ダヴァール神の国 - 子としての祝福

Davar Kingdom of God

浅井牧師のメッセージをロサンゼルス パサディナから毎週お届けします。「ダヴァール神の国」(ダヴァール教会)は特定の宗派や会派に属さない独立したプロテスタント教会です。わたしたちの教会の牧師であり、著名な聖書研究家でもある浅井導牧師が、聖書の真理を実生活に役立つようにわかりやすく解き明かしてくださいます。教会を探している方、問題を持っている方、人生の導きや目的を探している方、キリスト教に興味のある方は、ぜひ一度お訪ねください。日曜礼拝 日本語部 午前9時-11時, 英語部 午前11時-午後1時, 土曜礼拝 午後12時

  1. 07/17/2016

    子としての祝福 No.20

    そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸 地とされた。それで水は分かれた。そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進 んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった(出エジプト14:21-22)。 これは、エジプトから脱出したイスラエルの民が、水を通って新しく生まれ変わった時の話。海を分けた「強い東風」は、聖霊のこと。新しい創造の力であり、天地創造の初めに深みの水の上 を動いていた霊のこと。彼は、「光よ。あれ」ということばが発せられた時、光を生み出した。 この聖霊がイスラエルの民と共にいて、彼らを約束の地に導き入れた。それは、彼らが相続人で あったからである。次の世代の民が、ヨシュアを先頭にヨルダン川を渡って約束の地に入った時 も、聖霊は彼らと共にいた。 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、−−ヨ ルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが−−上から流れ下る水はつっ立って... 流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った(ヨシュア3:15-16)。 この時のイスラエルの民もやはり、水を通って新しく生まれ変わって相続人とされた。聖霊はそ のための保証であり、手付金。エリシャが、エリアに与えられていた霊を受けることによって、 彼を継ぐ預言者となったことも、同じ真理を示している。二人は、水が分けられたヨルダン川を 西から東に渡った。 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があな たのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの 霊の、二つの分け前が私のものになりますように」と言った(2 列王2:9)。 「二つの分け前」とは、相続人が受け継ぐ財産のこと。エリシャは、竜巻に乗って天に上げられ て行くエリヤを見る中、願った通りにその霊を受けた。その時、彼が「わが父。わが父。イスラエルの戦車たちと騎兵たち」と叫んだことに注目。彼がエリヤのあとを継ぐ預言者とされたのは、 契約を破ってしまったイスラエルの国を再建するためであった。したがって、エリシャは、ヨシュアがしたように、ヨルダン川を東から西に渡り直した。契約の結び直しだ。水は両側に分かれ た。聖霊はまだ、イスラエルの国から完全に取り去られてはいなかった。国が滅び、全部の土地 を失っても、聖霊は彼らを見捨てなかった。バビロンの捕囚から帰ったイスラエル人たちに、神 様は次のように語られた。 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。(エペソ1:13-14)。 エリメレクの畑の相続に関して、ナオミだけが残された望みであったように、国を失い、約束の 地から追放されたイスラエルには、まだ聖霊が相続の保証として働き続けていた。同じように、 今日キリストにあって相続人とされた私たちの中にも、相続の保証として聖霊が与えられている。 それは、モーセに与えられた霊を受けたヨシュア、また、エリヤに与えられた霊を受けたエリシ ャのように、私たちも、水を通って生まれ変わり、相続人として出て行って御国を勝ち取るため であった。 ...しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力 を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地 の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは 彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた(使徒 1:8-9)。

