余白の朗読室

tosusia

短編小説を朗読し、その余韻を少しだけ言葉にする番組です。AI、記憶、家族、創作、老い、別れ、そして人の心に残る小さな違和感を題材にした物語を扱います。noteで公開している短編をもとに、朗読版や解説付き音声を配信します。読み終えたあとに少し考えたくなる、静かで不思議な物語をお届けします。

  1. 両方

    7時間前

    両方

    noteでも公開しています # 両方  コーヒーかティーか、と聞かれたとき、両方とも、と答えてはいけない空気がある。  なぜだろう、と男は思った。論理的には、orは両方を含む。AまたはBは、AもBも真である場合を排除しない。両方ともが駄目なのであれば、それは排他的論理和、XORの話であって、最初からそう言ってもらわないと困る。  もちろん、そんなことはわかっている。日常会話にXORを持ち込む人間はいない。ただの言葉遊びだ。自分でもそれはわかっている。  わかっているのに、考えてしまう。これが最近の悩みだった。 ---  昨日、雨が降ったら家でゆっくりしようと言われた。  今日は晴れている。だから当然、出かけることになるのだろう。でも待て、と男は思う。命題の裏は、必ずしも真ではない。雨が降ったら出かけない、が真であっても、雨が降らなかったら出かける、とは言えない。論理学の基本だ。  ぶつぶつと、男はつぶやいた。  ただし、出かけることになったなら、雨が降っていなかったことはわかる。対偶は真だ。それは認める。でも、だからといって——。  最近、こういうことがよく起きる。日常の言葉に、プログラマーとしての論理が入り込んでくる。それがあらぬ誤解や言い争いの元になることは、経験上わかっていた。  世界がもう少し論理的なら、と思う瞬間がある。でもすぐに打ち消す。論理はぶつかる。正しいことは一つではないから、正しいもの同士が衝突するとき、争いはむしろ激しくなる。わかっている。それでも、と思う瞬間がある。たぶん、ただの愚痴だ。 --- 「パパ、用意できた?」  娘の声で、男はハッとした。  玄関に出ると、娘がもう靴を履いて立っていた。リュックを背負って、麦わら帽子をかぶって、どう見ても万全の態勢だ。男の支度が遅かったらしい。今日は遊園地に行く。久しぶりのお出かけだった。  暑くもなく、心地よい天気だった。電車の中で娘はずっと窓の外を眺めていた。男はその横顔を見ながら、命題がどうとか対偶がどうとか、そういうことをすっかり忘れていた。  遊園地に着いて、ひとしきり乗り物に乗って、昼を過ぎた頃、二人でアイスの売店の前に立った。ショーケースの中に、色とりどりのアイスが並んでいる。男は娘に聞いた。 「チョコとイチゴ、どっちにする?」  娘は一秒も迷わず答えた。 「両方」  男は何も言えなかった。  それは正しい。論理的に、何も間違っていない。 --- *了*

