小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

  1. 主イエスの愛が、先立つ(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:1–17

    2日前

    主イエスの愛が、先立つ(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:1–17

    2026年5月10日 復活節第6主日 説教題:主イエスの愛が、先立つ 聖書: ヨハネによる福音書 13:1–17、創世記 1:27、詩編 117、ペトロの手紙 一 4:7–11 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまが食事の席でご自分の弟子たちの足を洗い始めた時、イエスさまのその行動は驚きと戸惑いをもって受け止められました。足を洗うことが奴隷の仕事だったからです。ユダヤ社会の中で、自ら進んで他人の足を洗おうとする人などいませんでした。まして、「先生」と呼ばれ尊敬されている人が他人の足を洗うはずありません。ですから、イエスさまが食事の席で突然立ち上がり、自分たちの足を洗い始めた時、弟子たちはどれほど戸惑いを覚えたことでしょうか。イエスさまが奴隷の立場を選び、行動しているのですから。そして、自分を模範として、同じようにお互いに足を洗いなさいとイエスさまは呼びかけるのです。このようなイエスさまの行動や、その後の呼びかけは、弟子たちが当たり前だと思っていたことを揺るがすには十分な出来事でした。彼らにとっての当たり前は、身分の高い人のために身分の低い人が働く世界です。でも、イエスさまの行動はその当たり前を自らの身をもって逆転させるものでした。そして、お互いに足を洗い合うようにという、イエスさまの呼びかけは、驚くほどに人々の間に平等をもたらそうとする呼びかけでした。その意味で、イエスさまが自ら進んで弟子たちの足を洗ったことは、信仰者の群れがどんな共同体であるべきかを指し示すものだったといえます。そう、主イエスと共に歩む、教会の姿をヨハネは紹介しているのです。それは、お互いの間に、絶対的な上下関係を作り出さず、平等でいられる場所です。ヨハネは、イエスさまが弟子たちの足を洗ったという、この物語を導入する際に、「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」(1節)と書きました。イエスさまの行動に滲み出ていたとヨハネは感じたのでしょう。このようなイエスさまが、弟子たちの足を洗った際に、その場にいたふたりの人の名前をヨハネは紹介しています。ペトロとイスカリオテのユダです。この後、ペトロはイエスさまを知らないと言って、イエスさまとの関係を否定します。ユダはイエスさまを裏切り、イエスさまを十字架刑へ向かう道に明け渡しました。イエスさまに足を洗われた弟子たちの多くは、イエスさまを見捨てた人たちでした。でも、イエスさまはその一人ひとりをこの上なく愛し、愛し抜きました。どれだけ失敗しても、その罪を赦し、すべてを受け止めました。その意味で、どれだけ裏切られ、どれだけ傷ついても、一人ひとりと向き合い、終わりまで愛し抜こうとする、イエスさまの愛と憐れみこそ、立場を越えて、お互いに平等である、教会のあらゆる歩みに先立つものです。

    20分
  2. 今、闇の中で共にある光(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:44–50

    5月3日

    今、闇の中で共にある光(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:44–50

    2026年5月3日 復活節第5主日 説教題:今、闇の中で共にある光 聖書: ヨハネによる福音書 12:44–50、出エジプト記 3:7–12、詩編 12、ヨハネの手紙 一 5:13–15 説教者:稲葉基嗣   ----- この世界には、一体どんな闇が広がっているのでしょうか。人権を踏みにじる行為、法改正。終わりが見えない戦争。弱い人々の声を無視することが当たり前のように振る舞う権力者の姿。挙げればキリがないほどに、この世界には闇が広がっています。そんな今のこの世界において、キリストに光を見出すって、一体、どういうことなのでしょうか。ヨハネは、イエスさまが叫ぶ声を紹介しています。イエスさまが叫ぶほどに、私たちに届けたいと願ったことこそ、イエスさまが光として、この世界に来たということでした。イエスさまは「誰も闇の中にとどまることがないように」(46節)と言います。イエスさまが与える光は、イエスさまを通して、永遠の命を得ることだと、イエスさまは声高に叫んでいます。ヨハネによる福音書において、永遠の命という言葉は、決して遠い未来の話ではありません。将来の私たちにとってだけでなく、今この時を生きる私たちにこそ関係のあることだと、イエスさまは理解して、永遠の命という言葉を使っています。イエスさまによって、私たちはもう既に、死から命へと移されています。イエスさまが十字架と復活を通して、死に勝利し、罪の赦しをすべての人に与えてくださったからです。けれども、闇は依然として存在し続けています。イエスさまによって、この世界の闇が完全に消え去ったわけではありません。だからこそイエスさまは、私たちが闇に留まらず、キリストによって与えられる光を分かち合うようにと叫び、呼びかけておられます。どれほど闇が深く思えたとしても、キリストにあって今、光が与えられていることを私たちが決して忘れないように。出エジプト記が示すように、神は苦しむ民の叫びを聞き、痛みを知り、そのもとへ降りて救い出す方です。イエスさまを通して、神は今もそのように私たちに関わってくださっています。私たちの苦しみを見つめ、うめき声に耳を傾け、痛みを知った上で、いつも共にいてくださる。この神との交わり、そして旅路を共にする仲間たちとの交わりのただ中に、永遠の命はあり、暗闇を照らす光として輝いています。主イエスは世界の光として、いつも暗闇の中で光を放ち続けているのです。

