説教・聖書メッセージ「みちことば」

Taichi Araki

聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。

  1. 感謝からの自由

    10월 5일

    感謝からの自由

    「感謝されたい」からの自由 「しなければいけないことをしただけです」 ルカ17・10 2025年10月5日 聖霊降臨後第17主日(特定22) ひどい譬えです。一日働いた奴隷に主人は感謝もせず、夕食での給仕を命じます。そして奴隷はこう言いうべきだと。「私どもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしたにすぎません。」感謝を期待せず、主人に仕えて生きていきなさいと。この譬えで女性を無口な「主婦」にしてはなりません。「感謝くらいしてもいいのに」とも思います。しかしこの譬えは「自分がしたことは感謝されて当たり前だ」という傲慢を戒めます。そして主に結ばれて主と一緒に働くことで「感謝されたい」という束縛から自由になりなさい、という勧めです。私たちは感謝されたり評価されたりすると自然と嬉しいものです。あぁ頑張って動いてよかったと思います。そして人からの感謝と評価の内に神さまからの恵みも感じます。だからこそ逆に感謝も評価もされないと「それでもいい」と分かっていてもガッカリします。腹が立ち、嫌にもなります。特に思い入れの深い教会では。(私なら、説教の反応の良し悪しに一喜一憂すること)でもそれは傲慢だよ、とイエスさまは言うのです。主人はあなたではなく、私。あなたは私に従う弟子、私が遣わした者、私の道具。そりゃ感謝や評価や見返りがあれば嬉しいけど、感謝されなくてもあなたは私と結ばれていた。一緒に働いた。十分嬉しいことじゃないか。人からの感謝と評価を求め過ぎると逆に人に縛られます。だから感謝と評価への執着を捨て、ただ主に結ばれて、主に忠実に生きれば、私たちは解放され、自由に、あっさりと、潔く生きられるのです。イエスさまは「主の僕」として、人から感謝と評価ではなく、裏切りと排斥を受けました。ただ父と結ばれ、父に忠実に生き、苦しみを受けて解放を実現されました。もっと言えばイエスさまこそ、私たちから感謝されずとも、ずっと私たちを愛してきてくださいました。ご自分の命を与えるほどにです。感謝を期待せず、神に結ばれて行う働きは、無条件の愛となるのです。それは誰にも見せない小さな愛です。親の介護、家族の看病、家事、同僚への親切、傾聴、友情、信徒同士の慰め、教会の当番…。 感謝などあてにせず、自由に主と共にこの世で働くなら、神の国で主は言われます。「ありがとう、よくやった、一緒に働けて嬉しかった!」

    18분
  2. ずる賢くてよい、施せ

    9월 21일

    ずる賢くてよい、施せ

    2025年9月21日 「不正にまみれた富で友達を作りなさい」 ルカ福音書16・9 ルカ福音書はお金の使い方を重要視します。神を信じる生き方、また神の国とは、絵に描いた餅ではなく、現実生活に密着したものだと。 神の国は貧しい人のものです。貧しい人に施すなら神の国は与えられます。(6・20、12・32-3) 聖書の神は経済格差を嘆き、格差是正を願う神です。この願いを背景として理解すると今日の「不正な管理人」の譬えは、イエスさまの貧しい人への慈しみを表していることになります。 ある財産管理人が流用を告発されます。そこで彼は解雇される直前にずる賢さを働かせて、主人に借りのある人を一人一人回っては借金の額を書き換えていきます。借金を軽減された人たちは喜びます。そうして不正な管理人は解雇されても迎えてくれる人を作りました。主人は、予想に反して、その「賢くふるまった」行動を褒めるだけでなく勧めるのです。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と。 もちろん不正を許容するのではありません。そうではなく、ピンチにあってずる賢く自分の救いを確保するための友達作りではあっても、それでも貧しい人を助けたことを褒めたのです。たとえ動機がずる賢い「自分の救い」であってとしてもよい、それでも貧しい人を助けろ。「富で友達を作れ。」それが神の国をもたらすことになる、と。神さまの「結果オーライ」です。 人の心には色んな動機があります。悪や罪の動機もあります。しかし十字架で神さまは人間の全ての動機を受け容れられました。そして死なれました。そしてそれでも神の国を成就するために人間を用いられます。神さまは人間の動機を問わないほどに、神の国を求めておられるのです。貧富の差のない社会を熱望されておられるのです。 だから、ずる賢く自分が救われるための施しでもよい。自分が天国に行くためでもいい。それぞれの人が、自分のできる範囲で貧しい人を経済的に助ければ、私の熱望する神の国は実現する、と。神の切望は、小さな正しさをも超えます。 「奉献」で私たちの献金を受け容れられる神の声を聞きましょう。 「この際、動機は何でもいい。貧しい人を助けなさい。それが私の願いだ。」