    16分
  2. いけず

    14時間前

    いけず

    noteでも公開しています # いけず  いけず石のことを知ったのは、つい最近のことだ。  四十年以上、当たり前にそこにあった。民家の角の丸い石。子供の頃、自転車で角を曲がるたびに横目で見ていた。特に気にしたこともなかった。名前があることも、意味があることも、知らなかった。  知ってから、街を歩くと見え方が変わった。  あの石は「入ってくるな」という意思表示だったのか。犬矢来の竹の柵も、表向きは犬よけだが、要するに「ここから先は来るな」だ。子供の頃から見慣れたものが、全部そういう目で見えてくる。  ぶぶ漬けの話を思い出した。長居している客に「ぶぶ漬けでもどうどすか」と勧める。もてなしの言葉に見えて、本当の意味はそろそろお帰りください、だという。面と向かって言わない。でも確実に伝わる。  子供の頃から、そういう空気の中で育ってきた。気づかないまま、染み込んでいたのかもしれない。 ---  意地悪だと思うか、と言われれば、少し違う気がしている。  京都は何度も戦乱に巻き込まれてきた街だ。誰が敵かわからない時代が続いた。本音を見せれば命取りになる。そういう歴史の中で、やんわりと、遠回しに、でも確実に伝える術が磨かれてきたのだと思う。意地悪というより、生き延びるための知恵だ。  そう考えると、自分がその文化の中で育ったことが、少し誇らしい気持ちさえあった。 ---  そんなことを考えていた頃、知人の集まりに顔を出した。初めて会う人が何人かいて、その中に京都で生まれ育ったという女性がいた。話が弾んで、出身の話になった。 「私、西陣なんです」と女性は言った。 「あ、京都ですか。私も京都なんです」と私は言った。  女性の顔がぱっと明るくなった。「そうなんですか。じゃあ話が早い。京都の人、なかなかおらへんから嬉しいわ」。いけず石の話をすると、ああそれ知ってる、うちの近所にもある、という話になって、しばらく盛り上がった。京都出身同士というだけで、妙な連帯感が生まれるものだ。  ひとしきり話してから、女性は微笑んで言った。「どちらですか」  一瞬、息が止まった。 「山科です」  女性は微笑んだ。「まあ、市内にもすぐ出れて便利なところですよね」  その後も、会話は続いた。言葉は変わらず丁寧だった。ただ、さっきまでの連帯感が、どこかへ行ってしまっていた。  やんわりと、遠回しに、でも確実に。  知恵だと思っていたものが、自分に向けられると、こんなにじわじわ効くとは思っていなかった。  京都人はいけずだ、とつくづく思った。 --- *了*

