小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

  1. 13時間前

    不満のただなかにやってくる神(稲葉奈々) – 出エジプト 17:1–7

    2026年9月27日 三位一体後第17主日 説教題:不満のただなかにやってくる神 聖書: 出エジプト記 17:1–7、マタイによる福音書 21:23–32、詩編 78、フィリピの信徒への手紙 2:1–13 説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校3年)   ----- 人々が神を疑い、神を試す。このようなシーンが、聖書にはたくさん登場します。出エジプト記17章のレフィディムで、イスラエルの民は飲み水がなくなり、モーセに激しく不満を訴えました。荒野で水がないことは生死に関わる問題であり、彼らの訴えは単なるわがままではなく、切迫した魂の叫びでもありました。イスラエルの民は、これまでも水や食料などの困難に直面するたびにモーセへ不満をぶつけてきました。神によってエジプトから導き出され、必要を満たされてきたにもかかわらず、困難に遭うと神様を信頼することができず、モーセに責任を転嫁したのです。しかし神様は、彼らの不満を突き放すのではなく、モーセに岩を打つよう命じ、そこから水を湧き出させました。神様が人間の身体的な必要を満たすだけでなく、不安のただ中にあっても「神が共におられる」という安心を与えてくださったのです。この物語は、不平不満を口にすること自体を否定しているのではありません。「神様、なぜですか」と叫びたくなる理不尽な出来事は現実に引き起こります。重要なのは、その苦しみを他人や環境への憎しみや責任転嫁に変えるのではなく、神様ご自身に向けていくことです。この神様の姿は、イエス・キリストにおいてさらに確かなものとなります。祭司長や民の長老たちも神を信じていたはずですが、目の前に現れた神の生きたしるしであるイエスを試し、最終的には十字架へと追いやってしまいました。しかし神様は、その人間の罪さえも取り扱い、イエス・キリストの十字架と復活を通して私たちを救いと希望の道へと招いてくださったのです。私たちも日々、神様を信じながら不安や不満を抱きます。しかし神様はむしろ不満や苦しみのただ中に入り、何度でも私たちと向き合い、必要を満たしてくださいます。だから私たちは、不満を抱く自分を責めるのではなく、それを神に差し出してよいのです。岩から流れ出た命の水のように、キリストの十字架から流れる恵みが私たちの日常にも注がれていることを信じ、今日も神様に支えられながら歩んでいくのです。

  2. 9月20日

    世に勝っている?(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:25–33

    2026年9月20日 三位一体後第16主日 説教題:世に勝っている? 聖書: ヨハネによる福音書 16:25–33、イザヤ書 30:18–26、詩編 47、ガラテヤの信徒への手紙 6:14–18 説教者:稲葉基嗣   ----- 勝つことを追求し続けるとたくさんの歪みを抱えてしまうでしょう。誰かに勝つことや他の誰かを出し抜くことや、他の誰よりも上に立つことばかり考えることが、常に良いものを私たちの人生やその周囲にもたらすとは限りません。でも、それなのに、私たちの生きるこの世界は戦いを続け、勝利を求めています。イエスさまは、「私は既に世に勝っている」(33節)と語りました。結局イエスさま自身も、私たちのこの世界と同じような価値観の下で、勝利というものを考えていたということなのでしょうか。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなた方には世で苦難がある」(33節)と語りかけました。この苦難に対して「勇気を出しなさい」とイエスさまは語っています。つまり苦難の中にあったとしても、その苦難から解放されなかったとしても、その苦難の中において救いがあるということです。イエスさまが、世に対して勝利した方法とは、十字架の上にかかり、命を失うということでした。明らかにそれはイエスさまの勝利とは思えないことです。でもイエスさまは既に世に勝っていると言います。それは、イエスさまのこの十字架上での出来事において、神がすべての人の罪を赦すからです。この世界のあらゆる罪、悪に、神が勝利する手段が、イエスさまの十字架でした。イエスさまがここで語っている「世に勝っている」とは、私たちが想像するような勝利とは絶対的に違います。それは、力による、暴力的な勝利ではありません。イエスさまが勝ったと言っているのは、罪に対してです。罪の支配を終わらせることこそ、イエスさまの語る勝利です。イエスさま自身が傷つきながら、私たちを、そしてこの世界を愛することでした。私たちやこの世界が抱える罪を徹底的に赦すことでした。ですから、私たち自身は、世に勝つ必要などありません。私たちが招かれている世界は、イエスさまから受けた愛をお互いに分かち合っていく世界です。勝利を追い求めて誰かと接するのではなく、神から受けた赦しを喜びながら、お互いに向き合って、手を取り合うことができる世界です。イエスさまが「私はすでに世に勝っている」と語っているように、そのような世界はもう既に始まっています。

