小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

  1. 8月16日

    対立や敵意とどのように向き合えば良いのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 15:18–16:4a

    2026年8月16日 三位一体後第11主日 説教題:対立や敵意とどのように向き合えば良いのか? 聖書: ヨハネによる福音書 15:18–16:4a、ネヘミヤ記 9:26–31、詩編 46、エフェソの信徒への手紙 2:14–16 説教者:稲葉基嗣   ----- ヨハネによる福音書にとって、「世」というものはいつも弟子たちに対して好意的なわけではなく、むしろ、敵意をもって弟子たちを見つめています。イエスさまを信じているがゆえに、世が弟子たちに敵対的になってしまうのです。一体なぜ世は、イエスさまの弟子たちに対立し、敵意を持つのでしょうか。そもそもイエスさまこそが、まず世から憎まれ、敵意を向けられました。それは、イエスさまが弱く、力がなく、社会の中で蔑まれていた人たちに手を差し伸べたことが、疎ましく感じられたからです。権力や暴力によってではなく、ただ弱さによって平和を作ろうとしたからです。このようなイエスさまを信じ、イエスさまのように生きたいと願うならば、イエスさまと同様にこの世界から敵意や反感を買うことになるのは当然でした。しかし、たとえどんなに周りの人たちが自分たちに対して敵対的であったとしても、イエスさまはそのことを前もって知って、励ましてくださいました。聖霊にあってイエスさまが共にいて、愛や憐れみをいつも証言してくださる、と。ところが、世が弟子たちに対して敵対してくることをこの福音書において読む時、私たちは時々、この世界がいつも私たちに敵意を抱き、対立的に思えてしまうという思い違いをしてしまいます。それゆえに、私たちの側がこの世界に対して対立的になってしまうことがあります。時には、この世界から自ら進んで遠ざかってしまうことがあります。また、イエスさまの言葉が示すように(16:2)、自分たちの持っている暴力的な面や現実の対立関係を信仰によって正当化してしまうことは十分に起こり得ます。でも本来そのような対立は、そもそもイエスさまが願っていたことではありません。何よりも、イエスさまはこの世界を愛したから、この世界に来てくださいました。世界が私たちに敵対的に見える時、そこに敵意を感じる時、それは明らかにこの世界が抱える課題なのでしょう。それをイエスさまと共に見つめるならば、私たちがすべきことは明らかに、同じように敵意を抱いて、対立を生み出すことではありません。私たちはこの世界が抱える課題が、解決されていくことを神に祈り求めます。イエスさまは、敵意を向けられても、愛と憐れみをもって最後まで関わりました。同じように、対立や敵意と向き合う時、私たちの心を支配するのは、主イエスにある愛や憐れみです。

  2. 8月9日

    ぶどうの木につながり、実を結ぶ(稲葉基嗣) – ヨハネ 15:1–17

    2026年8月9日 三位一体後第10主日 説教題:ぶどうの木につながり、実を結ぶ 聖書: ヨハネによる福音書 15:1–17、エゼキエル書 15:1–6、詩編 133、ガラテヤの信徒への手紙 5:22–23 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまは、「私はまことのぶどうの木」と言い、弟子たちのことをぶどうの木の枝と表現しました。イエスさまはこの時、自分と弟子たちとの関係性、そして自分と私たちとの関係性こそが大切だと伝えました。イエスさまが望んだのは、ぶどうの木と枝がつながり続けているように、親密な関係を弟子たちとの間に築き続けることです。イエスさまは、弟子たちの友となり、私たちの友となってくださいました。イエスさまはこのぶどうの木とその枝のイメージを用いて私たちに伝えています。それはぶどうの木であるイエスさまにつながっている私たちが、実を結ぶことです。友であるイエスさまとの関わりの中で、良い実が私たちの中で育まれていきます。友として共に生き、豊かな交わりを持つことを通して、イエスさまは私たちを養い、豊かな命に溢れた歩みへと招き入れてくださっているのです。イエスさまの私たちに対する友としての関わりは、ご自分の命を投げ出すほどのものでした。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と語り、ご自分がこれから歩もうとしている道について、弟子たちにほのめかしました。自分の命を最後まで守り抜くことよりも、私たちを最後まで愛し抜くことをイエスさまは選んでくださいました。その愛を受けた私たちもまた、誰かのために自分を用いて生きるよう招かれています。ぶどうの木であるイエスさまのうちに留まり、イエスさまと共に生きていくとき、私たちはイエスさまを通して、神の愛を受けます。神の憐れみを受け、平和の思いを与えられます。そういったものが私たちのうちに実を結んでいきます。その実は、自分のためだけに結ばれるものではありません。実というものは誰かを養うため、誰かの命を生かすためにあります。私たちは誰もが違う存在ですから、それぞれが結ぶ実は様々な形をしています。神はそれを喜んで、見つめて、「互いに愛し合いなさい」と語りかけてくださいます。自分だからこそ持っている実を携えて、私たちはこの世界へと出て行きます。そんな風に、枝である私たちが実を携えて出て行くことを通して、神の愛や憐れみは、この世界へと広がっていきます。