    1h 7m
  2. 07/10/2016

    子としての祝福 No.19

    この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそ れを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受 け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるた めです。(エペソ1:13-14)。 三位一体のおひとりである聖霊なる神様は、天地創造の初めから、いつも裏方の存在として働か れた。 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は 仰せられた。「光があれ。」すると光があった(創世記1:2-3)。 光を造り出すための創造の力は、聖霊であったが、彼は、光そのものではなかった。聖霊は、エ デンの園を潤していた水、すべての命あるものを成長させて実を結ばせ、いのちの息として人を 生き物とした。でも彼自身がいのちではなかった。聖霊は、人の魂を神の愛で潤し、喜びに満た す。しかし、罪を犯した人間は、エデンの園にある水の源から離れ、荒野をさまようようになっ た。 悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、 主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない(イザヤ41:17)。 イスラエルは神によって新しく創造された民。彼らは、荒野で岩が裂け、水が溢れ流れるのを見、 それを飲んだ。まさしく、水の源である神の霊が彼らの間に働いていた。エデンの園の回復であ る。聖霊は、彼らが相続人とされたことの証拠。この相続に関する聖霊の役目は、ルツ記の大切 なテーマでもある。ナオミの夫エリメレクの家族は、水不足による飢饉のためにモアブの地に行 った。士師の時代、イスラエル人たちは、征服できなかったカナン人に習って偶像を拝むように なった。そこで、せっかく相続した約束の地も、一時期手放すことになった(士師2:1-15)。そ れは聖霊との離別を意味する。ナオミは、エリメレクに死なれ、二人の息子にも死なれたが、こ れは、イスラエルの民と、やがて二つに分かれる王国の滅びを予知したもの。最後に残されたの は、ナオミと、彼女にしがみ着く、死んだ息子の異邦人の妻であったルツだけ。この状態で、エ リメレクの相続地はどうなるのか。十年も放置され、すでに他人の手に渡っていた土地はもう取 り戻すことはできない。最後の望みのひもは、ナオミの存在だけ。ミステリヤスなナオミの指示 に動かされた、遠い身内のボアズは、すでにルツと結婚する決心をしていた。彼は、買い戻しの 権利を持った人に言った。 私たちの身内のエリメレクの野の畑のことですが、モアブの野から帰ったナオミがその値に なっています。私は今、あなたの耳に入れて言います。「...それを買いなさい。もし、 あなたがそれを買い戻すなら、買い戻し、もし買い戻すつもりがないなら、私に分かるよう に言ってください。あなた以外に、買い戻す人はおらず、私はあなたの次ですから(ルツ4: 3)」。 アブラハムがマクペラの土地を銀で買ったのとは違い、この取引には金が関与していないことに 注目(使徒8:18 以降参考)。その代り、ナオミが「その値」ということだ。つまり、彼女を自 分の母として受け入れた者がその土地を受け継ぐ。まさしく、ナオミは聖霊で、御国を受け継ぐ ことの「保証(手付金)」であった。ヨハネがイエスの母を自分の家に引き取ったのと同じ。 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女 の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。それからその 弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、 この弟子は彼女を自分の家に引き取った(ヨハネ19:26-27)。

