小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

  1. 正解探しではない旅への招き(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7

    5日前

    正解探しではない旅への招き(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7

    2026年6月21日 三位一体後第3主日 説教題:正解探しではない旅への招き 聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、ミカ書 7:18–20、詩編 91、テモテへの手紙 二 2:11–13 説教者:稲葉基嗣   ----- 人生の中で正解だけを模索することって、とてもシンドイことだと思います。正解だけしか許されないならば、間違えが怖くて、他のことを楽しむ余裕などなくなってしまいます。けれども、イエスさまがここで語った「真理」という言葉は、そのような窮屈さを伝える言葉ではありませんでした。旧約聖書において、真理とは、神の誠実さを指すものです。神はどんな時でも彼らに与えた約束や契約に、誠実であり続けました。たとえ人間の側から裏切られることがあっても、すべての人を救いたいという、神の願いとその熱意は変わりませんでした。そもそも、この言葉を聞く私たちの側は、何度も過ちを繰り返します。けれども、神はそんな私たちを決して見捨てません。これこそが、イエスさまが提示する真理です。決して、正解のみを突きつけることとは違います。私たちが招かれている旅は、神の誠実さと出会う旅です。それは、私たちが何者であるのかを問いません。私たちが何か良いことをしたわけでもなく、私たちが正解を選び取ったからでもありません。神が私たちを愛し、憐れんでくださったからです。私たちの人生には正解がない選択肢の方が多いのかもしれません。でも、イエスさまは正解を常に選べとは言いません。イエスさまが私たちに伝えてくださっていることは、神が約束に忠実な方であるということです。どのような道を私たちが選んでも、神が共にいてくださいます。何度失敗し、何度挫折しようとも、神は私たちを決して見捨てません。私たちの旅路を支えるのは、私たちの決断の正確さではありません。どのような時も、神が共にいてくださることこそ、私たちの支えです。神の誠実さに触れ、愛を示された私たちは、同じように、誠実さを、共に生きる人たちにも向けることができるはずです。お互いに、正解や間違い探しをする必要はありません。そうではなく、どのような時においても、神が共にいてくださっていることを私たちはお互いに思い起こし合います。そして、必要ならば手を取り合い、支え合いながら、私たちは信仰の旅路をこれからも共に歩んで行きましょう。

    23分
  2. 主イエスはどのような意味で道なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7

    6月14日

    主イエスはどのような意味で道なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7

    2026年6月14日 三位一体後第2主日 説教題:主イエスはどのような意味で道なのか? 聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、イザヤ書 43:16–21、詩編 1、ヨハネの手紙 一 5:6–12 説教者:稲葉基嗣   ----- 目的地へと向かう道筋を思い浮かべながら、私たちは道という言葉を使います。どんな人生を歩むのかもまた、道という言葉を聞く時、私たちが思い浮かべることのひとつかもしれません。イエスさまは弟子のひとりである、トマスから道を尋ねられています。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」(5節)このトマスの問いかけは、神のもとへと向かうことが自分たちには可能なのかという問いかけといえます。どのようにしたら、神のもとにたどり着くのか。どうすれば、神は自分を受け入れてくれるのかという問いかけともいえます。ある人は考えます。何の罪も、悪も抱えていない。そんな純粋で、無垢で、心が清い人だけが神のもとにたどり着ける、と。でも、そんな人はどこにもいません。私たちは誰もが等しく、過ちを犯します。常に正しく人生の旅路を歩めるわけでもありません。そんなトマスの言葉に対するイエスさまの回答はどのようなものだったでしょうか。「私は道であり、真理であり、命である」(6節)。イエスさまは、むしろ、私たちのもとに来て、私たちと共に生きることを選んでくださった方です。それは何よりも、私たちの側が何とかして神に会いに行くのではなく、神の側から私たちのもとに来てくださったことも意味します。イエスさまは、「私が道である」と言います。それは、あなたがあなた自身の道にならなくてもよい、ということです。「あなたが自分の人生に、すべての責任をもって、最初から最後まですべてのことを決める。それだけがすべてじゃないんじゃない?」イエスさまは言います。「だから、私が来たんだ」と。「私があなたの道となる。あなたの人生のすべてを引き受ける。」悩み、不安を抱えながら、先の見えない道を歩く私たちの人生の旅路に、神がいつまでも伴うために、イエスさまの方から、神の方から来てくださいました。イエスさまが私たちの道である方法は、私たちが悩みながら、苦しみ、時には悶えながら歩いている道を一緒に悩みながら、生涯の終わりに至るまで歩いてくださることです。道である主イエスを一緒に見つめながら、助け合い、支え合いながら、私たちは生涯の旅路を天の御国を目指して歩んでいきます。