    23分
  3. 教会はサイレント・マジョリティの群れではなく、耳を傾け合う交わり(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:37–43

    4月26日

    教会はサイレント・マジョリティの群れではなく、耳を傾け合う交わり(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:37–43

    2026年4月26日 復活節第4主日 説教題:教会はサイレント・マジョリティの群れではなく、耳を傾け合う交わり 聖書: ヨハネによる福音書 12:37–43、イザヤ書 6:8–10、詩編 142、ローマの信徒への手紙 8:26–27 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまと出会った人々は、イエスさまのことを神から遣わされた存在として、受け止めることができませんでした(37節)。ユダヤの宗教指導者たちは敵意をもって反応していました。ですから、イエスさまの行ったしるしを見たり、イエスさまの言葉を聞いた結果、イエスさまを救い主と受け止めた人たちにとって、イエスさまとの結びつきをはっきりと口にすることは恐ろしいことへと変わっていきました。ユダヤの宗教指導者たちから反感を買うことを恐れたためです。そうやって少しずつ、イエスさまのことを公に支持する声が減っていきました。そして、徐々にイエスさまを妬み、憎しみ、イエスさまに対する敵意や殺意を抱いた、ユダヤの宗教指導者たちの声が目立つようになってしまったのです。このように、イエスさまの行った数々のしるしに対する、人々の反応とその後の沈黙について思い巡らしてみると、他人事ではないと思わされてきます。一部の人たちの大きな声ばかり目立ち、多くの人たちは声を積極的には発しない。まさに、現代社会でも見られる出来事です。現代社会において、サイレント・マジョリティの声は、圧倒的に見えてきません。ソーシャルメディアを開くと、大きな声ばかりが目立ち、その声は増強され、あたかも沢山の人が同じように考えているように見えてしまうからです。ですから、私たちはもっともっと語り合わなければいけないのでしょう。わかりあえないと思っても、もっともっと、実際に顔と顔を合わせて出会い、異なる意見に耳を傾け、語り合うことこそ私たちの生きる社会に必要なことです。僅かな人数の大きな声ばかりが響き渡り、多くの人の声が聞こえない。そんな現代社会に生きる私たちにとって、大きな希望は、神こそが私たちひとりひとりに耳を傾けてくださることです。そして、イエスさまこそが、私たち人間のそばに来て、私たちと共に生き、私たちと共に語り合った方でした。主イエスに愛されている私たちにとって、主イエスが向き合ってくださったように、一人ひとりと誠実に向き合うことは、とても自然なことです。私たちが招かれている教会という共同体は、まさにそのような交わりです。教会は、声を出せないサイレント・マジョリティを作り出す場所ではありません。むしろ、どんな言葉でもいいから、語り合える場所です。主イエスにあって結ばれ、お互いの存在を喜び合いながら、お互いの声に耳を傾け合える場所だからです。