    21분
  3. なにもできなくても

    9월 14일

    なにもできなくても

    2025年9月14日「念入りに捜さないだろうか」 ルカ福音書15・8 敬老の日、ご長寿おめでとうございます。最高齢は99歳! 信仰による内から出る若さを教えられます。しかし当然、私の父もそうなのですが、年齢と共に弱って来る現実を無視はできません。体力、気力、認知力、理性、運転、社会的役割。何年か前と比べると「できたこと」や「自信」が少なくなってくるのではないでしょうか。私はもっと弱いので、小さなことで自信を失い、自分の価値を疑いがちなのですが、今日のこの譬えを聞くととても嬉しくなります。ある女性が10枚の銀貨のうち1枚を失くします。それは高価なもので、また結納の品でもありとても大切です。だから必死になって捜します。窓のない暗い家の中をランプを灯して捜します。家具の裏、物の陰を捜します。床を掃いて徹底的に掃除をしながら捜します。決して諦めません。そしてとうとう見つけます。「あった!」そして見つけた喜びは自分だけにはとどまらず、友人や近所の人を呼んで宴会をするのです。「一緒に喜んでください!」と。私たちは神に捜し求められている存在でもあります。闇に落ちたままの銀貨は自分から出ていくことができないように、闇の中で迷ったしまった私たちは自分の力で神へ帰ることができません。しかし神さまは必死になって、決して諦めず、捜してくださっているのです。それが十字架の出来事です。イエスさまは十字架の苦しみを通して、苦しむ人を捜されます。神の愛を疑う苦しみを通して、愛を疑う闇の中にうずくまる人を捜されます。そして十字架の苦しみの中で私たちを見つけ、喜び、抱きしめ、復活の命へと導き出し、そして教会を始められたのです。「さぁ、喜ぼう!!」自分には価値がない、良い人柄も、良い働きもないと思っていても、神さまにとってあなたは「生きているだけ」で神が十字架で苦しみ死んでも捜し出すに値する「高価で尊い」存在だと。そして神に捜し出された時、人は愛を受け容れ、捜し出された喜びを知るのです。「生きていることに価値がある」これを今ここに生きているイエスさまを中心に皆で、天使も加わって、祝うのが教会です。聖餐式です。「神さまはずっと捜してくれていたんだ! 見つかって嬉しい!」

    22분
  4. 楽しんで欲しい

    8월 31일

    楽しんで欲しい

    「むしろ末席に行って座りなさい」ルカ福音書14・10 2025年8月31日 単純な話にしてみます。夫婦二人でカフェに行き、私か妻かどっちがより落ち着く壁側の奥の席に座るか。奥が上座で手前の席が下座でしょうか。お恥ずかしい話、今までは普通に自分が奥の席に座っていました。でもやっぱり妻に奥の席に座ってもらう方がいいなと思うようになりました。彼女が落ち着いて楽しめれば、それは嬉しいな、と。 席順マナーの根本にあるのは相手に「落ち着いて楽しんでほしい」というおもてなしの精神です。形だけの「謙虚さ」ではありません。 イエスさまの席順の譬えでは、席が逆転します。「宴会の上座に座ろうとする者は、もっと偉い人が来て上座から下されて恥をかく。だから下座に座りなさい。そうすれば上座に引き上げられる。」 ですがこれは「最終的に上座に着くためには謙虚に出るのが得策」という処世術ではありません。そうではなく、復活の宴会では傲慢な者は低められ、謙虚な者は高められ、この世の価値観が逆転する。だからこの世の価値観や世間体に縛られず、神に仕えよ、と。 ただし謙虚さは「遠慮」ではありません。神の宴席で下座に着くのは、大切な人に神の愛の交わりを「落ち着いて楽しんでもらう」ためです。父と子と聖霊の愛の交わりを心ゆくまで楽しんでもらう。そのために互いに仕え合うのです。 イエスさまは私たちに神の命を「落ち着いて楽しませる」ために、自らは最も不安な死の苦しみへと、へりくだっていかれました。「謙虚な人」になるためではなく、神の命を私たちに楽しませるために、自分の命を捨てられたのです。献げたのです。与えたのです。 神の国、復活の食卓であるこの聖餐式で本当の下座から仕えて下さるイエスさまに感謝して、落ち着いて楽しませてもらいましょう。あなたが神さまとの関係を楽しむこと、それがイエスさまの願いです。 「いいんだ、いいんだ。楽しんでくれ。そのために私は苦しんだんだ。遠慮も何もいらない、心いっぱい味わってくれ。神の存在を、この命を、この愛を。」