    23分
  3. 主イエスが用意する居場所(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–4

    6月7日

    主イエスが用意する居場所(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–4

    2026年6月7日 三位一体後第1主日 説教題:主イエスが用意する居場所 聖書: ヨハネによる福音書 14:1–4、出エジプト記 25:1–9、詩編 23、エフェソの信徒への手紙 2:19–22 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまは「私の父の家には住まいがたくさんある」(2節)と語りかけています。まるで、天の国に私たちの居場所が確実にあることを保証しているかのようです。けれども、イエスさまが私たちに保証する居場所って、天の国だけなのでしょうか。イエスさまは、弟子たちに向かって「心を騒がせてはならない」と言いました。ユダヤ社会でも、ユダヤ社会の外でも自分たちの居場所を見出すことができない。それはまさに、キリストを信じる人々が直面した、心騒がせる出来事でした。けれども、イエスさまが何よりもこの時に弟子たちに伝えたかったのは、この地上において、彼らに居場所があるということです。イエスさまは、自分こそが神殿だと人々に伝えました(ヨハネ2章13-22節参照)。特定の場所ではなく、イエスさまと出会うところにおいて、誰もが神と出会い、居場所を得ると、イエスさまは伝えようとしています。イエスさまのもとに集められた人たちが出会い、関係性を築き、居場所を作っていくのです。私たちはそのようにして築かれた共同体を教会と呼びます。主イエスにあって集う愛する友たちがいる。だから、孤独ではない。居場所はある。神が与え、イエスさまが招いてくださったこの居場所は、誰もあなたから奪えない。イエスさまを中心にして集まった、神の愛と憐れみに基づき、平和のうちに生きようとする交わりがもうそこにあるからです。居場所を用意すると約束する前から、イエスさまは居場所を作ろうとする方でした。社会の中で嫌われている人たちこそ食卓に招き、彼らに居場所を提供しました。「ここにいていいんだよ」と、イエスさまが行動を通して、色々な人に示したように、誰もが条件なく、いることができるのが教会です。神が壁を作り出すことを願わず、イエスさまが壁を乗り越えていこうとしたように、お互いの間に不必要な壁を出来る限り作らないのが、教会の姿です。私たち自身がイエスさまから受け入れられ、神から居場所を与えられていることを思い起こし続ける必要があるのでしょう。神の側がまず初めに、イエスさまを通して、私たちを救い出し、居場所をそして教会の交わりを与えてくださったのです。私たちを受け止めてくださる主イエスの愛に押し出されて、多くの人を受け止められる居場所が、教会の歩みや皆さんの日常のあらゆる営みを通して、少しずつ広がっていきますように。イエスさまが用意してくださっている居場所を届けるために、私たちに出来ることを積み重ねていくことが出来ますように。