    19分
  4. 光の子として歩みなさい(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:27–36

    4月19日

    光の子として歩みなさい(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:27–36

    2026年4月19日 復活節第3主日 説教題:光の子として歩みなさい 聖書: ヨハネによる福音書 12:27–36、イザヤ書 8:23–9:6、詩編 27、エフェソの信徒への手紙 5:6–14 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまは、一体、どのような意味で私たちにとっての光なのでしょうか。ヨハネは「私は心騒ぐ」(27節)と述べるイエスさまを紹介しています。イエスさまが心を騒がせたのは、十字架の上での死へと向かっていたからでした。これから自分を待ち受けているであろう、そんな苦難への道にイエスさまの心が騒がないわけがありませんでした。それは一見、闇の中で光り輝く存在として私たちのもとに来た、神の子であるイエスさまが結局、闇に勝たなかったと伝えるような出来事です。でも、人々が闇の勝利と思えるような出来事を通して、神がイエスさまをすべての人の光として提示することをヨハネはこの物語を通して伝えています。イエスさまは、ご自分の死について、次のように言いました。「私は地から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう」(32節)。「上げられる」という言葉に、イエスさまはふたつの意味を込めました。ひとつは、十字架にかけられ、そして息を引き取ること。もうひとつは、その十字架の死の後に、神によって命を与えられ、復活し、天に昇り、神のもとへと帰っていくことです。このため、イエスさまが「上げられる」ことは、闇の勝利の象徴ではなくなりました。力による支配も理不尽な暴力も死も、最終的な勝利者でいられなくなりました。どこまでも神を信頼し、愛と憐れみを追求したイエスさまが力を振るうのではなく、十字架の暴力をその身に引き受けた結果、イエスさまは再び命を得たからです。そして、神によってイエスさまが復活の命を得たばかりでなく、すべての人がイエスさまのもとへと引き寄せられていくからです。イエスさまはご自分のもとへ引き寄せた人たちを光の子と呼んでいます(36節)。イエスさまが与えた光のうちに生きるようにと、すべての人は招かれています。光の子って、具体的には、どのような人々を指すのでしょうか。イエスさまの歩みを考えるならば、それは何よりも暴力に依存しないことでしょう。また、主イエスの愛や憐れみを行動基準とすることこそ光の子として歩むことです。多くの人たちにとって、現代社会はきっと、光よりも、闇が広がっているように思える世界だと思います。でも、そんな世界を主イエスは諦めず、傷つきながら、その生命を差し出すほどに愛し、光で照らし出してくださいました。私たちの光として、私たちの世界を照らし出すために来てくださいました。主イエスという確かな光を見つめながら、その光をこの世界に分かち合っていくことが私たちにはできます。

    22分
  5. 主イエスがいる場所(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:20–26

    4月12日

    主イエスがいる場所(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:20–26

    2026年4月12日 復活節第2主日 説教題:主イエスがいる場所 聖書: ヨハネによる福音書 12:20–26、イザヤ書 56:7–8、詩編 16、コリントの信徒への手紙 一 15:35–49 説教者:稲葉基嗣   ----- ギリシア人たちはフィリポのもとに来て、イエスさまと会いたいと願いました。フィリポはそんな彼らの願いを聞いて、同じくベトサイダ出身のアンデレに相談し、イエスさまへと彼らの思いを仲介することにしました。ただ、フィリポやアンデレがせっかくイエスさまに仲介したのに、イエスさまが語る言葉は、何だか噛み合ってないように思えてなりません。フィリポとアンデレに向かって、イエスさまが語ったのは、「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)です。イエスさまがここで伝えていることは、イエスさま自身の死についてです。イエスさまは一粒の麦のたとえを用いて、自分の死こそが、すべての人に命をもたらすことを伝えています。私たちが抱くこの救いの望みを神は、すべての人に与えてくださっています。それは、生まれや出自、話す言語、社会的な地位、性別、生きる文化も関係なく。イエスさまはフィリポとアンデレに「栄光を受ける時が来た」(23節)と言いました。そう、すべての人に対して救いが開かれる時が訪れました。イエスさまと会いたいと願った、ギリシア人に対して、救いが訪れる日が来ました。ですから、フィリポとアンデレへのイエスさまのこの返答は、ギリシア人たちに直接的に、「会いに行こう」と答えるものではありませんでした。イエスさまが望んだのは、一時的な出会いではなかったわけです。十字架の死と復活を通して、罪の赦しと復活の希望を与え、すべての人と永遠に共にいることこそ、イエスさまが望んでくださったことです。この時、イエスさまの言葉は、一粒の麦の話だけでは終わりませんでした。「私のいる所に、私に仕える者もいることになる」とも語っています(26節)。イエスさまがいる場所とは、むしろ、私たちがイエスさまのために仕え、何かをするところに、その場所に、イエスさまは共にいてくださる。そんな風に、イエスさまは約束をされました。大きな指針となるのは、イエスさまの大切にされるものを大切にすることでしょう。主イエスにある愛や憐れみ、正義や平和を願って起こされる行動や、紡がれる言葉や祈りがあるところに、イエスさまは共にいてくださいます。フィリポやアンデレは、ギリシア人とイエスさまを繋ぐ架け橋になろうとしました。それは、現代において、ますます求められているあり方でしょう。もちろん、私たちにできることは小さく、少ないかもしれません。けれども、神の招きに応えて、自分たちの出来ることを通して、架け橋となろうとするとき、イエスさまは必ず、私たちと共にいてくださいます。