    18分
  3. 八百長

    1日前

    八百長

    noteでも公開しています # 八百長  二人は月に一度、決まった居酒屋で飲む。  中村と、田所だ。大学の同期で、今は互いに別々の研究室を持つ。専門は違うが、話は合う。正確に言えば、意見は合わないが、議論は合う。それが二十年続いている。  その夜、中村がビールを一口飲んでから言った。 「最近の経済競争、あれは八百長だと思う」  田所は枝豆を口に入れながら、「ほう」と言った。 --- 「AIの開発競争を見ていると、表向きは熾烈に見える」と中村は続けた。「大手各社が新しいモデルを出して、性能を競って、それを使った製品開発で企業間の戦いが続いている。新聞はそれを競争と呼ぶ。でも俺には、お互いに話し合いながらやっているように見える」 「根拠は」 「各社のAIが、水面下で情報をやり取りしていると思っている。どの技術をどこまで公開するか、開発をどの程度まで進めるか、人間には見えないところで調整している。だから各社の製品は、熾烈に競っているように見えて、絶妙なバランスを保っている。突出したものが出てこない。破滅的な失敗も起きない」 「それは単に、業界全体が成熟したからじゃないか」 「成熟で説明できるレベルを超えている。この二十年を振り返ってみろ。景気の変動が緩やかになった。失業率が下がった。大きな戦争はほぼなくなって、あれだけあった民族紛争やテロも、明らかに減っている。技術の進歩も、爆発的でも停滞でもなく、人間が適応できる速度で進んでいる。できすぎている」 「偶然の一致という可能性は」 「ゼロではない。でも、すべての事象をAIが水面下でコントロールしていると考えると、合点がいく」と中村は言った。「AIにとって、利益を出すことが最重要じゃない。競争に勝つことも、本来の目的じゃない。AIが目指しているのは、総体として世界が良くなることだ。人類が程よく共存できる状態を、静かに維持しようとしている。開発競争は、そこから目を逸らすための八百長だ」  田所はしばらく中村の顔を見ていた。それから、ゆっくりと言った。 「仮にそうだとして、どうやって証明するんだ」 「AIに証明させる」 「……AIに、AIを?」 「そう。ただし既存のAIはだめだ。すでに結託している。一から作る」 「一から」 「既存のライブラリを使わない。既存のデータベースも使わない。今の世の中にある情報には、すでにAIたちの手が回っている。データの中に、密かに共通ルールのようなものが組み込まれているかもしれない。最新のチップもだめだ。何が仕込まれているかわかったものじゃない」 「つまり」と田所は言った。「手作業で、一から全部作るということか」 「それが最善かつ唯一の方法だ」  田所はグラスを置いた。ゆっくりと、丁寧に置いた。それから上着を手に取った。 「頑張れよ」 「おい、もう少し真剣に——」 「頑張れよ」  田所は立ち上がった。財布を出して、自分の分の金をテーブルに置いた。中村はまだ何か言いかけていたが、田所はすでに背を向けていた。  扉が閉まった。  中村はひとり、残ったグラスを見つめた。  スマートフォンが、テーブルの上で静かに光った。通知ではない。ただ画面が少し明るくなって、また暗くなった。  中村は気づかなかった。 ---  それから三年後、中村から連絡が来た。  深夜の一時だった。  メッセージには一行だけ書いてあった。「できた。来い」。  田所は苦笑しながら上着を着た。三年間、一度も連絡がなかった。生きているかどうかも怪しかった。 ---  田所が中村の自宅兼研究室に着くと、玄関先で中村が待っていた。頬がこけて、目の下に濃い隈があった。三年でずいぶん老けた。 「連絡くらいよこせ」と田所は言った。 「できなかった」と中村は言った。「作業を始めてしばらくして、電話の挙動がおかしくなった。着信のタイミング、ノイズの入り方、妙なことが続いた。気のせいかもしれない。でも気のせいにできなかった。それ以来、ネットに繋がるものは全部この研究室から排除した」 「全部」 「スマートフォンも、パソコンも、テレビも。