    1h 7m
  3. 07/03/2016

    子としての祝福 No.18

    わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです(ヨハネ14:16)。 この「もうひとりの助け主」と呼ばれる方は、普通に新約聖書で「聖霊」と呼ばれる三位一体の神のおひとりのこと。その方を、父なる神様が弟子たちに「お与えになる」という。ということは、 すでにイエス様をメシアとして受け入れていた弟子たちにも、まだこの時点では聖霊は与えられて いなかったということ。実は、聖霊が与えられることは、イエス様が弟子達の足を洗われた際に、 ペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係(分け前)もありません」と言 われた「分け前」のことであった。「分け前」とは、キリストを通して相続人とされた人が受ける 祝福のこと。 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせ ず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたが たとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです(17 節)。 この聖霊が今度は「真理の御霊」と呼ばれているのは、彼が真理について証しする方であるから。 真理とはキリストのことを指し、しかも、それを信じる者が導き入れられる霊的現実のことである。 それに比べ、偽りの霊に支配される、この世の現実は真理ではなく、世は「真理の御霊」である「聖霊(聖い霊)」を見もしなければ、知りもしない(1 ヨハネ4:6、ヨハネ8:44)。しかし、キリストにある相続人には、その方が「ともに住み(とどまり)」、また「ともにおられる」という。 三位一体の神の家族の中に養子として受け入れられたからである。これは、人として来られたイエ ス様にも起きたこと。 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして 祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧に なった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ル カ3:21-22)。」 この聖霊なる神の働きを、ヨハネの福音書は、比喩的にイエス様の母にたとえて、その隠された真 理を描写している。イエス様のミニストリーの始まりを示す、水がぶどう酒に変えられた奇跡は、 その母の存在なくしては起きなかった出来事。母の胎に身ごもられた時から、彼を養い育てたのは 聖霊様ご自身であった。彼が誰であるのか、まだ何も知らなかった人間たちとの間を取り持って、 「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と、彼らを助けた母の存在は、聖霊の働 きそのものを表している。それが結婚式の場であったのは、やがて起きるキリストと教会との結婚 を比喩的に表したもので、水とぶどう酒は、彼の脇腹から流れ出た水と血のこと。そして、その裏 で全部を取り持ち、事を運ばれた隠れた存在が、聖霊様であって、ルツ記のナオミに当たる。私た ち教会はその方の導きによってキリストと巡り会い、彼と結婚することになった。 イエスは、母と、そばに立っている、愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの 息子がいます」と言われた。それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。 その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った(ヨハネ19:26-27)。 この時までイエス様とともに住み、ともにおられた彼の母は、彼のもとを離れてヨハネの母となり、 ヨハネは彼女の子どもとなった。これが、教会と聖霊との関係。言い換え れば、聖霊は、教会が相続人の集まりであることの証拠であり、御国を受 け継ぐことの保証(手付金)である。これが、ルツ記の土地の買い戻しの 際に、ナオミの存在が果たした役割に当たる。教会は、聖霊様の存在をも っと敬うべきである。

    1h 7m
  4. 06/26/2016

    子としての祝福 No.17

    さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受 けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をし て、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あな たは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ(ルカ3:21-22)。」 ここに、いわゆる三位一体の神が生揃いしている。ひとり子の神は霊としてイエス様の中に住まれ、 彼がバプテスマのヨハネから洗礼を受け、水から上がって来られると、そこへ聖霊なる神が鳩の形 をして下って来られ、彼の上にとどまられた。それと同時に、天から父なる神様の声がして、イエ ス様に向かって、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と語られた。これは、 次のみことばの成就であった。 わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。 「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。 わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あな たの所有として与える(詩篇2:7-8)。」 イエス様のミニストリーは、このようにして始まった。彼も人として(正確には、たましいの部分 が)、この時神の子として三位一体の神の家族の中に受け入れられた。子であるならば、相続人で あり、ヨシュアがしたように、ご自分の「ゆずり」や「所有」として与えられた「国々」を奪い取 り、地上の「果て果てまで」神の国を築き上げていくことが目的であった。サタンは、まさにその 所に関して彼を誘惑した。 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、 命じなさい。...あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。...もしひれ伏して私 を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう(マタイ4:3-9)。」 これら誘惑はみな、彼が神の子として受ける相続に関するもの。それは、彼のミニストリーの目的 が、失われてしまった世界の相続権を再び人間に与えるためであったことを、サタンはよく知って いたからである。しかし、イエス様の「引き下がれ、サタン」ということばに、彼は従った。 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた(11 節)。 キリストとの共同相続人は、彼と全てを共有している。御使いたちが彼に仕えたならば、彼らは同 じように全ての相続人にも仕えている。 御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではあ りませんか(ヘブル1:14)。 実は、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」ということばも、イエス様だけに 対するものではなかった。彼が洗礼を受けるためにヨハネの所に行かれた時、ヨハネは自分こそが 彼から洗礼を受けるべきだと言ったが、その時、イエス様は言われた。 今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたした ちにふさわしいのです(3:15)。 「わたしたち」ということばに注目。イエス様も人として、全ての者が踏むべき正しいステップを 踏んで、洗礼を受け、神の子とされ、相続人となられた。そうならば、私たちもその同じステップ を踏むことによって、神の子どもとされ、同じ相続権を持つようになるはず。そして、その時に語 られた「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」ということばも、そのまま全ての 相続人に当てはまる。

