リジョイス聖書日課

RCJメディアミニストリー

リジョイスは「日本キリスト改革派教会 教育機関誌委員会」が毎月発行している機関誌です。リジョイスには聖書日課が用意されており、日替わりで聖書のみことばと解説が紹介されています。

  1. 10H AGO

    あなたはこの時のために(エステル記 4章)

    「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」 (エステル記4章14節) モルデカイはエステルに、命をかけて王に嘆願するよう求めます。彼女がこの決断をしなければ、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こるとモルデカイは言います。選びの民であるユダヤ人を、神は必ず救ってくださる。この確信が、モルデカイにはあります。 選びの民の解放と救済の実現は、御言葉によって示されている神の確かな御計画です。それをふまえて、モルデカイは言葉を続けます。このときのためにこそ、あなたは高い地位に導かれたのではないか。この神の御計画に従う決断を、今こそしなければならない、と。この決断に、エステルが王妃にまで導かれた神の目的が示されます。 キリストの十字架によって救われた私たち一人一人にもまた、神の御計画と目的があります。私たちはしばしば、自らが救われた事実のみに満足してしまいます。しかし、大切なことは、救われたわたしを神がどのように用いて、悲惨の中にある人びとの救済と解放を実現されるか、です。救済と解放をもたらす神の御計画と御業に加わるよう、私たちもまた招かれています。 この招きに応える決断をして一歩を踏み出すとき、わたし自身の人生に確かな意味が生まれるのです。 【祈り】 あなたに従う決断をしてきょうを歩みだす私たちを、あなたの救いの御業に用いてください。

  2. 1D AGO

    悪意を助長する無関心(エステル記 3章)

    急使は王の命令を持って急いで出発し、要塞の町スサでもその定めが公布された。スサの都の混乱をよそに、王とハマンは酒を酌み交わしていた。 (エステル記3章15節) ユダヤ人を根絶やしにする。このハマンの計画が順調に進んでいます。彼はクセルクセス王のところに行きます。そして、一つの独特な民族を、王の法律に従わないことを理由に根絶やしにすることを進言します。 このハマンの進言に対する王の反応は、「その民族はお前が思うようにしてよい」というものでした。積極的に同意するのではなく、無関心な態度です。他者に対するこの無関心さが、ここに記されている王の特徴です。それは15節において、スサの都の混乱をよそに、王がハマンと共に呑気に酒を酌み交わしている様子に表れています。 ユダヤ人に対するハマンの告発は、真実に基づかないものです。神の民に対するこのような理不尽な悪意は、いつの時代にもあります。しかし、それを助長し、実行に移させたのは、その悪意に対する無関心です。自分に被害が及ばなければよい。他の人びとの命が失われようが関係ない。このような無関心さが、理不尽な悪意による悲惨をもたらします。 私たちのできることは限られています。それでもなお、今まさに命が奪われようとしている人びとへの無関心を、乗り越えてまいりましょう。そこから、命を救われる神の御業はなされていくのです。 【祈り】 自分以外の誰かに悲惨をもたらす理不尽な悪意への無関心を、私たちの心から取り去ってください。

  3. 2D AGO

    塵に返る者として生きる(創世記 3章)

    「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 (創世記3章19節) ルター派の友人が灰の水曜日の礼拝の様子を教えてくれました。礼拝の中で「灰の授与」と呼ばれるものがあり、牧師が信徒の額に灰で十字架の印をつけながら、「あなたは塵であり、塵に返る」(創3章19節)、または「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1章15節)という言葉を唱えるのだそうです。 創世記によれば、神は土の塵で人を造り、命の息を吹き入れられました。人間の本質は塵であり、神の息によって生かされている存在なのです。しかし罪によって、人は再び塵に返る存在となりました。灰の水曜日の灰は、栄光から灰へという人生の移ろいを象徴し、私たちの有限性と罪がもたらした死の現実を思い起こさせます。 それでは、人間は灰のように空しい存在なのでしょうか。決してそうではありません。キリストの救いによって有限な存在である私たちが、無限なる神の愛を受け、神の子とされている恵み。塵である私たちを愛し、ご自身の似姿として造り、永遠の命を与えてくださる神の恵み。栄光から灰で終わらない。灰から命へと向かう。灰の水曜日から始まる四旬節の歩みを通して、塵である私たちを愛し、十字架で救ってくださる神の恵みを深く味わいましょう。 【祈り】 恵み深い神よ、私たちが塵であることを覚え、キリストの恵みに感謝して歩ませてください。

