流れのほとりに

キリスト教たんぽぽ教会

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

  1. 2d ago

    創造主が味方なら(ヨシュア記17章14節~18節)

    序)ヨシュア記の「本論」が意味すること ・ヨシュアの「偵察」によって開かれたしまった戦いがようやく収まり、約束の地の「割り当て」(ヨシュア記の本論)が 12~21 章で記される。 ・古代社会において東西南北に線を引いて四角形の土地を設定するのは神殿を建てる時のみ。これは全地を主の臨在の場にする壮大なビジョン。 1)約束の地を上手く受け取れないイスラエル ・神様の前で行われた「くじ引き」で割り当てを受けた各部族だが、先に住んでいる人がいるため、空き地に住むほかない。そこで約束の地をうまく受け取れない(文句を言う/逃げ腰になる)という問題が起こる。 ・18 章 1 節が「割り当て物語」の中心軸で「会見の天幕」の存在は、神様が共にいることの証しであり、臨在によって「地が服する(従えることができる)」という約束と励ましを意味した。cf 創世記 1:28 →「約束の地をうまく受け取れない」とは、自分という存在を「祝福」として受け取れない人間の姿を指す。 2)約束の地に文句を言うヨセフ族への挑戦 ・ヨセフ族の文句は、人口が多いのに「森林の多い山地」が割り当て地だったこと。そこには、規模の小さいペリジ人やレファイム人が住んでいたが、大部族には適さない土地。 ・ヨシュアの答えは「森を切り開け」だった。「切り開け(ベレー)」というヘブル語がポイント!これは「創造する(バラー:創世記 1:1)」の強調形である。ヘブル語には同じ綴りで標準形と強調形がある。 ・「学ぶ(標準形)」と「教える(強調形=とても学ぶ必要がある)」という具合。「創造する(神のわざ)」「切り開く(人のわざ=神のわざを土台にして)」ということ。神の創造した世界を神と共に仕上げていくこと。 →私たちも、神の創造の結果存在する。しかし自分自身を含め、この世界を切り開く必要がある。「賜物」も磨かなくては活かされない。 →教会も、神の「新しい創造」だが、その上に「人の創造」を重ねていく時に、神の国が現れていく(神殿になっていく)。 3)「天と地の創造主」を「父」と告白するのだから ・「創造」信仰とは、この世界が偶然の産物ではないということだけでなく、この世界を主にあって「切り開く」決意を求める信仰である。 ・山を切り拓いて力をつけるなら、平地に対して脅威になり、追い払うことができ、主の臨在の場になるはずだった。しかし力をつけたヨセフ族は偶像の力を求めて「追い払わなかった」ことで、その機会を逃した。 結)約束の地をまっすぐ受け取るために ・福音を「私たちの内に行き巡らせる」まで宣べ伝えることが鍵になる。

  2. Sep 27

    立て直しの楔(ヨシュア記8章30節~35節)

    序)不正確な解釈のお詫び ・ヨシュア 8:30 で「築いた」という動詞は特別な形である。ここから「この礼拝が実際に行われたのはもっと後だった」という解釈を 3 年前に提示したが、これは言い過ぎだったことをお詫びし訂正したい。 ・この間違いの原因は「礼拝さえすれば、神様の守りの中で勝利できる、というような安直な人間理解あるいは、呪術的な、オカルトに近い礼拝理解があったから」だと判明した。 1)「こっそり」と行われたヨシュアの過ちから見えるもの ・ヨシュアが 2 章冒頭で「こっそり」偵察を出すところから問題が始まったとすれば、エリコの戦いも当初のシナリオにはなかったことになる。 ・神様のシナリオ(申命記 27:4~7)は、エリコもアイも気にせずにまっすぐエバル山に向かい祭壇を築いて礼拝をささげることだった。 ・それができなかったのは、ヨシュアの常識的な判断と恐怖心のゆえ。エリコやアイを通過せずに北上するルートは「平和の道」だったが神様の守りを計算に入れなければ「平安の道」ではなく、敵に背を見せるとてつもなく危険なルートだった。 2)エバル山のふもとで行われた礼拝~その意義~ ・「全焼のいけにえ」は献身の表現≒現代の礼拝式の献金の要素をもつ。 ・「交わりのいけにえ」は、恵みの分かち合い+食事の交わり ・「みことばの朗読」(聖書朗読と宣教)は、いけにえに先行しただろう。 ・このエバル山での礼拝は、ヨシュア記に 5 つあるピークポイント(転換点)の 2 つ目であり、独断で先制攻撃をした前半の物語が、主に伺いながら、勝利していく後半の物語へと転換するポイントになっている。 ・しかし、過去の間違った選び(戦いの火ぶた)は消えていないので、礼拝は先住民に対して、脅威に映るし、ヨシュアの弱さも継続する。 ・しかし、みことばに聞くことがなければ、立て直しに着手することすらできない。みことばは「立て直しの楔」となって私たちを支える。 3)「祝福」と「のろい」の二択から、「祝福」一択へ ・律法(古い契約)には、「祝福とのろい」の両者があった。しかし、イエス様が十字架において、すべての「のろい」を引き受けてくださったゆえに、私たちには「祝福」しかない。だから礼拝の最後は祝祷。 ・間違った選びに対して「訓練」や「矯正(懲らしめ)」はあるが、のろいではないことを心に留めよう。 結)礼拝を選ぶ信仰、選べない時も消えない祝福 ・世界と人生を立て直す旅において、みことば、礼拝、教会の交わりはそれを支えるための恵みの楔である。

