ひとりひとりの人生・オンリーワン

Talk Shift

特別な人でなくても、一人ひとりに価値 ① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、 だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。 世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。 「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。 ② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。 私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。 「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。 ③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。 ④ さらに、この番組はゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。 ⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。

  1. 2日前

    #134 人生は思い通りにならない。受験に落ちて、30年続く友情を手に入れた橘さんの人生物語②

    「僕、実は高校受験、失敗してるんですよ」   もうその一言で、今回の話が面白くなることは確定でした。 中学時代のエピソードも 十分すぎるほど濃かったのですが、 高校時代もまったく負けていません。   受験の失敗、想像をはるかに超える男子校生活、 そして30年以上続く友情。   今日はそんな橘さんの高校時代をお届けします。   ①  思わぬ油断が招いた受験失敗 橘さんは中学時代、 特別成績が悪かったわけではありません。 むしろ周囲からは「進学校に行けるんじゃないか」と言われるくらいの成績だったそうです。 ちょうどその頃、地元の進学校に 特別進学コースが新設されました。   先生や周囲からも、 「せっかくだからチャレンジしてみたら」 と勧められます。   そこで橘さんは、 受験直前になって志望校を変更しました。 ところが、その特進コースには 大きな落とし穴がありました。 今なら、特進コースで不合格になっても 普通コースにスライド合格できる学校は珍しくありません。 しかし当時は違いました。 特進コースで落ちれば、それで終わり。 まさに一発勝負だったのです。 ところが受験生の橘少年には、 もうひとつ別の問題がありました。 滑り止めとして受けていた私立高校に、 あっさり合格してしまったのです。 しかも二校とも。 「私立に普通に受かったんですよ。 だから、俺って結構賢いんちゃうかって思ってしまって」 これ、なんとなく気持ちは分かりますよね。 人は少し結果が出ると安心します。 そして安心すると、頑張る理由を失います。 さらに運命のいたずらは続きます。 その頃、世の子どもたちを夢中にしていた ゲームが発売されました。 そう、ドラゴンクエストです。 今でこそ伝説のゲームですが、 当時はまさに社会現象。 受験生だった橘さんも、 その世界にどっぷりはまってしまいました。 本来なら最後の追い込みをしなければいけない時期。 しかし頭の中は勉強よりも冒険。 その結果・・・。 本命だった県立高校は不合格。 人生で初めて味わう大きな挫折でした。 私はこの話を聞きながら、 「人生って本当に油断した瞬間に 流れが変わるな」と思いました。 ほんの少し気が緩んだだけ。 でもその選択が、 その後の人生を大きく変えていくのです。   ②  絶対に行きたくなかった男子校へ さて、本命校に落ちた橘さん。 残された選択肢は、 合格していた私立高校二校でした。 一校は共学。 もう一校は伝統ある男子校。 普通に考えれば共学を選びそうですよね。 実際、橘さんも 「男子校だけは嫌や」 と思っていたそうです。 ところが最終的に選んだのは男子校でした。 理由を聞いて私は思わず笑ってしまいました。 「その高校、甲子園出場が決まってたんですよ」 つまり、 『母校が甲子園に行くって、なんか格好いいやん』 という理由です。 今振り返ると、 ずいぶん軽い決め方だったと本人も笑います。 しかし人生の分岐点なんて、 案外そんなものかもしれません。 そして入学式当日。 橘さんは衝撃の現実を知ります。 校内を見回しても女の子が一人もいない。 当たり前です。 男子校ですから。 ところがそれだけではありません。 トイレは男子便所だけ。 女性の先生もほとんどいない。 校内で見かける女性といえば購買のおばちゃんくらい。 「親より年上でしたけどね」 と橘さんは笑います。 さらに追い打ちをかけるように、 生徒手帳にはこんな文字が書かれていました。 『男女交際禁止』 今の高校生が聞いたら驚くかもしれません。 しかし当時は本当にそんな校則が存在していたのです。   ③  女の子と歩いただけで丸坊主 ここからがさらに驚きです。 その学校には風紀室という部屋がありました。 もし女子と歩いているところを見つかったら、 そこへ連れていかれます。 そして・・・。 なんと丸坊主。 その場でバリカンです。 しかも無料。 「坊主にするのにお金はいらないんですよ」 という橘さんのツッコミに、 収録中も大爆笑でした。 現代の感覚からすると信じられない話ですよね。 しかし当時は本当にそれが当たり前だったそうです。 さらに修学旅行もなかなか強烈でした。 班ごとの自由行動があるのですが、 集合時間に少しでも遅れるとアウト。 目覚まし時計もスマートフォンもない時代。 基準になるのはバスの時計だけです。 わずか一秒でも遅れたら、その日の夜に丸坊主。 問答無用です。 そこで生まれた名物が修学旅行の記念写真。 一日目の写真は全員普通の髪型。 ところが日が経つにつれて坊主が増えていく。 最終日の写真を見ると、 十人近く丸坊主になっていることもあったそうです。 「写真見たら分かるんですよ」 その光景を想像しただけで笑ってしまいます。 家に帰ってきた息子が突然坊主になっていたら、 親御さんも相当驚いたでしょうね。 ちなみに橘さんは三年間、 一度も坊主にならなかったそうです。 理由を尋ねると、 「口がうまかったんですかね」 と笑っていました。 もしかすると、この頃から 社会を渡っていく力が磨かれていたのかもしれません。   ④  制約の中で育った友情 ただ、この高校生活は決して笑い話だけではありません。 厳しい環境だったからこそ得たものもありました。 中学時代の友人たちとは 少しずつ距離ができました。 恋愛も自由にはできません。 制約だらけの毎日です。 「辞めるわけにはいかなかったんです。 ここ辞めたら中卒になってしまうから」 橘さんは冗談っぽく話していましたが、 その言葉の奥には必死さも感じました。 そんな日々の中で生まれたのが、 かけがえのない友情です。 「女の子がいないから、 格好つける必要がないんですよ」 見栄を張らない。 背伸びもしない。 ありのままの自分で付き合える。 それが男子校ならではの関係だったのでしょう。 そして橘さんには、 高校時代から続く四人組の親友がいます。 驚くことに、その関係は卒業後も続いています。 いや、続いているどころではありません。 なんと三十年以上経った今でも、 誕生日になると必ず四人で集まるのです。 誕生日を迎えた人が店を予約する。 残り三人がご馳走する。 このルールを二十年以上続けているそうです。 すごいですよね。 仕事も違う。 住む場所も違う。 家庭もある。 それでも毎年集まる。 私はこの話を聞いて、 本当の友情とは何だろうと考えました。 利害関係ではない。 損得でもない。 ただ、一緒にいると自然体でいられる。 そんな存在が人生にいることは、 とても幸せなことなのかもしれません。 橘さんはこう言っていました。 「嫁さんよりも、 俺らの方が昔から知ってるし、 仲いいですからね」 冗談交じりの一言でしたが、 その言葉には深い信頼がにじんでいました。   ⑤  回り道の先に待っていたもの 高校受験の失敗。 望んでいなかった男子校生活。 理不尽とも思える厳しい校則。 当時の橘さんにとっては、 決して順風満帆ではありませんでした。 もしかすると、 「なんで自分だけこんな目に」 と思うこともあったかもしれません。 でも人生は不思議です。 その時は失敗だと思った出来事が、 後になって人生の財産になることがあります。 もし第一志望に合格していたら。 もし共学の高校へ行っていたら。 もしかすると今の親友たちには 出会えていなかったかもしれません。 最後に橘さんは笑いながらこう話してくれました。 「行ってよかったです。 行ってる最中は後悔しかありませんでしたけどね」 この言葉が私はとても印象に残りました。 人生は、その渦中にいると 意味が分からないことばかりです。 でも振り返った時に初めて、 「あの回り道にも意味があったんだな」 と思えることがあります。 橘さんの高校時代は、 まさにそんな物語でした。   さて次回は、大学・就職編です。 高校時代ですらこれだけ濃い橘さんですから、 その先もきっと一筋縄ではいきません。 どんな出会いがあり、 どんな選択をしてきたのか。 ぜひ次回もお楽しみに。 それではまた、 「人生配信オンリーワン」でお会いしましょう。   橘 英樹さんのプロフィール 新卒でハウスメーカーに入社し、 全国優秀営業マン賞を2回受賞。30代初めに南部自動車学校へ転職しそこでさまざまな新規事業の立ち上げ、成功させる。その