    20分
  4. 簡単に命を捨てるな(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:36–38

    5月31日

    簡単に命を捨てるな(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:36–38

    2026年5月31日 三位一体の主日 説教題:簡単に命を捨てるな 聖書: ヨハネによる福音書 13:36–38、エゼキエル書 18:30–32、詩編 56、ローマの信徒への手紙 14:7–9 説教者:稲葉基嗣   ----- ペトロはイエスさまに、「どこへ行かれるのですか」と尋ねました。この時のペトロの一番の関心は、イエスさまが一体どこへ行くのかにありました。彼は「あなたのためなら命を捨てます」と言って、イエスさまにどこまでもついて行けるという意思を伝えました。自分の命を投げ捨ててでも、ペトロはイエスさまの命を救おうとします。自分の命を犠牲にしてでも、イエスさまに従おうとします。それが彼にとってのあるべき弟子としての姿でした。でも、それは本当にイエスさまが弟子たちに求めたことだったのでしょうか。神の子であるイエスさまのうちに命があり、イエスさまを通して、すべての人が命を得ることをヨハネはこの福音書全体を通して伝えています。イエスさまの命を通して、すべてのものが命を得て、生きるために、神は独り子であるイエスさまを私たちのもとに与えてくださったのです。イエスさまのためならば、自分は命を投げ出すことができる。そのように語ったペトロの言葉は、イエスさまの思いとは、正反対のことでした。イエスさまは決してペトロがそのような命の捨て方をすることは望んでいません。イエスさまのために死を選ぶのではなく、イエスさまのために生きることをこそ選んでほしい。命をすり減らして生きるのではなく、その豊かさを味わって喜びのうちに生きてほしい。それこそが、イエスさまの願いでした。イエスさまはペトロに直接的にこのことを伝えませんでした。むしろ、イエスさまは、ペトロがこれから失敗することを伝えます。事実、ペトロはイエスさまを見捨て、自分の弱さと向き合うことになりました。でも、イエスさまはそんなペトロをこそ、受け止めました。自分の命をすり減らした結果、挫折してしまったペトロにこそ、イエスさまは命の豊かさを取り戻して欲しかったと思います。イエスさまが私たちに求めておられるのは、完璧な姿でも、命がけの無理を重ねることでもありません。「簡単に命を捨てるな。わたしがあなたを生かすから、どうか生きてくれ。」これこそが、イエスさまが私たち一人ひとりに向けて語りかけておられることです。どうかイエスさまが与えてくださる命の豊かさにこそ身を委ねて、神に与えられている自分自身の命と、共に生きる人たちの尊い命を喜びのうちに受け止めて、日々歩み続けることができますように。

    23分
  5. 互いに愛し合う道の出発点(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:31–35

    5月24日

    互いに愛し合う道の出発点(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:31–35

    2026年5月24日 聖霊降臨祭 説教題:互いに愛し合う道の出発点 聖書: ヨハネによる福音書 13:31–35、レビ記 19:9–18、詩編 133、ヨハネの手紙 一 4:7–13 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまは、もうすぐ訪れようとしている別れの時に備えて、弟子たちに、しっかりと彼らの心に刻んで欲しいことを語りかけています。イエスさまはご自分の死を予感させた後、「互いに愛し合いなさい」と伝えました。イエスさまの弟子たちはしばしば、誰が自分たちの中で一番偉いのかを論じ合い、競い合っていました(ルカ9:46参照)。また、お互いに対する不信感を抱いていました(ヨハネ13:22)。今、目の前にいて、この食卓を一緒に囲んでいる人たちと互いに愛し合いなさい。一人ひとりを見つめながら、イエスさまはこの言葉を伝えているのです。イエスさまはこの互いに愛し合うことについて、「新しい戒め」と言っています。それは、イエスさまが「私があなたがたを愛したように」と伝えたことにありました。通常、私たちは自分のやり方で愛します。自分の理解の範囲内でしか、目の前にいる人を愛せません。愛する時の基準は、私たち自身のうちにあるため、愛することは難しいのです。だからこそ、イエスさまは私たちの目をイエスさま自身に向けるようにと促します。私たち自身の側に愛の出発点を設定することをイエスさまは願っていません。イエスさまが望むことは、まずイエスさまの言葉や行動を見つめることです。イエスさまがどのように私たちを愛してくださったかを知ることです。そんなイエスさまの愛こそ、私たちがお互いのことを愛する道の出発点です。でも、イエスさまの姿が見えないから、イエスさまのように愛することをあまりにも簡単に忘れてしまいます。そのような私たちのために、イエスさまは、聖霊を与えると約束されました。聖霊こそ、天におられるイエスさまと私たち自身とを結ぶ絆です。聖霊において、イエスさまが今まさに私たちと共にいてくださるから、私たちはお互いに結び合わされ、イエスさまを見つめながら、お互いを愛することができるのです。神が私たちに与えてくださり、私たちとイエスさまを今も結びつけてくださっている聖霊と共に生きることこそ、私たちがお互いに愛し合う道を歩み出す、出発点です。異なる一人ひとりを結び合わせ、争いよりも平和を、憎しみよりも愛を選んでいく。聖霊が伴うみなさんの日々の歩みの中で、そんな希望に溢れた風こそが自由に吹き、この世界においてお互いに愛し合う道を作り出していきますように。