    16분
  5. 弱さの戸口

    8월 24일

    弱さの戸口

    「狭い戸口から入るように努めなさい」 ルカ福音書13・242025年8月24日 聖霊降臨後第11主日(特定16)  ホラーのような譬えです。神の宴会への戸口はとても狭く、アスリートの様な訓練が必要。しかもその戸口が一度閉じられたら「私はご主人様と食卓を共にし、教えを聞ました」と言っても「どこの者か知らない」と追い払われるのです。 この譬えは「自分は由緒正しいユダヤ人だから神の国に必ず入る」と思い上がる者に対して語られました。確かにアブラハムなどの父祖は宴会に入っています。しかし東西南北の諸国から異邦人は入っているのに自分たちは入れません。 なぜか。それは弱々しい罪人として十字架で死ぬ人を、自分と一体となられた救い主として受け容れられないからです。「自分はそんなに弱くない、自分は正しい」または「自分はもっと強くあるべきだ、正しくあるべきだ」と思うとき、私たちは、主の十字架が示す、弱く間違った自分を受け容れられません。 ですがイエスさまは呼びかけます。「弱く間違ったあなたでも、私にとっては大切なかけがえのない存在だ。だから、私はあなたと一体になったんだよ」と語りかける十字架のイエスさまを拒むことになります。自分の弱さと間違いを認めず、十字架を拒めば、解放と赦しはありません。弱く間違った自分は永遠に赦されず、自分はダメなままです。 しかし十字架の内に自分の弱さを見るなら、それが神の宴会への戸口です。「力は弱さの中で完全に現れる」(1コリ12・9)。神の愛を知り自分を大切にできます。 パウロの回心も「弱さが受け容れられた体験」だったのだと思います。 皆さまの弱さの戸口は何でしょうか。私の今の弱さは自己肯定感の低さです。自分や人の理想に至らない自分の評価を自分で勝手に低めています。しかし朝晩祈るとき、弱さの戸口の向こう側から十字架のイエスさまが呼ばれます。「弱いままでいい。間違ったままでいい。私は共に居る。あなたは大切だ。だからあなたも自分を大切にしなさい」。 弱さを受け容れ、十字架のイエスさまの宴会に入りましょう。「罪の赦しを得させる」主の御血を飲み、自分を大切にしましょう。 「弱いままでいい。間違ったままでいい。あなたは大切だ。だから自分を大切にしなさい。大切にして、弱さの戸口から入ってきなさい。」