  2. 2日前

    #133 幼稚園を中退して世界一周。その少年が、なぜ生徒会の役員になったのか?橘さんの人生物語①

    今回のゲストは、東京コーチング協会の コーチング祭りで出会った橘さんです。   実は私、橘さんに初めてお会いしたとき、 思わず心の中でこうつぶやきました。 「この人、すごいな」 いや、正確には、 「会った瞬間に惚れました」 という表現の方が近いかもしれません。   それくらいエネルギッシュで、 前向きで、人を惹きつける魅力にあふれた方なんです。   そんな橘さんがどんな人生を歩んできたのか。 今回から数回に分けて、その人生を深掘りしていきます。 第1弾は、幼少期から中学校卒業まで。   話を聞いていて思ったのは、 「人生は出会う人によって大きく変わる」ということでした。 それでは、さっそくいきましょう。   幼稚園を辞めて世界一周へ 橘さんは愛知県岩倉市で生まれました。 普通の家庭で育ったのかと思いきや、 最初から驚きのエピソードが飛び出します。 なんと幼稚園の年中の途中で幼稚園を辞めているんです。 「えっ、幼稚園を中退?」 思わず聞き返してしまいました。 理由を聞くとさらに驚きました。 家族で世界一周旅行に出るためだったのです。 今でもなかなか大胆な話ですが、 当時としてはさらに珍しいことだったと思います。 橘さんの親戚がハワイで旅行会社を営んでいて、 家族全員でまずハワイに渡りました。 そして当時パンアメリカン航空、 いわゆるパンナムが販売していた世界一周チケットを活用し、 家族で世界を回ったそうです。 年長の1年間を丸ごと海外で過ごした橘さん。 私は話を聞きながら、 「その年齢でどんな景色を見ていたんだろう」 と想像していました。 もちろん細かな記憶は残っていなくても、 その経験は人生の土台になっているはずです。 多くの人が幼稚園で過ごしている時期に、世界を旅していた少年。 まさに人生のスタートから規格外でした。 そして帰国後、三重県の小学校へ入学します。 言ってみれば、幼稚園を中退して海外留学し、 そのまま小学校へ進学したようなものです。 こんなユニークな人生の始まり方はなかなかありません。   野球しか記憶にない小学校時代 三重県の小学校へ入学した橘さん。 周囲には知り合いがほとんどいません。 そんな中で出会ったのがソフトボールでした。 先輩に誘われて入ったチームが、たまたま地域でも有数の強豪チーム。 これが後の人生に大きな影響を与えることになります。 強豪チームですから練習量も多い。 指導も厳しい。 基礎を徹底的に叩き込まれます。 気付けば橘さんの毎日は野球一色。 本人も、 「小学校時代の記憶は野球しかない」 と笑いながら話していました。 平日は学校。 放課後は野球。 土日は試合や遠征。 今の子どもたちと比べると、 外で遊ぶ時間も圧倒的に多かった時代です。 ランドセルをベース代わりにして三角ベースを始めたり、 空き地を見つければ野球をしたり。 そういう風景が当たり前にあったそうです。 高学年になると軟式野球チームへ移り、 仲間たちもほとんど同じメンバー。 野球が上手くなりたいという気持ちもあったと思います。 でも橘さんの話を聞いていると、 それ以上に仲間との時間が好きだったことが伝わってきました。 「勝つことより仲間と一緒にいるのが楽しかった」 その言葉がとても印象的でした。 あとから振り返ると、 野球そのものよりも、 人とのつながりを大切にする橘さんらしさが、 この頃から育まれていたのかもしれません。   坊主が嫌で野球部を辞めた そして中学校へ進学します。 ここで野球人生は続くのかと思いきや、 意外な理由で終わりを迎えます。 野球部に入ると坊主頭がほぼ必須だったのです。 橘さんは即座に思いました。 「それは嫌だ」 なんとも中学生らしい理由です。 そして野球部への入部をやめます。 では次に何を選んだのか。 その理由も実に中学生らしいものでした。 「女の子にモテたい」 まずバスケットボール部へ。 しかし先輩が怖い。 次にバレーボール部へ。 こちらも先輩が怖い。 結局長続きしません。 そんな時に目に入ったのが軟式テニス部でした。 当時、女子のテニス部員への憧れもあったそうです。 ところが実際に入部してみると、 思っていた部活とはかなり違いました。 試合に出ても初戦敗退。 コートには雑草が生い茂る。 練習より遊んでいる時間の方が長い。 テニスボールの代わりにソフトボールで野球をしている。 まるで部活動というより仲良しサークルです。 それでも橘さんたちは毎日楽しく過ごしていたそうです。 しかし、その平和な日々は長く続きませんでした。   鬼のように厳しい先生の登場 中学2年生のとき。 学校に一人の教師が赴任してきます。 その先生は他校で実績を上げ、 生徒指導でも有名な先生でした。 そして赴任初日。 テニスコートを見て激怒します。 雑草だらけのコート。 緩みきった部員たち。 練習する気配のない空気。 先生からすれば信じられない光景だったのでしょう。 そこから徹底的な改革が始まります。 厳しい指導。 徹底した基礎練習。 そして極めつけは、 「全員坊主にしてこい」 という指示。 野球部を避けた理由が坊主だった橘さんにとっては、 なんとも皮肉な展開です。 部員たちは反発します。 しかし考えた末、一度従ってみることにしました。 半分は反抗心。 半分は好奇心。 そんな気持ちだったそうです。 ところが、その行動が先生との信頼関係を築くきっかけになります。 先生も、 「こいつらは口だけじゃない」 と感じたのでしょう。 ここから本当の指導が始まりました。   人生を変えた出会い それから半年間。 なんとラケットを握らせてもらえなかったそうです。 ひたすら走る。 ひたすら声を出す。 ひたすら基礎を繰り返す。 普通なら嫌になって辞めてしまうかもしれません。 けれど橘さんたちは続けました。 そして不思議なことに、 徐々に先生の本気が伝わってきます。 怒っているだけではない。 自分たちの可能性を信じている。 だから厳しい。 そんな思いを感じるようになったそうです。 すると部活の雰囲気が変わります。 生徒が変わります。 結果も変わります。 中学3年生になる頃には、 県大会準優勝を果たすまでのチームへと成長していました。 初戦敗退が当たり前だったチームが、 県大会準優勝です。 これは本当にすごいことです。   やんちゃな少年が生徒会役員へ さらに驚くのはここからです。 先生から信頼されるようになった橘さんは、 生徒会活動にも関わるようになります。 それまでの橘さんは、 どちらかというとやんちゃなグループの一員でした。 でも先生との関係を通じて、 学校全体を見る立場になっていきます。 生徒会役員として活動しながら、 やんちゃな仲間とも付き合い続ける。 先生側の気持ちも分かる。 生徒側の気持ちも分かる。 まさに両者の橋渡しをする存在になっていったのです。 もしあの先生と出会わなかったら。 もし反発したまま終わっていたら。 きっと違う人生になっていたでしょう。   人生は誰と出会うかで変わる 今回のお話を通じて、私は改めて感じました。 人生は環境によってつくられる。 人生は出会いによって変わる。 強豪野球チームとの出会い。 仲間との出会い。 そして厳しい先生との出会い。 その一つひとつが橘さんの人生を形づくっていました。 そして面白いのは、 その出会いの入り口が必ずしも立派な理由ではないことです。 野球を始めたのも仲間に誘われたから。 テニス部に入ったのもモテたかったから。 でも、その何気ない選択が人生を大きく変えていく。 だから人生は面白いのだと思います。 皆さんにも、今振り返ると人生を変えた出会いがあるのではないでしょうか。 あの先生。 あの友人。 あの先輩。 あの上司。 その出会いがなければ、 今の自分は存在しなかったかもしれません。   橘さんの物語は、 まさにそんなことを教えてくれるエピソードでした。 次回は高校時代のお話です。 さらに波乱万丈の人生が待っています。 ぜひ楽しみにしていてください。 それではまた、人生配信オンリーワンでお会いしましょう。 橘 英樹さんのプロフィール 新卒でハウスメーカーに入社し、全国優秀営業マン賞を2回受賞。30代初めに南部自動車学校へ転職し、そこでさまざまな新規事業の立ち上げ、成