    21分
  6. 主イエスがパン切れを与えた理由(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:18–30

    5月17日

    主イエスがパン切れを与えた理由(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:18–30

    2026年5月17日 復活節第7主日 説教題:主イエスがパン切れを与えた理由 聖書: ヨハネによる福音書 13:18–30、ホセア書 11:8–9、詩編 103、エフェソの信徒への手紙 2:4–10 説教者:稲葉基嗣   ----- きょうの福音書の物語は、イエスさまがユダに「あなたが裏切り者だ」と直接告げている瞬間を伝えているかのようです。イエスさまは、「私がパン切れを浸して与えるのが裏切り者だ」(26節)と語り、イスカリオテのユダに浸したパン切れを手渡しました。でも、食事の場を去って行ったユダに対して、否定的な言葉や驚く声はまったく残されていません。その理由は、パン切れを渡すというイエスさまの行動そのものにありました。食事の席で、家の主人がお客さんにパン切れを渡すことは、心からの歓迎や友情、そしてもてなしのしるしでした。そう、イエスさまがユダにパン切れを手渡したことは、イエスさまからユダへの愛情や親しみのしるしとして受け止めることのできるものでした。何よりも、この食事の席でイエスさまがパン切れをユダに手渡したことは、ユダが裏切ることをわかりやすく示すための行動ではありませんでした。むしろ、イエスさまからユダへの親しさや愛情、もてなしや歓迎のしるしとしてパン切れはユダに手渡されています。そう考えると、この食事の場面は、裏切り者探しや、裏切り者を特定するような殺伐とした瞬間ではありません。それよりも、ユダが自分のことを裏切ることになるのを知った上で、イエスさまがユダを自分のそばに置いていたことがよくわかる瞬間でした。裏切られることがわかっていたとしても、決してユダのことを見捨てず、彼との関係を諦めずに、イエスさまはユダと向き合おうとなさいました。どのような生き方をしていても、どのような立場にあっても、神によって愛され、命が与えられている。そのような喜びに溢れた光をイエスさまは、私たちの生きるこの世界にもたらしてくださいました。ユダに対して、それは、一切れのパンという形で示されました。たとえ裏切り、闇の中を歩んでいくことがわかっても、絶対に見捨てない。この一切れのパンは、私たちに対しても、いつも差し出されているものです。イエスさまは、どんなあなたも、愛し、慈しみ、受け止めてくださる方です。何よりも、イエスさま自身が十字架の上にかかり、傷つき、命を差し出したほどに、神ご自身が命がけで、私たち一人ひとりを愛し、慈しんでくださっています。そんなイエスさまが差し出した一切れのパンはまさに、あらゆる人を受け入れ、愛する証しでした。

