今回のゲストは、社会学者の上野千鶴子(うえの・ちづこ)さん.。
上野千鶴子さんが新著『アンチ・アンチエイジングの思想――ボーヴォワール「老い」を読む』で投げかけているのは、現代社会の根深い「老い」を嫌悪する価値観への根本的な問いかけだ。フリーアナウンサーの町亞聖とジャーナリストの相川浩之との対談で明らかになったのは、私たちが無意識のうちに内面化している「生産性のない人間には価値がない」という思想の危険性だった。
上野さんは長年にわたって女性問題を研究してきたが、現在は高齢者問題に軸足を移している。しかし、これは研究分野の転換ではなく、自然な延長線上にある取り組みだと語る。女性として当事者研究を行ってきた上野さんが、今度は老いた女性として当事者の立場から研究を続けているのだ。
超高齢社会においては、誰もが必ず老いを迎える。老いるのが嫌なら早死にするしかないという現実の中で、上野さんは超高齢社会を「恵み」と表現する。なぜなら、障害者差別や女性差別とは異なり、高齢者差別は最終的に自分自身に跳ね返ってくる差別だからだ。男性が女性になる可能性はほとんどないし、健常者が障害者になる可能性は相対的に低いとしても、老いは長生きすれば誰もが確実に迎えざるを得ない。この避けることのできない現実が、私たちに真の平等と共生について考える機会を与えているのである。 上野さんが今回取り上げたシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』は、1970年に発表された古典的名著だが、その内容は現代においても驚くほど新鮮で痛烈だ。ボーヴォワールは博覧強記の人として知られ、古今東西の文献から老いに対する否定的な言説を容赦なく引用している。例えば、ツルゲーネフの「人生で最悪のこと。それは55歳以上であることだ」という言葉は、現代の多くの人々にとって身につまされる内容だろう。 この本を「いやな本」と上野さんが表現するのは、これでもかこれでもかと畳み掛けるように、過去から現在に至るまで老いがいかに軽蔑され、忌避されてきたかを明らかにするからだ。しかし、この徹底的な検証こそが、私たちが無意識のうちに抱いている老いへの偏見を浮き彫りにする。ボーヴォワールが「老いは文明のスキャンダルである」と述べたのは、人間の生き死にが生産性や効率で測られることの根本的な誤りを指摘したものだった。
現代社会では、アンチエイジング産業が巨大な市場を形成している。高額な化粧品やサプリメント、健康食品などが「若さの維持」を謳い文句に販売され、消費者は値段の高い商品から購入していく傾向があるという。しかし、上野さんはこうした現象を「はかない望みを託している」と批判的に捉える。年齢を隠したがったり、「若いですね」と言われて喜んだりする行為も、結局は老いることへの恐怖と拒絶の表れに他ならない。
上野千鶴子さんが「老い」を意識したのはいつか?