  3. Sep 20

    ノアの箱舟のように(ヨシュア記3章17節)

    序)「ノアの箱舟」と「天地創造」のセット ・創世記の第一部「全人類の物語」(1-11 章)は「天地創造」で始まり「ノアの箱舟」で結ばれる。この 2 つがペアになっている。 ・水に覆われた世界から神の霊(風)によって世界が創造され、洪水によって水に覆われた世界に戻った地上に「風が吹いて」新しい出発をする。 ・どちらも「生めよ、増えよ、地に満ちよ」の祝福が語られる。 1)「ヨルダン川を渡ること」と「出エジプト(葦の海を渡る)」のセット ・ヨシュア記 4:23 で「ヨルダン川の水を涸らす」ことと「葦の海になさったこと」は「同じ」だと言われている。 ・天地創造→エデンの園を設けたあと、アダムとエバを「仕えること」「守ること」へと招いた。しかし堕落して追放される。 ・出エジプト→イスラエルの民をシナイ山で「主に仕え」「律法を守る」ことへと招く。エデンの園のミニチュアとして「幕屋」を造る。しかし堕落して、約束の地に入れず、荒野をさまよう。 ・アダムの子孫であるノアが→大洪水を潜り抜け、新しい世界へ立つ。 ・イスラエルの第二世代→ヨルダン川を越えて、約束の地に入る。 2)「ノアの箱舟」と「ヨルダン川を渡ること」のセット ・ヨシュア記 3:15-16 を念入りに語り直すのが 3:17 である。 ・「しっかりと立ち止まった」は「水の中に『とどまる(ヌアッハ)』」の言い換えである。「ヌアッハ」は神が置かれた、あるべき所に立つという意味で「安息を与える」とも訳される。ヨシュア記 21:44 参照 ・創世記 8:4「箱舟は…とどまった(ヌアッハ)」と使われる。 ・創世記 8:13「干上がった」「乾いていた」と繰り返される言葉がヨシュア記 3:17 で「乾いたところ」と 2 度繰り返される。 ・祭司たちが担いだ「契約の箱」はノアの箱舟のミニチュアに見えた。 ・イスラエルの民は、新しいノアとその家族として約束の地を踏んだ。 3)「ノアの箱舟」と「バベルの塔」のセット ・創世記において「生めよ、増えよ、地に満ちよ」は実行されず「バベルの塔」を造るという結末を迎える。(創世記 11 章) ・ヨシュア記の中心部分で、民を各地に割り当てるのは、バベルではなく神の国を生み出すため。しかし従わずにバビロン捕囚に。 結)「ヨルダン川を渡ること」と「キリストにつくバプテスマ」のセット ・場所も、鳩のような御霊も一致して、真の「新しい創造」を指し示す。 ・聖書の大きな計画の中に私たちは生かされている。 ・大祭司イエス様と、教会の仲間とともに、死の水が覆う世界で「ヌアッハ」するなら、いのちの宿る「乾いた地」に変える奇跡を経験する。

  4. Sep 13

    プレッシャーの行き先(ヨシュア記1章12節~2章1節)