  3. 8月2日

    主イエスは平和を残す(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:25–31

    2026年8月2日 三位一体後第9主日 説教題:主イエスは平和を残す 聖書: ヨハネによる福音書 14:25–31、ゼカリヤ書 8:16–19、詩編 29、コロサイの信徒への手紙 3:15 説教者:稲葉基嗣   ----- 平和とは何なのでしょうか。誰もが、戦争や紛争のない、虐殺や報復攻撃、威嚇や裏切りのない、静けさのある、平穏な世界を求めています。もちろん、戦争がなければ、平和というわけではありません。平穏で静かな日々が広がっているように見えても、いつもそこにすべての人にとっての平和があるわけではないのです。そのようなことを思い巡らしながら、きょうの福音書の物語に目を向けてみると、イエスさまのある言葉が目に留まります。私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。(27節)イエスさまは平和を残すと言って、弟子たちの手に平和を委ねていきました。誰かの圧倒的な力、権力によって、実現されるものがイエスさまの目指す平和ではありませんでした。暴力による支配は、平和を作り出すように見えます。対立する意見を潰すからです。でも、そのような平和をイエスさまは良しとしませんでした。イエスさまのやり方は、平和を残していくことです。弟子たち自身が、自分の身近なところで、お互いに愛を示しあって、平和を形作っていく。力によってではなく、ただ、愛と憐れみによって、平和をこの世界で形作っていく。それこそが、イエスさまが平和を残すと言われた意味でした。平和が世界に静けさや平穏が広がることかというと、それは何だか違う気がします。むしろ、平和って、生き生きとして活気づいて、騒がしいものです。誰もが声を上げることができるなら、一人ひとりの言葉や存在が尊ばれるなら、平和って賑やかで、騒がしいものです。騒音や悲鳴や泣き叫ぶ声ではなく、罵倒する声や嘲る声でもなく、ただ喜びに溢れた笑い声が響く。そんな騒がしさが私たちの周りから広がっていきますように。イエスさまが平和を残し、平和に生きることを託した場所は、何よりも教会という主イエスによって結ばれた信仰者の群れにおいてです。どうか、この平和を私たちが携えて生きることを通して、少しずつこの世界にキリストの平和が広がっていきますように。

  4. 7月28日

    キリスト者は一人で荒野を行くか(石田学) – ローマ 16:1–5

    2026年7月26日 三位一体後第8主日 説教題:キリスト者は一人で荒野を行くか 聖書: ローマの信徒への手紙 16:1–5、ゼカリヤ書 9:9–10、詩編 47、ルカによる福音書 17:20–21 説教者:石田学   ----- キリスト教信仰には、古代から二つの大きな流れがありました。主イエスの弟子たちは共に主に従い、共に主の群れとして生きました。他方、世と人を離れ、神との関係だけを生きようとする人たちがいました。どちらか一方だけが正しいのではなく両方ともが大切で必要なのでしょう。しかし、日本の教会は長く、「わたしと神」の関係を強調してきました。一人で聖書を読み、祈る孤独な信仰は、あたかも一人で荒野を行くようです。だが、主イエスは最初から弟子を集め、共に生き共に旅しました。二、三世紀に孤独な隠修士が大勢出ましたが、すぐ修道院へと発展しました。弟子たちの群れは最初から、共に荒野を行くことが本質だったからです。きょうの聖書箇所に、フェベ、プリスカとアキラ、エパイネトが登場します。パウロは彼らのことをとても愛情溢れる仕方で紹介しています。フェベはパウロが滞在していた、コリントの隣町ケンクレアイの聖職者です。フェベは、パウロの手紙をローマに携えていく使者に選ばれました。彼女は「姉妹」「多くの人の援助者、特にわたしの援助者」と紹介されています。プリスカとアキラは、コリントでパウロと出会い、同労者となりました。パウロは彼らを「命がけでわたしを守ってくれたこの二人」と呼びます。エパイネトは「わたしの愛する、アジア州の初穂」と呼ばれています。パウロが教会でどのような交わりを持っていたかがよくわかります。彼らのような仲間なしには、パウロは働きを続けられなかったはずです。多くの試練、迫害、落胆に満ちた荒野の旅は、一人旅ではありませんでした。パウロはこの交わりに支えられ、彼らに絶大な信頼と喜びを抱いてきました。神の民とされ、神の家族とされた、共に荒野を行く兄弟姉妹がいる。支え合い、喜びと悲しみを分かち、共に祈り、共に礼拝する神の家族がある。その交わりがあればこそ、パウロは荒野の旅を続けることができました。もちろんパウロは、教会の仲間たちに過ちや欠点がないとは思っていません。意見の対立や感情的な衝突、考えの相違があったことは手紙から明らかです。だが、それらを超える霊的な交わり、天の国籍を持つ仲間でした。改めて問います、キリスト者は一人で荒野を行くのでしょうか。いいえ、わたしたちにとっても教会はまったく同じ意味を持っています。主キリストと共に生き、慈しみと愛を分かち、共に荒野を行く仲間がいます。目指すは同じ天の故郷、その幸いをわたしは今、ここで実感しています。