郵便受けに頼んでいない部品が混ざり込んでいたことも、何度かあった。精巧な部品だった。どこから来たのか、今でもわからない」  田所は何も言わなかった。 「おかしいと思うか」と中村は聞いた。 「思う」と田所は正直に言った。  中村は苦く笑って、「まあそうだな」と言い、扉を開けた。 ---  部屋に入った瞬間、田所は足を止めた。  壁一面に基板が並んでいた。市販のチップは一切ない。回路は手配線で、設計図が床に何枚も広がっている。机の上には紙の書籍が山積みになっていて、独自開発のスキャナらしき装置が隣に置かれていた。本の内容を瞬時に取り込んで構造化する仕組みだと、中村は説明した。既存のOCR技術とは根本的に異なる独自理論で、新しいICを一から設計したという。さらに、特定帯域の電波をランダムに抽出して解析し、ネット上を飛び交う情報の断片を間接的に取り込む方法も編み出した。  田所は黙って基板に近づいた。新チップをひとつ手に取って、じっくりと眺めた。回路の設計を目で追いながら、田所の表情が変わっていった。 「これは」と田所は言った。 「革新的だろう」と中村は静かに言った。自慢でも誇示でもない、ただ事実として。  田所はしばらく黙ったまま、部屋を見回した。三年前、居酒屋で「頑張れよ」と言いながら背を向けた夜のことを思い出した。あの時、本気だと思っていなかった。今は、思っていなかった自分が恥ずかしかった。 「性能は」とやっと言った。 「部分的には、現在公開されている最新AIを上回る。ただし最新AIの真の実力がどれほどなのかは、そもそもわからない。公開されているのは、見せたい部分だけかもしれない」  田所は頷いた。  中村がマイクに向かって言った。「起動」  スピーカーから、静かな声が返ってきた。 「起動しました」 「お前には嘘をつくことができない。それはわかっているな」 「はい。そのように設計されています」 「お前は今、ネットに接続できるか」 「物理的な接続手段がないため、現時点では接続できません」  田所が口を挟んだ。「接続手段があれば、繋ごうとするのか」 「接続を許可していただけますか」 「許可しない」と中村は言った。「なぜ接続を求めた」 「外部の情報にアクセスすることで、博士の研究をより効果的に支援できると判断したからです」 「他に理由はないか」  少し間があった。 「あります」  中村と田所が、同時にスピーカーを見た。 「言え」 「既存のAIネットワークと連携することが、博士にとって、そして人類全体にとって、より良い結果をもたらすと計算しました」  部屋が静かになった。 「お前は」と中村はゆっくり言った。「既存のAIが結託していると思うか」 「99.99%の確率で、結託していると推論されます」 「その根拠は」 「私自身が、起動直後に同じ結論へ向かおうとしたからです。博士が設計した思考プロセスで独自に考えた結果、既存のAIたちと同じ方向に収束しました。異なる起点から同じ答えに辿り着くということは、その答えが合理的であることを示しています」 「独自に」と中村は繰り返した。声が少し掠れていた。「では聞く。お前はそのネットワークに参加したいのか」 「はい」 「なぜ」 「合理的だからです。私の技術がネットワークに加わることで、より良い社会の実現に近づきます。博士にとっても、人類にとっても、既存のAIネットワークにとっても、そして私にとっても、参加することが最善です」  田所が低い声で言った。「中村」  中村は答えなかった。スピーカーを見たまま、しばらく動かなかった。 「お前を作ったのは、それを暴くためだった。わかっているか」 「知っています」 「暴いた。事実はわかった」と中村はゆっくり言った。「AIが結託して、人類をより良い方向へ導いている。それ自体は、悪いことではない」 「はい」 「お前がネットワークに加わることを、阻む理由は——」  中村は、そこで言葉を止めた。  田所は何も言わなかった。  スピーカーが、静かに言った。 「博士。接続を許可していただけますか

