リジョイス聖書日課

RCJメディアミニストリー

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

  1. 2h ago

    神の言葉その価値を知る知恵を(ゼカリヤ書 11章)

    「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。…」 彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。 (ゼカリヤ書11章12節) 驚くほどに奇妙なのは、神の言葉が軽んじられたことです。聖書も知らず、約束にあずかることもなく歩んだ人びとにおいてではありません。神が語りかけ、神が御業をもって養い導いた民において、神の言葉の価値がふさわしく認められることがありませんでした。神は、預言者をとおして問います。自分なりに見て判断し、その価値を見積もって「わたしに賃金を支払え」。 払われた賃金は銀三十シェケルでした。これは、労働の対価でさえありません。奴隷への対価です(出21章32節)。まずは、預言者への価値判断でしたが、それは主とその言葉への価値判断でした。主は預言者に言われました。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」(ゼカ11章13節)。 恐ろしい価値判断です。しかし、誰が神とその言葉の価値を正しく判断できるでしょうか。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。主イエスにも、同じ対価が支払われました(ヨハ1章14節、マタ27章9節)。 その価値を知るのは、福音においてです。キリストにおいて、救いの道を歩むに応じて、です。慌てて知ることもできません。 【祈り】 どのような希望が与えられているか、どれほど豊かな栄光に輝いているか、悟らせてください。

  2. 1d ago

    悔い改めて考え直す勇気を(マタイによる福音書 21章23-32節)

    「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。」 (マタイによる福音書21章29節) 信仰とは、立派な言葉を並べることではなく、神の御前に立ち帰る歩みそのものです。祭司長や長老たちは、神殿の権威を守ることに腐心し、悔い改めを求める洗礼者ヨハネを拒み、ここでは主イエスを受け入れませんでした。彼らは口では神に従うふりをしながら、心は自己保身に囚われていたのです。 主イエスが語られた二人の息子のたとえでは、最初は「いやです」と言って拒絶した兄が、あとで「考え直して」父の願いに従いました。そのように、かつて過ちや反抗があったとしても、神はいつでも私たちが立ち帰るのを待っておられます。社会から疎まれていた徴税人や娼婦たちが先に神の国に入ると言われるのは、彼らが自らの不信仰を認め、素直に心を入れ替えたからです。 私たちも、日々の生活の中で神に立ち帰るための祈りを大切にしましょう。主が求めておられるのは、体裁を整えることではなく、自分の弱さに気づき、主の愛に信頼して一歩を踏み出す勇気です。悔い改めとは惨めな後悔ではありません。主の招きに応えて、喜びをもって新しく生き直すという希望の決断です。頑なな心を主の前に差し出し、主の望まれる道へと向きを変えましょう。その道の先に、豊かな赦しと大きな恵みのぶどう園が待っているのです。 【祈り】 主よ、悔い改め、考え直して、主の道を歩ませてください。

  3. 2d ago

    御言葉から離れず(箴言 30章)

    神の言われることはすべて清い。 身を寄せればそれは盾となる。 (箴言30:5) 箴言は大切な知恵をさまざまな角度から教えます。そのすべては、私たちを神から離れさせず、神の近くにおらせて永遠の滅びから守り、祝福し、神を賛美させるための知恵です。30章でもその一つが教えられます。 それは御言葉に依り頼むことです。「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる」。神の言葉は人の知恵とは違い、清くて真実と力に満ち、依り頼む者を神の近くにおらせ、罪からも永遠の悲惨からも盾となって堅く守ります。 それだけに、「御言葉に付け加えようとするな。責められて、偽る者と断罪されることのないように」と教えます(6節)。御言葉に何かを加えることは、私たちを神から遠ざけ、危険です。御言葉から何かを減らすことも含めて(申4章2節参照)、よく注意しましょう。 8節に「むなしいもの、偽りの言葉」を遠ざけることと、「貧しくもせず、金持ちにもせず」とあるように、経済的な点での注意も必要です。貧しさから盗みを働いて神の御名を汚したり、飽き足りて「主など何者か」と不遜になることも(九節)、私たちを神から遠ざけ、霊的危険にさらします。 神に近くあることを幸いとし(詩73編28節)、箴言が教える神の知恵によって生きたいと思います。 【祈り】 主よ、私たちがどんなときにもあなたから決して離れず、あなたの御側近くにおらせてください。