    序)目に見えない神様を本気で信じるのは難しい ・ヨシュアは信仰のヒーローではない。私(たち)と同じ弱さをもった人間であり、私(たち)の鏡のような存在である。 1)回想シーンから始まるヨシュア記 ・1:12 のヘブル語の綴り方は極めて稀な例:「その一方で」と訳されているが「ところで」でもよく、時系列が変わることを示唆している。 ・10 節~11 節で「三日のうちに」ヨルダン川を渡ると言われる。この物語は、3:2 に繋がる。1:12~3:1 までは、そこに至る経緯の回想。 ・1:2~9 は、シティムの野を舞台にした、申命記 31 章の反復。 ・1:12~は、ルベン人たちとの会話で、民数記 32 章の確認。 2)ルベン人、ガド人、マナセの半部族からのプレッシャー ・「モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように」や「あなたは、ただ強く雄々しくあってください」は、単純な励ましのようにも聞こえるが、部下から新人リーダーへの「圧」でもある。 ・このプレッシャーが 2:1 の行動へとヨシュアを駆り立てる。1:18 と 2:1に区切りはなく、むしろ「それで」と訳してもよい接続詞がある。 ・2:24 でスパイの報告があるが、これも 3:1 に繋がる。「それで」ヨシュアは翌朝早く起き…シティムを旅立ち…」 3)ヨシュアへの神の約束はそのままでは信じられなかった ・「わたしは、あなたとともにいる」は無条件の約束だったが、ヨシュアとしては実績を出さないと証明されないという考え(ルベン人たちの言葉の陰にあるもの)に共感し、実績を出そうと「偵察」を用いた。 ・これは神の平和の計画に対して裏切り行為だったが、ルベン人たちに舐められないための最善の手だとヨシュアは考えただろう。 ・「あなたの前に立ちはだかる者はいない」という約束も偵察の報告によって裏付けられるまでは信じられず、動き出せなかった。 ・私たちはヨシュアを責められるだろうか。 ・「挑戦」と「安心」は時に矛盾する。先回りして「安心」を人間が約束することが「誘惑」になる。 結)「強くあれ、雄々しくあれ」の真の意味 ・この言葉は弱さを隠すことではなく、弱いままで神様の強さに信頼することへの招きである。 ・「ひそかに」偵察を出すより「ひそかに」神様に嘆く方がよかった。 ・「ルベン人、ガド人、マナセの半部族」は「現状維持バイアス」の象徴である。神の言葉に別の裏付けが欲しくなる私たちの弱さを神は知っていて、なお見捨てないでいてくださる。

  5. Sep 6

    たんぽぽの役割(ヨシュア記21章44節~45節)

    序)過去と未来を結ぶ御言葉 ・聖書が「安息」について語る言葉は 2 つある。1 つは「シャバス」で、とても良い、完成された状態を指す。もう 1 つは「ヌアッハ」で、安息に向けて踏み出すことを指す。ヨシュア記 21 章は「ヌアッハ」である。 1)「ヌアッハ」が繋ぐ過去と現在 ・ヌアッハが最初に使われるのが創世記 2:15「人を…エデンの園に置き(ヌアッハ)、そこを耕させ、また守らせた」である。 ・イスラエルにとっての約束の地は、アダムとエバにとってのエデンの園に相当する。ヌアッハは「あるべきところに置く」という意味をもつ。 ・「耕させ(アヴァド)、また守らせる(シャマル)」もキイワードで、ヨシュア記では「主に仕え(アヴァド)」「律法を守る(シャマル)」と展開していく。これは神を愛し、隣人を含む世界を愛することである。 ・さらにマタイ 11:28 で「わたしもとに来なさい、あなたがたを休ませて(=ヌアッハ)…」と展開する。イエス様と共に生きることが「エデンの園」、「約束の地」、「人があるべきところ」である。 2)根を張り、葉を広げる~個人の場合と共同体の場合~ ・根を張る(みことばを守り行う:信仰・信頼・確信を深める)なら、雨の恵みが少ないところ(荒野)でも生きることができる。 ・葉を広げる(主に仕える:奉仕)ことで、神様からの恵みをこの世界を生かすものに変えることができる。 ・この生き方が個人的に適用されると「永遠のいのち」、共同体を中心に世界に出現すると「神の国」となる。 ・個人は「樹木」のようにじっくり実を結び、共同体は「草花」のように枯れて、萎んで、また生えてくる。 3)「安息」の完成される未来 ・ヨシュア記 21 章は、約束の地の全域に民が部族ごとに離れ離れになって暮らし始める「割り当て(ヌアッハ)」が終わった部分。その中で特徴的なのは「レビ人の町」と「逃れの町」である。当時の世界観でいえば、ここで神を讃え、神が鎮座する神殿が建設されるのが筋。しかし… ・レビ人の町と逃れの町が造るネットワークそのものが、神殿の機能を果たすことで、全地が主の臨在で満ちることがゴール。これが黙示録 21章の最後のビジョンにつながる。 結)たんぽぽの役割 ・教会は誰でも歓迎するが、集う人・歴史によって個性が出るゆえに、誰にでも喜ばれるとは限らない。たんぽぽの個性を深め、ネットワークの中で生きることが願われている。

  6. Aug 30

    戦争がやむために(ヨシュア記11章20節,23節)