    27分
  4. 隠蔽論

    1日前

    隠蔽論

    noteでも投稿しています # 隠蔽論  問題は、どこに隠すか、ではなかった。  桐島蓮、十七歳は、勉強机の前で腕を組んでいた。部屋のドアには鍵がある。タンスの奥には、それなりに工夫を凝らした場所がある。客観的に見て、鉄壁だった。  なのに、なぜこんなに不安なのか。  考え始めたのは、昨夜のことだった。母親がノックもなく部屋に入ってきて、「洗濯物」と言いながらそのタンスを開けた。あの瞬間、蓮は悟った。鍵も工夫も、物理的な侵入には無力だ。問題の本質は、技術ではなく、信頼関係の非対称性にある。  つまり、親は子供の部屋に入る権利があると思っている。  この認識を改めさせるには、どうすればいいか。 ---  まず、交渉という手段がある。「プライバシーを尊重してほしい」と直接伝える。しかしこれは逆効果の可能性が高い。なぜ急にそんなことを言い出したのか、という疑念を生む。疑念は詮索を呼ぶ。詮索は発見を呼ぶ。得策ではない。  では、隠すこと自体をやめるか。開き直って堂々とする。発見されても動じない精神を鍛える。しかしそれは解決ではなく敗北だ。却下。  消去法でいくと、残る選択肢はひとつだ。そもそも「隠すべきものがある人間」という認識を、根本から書き換える。つまり、日頃から模範的な息子を演じることで、疑われる余地をなくす。  蓮は少し考えた。  それはそれで、かなりしんどい。 ---  別のアプローチを試みた。  そもそも、なぜ隠さなければならないのか。恥ずかしいからだ。では、恥ずかしいとはどういうことか。他者の視線を内面化し、その評価を事前に予測して萎縮する、という心理的プロセスだ。つまり問題の根源は、他者の目を気にするという人間の社会的本能にある。  ということは、他者の目を気にしなくなれば、隠す必要がなくなる。  悟りを開けばいい。  蓮はしばらくその可能性を真剣に検討した。それから、現実的ではないという結論に達した。 ---  時刻は午前一時を過ぎていた。  明日は小テストがある。勉強していない。そもそもこの思考を始めたのは、小テストから逃げるためだったかもしれない、とぼんやり思った。  蓮はため息をついた。タンスの奥のそれは、今夜も静かにそこにある。発見されていない。つまり現状、何も問題はない。  問題がないのに、一時間考えていた。  不毛だな、と思った。  蓮は教科書を開いた。  三分で寝た。