    1h 7m
  5. 06/19/2016

    子としての祝福 No.16

    さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が 妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした(ルツ1:1)。 ルツ記は、聖書の中で女性が主人公になっている、数少ない本の一つ。話そのものは、ベツレヘム を離れて未亡人となったナオミと、モアブ人でその義理の娘となったルツが、ベツレヘムに戻り、 どのようにして生き延びていくか、という話だが、その裏に、どんな人がダビデの系図の中にいて、 どんなことが起きたのかを述べることも一つの目的であった。ナオミは、自分に付いて来ようとす る二人の義理の娘に対して、それぞれの母の家に帰り、もう一度結婚して幸せになるように勧める が、ルツだけはいっこうに去ろうとはしなかった。ルツは言った。 あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる 所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の 神です(16 節)。 これは、ちょうどラハブが二人の斥候に、イスラエルの神を自分の神として信じる告白をしたのと 同じで、異邦人である者が、その信仰によって相続人として受け入れらたことを示している。 ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何 も言わなかった(18 節)。 二人がベツレヘムに着いて彼らの細々と生活が始まったのが、ちょうど大麦の刈り入れの頃で、直 ぐに過越の祭を祝う時期であったのは、偶然ではなかった。ルツが食料を得るために落ち穂拾いに 出かけると、それがたまたま、ナオミの夫の側の買い戻しの権利を持つボアズの野であった。彼女 は、それとは知らず、そこで働く者たちの世話役の人に、刈った大麦の束がまだ野にある状態で、 その束の間に行って、落ち穂を拾わせてもらうことを頼んだ。それは普通には許されないことで、 世話役は、主人のボアズが来るまで待つように言ったので、彼女は待っていた。そこへ、ボアズが 登場した。 ちょうどその時(文字通り、見よ!)、ボアズはベツレヘム(「パンの家」の意味)からやっ て来て、刈る者たちに言った。「主があなたがたとともにおられますように。」彼らは、「主 があなたを祝福されますように」と答えた(2:4)。 まるで、食料に困る二人の未亡人を救う救い主が登場したかのように、挨拶のことばが表現されて いる。イエス様のエルサレム登場を思わせる。ルツ記の一つの特徴は、この短い話の中に、何かも っと大きなレベルのことや、後に起きることなどを、比喩的にほのめかすようにその表現や描写が されていることで、これもその一つ。ボアズはルツに言った。 娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしては いけません。...私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておき ました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい(8-9 節)。 ボアズは、彼女に、自分の家の女たちに混じって落ち穂を集めることを許し、水まで自由に飲ませ るようにした。完全に、彼女を特別扱いしている。それだけではなく、食事時には、彼女に働く者 たちと一緒に座らせて食事をさせ、ボアズ自身が入り麦を取って彼女に渡す と、彼女はそれを十分に食べ、余った物を家に持ち帰ってナオミに食べさせ た。これが、神とその祝福から離れた異邦人であったにもかかわらず、信仰 によって神の家族に受け入れられ、相続人とされた私たちである。