  3. 8月15日

    #132 「あなたは、何のために生きたいの?」ーー鎧を脱いだ河原説子さんが「共創」にたどり着くまでの人生物語④

    今回お届けするのは、組織変革の現場で活躍し、現在はエグゼクティブコーチとして活動する説子さんの人生です。 今では多くのリーダーを支援する立場の説子さんですが、その背景には誰にも話したくなかった失敗や苦悩がありました。   「教えてあげる」が招いた黒歴史 説子さんは、プロフェッショナルファームのグループ会社で、多くの経営者やリーダーとの対話を通じて組織変革を実現してきました。 しかし、自分が部門長として組織を率いる立場になった時、大きな壁にぶつかります。 当時の自分は、 「私は知っている」 「みんなは知らない」 「だから教えてあげる」 そんな考え方から抜け出せなかったと言います。 部下がうまくできないと「なぜできないの?」と問い詰め、自分が納得しないものは外に出さない。 部下を信頼して任せることができず、すべてをチェックする毎日でした。 今振り返ると、 「本当に恥ずかしい黒歴史です」 と笑いながら話してくれました。 けれどその時は、本気で組織のためを思っていたのです。 だからこそ苦しかった。   誰もついてこない孤独 変革を起こそうとすればするほど、周囲との距離は広がっていきました。 本人は必死なのに、その苦労はなかなか伝わらない。 自分だけが戦っているような感覚。 相談できる相手もいない。 心が折れそうになる日々でした。 そんな時に出会ったのが、エグゼクティブコーチです。 定期的に対話を重ねる中で、追い詰められていた心が少しずつ回復していったそうです。 「正常な状態に戻っていく感覚がありました」 その言葉が印象的でした。 しかし最終的に説子さんは、その会社を離れる決断をします。   コーチングとの出会い その後、異動によって少し時間に余裕が生まれた説子さんは、将来を見据えてコーチングスクールに通い始めます。 ところが、学びの場で待っていたのは技術習得ではありませんでした。 待っていたのは、自分自身との対話です。 「どんどん内面をえぐられていくんです」 これまで仕事では結果を出してきた。 だからこそ失敗や弱さを見せたくない。 過去を語りたくない。 けれどスクールでは何度も問われます。 「あなたは何がしたいのですか?」 「何のために生きるのですか?」 答えるたびに、自分を守っていた鎧が一枚ずつ剥がれていくような感覚だったと言います。 そしてある日、講師からこう聞かれました。 「今会社を辞めたら、何か問題がありますか?」 その問いが人生を変えました。 定年まで勤めるつもりだった説子さんは、退職を決意します。   独立後に待っていた現実 資格を取得し、個人事業主として独立。 しかし現実は甘くありませんでした。 会社員時代は大きな組織の看板がありました。 けれど独立すると、すべて自分でやらなければならない。 営業も、経理も、企画も全部です。 しかも仕事は思うように増えない。 気がつけば一年近く、まとまった仕事がない状態が続いていました。 焦りもあります。 不安もあります。 自分の選択は間違っていたのではないか。 そんな思いが何度も頭をよぎったそうです。   小さな達成を喜ぶ 転機になったのは考え方を変えたことでした。 大きな成果ばかりを追い求めると、現実とのギャップで自分を責めてしまう。 そこで説子さんは、小さな達成に目を向けました。 一件の面談ができた。 一人と新しいつながりができた。 一つ前に進めた。 そんな小さな成功を積み重ねていく。 ガントチャートを小さな達成で埋めていくことで、少しずつ前進している実感を持てるようになりました。 そして五か月ほど経った頃から、状況は徐々に変わり始めたそうです。 最後にたどり着いた「パーパス」 さまざまな経験を経て、説子さんが今もっとも伝えたいこと。 それはパーパスです。 パーパスとは、自分たちが社会に存在する意味。 何をやるのかではなく、何のために存在するのか。 かつては、自分がやりたいことを中心に生きることもできました。 しかし今は、社会課題が見える時代です。 社会のために何をしたいのか。 その問いを持たなければ、個人も組織も持続的には発展できない。 そう語ります。 パーパスを持つと二つの変化が起きます。 一つは共感する仲間が自然と集まること。 もう一つは、対立が起きても対話できることです。 目指す未来が同じなら、意見が違っても議論できます。 だからパーパスが大切なのです。 なぜ部署同士は対立するのか 説子さんは製造業によくある話を紹介してくれました。 品質管理、製造、開発、営業。 それぞれが自分の立場で正しいことを言う。 しかし視点が部署レベルに留まっているため、対立が生まれます。 ところが、 「私たちは社会のために何を実現するのか」 という視点に立つと話が変わります。 社会のためという高い視座に立てば、お互いを責め続ける意味がなくなるのです。 コンフリクトを超える鍵もまた、パーパスにあります。 対話が組織を動かす とはいえ、パーパスは数値で測れません。 だからこそ重要なのが対話です。 何のために存在するのか。 その実現に向けて自分たちは何をするのか。 みんなで語り合うプロセスそのものが組織を動かす力になる。 説子さんはそう考えています。 対話なくしてパーパスは育たない。 これが長年の経験から得た実感です。   現在の活動 現在、説子さんの会社には三つの事業の柱があります。 一つ目は海外駐在員支援。 海外で孤軍奮闘するリーダーたちにコーチングと対話を届けています。 二つ目はエグゼクティブコーチング。 かつて自分が支えられたように、今度は自分がリーダーを支える番です。 三つ目は経営変革支援。 どれだけ優れた戦略があっても、実行できなければ意味がありません。 自身の失敗経験を活かしながら、実行力向上を支援しています。 また、海外支援の現場では「承認」の重要性も実感しています。 日本では褒めなくても当たり前と思われがちですが、多くの国では承認が信頼の証です。 人は認められることで安心し、自ら動き始める。 その重要性を説子さんは伝え続けています。   共に創る社会へ 説子さんが目指す未来。 それは「共創リーダーにあふれる社会」です。 正解のない時代。 一人の天才だけで社会課題を解決することはできません。 だからこそ、立場や経験の違う人たちが対話し、力を持ち寄ることが必要です。 かつて「教えてあげる」と考えていた説子さんは、今、「共に創る」を大切にしています。 失敗があった。 苦しんだ時期もあった。 それでも対話を通じて変わり続けてきた。 だからこそ今の言葉には重みがあります。 最後に説子さんが私たちに投げかけてくれた問いがあります。 「あなたは、何のために存在していますか?」 何をするかではなく、何のためにするのか。 その問いこそが、人生を動かす原点なのかもしれません。 人生には、一人ひとり違う物語があります。 失敗もある。 挫折もある。 そして、そこから再び立ち上がる瞬間があります。 これからも「人生配信オンリーワン」では、そんな誰かの人生を対話を通してお届けしていきます。 次回は、どんなオンリーワンの人生に出会えるのでしょうか。 それではまた次回、お会いしましょう。

