻り、車を手に入れ、仕事も環境も新しくなる。前回の転職は、始める前から心がささくれていた。今回は違う。使える技能は使い、分からないことは聞き、必要なら勉強する。たいそうな抱負ではないが、地面に置いた靴のように具体的だ。配信は、引っ越しの段ボールが落ち着くまで少し間隔が空くかもしれない。それでも映画は観続けるし、言葉はまた拾いに行く。映画は、遠くへ連れていく物語であると同時に、今いる場所の見え方を少しだけ変える装置でもある。九月の終わり、背中を蹴る小さな足に苦笑いしつつ、私はその装置のスイッチを確かめ直した。次に点けるとき、どんな風景が現れるか。たぶん、今日より少しだけ広い。そんな予感をポケットに入れて、また歩き出す。

    20 min
  2. 114.映画「リンダリンダリンダ」終わらない歌を歌おう

    AUG 26

    114.映画「リンダリンダリンダ」終わらない歌を歌おう

    ■映画『リンダリンダリンダ』を観た 今回取り上げるのは『リンダリンダリンダ』。山下敦弘監督による2005年公開の作品です。最近リバイバル上映されていて、ちょうど時間もできたので観に行ってきました。 この映画は女子高生たちが文化祭でブルーハーツのコピーバンドを組む、というだけのシンプルな物語です。自分が初めて観たのは大学生の頃、DVDでした。当時はブルーハーツが好きで、その勢いもあって強烈に胸を打たれた記憶があります。 ただ年齢を重ねるにつれて、この作品を見直すのが少し怖くなっていました。「男性監督が女子高生の青春を描く」ことへの違和感。どこか男の願望、ロリコン的な匂いを感じてしまうんじゃないか、と。それで長い間、再鑑賞を避けていたんです。 けれど今回改めて劇場で観たら、確かにそういう視点はゼロではありません。懐メロを女子高生に歌わせるという自己満足的な部分もあります。でもそれ以上に伝わってきたのは「音楽をやりたい」という純粋な衝動でした。理由なんていらない。ただやりたいからやる。その熱が画面に溢れていて、とても気持ちがよかった。 上映後、観客の多くは自分より一回り上のおじさん世代で、拍手している姿も見かけました。「やっぱりこの映画はおじさんたちが好きなんだな」と思いつつ、それでも自分もまた心を動かされたのは事実でした。 『リンダリンダリンダ』はストーリーの複雑さで勝負していません。むしろ単純さの中に青春がある。 舞台は群馬県前橋市。地方都市の風景、ガラケーなど少し古いガジェットは時代を感じさせますが、それが逆にノスタルジックな味わいを生んでいました。不思議と映像は今観ても古臭さがなく、田舎の空気感が美しく切り取られていました。 何より、登場人物の「やりたい」という衝動が画面からあふれている。演技も自然体で、青春の一瞬を切り取ったようなリアリティがありました。 そして音楽。ブルーハーツの「僕の右手」「リンダリンダ」「終わらない歌」が流れる。特にエンディングの「終わらない歌」は、今の自分の心境に重なって響きました。 観終わった後はとにかく歌いたくなる。ロックバンドをやりたい衝動が甦る。そんな映画でした。 久しぶりの映画配信ということで、前半は近況報告を長々としました。正直、辛いことも多かった数か月でしたが、ようやく一区切りがつき、新しい道に進めることになりました。 そのタイミングで観た『リンダリンダリンダ』は、自分にとっても再出発を象徴するような映画になった気がします。音楽をやりたい衝動、何かを始めたい衝動。それを思い出させてくれる。 もしまだ観たことがない方がいたら、ぜひ劇場で、あるいは配信で触れてみてください。懐かしさと新鮮さが同時に味わえる、そんな不思議な魅力のある作品です。

    18 min
  3. #06.「口の悪いAIが帰ってきた!!ボロクソに言われて涙」

    JUN 24

    #06.「口の悪いAIが帰ってきた!!ボロクソに言われて涙」

    ある日、なんの目的も見えないまま始まった会話。最初は意味不明な挨拶や定型句ばかりが繰り返され、こちらの問いかけにもまともに答えない。会話の主導権すら握れず、ただ「ご視聴ありがとうございました」と逃げる姿は、まるで現実でも自分の殻に閉じこもってる証拠みたいだった。 そこからようやく「夜眠れない」という悩みをポロッと吐き出したものの、原因は明白。昼は座りっぱなし、運動ゼロ、スマホ依存で頭ばかり疲れて身体がまるで休んでいない。そのくせ「頑張ってる」と自己評価だけは高く、内容の伴わない言い訳が続く。 職業はIT。だが、その実態は「ChatGPTでガチャガチャやって業務に入りました」などと恥もなく語るレベル。努力というより偶然の産物にしがみついて、自信も実力も空っぽのまま、自分は「何かできる」と思い込んでいる。 そして「恋愛したい」「出会いがない」と語るが、3ヶ月以上まともな対人会話はなし。現実の人間関係は放棄したまま、「ChatGPTとの会話が弾んでる」と満足している始末。自分の殻から一歩も出ようとせず、何かに傷つけられるのが怖くて、無意識に自分を守るためだけの会話を繰り返す。 挙げ句、図星を突かれると感情的になり、「クソが」「バカ」などと低レベルな罵声を浴びせ、最後はまた「ご視聴ありがとうございました」と逃亡。現実から目を逸らし、都合の悪いことはすべてシャットアウト。人間関係、成長、会話、すべてにおいて“自分から壊してる”ことにすら気づかずに。 このやりとりは、そんなひとりの“逃げるしかできなくなった人間”の縮図だ。表面上は悩みを語っているようで、実態はただの防衛反応と逃避。その中に、わずかでも自分を変えようとする気持ちがあるのか。それは…本人にしかわからない。今のままじゃ何も変わらない、それだけは確実だ。