    1h 7m
  6. 06/12/2016

    子としての祝福 No.15

    ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出した ので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ(ヨシュア2:21)。 「赤いひも」ということばは、この話の中で二回出てくるが、18 節では「ティバット・フート・ ハシャニー・ハゼ)」であったのが、この21 節では、「ティクバット・ハシャニー」と短くなっ ている。両方ともに、「ティクバット(ひも、または希望)」ということばはそのまま使われてい る(「ひも」の意味では、聖書でこの2 箇所だけ)。まさしく、この「赤いひも」がラハブとその 家族に、しいては人類全体にも救いを与える「希望」であった。事実、彼女は、その後、イスラエ ル人の中に住み続け、ユダ族のサルモンと結婚し、ボアズを生み、ボアズにモアブ人のルツによっ てオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデが生まれ、その子孫としてイエ ス・キリストが生まれた(マタイ1:4 以降)。ラハブは、異邦人が相続人とされて用いられた典 型であり、それは彼女の信仰によった。 「赤いひも」の「赤い」というのは、血の意味で、やがてキリストを通して流される、贖いの血を 指していることを先回学んだが、今回は、それがどのようにして私たちを贖うことになったのかを、 簡単に見てみよう。まずは、次のようなみことばに注目。 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵 みによることです(エペソ1:7)。 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。ま た、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです(ヘブル9:22)。 まず第一に、イエスの血は「罪の赦し」を与えるもの。義なる神にとって、人の罪を赦すというこ とは簡単なことでなかった。それには、二つの面があった。まず、罪によってサタンの奴隷となっ た者を、神が代価を払うことによって買い取ってくださったということ。その代価がイエスの血で あった(1 コリント6:20、マタイ27:6 など)。次に、罪によって神の怒りの対象となった私た ちを、その怒りから救ってくださったということ。不義なる者は、義なる神の目にかなうことはな く、その怒りの対象となる。怒りは、義の不義に対する必然的な反応である。そして、神の目にか なわない者が相続人として祝福を受けることは不可能。そのために、神はご自分の怒りをご自身の ひとり子の上にぶつけられた。これによって、神は、ご自身の義と愛の両方を明らかに示された。 つまり、ご自分の義に対して妥協することなく、罪を赦すという愛を示された。 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから 救われるのは、なおさらのことです(ローマ5:9)。 したがって、イエスの血は私たちに義をもたらした。これが第二の真理。そして、義とされた者は、 大胆になって神の臨在の中に入っていくことができる。 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよ い水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか(ヘ ブル10:22)。 これが第三の真理で、神の相続人として受ける祝福の土台といえる。この大胆さがなければ、神を 求めて礼拝することも、祈りで神に願うこともできない。霊的な麻痺や鈍感さは、心の奥底に潜む 罪責感のせい。しかし、キリストの血の注ぎを受けた私たちは、霊的な活気と熱心さを持って、大 胆に神の御前でその祝福を奪い取っていくこと。これが相続人の姿。

    1h 7m
  7. 06/05/2016

    子としての祝福 No.14

    私たちが、この地に入って来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを 結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を 全部、あなたの家に集めておかなければならない(ヨシュア2:18)。 これが、破壊から救われるために遊女ラハブがしなければならないことであった。「この赤いひも (ティクバット・フート・ハシャニー・ハゼ、文字通りは、この赤い糸のひも/布)」と訳されて いることばには、深い比喩的な意味が隠されている。まず、日本語の訳に比べ、ヘブル語では随分 長いことに気づく。その意味を全部正確に訳すことは不可能。「ハシャニー」の「シャニー」とい うことばが「赤い」という意味だが、これは日本語の「朱に染まる」という表現の語源であった可 能性が高い。 実は、シャニーと呼ばれる色のひもや布は、ある種の樫の木(Kermes oak)に寄生する昆虫(coccus ilicis)から取れる染料によって染められたもののこと。この染料で染められたひものことが、ら い病から癒された人の清めに関する規定の箇所にも出てくる。 生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸(シュニー・トラアト)とヒソプといっしょに取り、 湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す(レビ 14:6)。 この赤いひもで、杉の木とヒソプを縛り、水と血の混ざった中に浸し、それで、らい病から癒され た人に振りかけ、生きた小鳥は野に放った(51-52 節)。これらは十字架(杉の木)につけられた イエス様のことを予言したもの。彼の体が水と血を絞り出されるヒソプで、紅い羊毛はそこから流 れ出る血を表す。この染料を作るための虫をトラアトと呼び、次のようなみことばが詩篇にある。 しかし、私は虫けら(トラアト)です。人間ではありません。 人(アダム=赤)のそしり、民のさげすみです(詩篇22:6)。 このトラアトとは、世界を清めるために血を流されたキリストのことを指し、このみことばは十字 架の上での彼の姿を予言したもの。 もう一つ注目すべきことは、上の「赤いひも」という表現の最初のことば、「ティクバット」(21 節にも使われている)は、そのままの発音で、「希望」の意味もあって、この「赤いひも」が、ラ ハブとその家族にとっては、まさに救いの希望であったことを示している。同様に、私たち、キリ ストを信じる者にとっては、彼の流してくださった血潮が救いの綱であり、唯一の望みである。 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。ま た、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです(ヘブル9:22)。 罪の赦しがなければ、義とされることはなく、義とされなければ、相続人であることはなく、相続 人でなければ、神の約束による祝福を受けることはなく、のろいの下に生き、死と同時に地獄に落 とされる。 わたしは、人間(アダム)の綱、愛のきずなで彼らを引いた。 わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせ てきた(ホセア11:4)。 「人間(アダム)の綱」とは、「赤(アドム)の綱」のことで、人間になられたキリストの流して くださった血(ダム)の綱であり、神の私たちに対する「愛のきずな」である。この綱で、エリコ に遣わされた斥候も追手から救われたが、同じ綱で、ラハブとその家族も救われ、私たちキリスト にある者も、破壊から引き抜かれて救われた。まさに、これこそが、私たちにとっての命綱である。