  3. 9月19日

    わたしたちの生きる道は(石田学) – ローマ 16:17–24

    2026年9月13日 三位一体後第15主日 説教題:わたしたちの生きる道は 聖書: ローマの信徒への手紙 16:17–24、ホセア書 14:5–9、詩編 111、マルコによる福音書 10:13–16 説教者:石田学   ----- ローマの信徒への手紙は、パウロ書簡の中でもっとも長い手紙です。皆さんは、この手紙を読むのにどれくらい時間がかかると思いますか。一人で声を出して読むと、およそ70分です。パウロの使者としてローマに行ったフェベはこの手紙を朗読しました。一気に読むのは大変だったでしょうが、聞く方も大変だったはずです。そんな長い手紙は、最後の部分だけしか覚えていないものです。だから大抵は、意識して最後にもっとも重要な要点を書きました。ローマ書の場合、その最後の重要な要点が、きょうの聖書箇所です。ここからローマ書でパウロがもっとも伝えたかったことがわかります。「分裂やつまずきを引き起こす人たち」とパウロが呼ぶ、パウロの福音とは違うことを教えて教会を分断する敵がいたのです。彼らを警戒し遠ざかりなさいと勧めることがパウロの目的でした。まさにこのことのために、パウロはローマ書全体を書いたとさえ言えます。ローマの信徒が彼らに惑わされないために、パウロは言葉を尽くして、福音を解き明かし、教会とは何かを教え、信仰者の生き方を示しました。そしてパウロは、手紙の最後にこの警告を結論として書いたのでした。しかし、警戒し遠ざかれと言われても簡単ではありません。相手は羊の皮を被った狼のように、巧妙で説得力に長けているからです。各地を旅しているパウロに逐一質問することはできません。優れた教師や指導者が正解を与えてくれることも期待できません。なんでも教えてくれるガイドブックや教本があるわけではありません。キリストを信じるということは、主に従う道を歩むということです。キリスト者として生きる道は、目指す目的の地は皆同じですが、一人一人異なる生涯であるからには、歩む道のりもそれぞれです。みんなに使える手軽な回答集や「あんちょこ」などはありません。必要なのは、信仰者として生きる道を歩むための、大原則です。パウロはすべての信仰者に共通するその大原則を示すのです。「善にはさとく、悪には疎くあることを望みます」と。簡単ではありません、自ら考えて判断することが求められますから。しかし、全部自己責任でも有無を言わせぬ隷属でもありません。神の知恵であるキリストの愛と慈しみを善の基準とすることと、悪に慣れたり馴染んだりしないでキリストと歩むこと。この大原則をパウロは、「私は命じる」ではなく「望みます」と告げます。わたしたちはキリストにあって自由と尊厳を与えられているからです。

  4. 9月6日

    誰にも奪えない喜び(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:16–24

    2026年9月6日 三位一体後第14主日 説教題:誰にも奪えない喜び 聖書: ヨハネによる福音書 16:16–24、ヨブ記 1:1–22、詩編 16、フィリピの信徒への手紙 4:4–7 説教者:稲葉基嗣   ----- 私たちは人生のさまざまな場面で喜ばしい経験をします。でも、その喜びが決して永遠には続かないことを、どこかでわかっています。主イエスは「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と言います(22節)。誰も奪うことができない喜びなど、あるのでしょうか?今日、私たちは旧約聖書からヨブ記を読みました。ヨブは一度にたくさんの財産を失い、大切な家族の命を失いました。このようなヨブの姿を見つめるとき、私たちは人生の不条理さを覚えます。イエスさまが語っている、誰にも奪われない喜びがあるなんて信じられません。それよりも、ヨブが経験した出来事の方が、はるかに私たちにとっては現実的なもののように感じてしまいます。もちろん、イエスさまは、私たちが人生を通じて経験する、そういった悲しみや苦しみに対して、鈍感で、無関心であったわけではありません。なぜイエスさまは喜びを奪い去る者はいないなどと語ったのでしょうか?「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる。」(16節)この言葉は、イエスさまが十字架刑へと、自らの死へと向かっていくその瞬間のことを伝えたものでした。でも、イエスさまはもう一度、「しばらくすると」と伝えます。それはイエスさまが弟子たちと再会できることを伝えた言葉でした。死者の中からよみがえりイエスさまは弟子たちと再び会いました。この復活の後の再会を見越して、イエスさまは弟子たちに伝えたのです。この喜びを誰も奪うことができないと。復活した主イエスとの出会いは、なぜ誰にも奪えない喜びをもたらすのでしょうか。それは何よりも、死が最終的な勝利者ではないことを弟子たちに、そしてすべての人に伝えるものでした。死の後に、復活の望みがあり、天の国において愛する仲間たち、家族や友人たちと再会する希望があると、イエスさまは伝えています。私たちが経験する悲しみや苦しみは変わらないかもしれません。でも、それでも、私たちには揺るがない望みがあります。消えない希望があります。主イエスにあって、明らかになった復活の命があります。復活の主であるイエスさまが私たちと共にいてくださる。主イエスにあって結ばれた教会に集う仲間たちと、喜びの時も、苦しみの時も、哀しみの時も、一緒に歩み、様々な時を乗り越えていきます。これこそ、私たちにとって、誰も否定できない、誰も奪うことができない喜びです。この喜びを心に抱き、天の御国へと向かう信仰の旅を一緒に続けていきましょう。