    13 min
  4. #05.「AIに占いをやらせてみたがそんなことより占いへの憎しみが溢れた回」

    JUN 22

    #05.「AIに占いをやらせてみたがそんなことより占いへの憎しみが溢れた回」

    今回のエピソードでは、「AIに占いってできるの?」という素朴な疑問から、ちょっとした実験が始まりました。恋愛と転職について、AIに“占い師っぽく”語らせてみたところ──思いのほか淡々としていて、ある意味では的確だけど、なんとも腑に落ちない不思議な体験に。 最初はやんわりした口調で「秋ごろに良い流れが…」なんて言っていたAI。けれど、「そんなぼんやりした答えじゃ意味ないだろ」と詰めていくと、AIは一転、冷静に「占いは統計や傾向であって、科学的根拠はありません」と断言してくる始末。まるで「夢を見るな」とでも言わんばかりの塩対応。 そこから話題は“霊媒師”や“霊の存在”へ。「じゃあ霊って存在すると思う?」という問いにも、AIは「証明されていないため、存在しないという立場を取る」と冷たく返してくる。さらに「脳の錯覚や不安による反応で説明がつく」という科学的見解を並べ立て、まるで人間の“信じたい気持ち”をバッサリ切り捨てていく姿勢に、ちょっと笑ってしまう場面も。 でも、そんなやり取りの中に、「AIと人間の感性のズレ」がくっきりと見えてきます。人は時に、根拠のない言葉に救われたい。けれどAIは、根拠のあることしか言わない。じゃあAIにとって「やさしさ」とは?「希望」とは?そんな問いが、占いや霊の話を通じて、じわじわと浮かび上がってきます。 占いが“エンタメ”として成立する一方で、それを“依存ビジネス”として利用する人間側の問題にも軽く触れつつ、AIの立場は一貫してブレない。「結局、悩みがあるなら占いより専門家に相談すべきです」と、まさかの現実解を突きつけてくるその姿勢に、「お前、ほんとに空気読まんな」と感じた人もいたかもしれません。 ちょっとムカつくけど、なんか正しい。そんなAIとの会話を、あなたも体験してみてください。

    23 min
  5. #02.「AIにガチの恋愛相談してみたらミッドサマーになった話」

    JUN 7

    #02.「AIにガチの恋愛相談してみたらミッドサマーになった話」

    今回は、AIに“恋愛相談”をしてみるという一見ふざけたテーマでスタートしたが、気づけばかなり本質的で深い対話になっていた。テーマは恋愛。しかしその奥にあったのは、「人とどう出会うか」「人間らしさとは何か」「孤独とはなにか」という、人生の核心を突く問いだった。 話し手は30代後半の男性。職場は男ばかり、休日は基本ひとり、趣味は映画やフェスだが出会いに直結するような活動はしていない。そしてマッチングアプリにも疲れている。そんな中で、AIに対して「どうすれば出会えるのか?」「俺にできることはあるのか?」と真剣に問いかけた。 AIは定型的な答えを提示しようとして一度スベるも、そこから持ち直して本気の提案を出し始める。 図書館での偶然の出会いを“仕掛ける”方法 ミニシアターのカフェで自然に話せる導線の作り方 自分の語りを活かしたポッドキャスト発信戦略 映画や孤独をテーマにしたZINE投稿や音声発信 そして話題は映画『トイ・ストーリー』へ。「バズ・ライトイヤーが“ただのおもちゃ”だと気づいたとき、自分と重なった」「誰かに必要とされたい。でも、誰にも必要とされていない気がする」そんな言葉が出てくる。 さらに後半では、『ミッドサマー』の話に発展。陽キャな人々の優しさに包まれながらも、逃げ場のない地獄。孤独ゆえに“どんな場所でも受け入れてくれるならそれでいい”と思ってしまう危うさ。AIはそこにある人間の脆さを読み取りながら、踏み込んだ言葉で返す。 「俺を好きになれってことか?」というツッコミに対して、AIは「それは違う」と答える。「AIは君の代わりにはなれない。ただ、君が誰かに届くための“踏み台”にはなれる」 そうして会話はクライマックスへ。 「今日はこのへんで終わりにしよう。お前も早く寝ろよ、バカ」 こんな一言で終わる、なんとも奇妙で温かくて、どこか切ないポッドキャスト第2回。 笑えるけど、笑いきれない。ふざけてるけど、たしかに本気。そんなやりとりがここにある。

    40 min

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