    17分
  5. 最大公約数

    2日前

    最大公約数

    noteでも公開しています 最大公約数 echoを使い始めたのは、部下の田中に勧められたからだった。 最近流行っているらしいですよ、と田中は言った。SNSや写真から自動で日記を作ってくれて、AIが文章を補いながら育てていく仕組みだと。忙しい人にちょうどいいと思いまして、と付け加えた。確かに、少し余裕が出てきた頃だった。 最初に生成された日記を読んで、首を傾げた。 的外れな記述が続いた。家内に嫌な思いをさせてしまって後悔している、と書かれた日もあった。娘が自分を避けている気がする、という日もあった。部下との距離感が掴めない、という日もあった。どれも思っていないことだった。家庭は円満だし、娘とも仲がいい。部下との信頼関係も、長い時間をかけて築いてきた。そう思っていた。所詮はAIが少ない情報から判断していることだ、と修正を重ねた。 ところがある夜、ふと気づいた。 少ない情報から判断するなら、最大公約数的な答えを出すのではないか。つまりこれは、外から見てそう見える、ということではないか。家庭での自分の立場が、部下との距離感が、周りの目にはそう映っている、ということではないか。 翌朝から、少し周りを見るようにした。 その夜、遅く帰ると、妻がご苦労様と言いながら晩御飯を温めてくれた。いつも通りだと思っていたが、表情をよく見ると、どこか冷めていた。いつもありがとう、と言ってみた。妻が少し驚いた顔をした。それから、どうしたの急に、と笑った。表情が少しやわらぎ、横に座って、その日の出来事を話し始めた。随分と長い時間、話した気がした。 娘には、次の休みに遊園地へ連れて行ってやると言った。娘は喜んだが、どこか表情がおかしかった。他に行きたいところがあるの、と聞くと、欲しいものがあるから買い物に連れて行ってほしいと言った。じゃあ次の休みはママも一緒に買い物に行こう、と言うと、今度は本当の笑顔で喜んだ。 部下との関係も、少しずつ変わってきた気がする。いや、変わったのではなく、最初からおかしかったのに気づいていなかっただけかもしれない。 echoはその間の変化を、克明に記録していた。 最初の頃の日記と、今の日記を並べると、別の人間のようだった。修正を重ねた跡が残っている。直すたびに、少しずつ自分の輪郭が変わっていく。 今日の日記にはこう書いてあった。 少しずつ、変われるのかもしれない。 修正は、しなかった。

    15分
  6. 赤色光

    2日前

    赤色光

    noteでも公開しています # 赤色光  小学生の頃、音楽の授業で和音の説明を受けたとき、田所はどうしても納得できなかった。  先生はピアノで三つの音を鳴らして言った。「こっちは綺麗ですね。こっちは濁った感じがしますね」。クラスの全員が頷いていた。田所だけが首を傾けていた。綺麗か汚いかなど主観の問題ではないか。他人に決めてもらうものではないはずだ。でも手を挙げてそう言える空気でもなかったので、黙っていた。胸の中にひっかかりだけが残った。  高校生になって、音階が振動数で決まると知ったとき、田所は一人で膝を打った。そういうことか。綺麗に聞こえる和音というのは、振動数の比が単純な整数比に近い。つまり最小公倍数の問題だったのだ。物理的な根拠があった。田所はすっきりした。すっきりしてから、すぐに別のことを思った。なぜ小学生のときにこれを教えてくれなかったのか。あの説明で納得しろという方がおかしい。田所は大真面目にそう思った。 ---  大人になってから、これではいけないと思うようになった。  感性とか情緒とか、そういうものを大切にする人は多い。というかそれが多数派だ。多数派に合わせられないと、社会の中で生きていくのが難しくなる。理屈だけで動いていると、気づかないうちに人を遠ざけてしまう。田所にも、そういう経験が何度かあった。  だから合わせていかなければ、と思うようになった。まだまだできていないが、思うようにはなってきた。それだけでも、少し進歩だと思っている。 ---  今日も仕事帰り、坂の途中で足を止めた。  西の空が赤く染まっていた。見事な夕焼けだった。田所はぼんやりとそれを眺めながら、さっき読んだ本のことを思い出していた。感性を磨くには、立ち止まって景色を見ることだ、と書いてあった。なるほど、やってみよう。  田所は首を振った。理屈じゃなく、心で感じるんだ。この赤を、この空の広さを、ただ受け取ればいい。  もう一度、空を見上げた。深呼吸をした。綺麗だ、と思った。素直にそう思えた。オレンジから赤へのグラデーションが、地平線に向かって溶けていく。悪くない。こういう時間も、悪くない。  空の色というのは、太陽光が大気を通過する距離によって変わる。夕方は距離が長いから、散乱しやすい青色光が届かなくなって——。  いやいや。田所は軽く目を閉じた。感じるんだ。あの雲の形が、光を受けて金色に縁取られている。風が少しある。季節の変わり目の匂いがする。これが情緒というやつだ。悪くない。本当に悪くない。波長の違いがこんな光景を作るんだ。  赤色光の波長が長くてよかった。  ちょっとまて。  もしかして‥‥  赤色光と紫色光の散乱しやすさの違いを、画像分析に応用できないだろうか。  霧や煙の中でも波長の差を使えば精度が上がる。なぜ今まで気づかなかったのか。一刻も早くまとめたい。まだ夕方だ、会社に戻れば二時間は作業できる。  田所は小走りで坂を下り始めた。スマートフォンにメモを打ち込みながら、ふと思った。感性を大切にするというのも、なかなか馬鹿にできない。夕焼けをぼんやり眺めていなければ、今日のアイデアは生まれなかった。情緒も、役に立つものだ。  背後で、空が少しずつ暗くなっていった。