  4. 8月15日

    #131 「正しいこと」を伝えても、人は動かなかった。「対話」で組織を変えた河原説子さんの人生物語③

    説子さんが転職したのは、コンサルティング、会計、税務など、複数の事業を展開する会社グループ。 その中で、間接部門、いわゆるバックオフィス機能だけを切り出して、新しい会社がつくられました。 そこに集まったのは、規模も文化もまったく違う4つの会社。 5,000人規模の会社もあれば、200人規模の会社もある。 仕事の進め方も違えば、仕事の品質に対する考え方も違う。 そんな4社を、一つのサービスとして束ねていく。 それが、説子さんに与えられた大きなミッションでした。 そして、もう一つ。 「間接部門は一つになった。でも、事業そのものは一つになれない。それでも、お客様から見れば、私たちは一つの会社。同じお客様に対して、もっと連携していこう」 そんな戦略も掲げられていました。 実はこれは、以前から何度も掲げられてきたテーマでした。 でも、なかなか実現しない。 説子さんは、ここでも同じ壁にぶつかります。 それは、 「みんな理解している。でも、誰も動かない」 という壁でした。 方向性を説明すると、みんな「わかりました」と言う。 反対する人もいない。 会議で大きな衝突が起きるわけでもない。 ところが、 「では、これを実行しましょう」 となった瞬間、 「……で、私たちは何をすればいいんですか?」 となる。 説子さんは言います。 「反対してるわけじゃないんですよ。理解はするんです。でも、必要性を感じない。だから、行動につながらないんです」 これって、組織ではよくあることですよね。 経営者や戦略部門からすれば、 「こんなに丁寧に説明したのに、なぜ動かないんだ?」 と思う。 でも、現場からすれば、 「会社として大事なのは分かる。でも、それが自分の仕事とどう関係するの?」 ということなのかもしれません。 つまり、 「理解」と「行動」の間には、想像以上に大きな溝がある。 説子さんは、これまでにも何度も経営変革に携わってきました。 コッターの8ステップ。 マッキンゼーの7S。 世の中で知られている変革のフレームワークを学び、忠実に実践してきました。 それでも、人は動かなかった。 「理解してもらう」ことはできても、「自分ごと」として行動してもらうところまでは届かない。 4度の失敗を経験して、説子さんは、ある決断をします。 「今回は、自分のやり方を試してみよう」 そこで、これまでのトップダウン型のやり方をやめました。 上からメッセージを降ろす。 社長の言葉を伝える。 戦略部門の考えを現場にカスケードする。 それをやめて、 「皆さんは、どう感じますか?」 と問いかけることにしたのです。 「会社が描いている未来は、自分たちの部署でいうと、どういうことなんでしょう?」 「それって、誰にとって、どんなメリットがあるんでしょう?」 答えを上から渡すのではなく、現場の人たち自身に考えてもらう。 今の言葉で言えば、まさにコーチングのようなアプローチです。 ただ、この頃の説子さんは、まだ「コーチング」という言葉すら知りませんでした。 社長とのタウンホール。 社員との車座ミーティング。 そうした経験を重ねる中で、説子さん自身が実践知として身につけていった方法だったのです。 その力が試されたのが、グローバル本社から降りてきた「パーパス」を、各部署の言葉に翻訳していくワークショップでした。 ところが、最初の反応は冷ややかでした。 「パーパスなんて、間接部門が考えればいいでしょう」 「俺たちは稼ぎに行くんだから、関係ない」 それでも、なんとかリーダーたちにテーブルについてもらいました。 ところが1回目のワークショップは、見事なほどバラバラ。 「うちには、こんな問題があります」 「いや、それはうちとは違います」 「うちの事業部には、特に問題ありません」 そんな話が続いて、 「じゃあ、これで終わりにしましょう」 というところまで行ってしまった。 普通なら、ここで諦めてしまうかもしれません。 でも、説子さんは、 「ちょっと待ってください」 と、その場をつなぎ止めました。 そこから少しずつ、対話が始まっていきます。 もちろん、すべてが成功したわけではありません。 連携が進んだ事業部もあれば、 「今のままで十分、二桁成長しているんだから、変える必要はない」 と、最後まで抵抗したところもありました。 でも、少しずつ変化が起きていきます。 あるとき、リーダーたちにこんな問いを投げかけました。 「5年後、その業界はどうなっているんでしょうか?」 すると、議論が変わっていきます。 それまでは、 「お客様から、この問題を解決してほしいと言われたから、解決する」 という発想が中心でした。 でも、 「5年後、10年後の産業がどうなるのか」 を考え始めると、 「もしかすると、私たちのほうがお客様より先の未来を見ているかもしれない」 という発想が出てきた。 そして、 「目の前の課題に答えるだけではなく、これから社会や産業がどう変わるのかを伝えながら、お客様と一緒に未来を考えることこそ、私たちの役割なのではないか」 というところまで、議論が深まっていきました。 さらに、採用の考え方まで変わりました。 それまでは、その業界の経験者を採用するのが当たり前。 でも、未来の社会課題を考えるなら、それだけでは足りない。 「官」「民」「学」。 異なる領域から人を集めて、多角的な視点を持つコンサルティングチームをつくろう。 そんなアイデアまで、リーダーたち自身の口から出てきたのです。 ここで、説子さんは強く感じます。 「やっぱり、対話って大事なんだ」 一人で考えていると出てこないアイデアがある。 頭のいい人が集まっているだけでも、それは生まれない。 問いを投げかけ、互いの考えを聞き、さらに問いを重ねる。 そのプロセスの中で、人の視野が広がり、組織の可能性も広がっていく。 ところが――。 ここからが、この話の面白いところです。 会社全体の対話は、うまくいった。 4社のリーダーたちとのファシリテーションも、うまくいった。 ところが、 「自分の部署では、できていなかった」 というのです。 説子さん自身、 「これは私の黒歴史です」 と振り返っています。 なぜでしょうか。 当時の説子さんには、 「自分が一番よく知っている」 「みんなは経験したことがないから、私が教えてあげよう」 という気持ちがあった。 だから、 「まず自分がやってみせる。そして教える。1年、2年かけて部下が育ったら、少しずつ任せていこう」 と考えていました。 朝7時から夜11時まで働く。 自分が頑張って、自分が答えを出して、自分が部下に教える。 一見すると、とても責任感の強いリーダーです。 でも、それが結果的に、自分自身の首を絞めていた。 なぜなら、相手の力を信じて引き出すのではなく、自分の答えを先に渡してしまっていたからです。 社外のリーダーには、 「あなたはどう思いますか?」 と問いかけられる。 でも、自分の部下には、 「こうしたほうがいい」 と教えてしまう。 この大きなギャップに、説子さんは気づいていきます。 今回のお話で、私が一番印象に残ったのは、 「正しいことを伝えるだけでは、人は動かない」 ということです。 戦略が間違っているから動かないわけではない。 方向性に反対しているからでもない。 ただ、それが自分にとって何を意味するのか。 自分は何をしたいのか。 自分の仕事はどう変わるのか。 そこまで考える機会がないから、行動につながらない。 だからこそ、上から答えを渡すのではなく、 「あなたにとっては、どういうことですか?」 と問いかける。 そして、その人自身の言葉を引き出していく。 それが、組織を動かす「対話」なのかもしれません。 そして実は、この経験が、説子さん自身の人生を大きく変えていくことになります。 組織を変えようとしていたはずなのに、 最後に変わっていったのは、 「自分自身」だった。 対話の力を知った説子さんは、 「もっと対話やファシリテーションのプロになりたい」 と思うようになります。 そして、その先には、 「会社を辞める」 「独立する」 「自分で仕事をつくる」 という、大きな人生の転換が待っていました。 でも、もちろん、そこから先も順風満帆だったわけではありません。 むしろ、会社員という肩書きを手放したあとに