  5. 7月19日

    誰ひとり孤児としない(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:15–24

    2026年7月19日 三位一体後第7主日 説教題:誰ひとり孤児としない 聖書: ヨハネによる福音書 14:15–24、申命記 24:17–22、詩編 146、ヤコブの手紙 1:22–27 説教者:稲葉基嗣  ----- イエスさまが弟子たちのもとから離れたとき、弟子たちが途方に暮れないように、イエスさまは弟子たちに心の準備をさせたいと願って、彼らに語りかけました。「私は、あなたがたをみなしご(孤児)にはしておかない。」(18節)孤児という言葉には、旧約聖書からの影響を感じさせられます。古代イスラエルの社会において、孤児は、助け、導き、保護、安全、そして共同体などをすべて失ってしまいます。イエスさまがいなくなることによって、弟子たちはそのような絶望的な状況に置かれる可能性が十分にありました。だから、イエスさまは「あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束しました。イエスさまは、弟子たちを孤児としないと伝えた直前に、もう一人の弁護者を神が遣わすと約束されました。その約束された弁護者とは、聖霊である神のことです。弁護者と訳されているギリシア語の単語はもともと、「助けのために、傍らに呼び寄せられた者」という意味を持つ単語です。聖霊は、私たちの傍らにあって、困難の時に私たちを助け、悲しみの時に私たちを慰め、いつも人格的な支えとなってくださる存在です。聖霊がともにあるから、私たちはいつも、イエスさまと共にいることができます。その意味で、私たちは決して孤児とされていません。イエスさまは、弟子たちに聖霊を与えると伝えたあと、イエスさまが与える戒めを受け入れ、守ることの大切さを伝えています。その戒めとは、イエスさまが愛したように、お互いに愛し合うというものです。イエスさまは、私たちを教会の交わりへと招いておられます。私たちは、教会の交わりを通して、お互いに助けと慰めを受け取ります。実際に助けを受け取れる、支えられ、慰めを受け取ることができる教会の交わりへと弟子たちを、そして、私たちを招かれました。そうすることによって、文字通り、決して孤児とはしない。そのようなイエスさまの意志が教会において表されているのです。世界を見渡す時、様々な形で孤児とされている人がいることを見聞きします。イエスさまが願ったように、誰ひとり孤児としたくないと願っているからです。教会が、助けを失った人の居場所となり、悲しむ人の慰めとなり、孤独な人の家族となっていくとき、この約束は今もこの世界で生き続けます。誰ひとり孤児としない。主イエスの思いを私たちも一緒に携えて、信仰の旅路を歩んで行きましょう。