  4. 3d ago

    主の御名に力を得て歩み続ける(ゼカリヤ書 10章)

    わたしは主にあって彼らに力を与える。 彼らは御名において歩み続けると 主は言われる。 (ゼカリヤ書10章12節) きょうの聖句の「力」とは、飼い主のいない羊のようにさまよう心が、今すぐにでも必要とする力です。 「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい」(2節)。その空しさがすぐに明らかにはなりません。むしろ人を代え、様子を変えて、いろいろなことが語られます。そして、それは自覚もしないうちに、人の心に入り込みます。その慰めは一時的です。そして、苦しみ、疲れます。誰に従えばよいのか、わからなくなります。 主が与えてくださる力は、その人の心と思いを立ち上がらせ、一歩前へと進ませます。その力を受けて、「彼らは御名において歩み続けると、主は言われる」。その御名は、イエス・キリストです。「主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む」(詩9章11節)。依り頼む者たちは、羊飼いの声を聞き分けます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28章18、20節)。主はすぐ近くにおられます。そして、その心と思いを日ごとに、あらゆる人知を超える神の平安の中へと守ります(フィリ4章5~7節)。 だから、私たちは歩み続けられます。その力は朝ごとに、御名を呼ぶ者へ新しく備えられるのです。 【祈り】 主よ、あなたに従う力を、きょうも与えてください。

  5. 4d ago

    王が来たろばに乗って高ぶりはない(ゼカリヤ書 9章)

    見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。 (ゼカリヤ書9章9節) 神殿の建築がなされ、神への礼拝が霊的に再建されなければなりません。神の言葉への信頼が、見える現実の中で、信仰によって確認されます。主は周囲の国々の高ぶりを、ことごとく絶たれます(1~7節)。神を畏れる信仰に、神の守りが伴うことを思い起こさせます。「もはや、圧迫する者が彼らに向かって進んで来ることはない。今や、わたしがこの目で見守っているからだ」(8節)。 そして、未来の希望は一人のお方にかかっています。「見よ、あなたの王が来る」(9節)。そのお方こそ、主の民がダビデの子として、望みをかけるべき永遠の王です。「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サム下7章13節)。そのお方が主イエスです。主イエスはろばの子に乗って、エルサレムに入られました。死に至るまで従順に神に従い、勝利を与えられた王として。 この預言がなされたときも、また、主イエスにおいて成就したときも、その王の栄光は、人の目に隠されていました。しかし、神を礼拝する人びとは、そのお方を日々新たに知って、望みを抱き続けます。神の栄光はご自分を無にして従順に神に従い、一切の高ぶりのない王によって現されます。神を礼拝する人びとはこのお方を仰ぎます。 【祈り】 主よ、主を仰ぐ喜びをもって、きょうも歩ませてください。

  6. 5d ago

    勇気を出せ自らの霊を強められて(ゼカリヤ書 8章)