  5. 8月15日

    #130 コニカミノルタの2000億円事業の撤退。そのとき、広報は何を伝えたのか?河原説子さんの人生物語②

    嵐が去った後に残されたもの コニカミノルタが、2000億円規模のフィルム・カメラ事業から撤退する。 誰もが驚くような大きな決断でした。 当然、社内には大きな動揺が広がります。 長年、その事業に携わってきた人たちにとっては、自分たちの仕事や、これまで積み上げてきたものそのものを否定されたように感じる人もいたでしょう。 社内のあちこちで、怒りや悲しみ、そして会社への不信感が生まれていました。 そんな状況の中で、広報を担当していた説子さんは、どう動いたのでしょうか。 説子さんは当時を振り返って、 「対応できる状況じゃなかった」 と話します。 社員の感情が大きく揺れ動いている。 そんなときに、正論を言っても届きません。 会社の説明を一方的に伝えても、 「それは会社の言い分でしょう」 と受け取られてしまう。 だからこそ、説子さんがまずやったことは、 「聞く」 ことでした。 怒りも、悲しみも、不満も。 まずは社員の声を聞く。 それが、その時にできることだったのです。 しかし、広報である以上、会社として何かを発信しなければなりません。 ところが、何を発信しても、 「会社のプロパガンダだ」 「言っていることは嘘ばかりだ」 と受け止められてしまう。 そこで上司に相談し、たどり着いた答えは、とてもシンプルなものでした。 「とにかく誠実にやる」 社員にアンケートを取り、ネガティブな声も含めて、できるだけそのまま受け止める。 そして、その声に対して会社としてどう考えているのか。 答えられることも、答えられないことも含めて、きちんと説明していく。 もちろん、反対意見もありました。 「答えられない質問が出てきたらどうするんだ」 そんな声もあったそうです。 それでも、説子さんたちは進みました。 社員から出てきた疑問や不安に対して、経営層が描いている「その先」を丁寧に伝えていく。 すぐにすべてが納得されたわけではありません。 それでも、誠実に向き合い続ける。 この姿勢が、少しずつ人の心を動かしていきました。 しかし、ここには一つ大きな壁がありました。 本社から発信される情報は、どうしても「会社からの説明」と受け取られてしまう。 では、どうすれば社員に本当に伝わるのか。 そこで生まれたのが、当時としてはかなり珍しい取り組みでした。 その名も、 「コミュニケーション・コーディネーター」。 各職場から代表者を集め、およそ150人のネットワークをつくったのです。 狙いは、とてもシンプルでした。 本社の人が何を言っても、疑われてしまう。 でも、 「隣の人」 が話してくれたら、少し耳を傾けてもらえるかもしれない。 会社を変えるためには、上から情報を流すだけでは足りない。 現場と現場をつなぐ人が必要だったのです。 もちろん、最初からうまくいったわけではありません。 集まったメンバー自身も、会社に対して疑心暗鬼でした。 「職場の代表として、とりあえず来ているだけ」 そんな空気もあったそうです。 そこで、説子さんたちは一日かけて、とことん対話をしました。 なぜ会社はこの決断をしたのか。 これから会社はどこへ向かうのか。 社員は何に不安を感じているのか。 そして、会社として何ができるのか。 すぐに全員が納得するわけではありません。 それでも、一人ひとりが自分の言葉で考え始める。 そして、そこで得た理解を、それぞれの職場へ持ち帰る。 「本社が言っていたこと」ではなく、 「自分が聞いて、自分なりに理解したこと」 として伝える。 この違いは、とても大きかったのだと思います。 この取り組みは、後に経団連推薦社内報審査で表彰されるほどの成果につながりました。 そして、第1回のコミュニケーション・コーディネーターの会が終わった時。 説子さんにとって忘れられない出来事がありました。 ずっと半信半疑で、この活動を見守っていた上司がいました。 説子さんが、その上司に、 「ありがとうございました」 と声をかけたそうです。 すると、その上司は、ぽつりと一言。 「コーディネーターは、こうでねぇと」 一見すると、冗談のようにも聞こえる言葉です。 でも、説子さんにとっては、この言葉が何より嬉しかった。 「やってきたことを認めてもらえた」 そう感じた瞬間だったといいます。 大きな表彰状や、立派な肩書きではない。 たった一言の、 「こうでねぇと」 という言葉。 でも、その一言が、その仕事の意味を確かにしてくれることがあります。 仕事をしていると、成果が見えない時期があります。 本当にこれでいいのか。 自分のやっていることに意味があるのか。 そんな迷いを抱えながら進んでいるとき、誰かからもらった小さな承認の言葉が、次の一歩を踏み出す力になる。 説子さんの話から、そんなことも感じました。 この経験をきっかけに、説子さんのキャリアはさらに広がっていきます。 広報の仕事から、経営戦略室へ。 社内変革も経営戦略の一部であるという考えから、経営戦略そのものを学ぶことになりました。 さらに、経営戦略について体系的に学びたいと考え、イギリスの大学のオンラインMBAを取得。 その後は人事へ異動し、人や組織の仕組みづくりに携わります。 そして、働き方改革室の立ち上げにも関わることになります。 一見すると、 「広報」「経営戦略」「MBA」「人事」「働き方改革」 と、まったく違う仕事を経験しているように見えます。 でも、説子さん自身は、 「やっていることの本質は変わらなかった」 と振り返ります。 それは、 「会社が変わるために、企業文化をどう変えていくか」 というテーマでした。 部署が変わっても。 肩書きが変わっても。 取り組む仕事が変わっても。 根底にあるテーマは、ずっと同じだったのです。 人生を振り返ってみると、 「あの仕事と、この仕事は関係ない」 と思っていた経験が、実は後になってつながることがあります。 そのときは意味が分からなくても、数年後、十数年後に、 「あの経験があったから、今の自分がいる」 と思えることがある。 説子さんのキャリアは、まさにそんな積み重ねだったのではないでしょうか。 そんな説子さんに、新たな転機が訪れます。 ご縁があり、大手プロフェッショナルファーム、いわゆるビッグ4の一角にある、間接部門の会社へ転職することになったのです。 そこでは、4つの独立した事業ポートフォリオが、それぞれ別々に動いていました。 法律上、一つの会社になることはできない。 でも、せめて連携を強化していきたい。 そこで、バックオフィスなどの間接部門を一つに統合していくプロジェクトが立ち上がり、そのために説子さんへ声がかかったのです。 転職の決め手を尋ねると、説子さんはこう語っています。 「自分が経験してきたことは、すごく特殊だという意識があった。 この経験をもっと伸ばして、同じ課題に直面した人に貢献できないかと思ったんです」 大規模な経営統合。 大きな事業からの撤退。 組織変革。 企業文化の変革。 こうした経験は、誰もが簡単にできるものではありません。 だからこそ、その経験そのものが、説子さんだけの価値になっていったのです。 そして、その価値をさらに伸ばすために、新しい環境へ飛び込んでいく。 これが、説子さんにとっての大きなキャリアチェンジでした。 今回の説子さんの話から、私たちは何を学べるでしょうか。 一つ目は、 「誠実さは、逆境の中でこそ力になる」 ということ。 誰も会社を信じてくれない。 何を言っても疑われる。 そんな状況だからこそ、都合の悪い声も含めて、まず聞く。 そして、分からないことは分からない。 答えられないことは、答えられない。 それでも誠実に向き合う。 その積み重ねが、少しずつ信頼をつくっていくのだと思います。 二つ目は、 「人を動かすのは、必ずしも正しい情報だけではない」 ということ。 本社からの一方的な発信ではなく、 「隣の人」 から伝える。 人と人との間にある信頼が、組織を動かす力になる。 これは、今の時代にも通じる大切な考え方ではないでしょうか。 そして三つ目。 「特殊な経験は、次のキャリアで大きな価値になる」 ということです。 その時には苦しかった経験。 できれば避けたかった経験。 自分にとっては当たり前だと思っていた経験。 それらが、後になって