  4. 3D AGO

    本当の美しさとは何か(エステル記 2章)

    エステルは後宮の監督、宦官ヘガイの勧めるもの以外に、何も望まなかった。エステルを見る人は皆、彼女を美しいと思った。 (エステル記2章15節) 王宮に連れてこられたエステルは、監督へガイの目に留まり、特別な扱いを受けました。王妃候補者として王宮に集められた女性たちに求められたのは、美しくあることでした。そのためならば、娘たちが望むものは何でも与えられました。 エステルは、へガイの勧めるもの以外は何も求めませんでした。裏を返せば、他の女性たちはたくさんの物を要求し、それらが与えられていたということです。男性は自らに都合の良い美しさを女性に求め、女性は多くのものを手に入れようと躍起になっている。そのような利用し利用される関係が、王宮では当たり前でした。そのなかで、神の民であるエステルは特異な存在でした。皆、彼女を美しいと思いました。見栄えだけでなく、神の民としての生き方も好意的に受け止められたのです。 彼女の生き方には、彼女を心配しながら見守るモルデカイの存在が強く影響しています。二人の関係は、相手から得られる利益に基づくものではありません。真の愛の関係が結ばれています。その関係に神の民の生き方が示されています。 キリストはこのような愛の関係で、主を信じる者どうしを結んでくださいます。その姿は、主を信じていない人びとからも美しく映るのです。 【祈り】 利害を超えた真の愛の関係の中に、私たちが生きることのできる恵みに、感謝します。

  5. 4D AGO

    自らの力が及ばないところで(エステル記 1章)

    ところが、王妃ワシュティは宦官の伝えた王の命令を拒み、来ようとしなかった。 (エステル記1章12節) クセルクセス王はインドからクシュに至るまで、非常に広い土地を支配していました。この王が酒宴を催します。この酒宴には、大臣や家臣など国の中枢を担う人びとが招かれました。自らの偉大さを熱心にアピールする王の姿を見ることができます。さらに王宮の庭園で催された酒宴には、要塞の町スサに住む者が皆、身分の上下を問わず招かれました。王は自らの寛大さをも示そうとしたようです。 この酒宴に参加した人びとの大半は、偉大さと寛大さという面において、この王を理想的な支配者として讃えたことでしょう。一方で、王妃ワシュティは、王の思いどおりには行動しませんでした。広大な領土も多くの人びとも思いのままに統治しているように見える王ですが、最も身近な存在である妻が思いどおりになりません。しかしながら、彼女の行動をとおして後にエステルが王妃として見出され、神の救いの御業がなされていくことになります。 私たちは誰しも、自らの思いどおりにならないことに恐れを感じます。しかし、神はそのようなところから御業をなされます。だからこそ自らの力の及ばないことを恐れるのではなく、そこでなされる神の御業に目を向けようではありませんか。 【祈り】 力及ばないことを恐れるのではなく、そこでなされるあなたの御業を待ち望む者とならせてください。

  6. 5D AGO

    神の子イエスの言葉に従え(マタイによる福音書 1-13節)

    すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 (マタイによる福音書17章5節) 高い山での主イエスの変貌の出来事は、弟子たちにとって驚くべき体験でした。主イエスの顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったからです。さらに、そこにモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合うという出来事が導かれたからです。ペトロは興奮して三つの仮小屋を建てることを提案しましたが、そこで、光り輝く雲が彼らを覆い、雲から声が響き聞こえました。 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。 この父なる神の声は、主イエスがまさに神の子であることを明確に示すものでした。主イエスと語り合う、モーセは律法を、エリヤは預言者を代表していました。しかし、主イエスは彼らを超えた存在であられます。雲からの声が、「これに聞け」と言われるように、私たちがいつも心を尽くして、主イエスの言葉に従うことの重要性を教えています。 この出来事は、私たちにとって信仰の確信を与えます。主イエスこそが神の子であり、私たちが聞き従うべきお方です。日常の中で迷いや困難に直面するとき、この神の子の声に耳を傾け、従うことが私たちの恐れを取り除きます。 【祈り】 天の父よ、あなたの愛する子イエスを通して示された栄光を感謝します。私たちがいつも主イエスの言葉に従って歩むことができますように。アーメン

  7. 6D AGO

    水なき所を泉とする神の御前に(詩編 114編)

    岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。 (詩編114編8節) かつてエジプトの奴隷だったイスラエルの民は、モーセによってエジプトから脱出し、神の聖なる民、神が治められる神の所有とされました。その際に、海はまるで逃げ去るように分かれて道をつくり、カナンに入る際にはヨルダン川は退くように壁となって干上がり、神の民はその間を進んで行きました。またシナイ山で十戒を授かった際には、山々はまるで踊るように震えました。 海や山のような自然の大きさ力強さに比べれば、人間は本来弱くて小さな存在です。その無力さを嘆くことしかできない者です。しかし全能の神を知り、神の所有となるとき、神はその全能の御力を、神の民の救いの実現のために用いてくださるのです。ですから、自分たちもそのような出エジプト以来の神の民なので、その特権を喜び誇りつつ、自分たちを飲み込もうとする暗闇の力に対して恐れることなく「どうしたのか」(5節)と胸を張ることができるのです。 硬い岩から水を溢れさせ、砂漠を泉としてくださった神は、今も生きて、私たちと共にいてくださいます。主イエスが与えてくださる命の水を飲む者は、その人自身が泉となり、永遠の命に至る水が涌き出て(ヨハ4章)、荒れ野のようなこの世をうるおすのです。 【祈り】 主よ、頑なな私たちの心を砕き、荒れ野のようなこの世の中で、命の水が湧き出る泉とならせてください。

  8. FEB 13

    数字を求めるその心とは(サムエル記下 24章)

    主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。 (サムエル記下24章1節) ダビデが国の人口を数えてしまいます。霊的なことにあまり鋭くない将軍ヨアブさえダビデを引き止めようとしたほど、この調査が罪であることは明らかでした。しかし、王には聞く耳がありません。 何が罪なのでしょうか。ダビデは、神よりも馬や軍人の数を頼りにしたのです。彼は「名前」よりも「数」を愛したのです。前章でダビデの勇士たちの名前が挙げられていました。対照的にここでは数字です。「剣を取りうる戦士はイスラエルに八十万、ユダに五十万」(9節)。悪魔は物事を抽象化して、まるで人間に力があるように錯覚させることがあります。 神はダビデの罪を裁かれます。三日間、国に疫病が起きたのです。ダビデはすぐさま自分の責任から行動します。心からの悔い改めを祈り、次に民のために執りなし祈りました。そしてダビデは麦打ち場を買い取り、祭壇を築き、神に献げ物をささげます。そうして疫病は止みました。後にこの場所に神殿が建てられます(代上22章1節)。大切なこの土地の獲得は、ダビデの功績ではなく、神が与えられたものです。 ダビデの回心は具体的でした。ダビデは「心を打たれ」(10節の直訳)、数を愛したことを悔い改めます。「羊の群れ」(17節)と、親密な言葉で民を呼ぶようになったのです。 【祈り】 お金や力ではなく神に頼る素直な信仰をどうかお与えください。

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