    23分
  7. 主イエスの愛が、先立つ(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:1–17

    5月10日

    主イエスの愛が、先立つ(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:1–17

    2026年5月10日 復活節第6主日 説教題:主イエスの愛が、先立つ 聖書: ヨハネによる福音書 13:1–17、創世記 1:27、詩編 117、ペトロの手紙 一 4:7–11 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまが食事の席でご自分の弟子たちの足を洗い始めた時、イエスさまのその行動は驚きと戸惑いをもって受け止められました。足を洗うことが奴隷の仕事だったからです。ユダヤ社会の中で、自ら進んで他人の足を洗おうとする人などいませんでした。まして、「先生」と呼ばれ尊敬されている人が他人の足を洗うはずありません。ですから、イエスさまが食事の席で突然立ち上がり、自分たちの足を洗い始めた時、弟子たちはどれほど戸惑いを覚えたことでしょうか。イエスさまが奴隷の立場を選び、行動しているのですから。そして、自分を模範として、同じようにお互いに足を洗いなさいとイエスさまは呼びかけるのです。このようなイエスさまの行動や、その後の呼びかけは、弟子たちが当たり前だと思っていたことを揺るがすには十分な出来事でした。彼らにとっての当たり前は、身分の高い人のために身分の低い人が働く世界です。でも、イエスさまの行動はその当たり前を自らの身をもって逆転させるものでした。そして、お互いに足を洗い合うようにという、イエスさまの呼びかけは、驚くほどに人々の間に平等をもたらそうとする呼びかけでした。その意味で、イエスさまが自ら進んで弟子たちの足を洗ったことは、信仰者の群れがどんな共同体であるべきかを指し示すものだったといえます。そう、主イエスと共に歩む、教会の姿をヨハネは紹介しているのです。それは、お互いの間に、絶対的な上下関係を作り出さず、平等でいられる場所です。ヨハネは、イエスさまが弟子たちの足を洗ったという、この物語を導入する際に、「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(1節)と書きました。イエスさまの行動に滲み出ていたとヨハネは感じたのでしょう。このようなイエスさまが、弟子たちの足を洗った際に、その場にいたふたりの人の名前をヨハネは紹介しています。ペトロとイスカリオテのユダです。この後、ペトロはイエスさまを知らないと言って、イエスさまとの関係を否定します。ユダはイエスさまを裏切り、イエスさまを十字架刑へ向かう道に明け渡しました。イエスさまに足を洗われた弟子たちの多くは、イエスさまを見捨てた人たちでした。でも、イエスさまはその一人ひとりをこの上なく愛し、愛し抜きました。どれだけ失敗しても、その罪を赦し、すべてを受け止めました。その意味で、どれだけ裏切られ、どれだけ傷ついても、一人ひとりと向き合い、終わりまで愛し抜こうとする、イエスさまの愛と憐れみこそ、立場を越えて、お互いに平等である、教会のあらゆる歩みに先立つものです。

    20分
  8. 今、闇の中で共にある光(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:44–50

    5月3日

    今、闇の中で共にある光(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:44–50

    2026年5月3日 復活節第5主日 説教題:今、闇の中で共にある光 聖書: ヨハネによる福音書 12:44–50、出エジプト記 3:7–12、詩編 12、ヨハネの手紙 一 5:13–15 説教者:稲葉基嗣   ----- この世界には、一体どんな闇が広がっているのでしょうか。人権を踏みにじる行為、法改正。終わりが見えない戦争。弱い人々の声を無視することが当たり前のように振る舞う権力者の姿。挙げればキリがないほどに、この世界には闇が広がっています。そんな今のこの世界において、キリストに光を見出すって、一体、どういうことなのでしょうか。ヨハネは、イエスさまが叫ぶ声を紹介しています。イエスさまが叫ぶほどに、私たちに届けたいと願ったことこそ、イエスさまが光として、この世界に来たということでした。イエスさまは「誰も闇の中にとどまることがないように」(46節)と言います。イエスさまが与える光は、イエスさまを通して、永遠の命を得ることだと、イエスさまは声高に叫んでいます。ヨハネによる福音書において、永遠の命という言葉は、決して遠い未来の話ではありません。将来の私たちにとってだけでなく、今この時を生きる私たちにこそ関係のあることだと、イエスさまは理解して、永遠の命という言葉を使っています。イエスさまによって、私たちはもう既に、死から命へと移されています。イエスさまが十字架と復活を通して、死に勝利し、罪の赦しをすべての人に与えてくださったからです。けれども、闇は依然として存在し続けています。イエスさまによって、この世界の闇が完全に消え去ったわけではありません。だからこそイエスさまは、私たちが闇に留まらず、キリストによって与えられる光を分かち合うようにと叫び、呼びかけておられます。どれほど闇が深く思えたとしても、キリストにあって今、光が与えられていることを私たちが決して忘れないように。出エジプト記が示すように、神は苦しむ民の叫びを聞き、痛みを知り、そのもとへ降りて救い出す方です。イエスさまを通して、神は今もそのように私たちに関わってくださっています。私たちの苦しみを見つめ、うめき声に耳を傾け、痛みを知った上で、いつも共にいてくださる。この神との交わり、そして旅路を共にする仲間たちとの交わりのただ中に、永遠の命はあり、暗闇を照らす光として輝いています。主イエスは世界の光として、いつも暗闇の中で光を放ち続けているのです。

    23分

番組について

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。