  5. 8月30日

    なぜ私たちに聖霊が与えられたのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:4b–15

    2026年8月30日 三位一体後第13主日 説教題:なぜ私たちに聖霊が与えられたのか? 聖書: ヨハネによる福音書 16:4b–15、イザヤ書 48:12–16、詩編 95、ローマの信徒への手紙 8:26–27 説教者:稲葉基嗣   ----- 聖書を読んでいると、時々、矛盾したことを発見することがあります。ヨハネ福音書の中に収められているイエスさまの言葉には、まさに矛盾があります。イエスさまは何度も弟子たちからどこへ行くのかと尋ねられていました。自分の死をほのめかしながら、自分は神のもとへ行く。だから、弟子たちと一緒にいることはできないと、イエスさまは何度も伝えました。それなのに、なぜイエスさまは「あなたがたのうち誰も、『どこへ行くのか』と尋ねる者はいない」(5節)と語ったのでしょうか。イエスさまが去ることについて、イエスさまに問いかけたときの弟子たちの大きな関心は、イエスさまがいなくなった後、自分たちはどうなってしまうのか、ということにありました。その際、不安を抱え、心を騒がせる弟子たちをイエスさまは励ましました。その意味で彼らの質問は、イエスさまのことをあまり考えていないものでした。だから、イエスさまは、これまで弟子たちから何度もどこへ行くのかと尋ねられていても、「どこへ行くのか」と尋ねる者はいないと言ったのでしょう。そもそもなぜイエスさまが離れていく理由を語る必要があったのでしょうか。イエスさまが去っていくことは、イエスさまの使命に反するように思えるためです。イエスさまが弟子たちのもとを去る理由は、彼らに聖霊を与えるためです。肉体を持ったイエスさまは、すべての人と一緒にいることができません。だから、イエスさまは天に昇り、すべての信仰者のもとに聖霊を送り、聖霊によって結ばれることによって、すべての人と共にいることを望みました。聖霊なる神は、イエスさまの言葉が今を生きる私たちにとって、どのような意味があるのかを私たちに示す方です。聖書に書き記された言葉を聖霊が私たちにとって生き生きした、温かな血の通った息づいた言葉へと変えてくださることを願い、私たちは祈り、聖書の言葉にいつも耳を傾けています。変わりゆく社会、文化、人々の生活に常に神が語りかけ、共に生きるために、私たちには助けが必要です。出会ったこともない新しい問題に頭を抱え、これからどうするべきなのかと、私たちは何度も悩みます。そんな私たちと一緒に聖霊もうめき声をあげ、神に祈りの声を上げながら、一緒に歩むべき道を模索してくださっています。聖霊が伴い、私たちとイエスさまを結びつけてくださいます。どうか聖霊を通して語りかけられる神の言葉にいつも耳を傾け、これからも信仰の旅路を続けていくことができますように。