  6. 8月15日

    #129 「辞めたい」は逃げじゃない。河原説子さんの居場所探しの人生物語①

    河原説子さんは、現在、株式会社コーチャルの代表取締役として、コーチングや組織変革のコンサルティングをされています。 そして、『コーチングスキルで伸ばすリーダー力』という本も出版されています。 そんな説子さんですが、実はキャリアの途中で、何度も「辞めたい」と思っています。 そして、そのたびに人生の方向を変えてきました。 今回の物語のテーマは、 「辞めたい」は逃げじゃない。 説子さんは東京生まれ。 でも、「東京生まれ」と聞いてイメージする都会っ子とは、ちょっと違います。 東京の西のはずれ、山に近い場所で育ち、家の庭には柿の木がありました。 子どもの頃は、その柿の木によじ登る。 そして、歩いて15分ほどのところに川があり、男の子たちに混じって、崖から川へ飛び込んでいたそうです。 まさに、お転婆で活発な女の子。 そんな自然の中で、説子さんはのびのびと育ちました。 ところが、中学を卒業して進学した先で、人生最初の大きな壁にぶつかります。 説子さんは中学時代まで、数学が得意でした。 だから、 「私は絶対に理系だ」 そう思っていた。 そして、理数系で有名な高専へ進学します。 ところが、そこで待っていたのは、これまで感じたことのない劣等感でした。 周りには、自分以上に理系が得意な人たちがたくさんいる。 実験も夜8時まで続く。 そして何より驚いたのが、周りの学生たちが実験の話を「雑談」のようにしていることでした。 「昨日、お風呂に入っているときにこんなこと思いついたんだよね。今日、試してみたいんだ」 そんな会話が普通に飛び交っている。 一方、説子さんは、 「仕事が終わった。やった!」 という感覚だった。 そこで初めて、 「私って、思っていたほど理系が好きじゃないのかもしれない」 と気づきます。 得意だと思っていたものでも、環境を変えると、自分より得意な人がいる。 そして、 「得意」と「好き」は違う。 このことを、説子さんは若い頃に体験していたんですね。 そんな経験もあり、説子さんは大学へ進学せず、就職を選びます。 入社したのは、コニカミノルタ。 ところが、なんと配属されたのは研究開発部門でした。 「実験は嫌いだし、理数系もそんなに得意じゃない。このままここを突き詰めてもな……」 そう思いながら仕事をしていたそうです。 そして3年目。 ついに上司に、 「辞めます」 と伝えました。 ここで、人生を変える一言がありました。 上司は、 「辞めなくていいんじゃないか?」 と言った。 そして、 「せっかく大きな会社に入ったんだから、転職したと思って、社内で異動してみたら?」 と提案してくれたんです。 そして説子さんが異動したのは、営業本部のマーケティング部。 研究開発とは、まったく違う世界です。 すると、 「なんか、自分に合う」 そう感じた。 仕事が楽しくなっていったんです。 ここに、説子さんの人生から学べる大きなことがあります。 自分がダメなのではなく、場所が合っていないだけかもしれない。 同じ人でも、場所が変われば、まったく違う力を発揮することがあります。 そして、この異動は説子さん一人の力で実現したものではありません。 上司が人事に掛け合い、当時始まったばかりだった社内公募制度「チャレンジ・ジョブ」の一期生として、異動の道をつくってくれた。 つまり、 「辞めたい」 という気持ちを否定するのではなく、 「じゃあ、別の場所を探してみよう」 と、一緒に考えてくれる人がいたんです。 説子さんの人生には、こうした「味方」が何度も登場します。 マーケティング部門で約10年間仕事をした説子さん。 順調に見えるキャリアでした。 ところが、フィルムカメラ事業の業績悪化に伴い、事業が縮小。 説子さんも別の部署へ異動することになります。 会社としては、人員整理をしなければならない状況の中で、説子さんのためにポストをつくり、異動先を用意してくれた。 普通なら、 「ありがたい」 と思うところです。 でも、説子さんは正直に、 「つまらないな」 と思ってしまった。 そこで、今度は新しい専門性を身につけようと考えます。 当時できたばかりだった、理学療法士・作業療法士というリハビリ専門職に興味を持ち、夜間の専門学校に通い始めます。 仕事をしながら、3年間。 そして、いよいよ実習というところまで進みました。 ところが、そこでまた立ち止まります。 「これ、本当に私がやりたかったことなのかな?」 ちょうどその頃、以前マーケティング部門で一緒だった先輩から声がかかります。 「広報部門で誰かいないか?」 説子さんは、 「1年間だけなら」 という条件で、広報の仕事を始めます。 ところが、働いてみると、 「これ、すごく自分に合っている」 と感じた。 そして、3年間通った専門学校を、残り1年というところで辞める決断をします。 ここは、かなり大きな決断ですよね。 これまで払ってきた学費もある。 3年間の努力もある。 あと1年で資格が取れる。 それでも、 「こっちじゃない」 と思ったら、方向を変える。 ご主人は、そのとき何も言わずに見守ってくれたそうです。 後になって、 「あのとき、本当にその道でいいのかなと思っていた」 と本音を聞かされた。 それでも、説子さんの決断を信じてくれた。 ここにもまた、「味方」がいました。 説子さんが広報部門に異動したのは、2003年1月1日。 ところが、そのわずか数日後。 1月5日、コニカとミノルタの経営統合が発表されます。 異動したばかりで、まだ右も左も分からない。 そんな状態で、いきなり会社を揺るがす大きな変革の真ん中に放り込まれたわけです。 社員は不安になる。 「これから会社はどうなるんだ?」 「自分たちはどうなるんだ?」 さまざまなネガティブな感情が社内に広がっていきます。 ところが、説子さんは、この仕事を 「めちゃくちゃ楽しかった」 と振り返ります。 なぜでしょうか。 それは、説子さんが経営陣の話を直接聞く立場にいたからです。 経営者がなぜその決断をしたのか。 その背景には何があるのか。 それを理解できる。 一方、現場の社員は、その背景が分からない。 だから、 「なんでこんなことをするんだ」 「これから大変だ」 と、不安や怒りが広がっていく。 その様子を見て、説子さんはこう思いました。 「こんなにすごい人たちがたくさんいるのに、そのエネルギーがネガティブな方向に向かってしまうのは、もったいない」 これだったんです。 説子さんを突き動かしていたもの。 それは、 「もったいない」 という感覚でした。 人が持っている力が、うまく発揮されていない。 その状態が、もったいない。 だから、その力を前向きな方向へ向けたい。 これが、後の組織変革やコーチングにもつながっていく、説子さんの原点だったのかもしれません。 ところが、経営統合から数年後。 2006年、さらに大きな発表がありました。 会社の創業事業ともいえる、フィルム・カメラ事業からの撤退です。 関係する社員は約3,000人。 売上高は2,000億円規模。 会社の看板ともいえる事業でした。 当然、社内は大きく揺れます。 当時は、まだ紙の社内広報誌が中心の時代。 印刷から社員に届くまでには、1か月ほどかかります。 そのため、発表のタイミングと社内報の内容がずれてしまう。 そして、説子さんが作った社内報を社員が受け取った瞬間、 ビリビリに破って、ゴミ箱に捨てる。 そんな光景まで目の当たりにします。 上司のところには、部門長クラスの社員が抗議に来る。 会社を愛しているからこそ、怒る。 会社を良くしたいからこそ、納得できない。 そんな人たちの感情が、社内に渦巻いていました。 説子さんは、この状況にどう向き合ったのか。 どうすれば、人々のネガティブな感情を、前向きなエネルギーに変えられるのか。 ここから、説子さんの「組織変革」の物語が本格的に始まっていきます。 今回、説子さんの人生から私が感じたこと。 それは、 「辞めたい」と思ったとき、必ずしも人生を捨てる必要はない。 ということです。 辞める。 転職する。 もちろん、それも選択肢です。 でも、その前に、 「今いる場所の中で、別の場所に行けないか?」 「誰かに相談できないか?」 「自分の力が発揮できる場所は、ほかにないか?」 と考えてみる。 説子さんは、何度も「