    20分
  6. 死の衣は置き去りにされた(稲葉基嗣) – ヨハネ 20:1–10

    4月5日

    死の衣は置き去りにされた(稲葉基嗣) – ヨハネ 20:1–10

    2026年4月5日 復活祭 説教題:死の衣は置き去りにされた 聖書: ヨハネによる福音書 20:1–10、エゼキエル書 37:11–14、詩編 8、ガラテヤの信徒への手紙 3:26–29 説教者:稲葉基嗣   ----- 「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」(2節)そんなマリアの報告を聞いて、ペトロともう一人の弟子と呼ばれる人がその現場を確かめるために、すぐさまお墓へとやって来ました。確かに、イエスさまのなきがらは、お墓の中に見当たりませんでした。ふたりの弟子たちは、イエスさまの身体を包んでいた亜麻布とイエスさまの顔を覆っていた布がお墓の中に置かれていたことを発見します。これらの布の発見は、イエスさまの身体が墓泥棒や嫌がらせのために持ち去られたわけではないことを明らかにしました。その時、彼らは別のことを信じ始めました。イエスさまが復活し、自分を包んでいた亜麻布と覆いを取り去ったのだと。身体に巻き付けた亜麻布と顔を包んだ覆いは、まさに、イエスさまの死を決定的なものとして告げる、死の衣でした。そんな死の衣が置き去りにされ、イエスさまが死者の中からよみがえったことに、ヨハネは大きな希望の光を見出しました。イエスさまは死の衣に覆われた状態で復活したわけではありません(11:44参照)。死の衣をお墓の中に置き去りにして、イエスさまはお墓の外へ出て行きました。イエスさまにとって、死は永遠のものではないことを象徴しているかのようです。ヨハネは、イエスさまの復活を見つめて、まさに死の衣が置き去りにされたこの世界の新しい現実を見つめたのです。イエスさまの復活は、私たちの命の終わりが死ではないことを力強く宣言しました。死の先に、復活の命があり、命の終わりに、復活の命の始まりがあります。イエスさまの復活は、私たちに将来起こることのみを約束するものではありません。私たちは復活の主に結ばれて生きるようにと招かれているからです。使徒パウロはガラテヤの教会の人たちに向けて、このように書きました。  「あなたがたがは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)復活の主イエスに結ばれて生きる者が着る衣は、死の衣ではありません。復活の主であるイエスさまを私たちは衣のように着ると、パウロは宣言しています。それは、私たちの人生の劇的な衣装替えです。だって、もう二度と、死の衣をまとう必要などないからです。復活の命をまとって生きる。それは、愛と憐れみに溢れたキリストを身にまとうことです。イエスさまがまとっていたあの亜麻布が空っぽの墓の中に置き去りにされたあの時から、この喜びにあふれる道はすべての人の前に開かれました。