  6. 8月29日

    教会、それは友の交わり(石田学) – ローマ 16:6–16

    2026年8月23日 三位一体後第12主日 説教題:教会、それは友の交わり 聖書: ローマの信徒への手紙 16:6–16、イザヤ書 52:7–10、詩編 84、ヨハネによる福音書 15:13–15 説教者:石田学   ----- 聖書は、実に多彩な言い方で教会の交わりを表現しています。兄弟姉妹、キリストの肢体、神の民、神の家族、牧場の羊の群れ、仲間、友、天に国籍を持つ同国人、世を旅する民、聖徒・・。聖書には、なぜこれほど多様な表現が出てくるのでしょうか。それは神の民である教会の交わりがあまりに豊かで包括的なので、いくつかの言い方だけで語り尽くすことができないからです。これだけ豊かな言い方で互いの交わりを体験できる共同体は、この世のどこにも、他には存在していません。どの言葉も教会の交わりの本質を言い表しています。しかし、中でも「友」という言い方は特別です。主イエスご自身が弟子たちを友と呼ばれたからです。「あなたがたは私の友である」「私はあなたがたを友と呼んだ」。この言葉は主イエスと弟子の関係だけでなく、弟子たち同士の関係でも同じであるはずです。誰が偉いか、誰がイエス様の隣にすわるか、誰が支配者か、そんな上下や比較とは無縁の、対等で慈しみあう関係が友です。そしてこの関係性こそ、最初から最後まで教会の本質です。教会とは、主イエスの友とされた者たちの交わりだからです。パウロは、そのような友の交わりを生きる人々の名を挙げたのです。さて、教会の歴史の中でその業績と名声が燦然と輝くパウロですが、彼の生涯は最初から最後まで、苦難と危機、挫折と苦悩の連続でした。パウロの福音を否定する人々の陰謀や迫害に苦しめられました。何度も逮捕され、4年以上投獄され、最後にローマで処刑されました。失意、落胆、敗北、囚人、それがパウロの晩年を特徴づけています。人間的にはパウロの生涯は不幸であり敗北者のように見えます。しかし、それではパウロは孤独で不幸だったのでしょうか。ローマ書の挨拶は、パウロが得ていた教会の交わりを証言しています。愛し愛され、祈り祈られ、支え支えられる友の名を列挙するのです。命の危険を感じる困難の中で、パウロは彼らとの交わりを想起します。ただ祈ってほしいと願うだけでなく、困難の中で彼らのために祈るのです。パウロほどでなくとも、いつかわたしたちも困難と苦難の道を歩みます。その時、孤独と失意に終らず、信仰の友との交わりに生き、生かされるか、それがわたしたちの生涯がどのようなものかを結論づけることでしょう。生涯の最後まで友に祈られ、友のために祈る、それがわたしの願いです。

  7. 8月16日

    対立や敵意とどのように向き合えば良いのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 15:18–16:4a

    2026年8月16日 三位一体後第11主日 説教題:対立や敵意とどのように向き合えば良いのか? 聖書: ヨハネによる福音書 15:18–16:4a、ネヘミヤ記 9:26–31、詩編 46、エフェソの信徒への手紙 2:14–16 説教者:稲葉基嗣   ----- ヨハネによる福音書にとって、「世」というものはいつも弟子たちに対して好意的なわけではなく、むしろ、敵意をもって弟子たちを見つめています。イエスさまを信じているがゆえに、世が弟子たちに敵対的になってしまうのです。一体なぜ世は、イエスさまの弟子たちに対立し、敵意を持つのでしょうか。そもそもイエスさまこそが、まず世から憎まれ、敵意を向けられました。それは、イエスさまが弱く、力がなく、社会の中で蔑まれていた人たちに手を差し伸べたことが、疎ましく感じられたからです。権力や暴力によってではなく、ただ弱さによって平和を作ろうとしたからです。このようなイエスさまを信じ、イエスさまのように生きたいと願うならば、イエスさまと同様にこの世界から敵意や反感を買うことになるのは当然でした。しかし、たとえどんなに周りの人たちが自分たちに対して敵対的であったとしても、イエスさまはそのことを前もって知って、励ましてくださいました。聖霊にあってイエスさまが共にいて、愛や憐れみをいつも証言してくださる、と。ところが、世が弟子たちに対して敵対してくることをこの福音書において読む時、私たちは時々、この世界がいつも私たちに敵意を抱き、対立的に思えてしまうという思い違いをしてしまいます。それゆえに、私たちの側がこの世界に対して対立的になってしまうことがあります。時には、この世界から自ら進んで遠ざかってしまうことがあります。また、イエスさまの言葉が示すように(16:2)、自分たちの持っている暴力的な面や現実の対立関係を信仰によって正当化してしまうことは十分に起こり得ます。でも本来そのような対立は、そもそもイエスさまが願っていたことではありません。何よりも、イエスさまはこの世界を愛したから、この世界に来てくださいました。世界が私たちに敵対的に見える時、そこに敵意を感じる時、それは明らかにこの世界が抱える課題なのでしょう。それをイエスさまと共に見つめるならば、私たちがすべきことは明らかに、同じように敵意を抱いて、対立を生み出すことではありません。私たちはこの世界が抱える課題が、解決されていくことを神に祈り求めます。イエスさまは、敵意を向けられても、愛と憐れみをもって最後まで関わりました。同じように、対立や敵意と向き合う時、私たちの心を支配するのは、主イエスにある愛や憐れみです。

番組について

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