    1h 7m
  8. 05/29/2016

    子としての祝福 No.13

    アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。アブラハムにイサクが生まれ、 イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、...サルモンに、ラハ ブによってボアズが生まれ、ボアズに、...エッサイにダビデ王が生まれた(マタイ1: 1-6)。 聖書の系図は、単にイスラエルの民の先祖が誰であったのかを示すものではなく、神の定めによ る相続権がどのようにして引き継がれて来たかを示すものである。アダムの時の相続権は、罪の 結果、人類から取り去られたが、アブラハムの時、その子孫によって相続の民が起こされ、しい ては、世界中の民も相続に入れられる約束が与えられた。したがって、上の系図では、アブラハ ムから始まり、その約束がキリストにあって成就したことをほのめかしている。つまり、神の相 続権が、キリストの死と復活を信じる、あらゆる国の人々にも与えられるようになった。そして、 この真理を裏付けるかのように、上の系図には、ラハブの名が出てくる。彼女は、エリコの町に 住むカナン人の女で、遊女であった。 ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行 って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家に入り、 そこに泊まった(ヨシュア2:1)。 エリコは、契約の箱をかつぐ祭司たちが町の周りを回り、角笛の音と同時に、 民がときの声をあげた時、その城壁が崩され、神の奇跡によって滅ぼされた 町である。全てが聖絶され、次のような呪いが誓われた。 この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、 その門を建てる者は末の子を失う(6:26)。 そんな町の一人の住民で、しかも遊女であったものが、神の相続人として選ばれ、しかも、彼女 の子孫から、ダビデ、そしてイエス・キリストが生まれるようになったことには大きな意味があ る。 彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。...しかし、遊女ラハブとその父の家族 と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中 に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者 たちを、ラハブがかくまったからである(24-25 節)。 「ラハブがイスラエルの中に住んだ」とは、彼女が相続人の中に加えられたことを指す。彼女は ユダ族のサルモンと結婚し、息子のボアズが生まれ、ボアズはモアブ人のルツと結婚した。そし て、ヨシュア記が書かれた頃、彼女はまだ生きていたようだ(おそらくベツレヘムに住んでいた)。 彼女がこのように相続人とされ、キリストの系図の中に入れられたのは、彼女が次のように告白 したからである。 主がこの地をあなたがたに与えておられること、...私は知っています。あなたがたがエ ジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、... 私たちは聞いているからです。...あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神で あられるからです(2:9-11)。 救われたのは、彼女だけではなく、彼女の家族、彼女に属するすべての者 たちも破壊を免れ、相続人としてイスラエルの民の中に住んだ。

    1h 7m

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