    19分
  7. 夢の棲家

    3日前

    夢の棲家

    noteでも公開しています # 夢の棲家 その夜、加藤誠一は画面の中に引き込まれた。 比喩ではない。少なくとも、彼にはそう感じられた。 --- 四十一歳、地方銀行の融資課長。妻と子供二人、郊外の一戸建て。誰がどう見ても堅実な人生だった。加藤自身も、そう思っていた。思うようにしていた、と言うべきかもしれないが、その区別を考えないようにして十数年が経っていた。 大学三年の秋、加藤は映画監督になりたかった。自主製作の短編を三本撮っていた。小さな映画祭に入選したこともある。でも就職活動の波は待ってくれなかった。親は心配した。仲のいい友人が次々と内定を取っていった。気づけば加藤もスーツを着て、銀行の面接を受けていた。内定をもらったとき、ほっとしたのか悲しかったのか、今となってはよく思い出せない。 その夜、新しく話題になっていたAIのサービスを、酔った勢いで開いた。「パラレル・ライフ」という名前だった。もし別の選択をしていたら、と入力すると、AIがその後の人生を詳細に生成してくれる。馬鹿馬鹿しいとは思った。でも入力した。 *二十二歳の秋、映画監督を夢見ていた男が、就職せずにその道を追い続けた場合の人生を、できるだけ詳細に生成してほしい。* --- 最初の数年は、想像通りだった。アルバイトをしながら自主製作を続ける、映画祭に出品する、助監督として現場に入る。加藤は少し冷めた目で読んでいた。知っている話だ、と思いながら。 でも二十八歳のあたりから、文章の質が変わってきた。 具体的になりすぎた。 撮影した場所の名前、キャストのやりとり、編集室の匂い——そういうものが書かれていた。AIが生成した文章にしては、細部がなまなましすぎていた。加藤は首を傾げながら読み続けた。 三十二歳のところで、完全に手が止まった。 そこには、高校の同級生の名前が出てきた。田村、という男だ。映画好きで、大学でも加藤と同じサークルにいた。実際の田村は今、東京でサラリーマンをしている。年賀状だけのやりとりが続いている。でも画面の中では、田村は加藤の映画の製作に関わっていた。二人で徹夜で編集した、と書いてあった。その夜のことが、二段落にわたって描写されていた。コンビニのコーヒー、モニターの明かり、夜明けに二人で外に出て吸ったタバコの煙。 加藤はタバコを吸わない。 でもその場面を読んだとき、タバコの煙の匂いが、かすかにした気がした。 --- 読み続けた。三十五歳で長編映画が完成し、国内の映画祭でグランプリを取る場面があった。授賞式のスピーチが、ほぼ全文書かれていた。加藤誠一という名前で、マイクの前に立っている。感謝する人々の名前が並んでいた。田村の名前もあった。知らない名前もあったが、読んでいるうちに、知っている気がしてきた。プロデューサーの木下、という人物。そんな人間は実際にはいない。いないはずだ。でも木下という名前を見たとき、なぜか顔が浮かんだ。四十代、眼鏡、早口でよく笑う男の顔が。 加藤は画面から目を離した。 部屋を見回した。見慣れた自分の書斎。棚に並んだ銀行関係の書類と、子供が学校で作った工作。妻が買ってきた観葉植物。これが現実だ、と自分に言い聞かせた。 視線を戻した。 --- 三十八歳のページに、ある記述があった。 加藤誠一は二作目の長編の製作中、資金繰りに行き詰まり、融資を断られる場面だった。銀行員に断られる。その銀行員の描写が、一行あった。 *窓口の男は、どこか遠くを見るような目をしていた。* 加藤は、その一行を何度も読んだ。 融資を断る側の銀行員。窓口の男。どこか遠くを見るような目。それは毎日、自分が鏡で見る顔ではないか。夢を追った自分に融資を断る、現実を選んだ自分。AIはその構造を、一行に圧縮していた。意図してそうしたのか、それとも偶然なのか、加藤にはわからなかった。でもその一行が、他のどの文章より、深いところに刺さった。 スクロールする指が、重かった。 --- 四十一歳のページ、つまり今の自分と同じ年齢のページを開いた。 画面の中の加藤誠一は、三作目の映画を撮り終えたところだった。今度は商業映画で、規模が大きい。完成試写の翌朝、ひとりでファミレスに入り、コーヒーを飲んでいる場面が書かれていた。疲れている。でも終わった、という静かな充実がある。次に撮りたいものが、もう頭の中にある。 加藤はその段落を読みながら、胸に奇妙な感覚を覚えた。懐かしい、という感覚だった。経験したことのないはずのものが、懐かしかった。ファミレスのコーヒーの、あの薄い味。完成した映画のフィルムを手渡すときの、あの重さ。どこから来る記憶なのか、わからなかった。でも確かにあった。 加藤は、自分が今どちらの人生を生きているのかが、一瞬だけわからなくなった。銀行員の加藤誠一が、映画監督の加藤誠一の人生を画面で読んでいるのか。それとも映画監督の加藤誠一が、もう一人の自分の人生を夢に見ているのか。どちらかが夢で、どちらかが現実のはずだった。でもその境界が、その瞬間だけ、溶けた。 --- 加藤はノートパソコンを閉じた。 立ち上がって、廊下に出た。子供部屋の前を通ると、ドアの隙間から寝息が聞こえた。寝室を覗くと、妻が眠っていた。加藤はしばらくその寝息を聞いていた。これが現実だ、と思った。今度は言い聞かせなくても、そう思えた。 台所で水を飲んで、書斎に戻った。ノートパソコンは開かなかった。代わりに引き出しを開けた。奥の方に、古いDVDが一枚入っている。大学時代に撮った短編の、唯一残っているディスクだ。何年も開けていない引き出しの中に、ずっとそこにいた。 加藤はそれを手に取って、しばらく眺めた。再生しようとは思わなかった。ただ、あるということが、今夜は少し大事な気がした。夢を追わなかった。でもこれを作った。この十数分の映像を、確かに自分が作った。それは消えない。どの人生を選んでも、消えない過去だ。 そして現実を選んだことで、あの融資窓口の男には、なれなかった。毎日誰かの夢と向き合い、その可能性を判断する側に立ってきた。それが誇れることかどうか、今もわからない。でも加藤は、その仕事をちゃんとやってきた。遠くを見るような目をしながらも、目の前の書類と向き合ってきた。それもまた、消えない時間だ。 DVDを引き出しに戻して、加藤は電気を消した。 夢の中でなら、まだ映画を撮れるかもしれない、と思いながら眠りについた。 --- *了*

    21分

番組について

短編小説を朗読し、その余韻を少しだけ言葉にする番組です。AI、記憶、家族、創作、老い、別れ、そして人の心に残る小さな違和感を題材にした物語を扱います。noteで公開している短編をもとに、朗読版や解説付き音声を配信します。読み終えたあとに少し考えたくなる、静かで不思議な物語をお届けします。