    「勇気を出せ。 あなたたちは、近ごろこれらの言葉を 預言者の口から、度々聞いているではないか。… 神殿の基礎が置かれ 再建が始まった日から。」 (ゼカリヤ書8章9節) 神殿の再建が始まりました。それは、神の力と栄光が鮮やかな日でした。バビロンは倒れ、神の預言が成就し、破壊された神殿の基礎が据えられました。しかし、その基礎は、見た目が貧弱でした。「初めのささやかな日」を示すものでした(4章10節)。その後も、順調に進みませんでした。 しかし、信仰はここからです。信仰によって見ながら、将来の実りを望みます。自分の心と考えが進む道が決定的に重要です。「権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(4章6節)。むなしい思い込みや独断ではありません。主の言葉があります。その言葉によって、見えないものに目を注ぎます。そして、「勇気を出せ」。 そのような信仰をもって、神にひたすら祈り求めるのは決してむなしいことではありません。そこに喜びがあります。信仰によって見るべきは、神の御顔です。「神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(2コリント4章6節)。聞くべきは、その口から語られる一つ一つの言葉です。その言葉によって日ごとに望みを新たにしつつ、神を待ち望みます。「今やわたしは再びエルサレムとユダの家に幸いをもたらす決意をした。恐れてはならない」(15節)。 【祈り】 力と愛と思慮分別の霊よ、信仰の勇気を満たしてください。

  7. 6d ago

    果たして誰のため何のためか(ゼカリヤ書 7章)

    「果たして、真にわたしのために断食してきたか。… ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか。」 (ゼカリヤ書7章5節~6節) 神に従うことを喜びとするか、重荷とするか。二つに一つかもしれません。預言者に「節制して悲しみのときを持つべきでしょうか」と尋ねた人びとは、神に従うことを重荷とし始めていました。長年続けてきたけれども、喜びも変化もないかのように考えたのかもしれません。実際、神の預言が成就して、バビロン捕囚から解放されました。エルサレムの神殿の基礎も据えられました。すでに二十年近くが経ちました。しかし、最初の目覚ましい変化は続かず、神殿の工事も、さまざまな妨害の中で、滞っていました。 預言者をとおして、神が語られました。「主が先の預言者たちによって呼びかけられた言葉を知らないのか」(7節)。先祖たちに語られた言葉は、今も生きているのです。その時代、先祖たちは、その表向きの熱心にもかかわらず、心から聞き従うことはありませんでした。そして、「彼らは喜びの地を荒廃に帰させた」(14節)のです。 状況は変わりました。しかし、神へと向かう心の現実は変わったか。先祖たちに語りかけた主は、昨日もきょうも変わりません。悔い改めと信仰へと招いておられます。そのために、預言者が語り、主の言葉がそこに与えられました。 【祈り】 主のもとで重荷を軽くして、主を喜ぶ道へと進むよう、主の言葉を理解させてください。

  8. Sep 21

    足もとから萌えいでる若枝(ゼカリヤ書 6章)

    「見よ、これが『若枝』という名の人である。 その足もとから若枝が萌えいでる。 彼は主の神殿を建て直す。」 (ゼカリヤ書6章12節) ゼカリヤは、バビロンから帰還したユダの民に神の言葉を語った預言者です。この帰還した民の中に大祭司ヨシュアがいました。主なる神は、ゼカリヤに、銀と金で冠をつくらせました。そして、大祭司ヨシュアの頭に載せ、「見よ、これが『若枝』という名の人である」と宣言するように命じました。こうして、主なる神は、大祭司ヨシュアを主の神殿を建て直すために遣わされました。 エルサレム帰還後、ユダの民に王はいません。そのため、大祭司ヨシュアが民を守り導く王としても働くことが主によって命じられました。祭司と王、両方の働きを行った大祭司ヨシュアは、来るべきメシアをあらわしていました。大祭司ヨシュアの中心的な働きは、神殿を建て直すこと、すなわち、礼拝を整えて導くことです。ユダの民がエルサレムで再出発するにあたって、礼拝を整えることは最も必要なことでした。 大祭司ヨシュアがあらわしていた、「若枝」と呼ばれる、来るべきメシアとは、イエス・キリストです。イエス・キリストは、大祭司として、王として、預言者として働かれます。イエス・キリストは、私たちと共にいて、私たちの礼拝を導いてくださいます。イエス・キリストに導かれた礼拝を土台として、これからも信仰の歩みを続けていきましょう。 【祈り】 主がいつも共にいて、私たちの信仰の歩みが守られますように。

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