  7. 8月3日

    #128 なぜ『教えない人』ほど、チームを前に進められるのか?ダメ出しを止めた白神さんの人生物語②

    「それじゃあダメですよ」 かつての白神さんは、間違いなくそう言うタイプの人間でした。 企画のプロとして、良かれと思ってアドバイスをする。ダメ出しをする。それが仕事だと信じていました。 でも、ある日を境に、彼は「教えること」をやめました。 代わりに始めたのは、ただ問いかけること。「どうなったらいいと思いますか?」「なぜそれをしたいんですか?」――それだけです。 すると、不思議なことが起きました。相手が、勝手に前に進み始めたのです。 アドバイスをやめた企画マンは、なぜチームを動かせるようになったのか。 今回は、そんな白神さんの人生を追いかけます。 1.役職定年まで、あと1年 53歳で役職を離れる。ソニーにはそういうルールがあった。 その現実まであと1年と迫ったお正月、彼は「何かやらなきゃ」という焦りだけを抱えて、創業支援セミナーの扉を叩く。 半分本気、半分好奇心。 そこで彼は気づく。自分には「企画を立てる力」がある、と。 企業のコンサルとして、若手起業家たちに企画書の作り方を教え、市場性を調べ、コンセプトを言語化する。 「これ絶対コンサルできますよ」と、何人もの人に太鼓判を押された。 順調に見えた。 2.アドバイスは動かなかった 「いい企画ですね」「さすがですね」 アドバイスした企画は、いつも感心された。 けれど次に会うと、何も進んでいない。 関係性はギクシャクし、空気は硬くなっていく。 ——なんか、違う。合わない。 役職定年を目前に控え、積み上げてきたはずのものが、音を立てて崩れていくような感覚。 彼はそれを「これが自分の天気(転機)になった」と振り返る。 3.そのとき、ある一言が刺さった 「白神君、そういう活動したいんだったら絶対コーチング勉強した方がいいですよ」 クライアントの役員から放たれた、ほとんど"ダメ出し"のような一言だった。 自分はこんなにも喋るのが好きで、教えたがりで—— コーチには一番向いていないタイプだと思っていた。 それでも、その晩、彼は自宅で検索する。「コーチング 横浜」。 そして、銀座コーチングスクール横浜校の無料体験講座に、迷わず申し込んだ。 4.コーチング体験講座で、人生は静かに反転する 講師はただ、こう尋ねただけだった。 「白神さんは、どうしたらいいと思いますか?」 アドバイスもされない。教えられもしない。ただ、聞かれる。 答えているうちに、彼の中で何かが起こり始める。 「あ、自分はこうしたかったんだ」 「あ、これでよかったんだ」 これこそが、心理学でいう"オートクライン効果"——自分の言葉を自分の耳で聞くことで、自分自身が気づいていく現象。 彼はその瞬間、確信する。 5.「これが、コーチングなのか」 そしてもう一つ、腑に落ちたことがあった。 ソニー時代、大金を払って外部コンサルが立てた企画が、結局あまり進まなかった光景を、彼は何度も見てきていたのだ。 企画を"立ててあげる"仕事より、企画を"引き出す"仕事の方が——自分にも、相手にも効く。 6.ソニー、コンサル、そしてコーチング 一見バラバラに見えるこの3つの経験は、実は一本の線でつながっている。 「人に言われてやるのがダメ」で、「自分で決めてやらないと気が済まない」——そう語る彼の「新しいものを求め続ける価値観」は、ソニーという自由な会社でこそ育まれ、企画コンサルという回り道を経て、コーチングという答えにたどり着いた。 遠回りに見えたものが、実はいちばんの近道だった。そこから彼は、大胆な決断をします。アドバイスすることを、やめたのです。代わりに、ひたすら問いかけました。「どうなったらいいと思いますか?」 「なぜそれをしたいんですか?」「この会社は、どうなっていきたいんですか?」すると――相手が、勝手に前に進み始めたのです。 モチベーションが上がり、関係性が良くなり、白神さんが企画を考える必要すらなくなっていく。この体験が、彼の人生を大きく方向づけることになります。 7.「1対1」で終わらなかった、彼の探究心 多くのコーチが「1対1」のコーチングを学ぶ中、白神さんは違いました。商品企画時代、彼が向き合っていたのは常に「チーム」でした。 だからこそ、個人へのコーチングだけでは物足りなかったのです。そんな時に出会ったのが「チームコーチング」。 当時の日本ではまだほとんど知られていなかった概念。 ピーター・ホーキンズという人物の分厚い専門書を、難解な部分に苦しみながらも読み込み、 「これこそ自分がやりたかったことだ」と確信します。チームという存在そのものをクライアントとして扱い、関係性を育みながら、目標に向かうタスクを支援していく。数少ない情報を求めてセミナーに参加し、電子書籍を探し、講座に足を運び―― 彼は独学に近い形で、日本でもまだ珍しい「チームコーチ」としての道を切り拓いていきました。 8.ベテラン世代の経験は、宝物である インタビューの終盤、白神さんはある熱い思いを語ります。人生100年時代。 役職定年、そして65歳での定年――まだまだ働きたい、社会の役に立ちたいと願うベテラン世代がたくさんいる。彼らが積み重ねてきた成功も失敗も、苦労した経験も、すべてが日本にとっての宝だ。もしその経験を、初めての挑戦に踏み出す若手やプロジェクトチームに、「アドバイス」ではなく「コーチング」という形で還元できたら――若手はどんどん前に進み、ベテランは感謝される存在になり、やる気を取り戻す。 そんな好循環が生まれたら、企業も、社会も、もっと良くなっていくのではないか。大きなことは言うつもりはない、と前置きしながらも、白神さんはこの思いを本気で語ってくれました。 白神さんの人生に、耳を傾けてみませんか 『人生配信オンリーワン』は、一人ひとりの人生の転機と選択を、 じっくりと物語として届けるラジオ番組です。今回の白神さんの回は、 「教える」ことに疑問を持ったことがあるすべての人へ贈る一本です。 出演:白神 敬太さん株式会社プリミス代表取締役新規事業開発・商品開発プロジェクトチームコーチ銀座コーチングスクール横浜校講師同スクール、チームコーチング講座代表講師著書:実践プロジェクトチームコーチング〜自ら成功を勝ち取るチームの作り方〜』(産業能率大学出版部)

