映画のお話

115.映画「8番出口」「バード ここから羽ばたく」無職の9月、映画館から見えた出口と羽ばたき

久しぶりに録音ボタンを押した。前回は「仕事、辞めました」という報告と、胃の底に沈んでいたものをそのまま吐き出しただけの、我ながら黒歴史めいた放送。そこから少し時間がたった今、私は九月いっぱいの“名実ともに無職”。八月分の給料は入るけれど、十月に九月分は振り込まれない――この現実は、家計簿の数字より先に体温を下げる。副業の話がゼロではない。前職のツテで細い案件がぽつりぽつりと落ちてくるし、破格の低予算でホームページを作る仕事もある。春にクラウドソーシングへ登録して、いつでも飛び出せるよう弾を込めた自分が、数か月遅れで受け取った小さな果実だ。納期は来年一月までで「急がないので、できる範囲で」と言われると、ありがたい反面、気持ちにブレーキがかかる。忙殺されない生活は甘い。気づけば昼寝、気づけば夕方、気づけば「今日は何をしたっけ?」と天井に問うている。

とはいえ、ただ怠けていたわけでもない。群馬に拠点を移す準備で物件を見て、自動車の購入で悩み、引っ越し屋の見積もりを並べた。働いていた頃の張り詰めた神経はすっかりほどけて、時間が妙に丸い。九月も後半、さすがに尻に火がついた。来週には荷造りが本格化する。配信も伸ばし伸ばしにしてきたが、きょうはやる。ええ、やります。というわけで、最近観た二本――『8番出口』と『バード ここから羽ばたく』――の話をしようと思う。

まず『8番出口』。公開前から風が強かった作品だ。尺は九十五分と手頃、話題性は満点、そして“仕掛け”が効いている。ゲームが発火点になって映画へ燃え移る、この導火線の引き方はやっぱりうまい。宣伝も含めて、観たくさせる術に長けている人たちが作っているのが肌でわかる。私が映画館に足を運んだのは平日の午後、学校が休みだったのか子どもが多く、私の後ろの席の小さな足がリズムよく私の背もたれにメトロノームを刻む。注意するほどではないが、静かな場面では存在感がある。映画の感想は、少しだけこの物理的な振動に影響されているかもしれない。

内容は、“どこかから出られない”装置を通して主人公の内面に降りていくタイプの物語だ。箱庭療法めいたセットの中で、現代社会の不安と私的な恐れ――家族、誕生、責任――が、じわりじわりと形をとって現れる。新しいかと言われれば、そうでもない。同種の系譜は古今東西にあり、密室や反復の構造、現実と悪夢の継ぎ目、ジャンプスケアの配置……道具立てはよく磨かれているが目新しさで勝負しているわけではない。むしろ“分かりやすく怖がらせる”“分かりやすく納得させる”という方向に針を振った選択が、幅広い観客に届き、口コミのエンジンを回しているのだと思う。

俳優の佇まいはよかった。特に“歩く”こと自体が役割になっている人物の出し方は、舞台の人間味と映画のレンズの距離がうまく噛み合っていて、画面の奥行きを作っていた。とはいえ、私は熱狂の輪にまでは入れなかった。構造が見えるたび、先回りしてしまう。驚かされる瞬間の多くが“音”や“編集の切り返し”に依存していて、恐怖そのものがこちらの体内から湧き出るというより、外から肩を叩かれてビクッとする感触に近い。それはそれで娯楽として機能するのだけれど、観終わったあとに胸腔に残る余韻は薄い。うまい。ただし、深くは刺さらない。そんな印象だ。

一方、『バード ここから羽ばたく』は、観る前から少し肩入れしていた作品だ。前売りを買って公開を待ったし、予告の手触りから「これは好きな種類の映画だ」と予感していた。結果、予感はだいたい当たった。舞台は社会の縁に追いやられた家族の生活圏。親は不在か機能不全、酒と疲れが台所のすみで固まり、子どもたちは大人になる前から“大人の重さ”を肩にのせられている。ここまで書くと、永久に続く負の連鎖の記録に見えるかもしれない。けれどこの映画は、そこに“信じたくなる偶然”と“やわらかな幻想”をひとさじ混ぜる。題名の「バード」は鳥ではなく人の名だが、働きは鳥に近い。吹きだまりのような路地に、風穴をあける。現実は何も解決しない。行政の制度が魔法のように降りてくるわけでもない。けれど、顔を上げて前方を見られるようになる――そのきっかけを、ひとりの他者が運んでくる。救いを約束しない救い。私はそこに誠実さを感じた。

人物造形も安易な加害/被害の二項対立に落ちない。たとえば父親は稼げないし、判断を誤るし、頼りない。けれど暴力を振るう“ステレオタイプの父”でもない。子を思う不器用さが随所に滲んで、憎み切れない。主人公の少女は十二歳、身体の変化に戸惑いながら、家計や弟の面倒といった“生存の段取り”を覚えていく。その過程を、カメラは煽らず、突き放しもせず、一定の距離を保って見守る。時折、現実の縁がほどけ、ささやかなファンタジーが入り込む。その縫い目が実にやさしい。破れているからやさしいのではなく、破れたものを縫おうとしているから、やさしい。

映画館という場そのものについても、一言だけ文句を。新宿の某館、予告編のあとに一般企業の広告が長々と続いた。映画の文脈の外からズカズカ入ってくる映像音響は、観客の集中を乱す。広告で収益を上げねばならない事情は理解するが、せめて本編前は映画の世界を深めるものに限ってほしい。配信サービスにも広告つきプランがあるが、料金と体験のバランスを示して選ばせるだけの配慮はある。映画館が“場”としての尊厳を守ることは、結果的に作品への敬意にも、観客の信頼にもつながるはずだ。

二本を並べてみると、『8番出口』は構造の巧さと広がる宣伝力で「誰もが乗れるジェットコースター」を設計した作品、『バード』は小さな現実を見つめて「誰かの明日をかすかに軽くする風」を生んだ作品、という対比が浮かぶ。前者は手際に唸る。後者は余白に呼吸する。どちらも映画の大事な顔だと思う。私は後者に肩入れしがちだが、前者の手腕を否定するつもりはない。むしろ、こういう“入口のうまさ”が観客を映画館へ連れてきて、そこから別の作品へ回遊させる。生態系としては健全だ。

私自身の話に戻る。群馬へ戻り、車を手に入れ、仕事も環境も新しくなる。前回の転職は、始める前から心がささくれていた。今回は違う。使える技能は使い、分からないことは聞き、必要なら勉強する。たいそうな抱負ではないが、地面に置いた靴のように具体的だ。配信は、引っ越しの段ボールが落ち着くまで少し間隔が空くかもしれない。それでも映画は観続けるし、言葉はまた拾いに行く。映画は、遠くへ連れていく物語であると同時に、今いる場所の見え方を少しだけ変える装置でもある。九月の終わり、背中を蹴る小さな足に苦笑いしつつ、私はその装置のスイッチを確かめ直した。次に点けるとき、どんな風景が現れるか。たぶん、今日より少しだけ広い。そんな予感をポケットに入れて、また歩き出す。