    18분
  6. 良い対立

    8월 17일

    良い対立

    「対立して分かれる」 ルカ福音書12・512025年8月17日 聖霊降臨後第10主日(特定15) 私の両親と兄妹は無宗教です。それで私が23歳で洗礼を受けた時、私は家族との「対立」を少し感じました。自分が不安だったからなのかもしれません。 イエスさまは、家庭に平和ではなく対立をもたらす、と言いました。しかしこれはカルトのように信仰を持たない家族との対立を煽る言葉ではありません。神は平和の神です。「父母を敬え」とイエスさまも他の所では教えています。 これは理想の勧めではなく現実描写です。この世の家族の現実は甘くない。不信仰も悪もある。だがあなた自身は、まずこの世の家族関係から自由になりなさい。「よい意味で対立」しなさい。そして神の家族として生まれ、神の子となって、もう一度この世に派遣されて、この世の家族を愛しなさい、と。 家族は社会で最も基本的な人間関係です。愛で結ばれた家族はその人を守ります。失敗を恐れない自信のある人にします。 しかし最も身近な存在ゆえに家庭には悪も潜んでいます。親子の確執、虐待、夫婦の不仲、離婚…そして霊的に言えば、愛の神を知らないままの不信仰もあります。 だから私たちはこの世の家族関係に埋没したままではなく、そこから抜け出て「良い意味で対立する」必要があります。別次元に立つ必要、垂直に神と繋がる必要があります。この世の家族である以前に、まず主イエスさまの「苦しみの洗礼」という十字架の愛を信じ、共に死に、神の国という真の平和に基づいて新たに生まれる必要です。そこに神の家族が誕生します。 そうしてまず神の家族となることで、逆に私たちはこの世の家族への「祝福の基」(創世記12:2)となります。良い意味での対立が祝福の源、神の民を作るのです。 そのために私たちはまず、祈りと礼拝で神の家族として生まれましょう。食卓で、病室で、スマホで、神の家族同士つながって祈りましょう。そしてこの世に遣わされて、この世の家族を愛しましょう。 今は私は、神を信じないこの世の家族のためにも祈ります。神の家族として、それは嬉しいことです。  「あなたを神の家族のうちに迎え、キリストにあって一体とされたことを感謝します。」(洗礼式、式文) イエスさまが言ってくださいます。「お前と私は家族だ。同じ家族になれて嬉しい。一緒にこの世の家族を愛していこう。」

    14분
  7. 与えられる確信

    8월 10일

    与えられる確信

    「小さい群れよ、恐れるな。父は喜んで神の国をくださる」  ルカ福音書12・32 2025年8月10日 聖霊降臨後第9主日(特定14) 先週の「財産を施し、与えなさい」という教えの続きです。 常識では色んな恐れや心配があります。貯金は、家は、車はあと何年もつか。健康は、老後は、介護は、子どもらは、人間関係は。施しどころではありません。古代の庶民はもっと基本的な食料と衣服について心配しました。 しかし「非常識」にもイエスさまは「恐れず施せ」と命じます。その背後には生き方、信仰があります。それは「父は必ずあなたが必要なもの、いやそれどころか神の国をも喜んで与えてくださる。」という「与えられる確信」です。 これはアブラハムが星を数え、子孫が与えられる約束を信じた生き方です。またヘブライ書が「望んでいる事柄を確信し」と表現した信仰生活です。人生の必要と神の国は必ず与えられる。この確信から、与える生き方を選ぶのです。 平和について言えば、神の国とは神が与えるものですが、「神国日本」は人の命を要求する怪物です。神の仮面を被り、国民を騙した偶像です。平和は戦争で獲得するものではなく、武力を委ねた向こう側に、神から与えられるもの。与えられる確信が、平和を呼びます。 最近やっと私は寝る前にその日の感謝を数えるようになりました。以前はどこか自力で働いて、一日の終わりに感謝などせず、そこで「こと切れた」ように寝ました。しかし自力の働きを超えて父は「喜んで神の国をくださる存在」。すべては父から私に与えられたギフトです。確信があるから感謝し、感謝すればするほど、確信は強まります。 イエスさまは、復活が与えられる約束を確信して死に、そして復活しました。約束が実現し、復活した主は感謝に溢れたことでしょう。  「小さい群れよ、恐るな」。財政と信徒数を真剣に悩みつつ、父は喜んで神の国を与えてくださると確信し、感謝の聖餐を献げましょう。そこで私たちは「み国の世継ぎであることがいよいよ明らかに」されます。確信が与えられます。  「与えられる確信を持ち、与えられたものを感謝し、与える生き方を選ぼう。私と共に、確信して。」

    19분

소개

聖書のメッセージです。聖公会司祭荒木太一による日本聖公会大津聖マリア教会での礼拝説教です。ブログサイトでは、絵画やイコンとともに、み言葉を黙想しましょう。