「私は早かったですよ。30代で自分の人生が時間もエネルギーも有限だと思いました。それまでドブに捨てるように無限だと思っていたんですが」。 「それで、私、今、後期高齢者ですので、ボディーのパーツが故障してきています。もう腰椎圧迫骨折もしましたし、変形性股関節症にもなりましたし、目ん玉も悪くなりましたし、乳がんにもなりました。だからパーツがいろいろ故障してきますね。でも抗えない過程なので、どんなに頑張っても。で、それでも生かしてもらえる。結構なことではありませんか」。
上野さんは「高齢になっていろんな老い、衰え方をした人たち、特に認知症になった人を、公衆の目からご家族が隠すことはやめてほしい」と言う。免疫学者の多田富雄さんは脳梗塞で後遺障害になった姿を公開の場に出てこられて見せたし、認知症の専門医の長谷川和夫さんご自身が認知症になって、やっぱりその姿を世間にさらして、ご家族もそれを認めたという。
高齢者問題を考える上で重要なのが、「自立」という概念の捉え方だ。上野さんは、高齢者と障害者では自立の定義が180度異なることを指摘する。介護保険法における高齢者の自立支援とは、「介護保険を使わないあなたが偉い」という意味合いが強い。一方、障害者総合支援法における自立とは、できないことは介助を受けて当たり前で、その上で自分がやりたいことをやることを指している。
この違いは、社会の価値観の根深い問題を浮き彫りにする。高齢者は自分でできなくなることを恥じ、他人の世話になることを申し訳なく思う傾向がある。特に、トイレ介助や食事介助を受けることになったら「死んだ方がマシ」と考える人も少なくない。しかし、24時間介助が必要でも自立して生活している障害者は数多く存在する。「オムツをしたぐらいでは死ぬ理由にはならない」(上野さん)のだ。
上野さんは、これからの高齢者に必要なのは「自己解放」だと述べる。自己解放とは、自分を他人に委ねる力のことだ。できないことはできないと素直に認め、必要な支援を受け入れる。それは決してその人の価値を貶めるものではない。むしろ、残存能力を活用しながら、支援を受けて自分らしい生活を続けることこそが真の自立なのである。 上野さんの研究において重要な示唆を与えているのが、障害者との交流から得られた知見だ。先天性の障害を持つ人と中途障害者では、障害に対する受けとめ方が大きく異なる。先天性の障害者にとって、障害は最初からの初期条件であり、「不便だけど不幸じゃない」という言葉で表現される。一方、中途障害者は、障害を負う前の自分と現在の自分を比較してしまい、自己嫌悪に陥りやすい。
高齢になることは、すべての人が何らかの形で中途障害者になっていくプロセスと捉えることができる。しかし、視覚障害者は見えなくても楽しく暮らしているし、聴覚障害者は聞こえなくても豊かなコミュニケーションを築いている。車椅子利用者は電動車椅子で自由に移動を楽しんでいる。
現在の介護システムには多くの矛盾が存在する。要介護認定を受けた高齢者だけが様々な介護サービスを利用できる仕組みや、高齢者だけを集めたデイサービスの在り方などに、上野さんは疑問を投げかける。なぜ高齢者が高齢者だけの場所に集まらなければならないのか、なぜ要介護になったら年寄りばかりが固まって過ごさなければならないのか。
理想的な社会とは、多世代の人々が様々な場所で自然に交流し、どこに行っても必要な支援を 受けられる環境だ。麻雀をしたい人が雀荘に行き、そこで働く人が介護福祉士の資格を持っていれば良いのだ。喫茶店のウェイターやウェイトレスが介護の心得を持っていれば、高齢者も気兼ねなく外出を楽しめる。特定の場所に要介護者を集め、資格を持った人だけを配置するという現在のシステムは、効率性を重視した結果生まれた人為的な分離に過ぎない。
障害者総合支援法では外出介助が認められており、コンサートや映画鑑賞なども支援の対象となる。しかし、介護保険ではこうした「楽しみ」のための外出は基本的に認められていない。人間が生きるということは、食べて寝て排泄するだけではない。楽しみや交流、コミュニケーションも生きることの基本的な要素なのだ。
これからの高齢者は、これまでとは大きく異なる特徴を持つと予測される。上野さんが挙げる新しい高齢者像は以下のようなものだ。自分のことは自分で決めたい、デイサービスには行きたくない、施設にも入りたくない、おためごかしの作業や子供だましのようなレクリエーションはしたくない、最後は自分のことは自分で決めたい。
この変化の背景には、世代交代による価値観の変化がある。これまでの高齢者は、こんなに長く生きることを予期していなかった。人類史上初めて「死ぬに死ねない」状況に直面し、茫然自失している面がある。終活について話すことさえタブー視してきた世代だった。しかし、その次の世代は、上の世代の介護を通じて老いについて学習し、死や葬儀についても公然と話し合える環境を作り上げている。
この学習効果は、介護保険制度
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- FrequencyUpdated Biweekly
- PublishedAugust 16, 2025 at 8:37 AM UTC
- Length54 min
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