    序)キリスト教会が平和を語るために ・戦争と無縁(負い目のない人)でなければ平和を語ることができないわけではないが、戦争を肯定するように読める「ヨシュア記」の存在が問題を複雑にしている。 ・「聖絶」は、神様と民の間の関係を損なうものを、使用禁止にすることだが、それでも戦争の存在を払拭できない。 1)「主から出たことであった」という慣用句の意味 ・この表現は旧約聖書の中で繰り返し使われる。(Ⅰ列王 12:15 、Ⅱ歴代22:7、25:20他)そこで共通していることは、起こった出来事を肯定することではなく、むしろ肯定できないのだが、もっと悪い事態にならないように神様が用いたということを語っている。 ・これは医療用語でいう「ダメージコントロール(大けがをした患者に対し、完璧な治療ではなく命を救うための最低限の処置)」に相当する。 ・つまり「主から出たこと」と書く時点でヨシュア記の著者が戦争に向けるまなざしは否定的である。 2)神の本来の計画を乱したヨシュアの策略 ・ヨシュア記 2:1「ひそかに」が問題の発端である。偵察行動が明るみに出れば、それは軍事的一手である。これに加え、偵察が誓ったラハブとの契約により、ラハブ救出の義務も生まれた。エリコの城壁が崩れる話は、神様の本来の計画にあったのではなく、ダメージコントロール。 ・出エジプト記 23 章に示された当初の計画は「徐々に追い払う」こと。神様が全地の主として誰がどこに住むかをお決めになる。 ・イスラエルは戦わずともギルガルで暮らすことができていた。戦わなくては土地を獲得できないと考えるのは人間の(ヨシュアの)常識であり、その常識がヨシュア記の読み方まで誘導してしまう。 ・23節の「奪い取った」も「受け取った」と訳せる。しかし文脈は確かに奪い取るようである。神様のタイミングを待てなかった結果である。 3)与えられた「相続地」でどう生きるかが問われている ・すべての人に生きる「場(相続地)」が与えられている。広がることは可能性としてあるものの、まずは神の賜物と受け取り(受容)そこで愛に生きる(御言葉を行う:神、隣人、世界に対して)こと。 ・与えられた相続地に満足できない時、戦争が始まってしまう。このパターンはアダムとエバからずっと続いている。唯一、イエス様の十字架と復活(福音)だけが、ダメージコントロールではなく根本治療を行える。 結)「置かれたところで、咲きなさい」に続くもの ・どんな荒地の下にも流れている地下水まで根を伸ばすのが平和への道。

  7. Aug 23

    神の約束を生きる(創世記15章1節~7節)

    序) ・前回はアブラムが迷いながらも、神様を礼拝し続けたことを見ました。 ・今日は、神様がくださった未来を、アブラムがどのように受け取り、歩んだのかを見ます。 1)「子どもがいない」ことは、アブラムの大きな痛みでした(15 章 2~3 節) ・「神様、何をくださるのですか」。これは、もっと欲しいという不満ではありません。「私の人生は、この先どこにつながるのでしょうか」という、心からの問いでした。 ・家族の死、途中で止まった父の旅、ロトとの別れ。そんな経験をしてきたアブラムにとって、跡を継ぐ子どもがいないことは、大きな痛みでした。私たちも、言葉にしにくい不安を、神様にそのまま話してよいのです。 2)神様は、アブラムに未来をくださいました(15 章 4~6 節) ・最初に動かれたのは神様です。神様はアブラムを外へ連れ出し、星空を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。 ・信仰とは、何もせずに待つことでも、「きっとうまくいく」と思い込むことでもありません。私たちは、暮らし、働き、考え、選びながら、神様の約束を忘れずに歩みます。日々の選択の中で「これでよかったのかな」と振り返ることもあります。アブラムたちが選び取ったことの中には痛みもありました。しかし、神様は約束を取り下げませんでした。 3)神様がくださった未来は、神様のものです(22 章 1~19 節) ・イサクは、ずっと待ち望んだ子どもでした。アブラハムにとっては、「自分の人生は、この子によって未来につながっていく」と思える存在でした。 ・でも、イサクはアブラハムの所有物ではありません。問われたのは、イサクを握りしめるのか、それともイサクをくださった神様を信頼し、忠実に歩むのか、ということでした。アブラハムは、神様なら死者からもよみがえらせることができると信じ、イサクを神様にゆだねました。 結)イエス様から目を離さない(ヘブル 12 章 1~2 節) ・十字架の苦しみの中でも、父なる神様を信頼し続けたイエス様を見上げましょう。 ・そして私たちには、私たちを雲のように取り巻いている、信仰の証人たちが数多くいます。そしてあなたも、だれかにとっての信仰の証人です。互いに励まし合いながら、私たちも神様に忠実に歩んでいきましょう。

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キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。

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