  6. 7月12日

    なぜ主イエスの名によって祈るのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:8–14

    2026年7月12日 三位一体後第6主日 説教題:なぜ主イエスの名によって祈るのか? 聖書: ヨハネによる福音書 14:8–14、出エジプト記 34:1–9、詩編 116、ヘブライ人への手紙 12:1–3 説教者:稲葉基嗣 ----- 物事には形式や、ある程度決まった型というものがあります。手紙などの書き方を教えてくれるため、形式や型は、私たちの支えになります。今日開いたイエスさまの言葉は、私たちの祈りに影響を与えている言葉です。私たちは、「主イエスのみ名によって祈ります。アーメン」と言って、祈りを終えます。これはまさに、繰り返し用いられている祈りの型といえるものです。イエスさまの名で祈ることは、イエスさまのことを思い起こすことです。イエスさまは何を行い、何を願っているのでしょうか。イエスさまの名で祈ることは、イエスさまと私たちの思いを重ね合わせ、イエスさまの願いや目的へと私たちが引き込まれていくようなものです。でも、そう考えると、イエスさまの言葉に、違和感を覚えるかもしれません。イエスさまが「願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」と語っているからです。それは何だか、私たちの願いをかなえることを保証するために、イエスさまの名前を使って祈ることをイエスさまが励ましているかのようです。それって、まさに自分勝手な祈りなのではないでしょうか。「私がかなえてあげよう」と訳されている言葉は、直訳すると「私は行う」です。私たちが願った通りのことを機械的にイエスさまがしてくれるわけではありません。私たちが主イエスの名によって願うならば、イエスさまは能動的に行動されます。イエスさまの名によって祈る私たち自身は、イエスさまの思いと心を重ね合わせるようにと導かれていきます。イエスさまはここで、イエスさまの名によって神に向かって祈る私たちと共にいて、私たちと共に行動すると伝えようとしているのです。そう考えると、主イエスの名によって祈ることは、私たちの願いを押し通すこととは正反対のことです。神に私たちの願いを伝えながらも、神のもとに私たちの願いを手放していくことだからです。それは、自分の感情や思いを押し殺すこととは違います。自分の願いにただただ固執することをやめて、イエスさまと一緒に歩むべき道を模索していくことです。私たちが生きる世界は願いと願いがぶつかり合い、溝が深まり、争いがあります。そのような世界で生きているからこそ、主イエスによって呼び集められた教会という共同体は、主イエスの名によって祈り続けます。自分自身の願いを一度、神に預けます。自分の願いを押し通すためではなく、主イエスが示される道を共に歩むためです。

    なぜ主イエスの名によって祈るのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:8–14
  7. 7月5日

    安心して従う生き方(稲葉奈々) – 創世記 24:42–49

    2026年7月5日 三位一体後第5主日 説教題:安心して従う生き方 聖書: 創世記 24:42–49、マタイによる福音書 11:25–30、詩編 145、ローマの信徒への手紙 7:15–25 説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 3年生) ----- 「神に従う生き方」とは、一体どのようなものなのでしょうか。今日の聖書箇所に登場するアブラハムの年老いた僕は、主人の息子イサクの結婚相手を探すという大役を任されました。彼は主人から絶大な信頼を得ていましたが、自分の経験や判断に頼ることなく、まず神に祈り、判断を神に委ねました。彼は「自分の持っている全ては、神の与えるもの以上に良いことはありえない」という神への信頼とへりくだりをもって行動しました。また、リベカの家族に対して「そうでなければ、そうでないとおっしゃってください。それによって私はどうするか、決めなければなりません」と語り、自分の確信を神の意思だと過信しない謙虚さと柔軟さを示しました。祈れば必ず思い通りの結果になるわけではありません。祈りは、神からの見返りを保証するものではないからです。だからこそ、僕のように、神への心からの信頼と、目の前の出来事に対する柔軟さの両方を忘れないことが大切ではないでしょうか。リベカもまた、突然の縁談という状況に置かれましたが、彼女は自ら水を汲み、らくだにも水を与え、与えられた出来事に能動的に応答しました。彼女もまた、「神から与えられるものすべては良いものである」という信頼をもって行動していたのです。登場人物一人ひとりの決断と行動の根底には神への絶対的な信頼がありました。私たちも人生の中で重荷や理不尽に直面しますが、神から与えられる良きものに全信頼を置く生き方を選ぶことができます。私たちは、自分の人生という個別の物語を生きているように見えますが、実際には一人ひとりの物語がかけ合わさって、この世界が形づくられています。絶望の物語の中に生きている人が溢れる世界の中で、教会に集う私たちは用いられようとしています。神の配慮のもとに集められた私たちが、安心して生き、お互いを思いやって行動する姿を通して、この世界に神をあらわしていくよう招かれています。主に従う生き方とは、この世界の現実を変える力を持った生き方です。その確信を握り、喜びと希望を携えて歩んでいきましょう。

    安心して従う生き方(稲葉奈々) – 創世記 24:42–49

番組について

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