  8. 8月2日

    #127 ジャズが教えてくれた、最強のチームの作る白神さんの人生物語①

    大阪・泉大津のなんの特徴もない「ちょっと大人しい子供」。 スポーツもできない。目立つところもない。 そんな少年が、高校の軽音楽部の"付き添い"でたまたま迷い込んだ場所で人生が動き出した。 譜面通りに吹くクラシックではなく、決まりの中で「自分の個性」を出していくジャズ。 そこで芽生えた感覚が、40年後——新規事業開発・商品開発の現場で「チームコーチング」という手法を武器にする、今の白神さんの原点になっているとしたら。 あなたは信じられますか? 大学は"入りたいバンド"のためだけに選んだ 早稲田大学。理系。 聞こえはいいですが、本人いわく「ラジオで聴いたビッグバンドの演奏がかっこよすぎて、記念受験のつもりで受けたら奇跡的に受かった」だけ。 入学後は勉強そっちのけでバンド漬け。試験は仲間内たちに助けられ「8割カンニングで卒業した」と本人が笑って振り返るほどの学生時代。 ——普通なら、ここで人生の歯車が狂ってもおかしくありません。 バブル最後の年、ギリギリで滑り込んだソニー 理系なのに理系らしい勉強はしていない。学科の成績は下から数えて3番目。 それでも「メーカーで音楽に関係していそうだから」というほとんど根拠のない理由でソニーの商品企画職を志望し、まさかの内定。 そこから28年。 小さな記録メディア(オーディオテープ、MD、USBメモリー)の商品企画から、業務用の映像配信システムまで。 決して華やかなバイオやテレビ事業の花形ではない場所で、白神さんは「幅広く、泥臭く」現場を渡り歩いていきます。 そして2020年、役職定年のタイミングで卒業。 なぜ「コモディティ商品の企画マン」が、 コーチングの世界へ? ここが今回のエピソード最大の見どころです。 ソニー時代、コーチングという言葉すら存在しませんでした。本人も番組の中で「その頃はコーチングなんて、この字もなかった」と語っています。 にもかかわらず、白神さんは今、 • 銀座コーチングスクール横浜校で講師を務め • 業界でもまだ数少ない 「チームコーチング」講座を自ら立ち上げ、代表講師を務め • 今年4月には 『実践プロジェクトチームコーチング〜 自ら成功を勝ち取るチームの作り方〜』 (産業能率大学出版部)を出版 一体、28年間の会社員人生のどこで、その転換点が訪れたのか? ジャズバンドで培った「決まりの中での自由」「アンサンブルと個性のバランス」は、どうやって企業のチームづくりの理論に結びついたのか? その答えは、本編でじっくり語られています。 こんな方にこそ聴いてほしい • 「好きなことに全力投球した学生時代」が、 まさか今の仕事に繋がるとは思っていなかった人 • 会社員としてのキャリアの"後半"に、 これまでと違う何かを始めたいと感じている人 • チームをまとめる立場にあり、 「個人プレーと協調」のバランスに悩んでいる人 • 「意外と普通の子供時代だった」自分にも、 まだ気づいていない転機があるかもしれないと思いたい人 大きな挫折も、劇的な成功譚もありません。それでも—— 白神さんは自身のキャリアをこう振り返ります。 「ちっちゃい苦労はしてるけど、大きな苦労はあまりしてないかもしれない。それも、捉え方・マインド次第」 派手な失敗談も、逆転劇もない。あるのは、「好きなことに没頭した時間」への一貫した感謝と、その延長線上に自然と築かれてきたキャリアです。 だからこそ、この話は特別なリーダーだけの話ではありません。誰の人生にも当てはまる、「好きなものが、気づけば今の自分を作っていた」という物語です。 あなたの"ジャズ"は何ですか? 高校時代、大学時代に夢中になったこと。一見、今のキャリアとは何の関係もなさそうなあの時間。 それが実は、今のあなたを形づくる 土台になっているとしたら—— 白神 敬太さんの人生を辿るこのエピソードは、あなた自身の人生を振り返るきっかけにもなるはずです。 『人生配信オンリーワン』、ぜひ本編でお聴きください。出演:白神 敬太さん株式会社プリミス代表取締役新規事業開発・商品開発プロジェクトチームコーチ銀座コーチングスクール横浜校講師同スクール、チームコーチング講座代表講師著書:実践プロジェクトチームコーチング〜自ら成功を勝ち取るチームの作り方〜』(産業能率大学出版部) #白神 敬太#チームコーチング#コーチング

番組について

特別な人でなくても、一人ひとりに価値 ① 1人1人素敵なものを持ち、1人1人違う人生を歩んでいる。でも、みんな気付いていない、、 だから、あなたのオンリーワン(失敗、成功、キャリア、価値観など)を発信します。 世の中には色々な人、考え方、価値観を知ることができます。 「自分は狭い世界で生きていたな~。こんな人生もあるんだ」と自分を変えるキッカケ、感動、刺激、楽しい人生になると最高です。 ② この番組は、有名人ではなくとも、身の回りの方々の物語を紡ぎ出す特別な番組です。 私たちの周りには、スポットライトを浴びることのない素晴らしい人生が無数に存在しています。 「オンリーワン」は、そんな"普通の英雄たち"の物語を、深い対話を通じて紡ぎ出していきます。ここでは、テレビでは決して語られることのない、人生の真実の物語が展開されます。 ③ 番組の特徴的なのは、単なるインタビューではなく、国際コーチICF資格を持ったプロのコーチとの深い対話を通じて、ゲスト自身も気づいていなかった自分の価値や人生の意味を掘り起こしていくところ。 ④ さらに、この番組はゲストの方の「人生の名刺」としても活用できます。自分の価値観や生き方を、音声という温かみのある形で残すことができるのです。 ⑤ テレビや雑誌では決して語られることのない、しかし確かにそこにある輝かしい人生の物語。それがオンリーワンです。