    21分
  7. 平和の王の叫び声を聞け(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:12–19

    3月29日

    平和の王の叫び声を聞け(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:12–19

    2026年3月29日 しゅろの主日 説教題:平和の王の叫び声を聞け 聖書: ヨハネによる福音書 12:12–19、ゼカリヤ書 9:9–10、詩編 24、エフェソの信徒への手紙 2:8–10 説教者:稲葉基嗣   ----- ナツメヤシの枝を持って、イエスさまを出迎えた人々のその心に思い描いた救い主メシアの姿は、政治的・軍事的な、暴力的な解放をもたらす人でした。でも、イエスさまは明らかに、彼らの声に応えようとはしませんでした。この時、イエスさまは子ロバに乗ってエルサレムへと入城しました。人々から歓迎され、イスラエルの王と呼ばれる人が軍馬ではなく、子ロバに乗って現れるだなんて、想像すると何だかおかしな光景です。弱く、力のない、子ロバをイエスさまは選び、エルサレムへと入城します。それは、軍事的な指導者や政治的な解放者とは正反対のイメージです。ヨハネ福音書を読み進めていくとこの叫び声は暴力的なものに変わっていきます。イエスさまが逮捕されると、彼らの叫び声は、彼らが期待していたイエスさまのことを拒絶するものへと変貌していきました。イエスさまの釈放を拒絶し「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と彼らは叫び続けました。イエスさまは、これが私たち人間の現実であり、私たちが生きる世界が抱え続けている問題であるとよくわかっていました。だからこそ、そのような叫び声に反対するような、イエスさまの叫び声もまた、ヨハネ福音書の中には記録されています。イエスさまは、病気によって亡くなり、お墓に葬られたラザロに向かって、「ラザロ、出て来なさい」(11:43)と叫びました。イエスさまが何よりも、私たちに向かって、そしてこの世界全体に向かって叫んでいるのは、死から命へと向かっていく呼びかけです。そして、豊かな命を抱いて生きるようにと呼びかけるイエスさまは、「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい」(7:37)とも叫びました。私たちに対するイエスさまの願いは明らかに、私たちがお互いの豊かな命を喜んで受け止めて、生きていく道に他なりません。ヨハネ福音書が紹介する、きょうの物語に耳を傾ける時、私たちのもとに騒がしいほどに響き渡るのは、群衆の熱狂的な叫び声です。自分たちが命を得るためにならば、暴力は厭わない。それは、今も変わらずに、私たちの世界で響き続けている叫び声です。けれども、私たちにとっての大きな希望は、死から命へと呼びかける、イエスさまのあの叫び声がこの世界に響いていることです。それは、力ではなく、弱さを尊いものと考える叫び声です。憎しみではなく、愛情に支配されることを望む叫び声です。争いではなく、和解を追求する叫び声です。

    20分
  8. ラザロの沈黙(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:9–11

    3月22日

    ラザロの沈黙(稲葉基嗣) – ヨハネ 12:9–11

    2026年3月22日 四旬節第5主日 説教題:ラザロの沈黙 聖書: ヨハネによる福音書 12:9–11、アモス書 5:13–15、詩編 130、ヨハネの手紙 一 3:11–18 説教者:稲葉基嗣   ----- ラザロが復活したという出来事は、人びとに驚きを与えるとともに、イエスさまに対する信頼をより強いものにしたため、彼の身を危険に晒しました。ラザロの命が狙われることになったとき、何が起こったでしょうか。福音書を読み進めていくと、ラザロが表舞台から消えていくことに気づきます。いやそもそも、物語の中でのラザロは、常に沈黙を貫いています。それは、ラザロの身が危険に晒されていたことと関係があると思います。ラザロ復活の物語が広まることは、命を狙われていたラザロがさらなる危険に晒される可能性があることを意味しました。だから、他の福音書は彼の身を守るために、この物語を記録しなかったのでしょう。宗教的な指導者たちのイエスさまに対する敵意や妬みが、ラザロにも向けられた結果、彼の言葉は奪われ、彼は沈黙を強いられたのです。自分の言葉が、声が奪われていく。沈黙を強いられてしまう。ラザロの身に起こった、このような出来事は、ラザロが生きた時代から、およそ2000年の時が流れている現代においても、当たり前のように、私たちの世界に横たわっている現実です。しかし、神は遠くの方から、そんな人間の罪深さが悲しいほどに反映されているこの世界を黙って見ておられる方ではありませんでした。イエスさまを私たちのもとに送り、沈黙を生み出す原因を拭い去ろうとされました。イエスさまは声を奪われ、沈黙を強いられた人のもとにこそ、足を運ぶ人でした。そして何よりも、声を奪われ、沈黙を強いられたラザロのために、イエスさまは立ち上がり、エルサレムへと向かっていきました。イエスさまがそんな受難への道を歩んで行ったのは、声を奪われた人たちが口を開ける世界を取り戻すためでした。そして、沈黙を強いられた人たちが声を出せる場所を作り出すためでした。教会こそキリストによって与えられた罪の赦しに基づいて、沈黙を打ち破る所です。無視され、否定されている声にこそ、耳を傾ける集まりです。大きな声でかき消されてしまっている小さな声にこそ、耳を傾ける集まりです。ヨハネ福音書が紹介するラザロの沈黙と出会う時、ラザロにはまさにそのような交わりが必要だったと感じさせられます。沈黙を強いられていたラザロに、彼と共に生きる信仰者たちは耳を傾けることを決してやめませんでした。だから、ラザロの物語はヨハネ福音書に収められたのではないでしょうか。イエスさまが生み出そうとしたのは、まさにそのような共同体です。

    19分

番組について

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。