よっしーの「今週のエッセイ」

森田義夫

自分が書いたエッセイに自分で、突っ込みを入れてます。過去の自分と今の自分、どんなんかな?

  1. 07/08/2024

    今種のエッセイ/ポストでワクワク

    そういえば、文通をしていた時期もあった。 あれは、7年前か、でも、一年ちょっとでやめてしまった。 最初は、愉しかったが、だんだんと話題がなくなり、 共感することも少なくなってきて、自然と遠ざかった。   ポストでワクワクしたのは、最初の三か月ぐらいだった。   このエッセイは、2017年12月の作品です。   ****************************************************************************   ポストでワクワク    ネットのニュースをサーフィンしていたら、「文通」というニュースソースにヒットした。ブームとまではいかないが、増えているらしい。そう言えば、小学校時代に、引っ越していった女の子と文通していた事を思いだした。万年筆は買ったまま使っていない。文章を書くことは多いが、文字を書くことは少なくなってしまっていた。言葉も漢字も忘れがちだ。文通するのも悪くはない。でも、この歳で文通していますとは、気恥ずかしくて言えない。第一、文通してくれる人が果たしているのだろうか。  そこで、ネットで調べてみた。便利な世の中になったもんだ。「文通村」というサイトがあった。こちらは会費制で費用がいる。もう一つは、日本郵政が主催の「青少年ペンフレンドクラブ」というものがある。こちらは、以前から知ってはいたが、縁がなかった。果たして六十六歳の私が青少年と言えるのだろうか。文通相手が見つかるのだろうか、恐る恐る申し込んでみた。年齢も性別も問わないようだ。毎月「レターパーク」という会員情報誌が送られてくる。その中に、国内ペンパル、海外ペンパルの紹介が掲載されている。名前、県名、年齢、メッセージを読みながら、自分に合いそうな人を選び、手紙を出してみた。最初だけは事務局が介在するが、あとは個人レベルでやりとりするらしい。  十日ほど経った頃だろうか、ポストに見知らぬ名前の人から手紙がきていた。ポストに手紙が入っていると何だか嬉しくなる。三日後に返事をしたため、ポストに投函してきた。これも嬉しいものだ。でも、まだ、返事はこない。どうやらペース的には月一のようだ。恋人じゃあるまいし、行ったり来たりが頻繁であるはずがない。思い込んでいた自分が恥ずかしい。  文字を書くということが久しぶりなので、なかなかうまく書けないが、楽しみではある。毎日、家のポストをのぞき込むのが楽しみになってきた。これから先、どんな展開を見せるかは皆目分からないが、楽しみが一つ増えたことは確かである。   *****************************************************************************   どうにも、他人とのかかわりが下手なようです。 自分一人の世界では、長く続くのですが、 他人が絡んでくると、なかなかうまく続かない。 浅く、細く、そんな付き合いが似合っているようです。   それも亦愉しからずやです。

    4 min
  2. 06/30/2024

    今週のエッセイ/ひと花咲かせませんか?

    これは、2017年11月の作品です。 今から、7年前の作品です。 7年間で、何かひと花咲かせたかな?ないですね。 この時のピアノの発表会は散々でした。 舞台から途中降板でした。 今もピアノは毎日弾いていますが、教室には通っていません。 あまりストレスはかけないようにしています。   ************************************** ひと花咲かせてみませんか?    それは、恋愛でもいいし、仕事でもいいし、趣味でもいい。「人間五十年」と言っていた時代から考えると、いまや百年の時代である。信長は言うかもしれない「長さじゃない、重さじゃ。この大地でどれだけ踏ん張れるかじゃ」私は信長ではないので、軽~く生きていきたい。でも、もうひと花咲かせたい気持ちはある。それは、世の中に貢献するというよりも、自分の中で人知れず咲く花でいい。誰にも理解されなくてもいい。他人から「つまらん人生やね」と言われても構わない。もはや眼中に他人はいない。自分の好きな事だけをして過ごしたい。明るい引き籠りでいたい。  では、何という花を咲かせようか。匂いで気づかせる金木犀、鮮やかな主張のハイビスカス、山の麓の小さな村に咲くレンゲ草。私は、いつでも、どこでも、何時間でも、見ていて飽きない花がいい。仮にその花の名を「阿喜那畏花」とでも呼ぼうか。ちなみに、「阿」には、「まがっていりくんだ所」という意味があり、人知れず咲くにはいい場所だ。そして、その花を見ると「喜」びが湧きあがるのもいい。「那」には特別な意味はないが、その花の前では『どれどれ』と言いながら座って見つめていたくなる。「畏」は大事なことだ。その花に対する畏れ、自然と頭が垂れるのがいい。  さて、ひと花のイメージは出来上がったが、今の生活の中で何が当てはまるのか、それとも、また、新しい何かが私の心に取りつくのか。恋愛でいうと、このイメージにぴったりの女の人が現れるのか。「昔の事を忘れてしまうには、素敵な恋をすることさ」と日吉ミミが歌っていたが、私には関りはないようだ。仕事で何かと出会うのか。今はネット社会なので、資金が無くてもクラウド、人材がなくてもIOT、店舗がなくてもインターネット。企画力さえあれば何とかなりそうだが、私の心はアナログのままである。残るは趣味。少なくはないが、どれもこれも三流どまりである。花を咲かせるまでには至っていない。でも、このイメージに近いものがあるとすれば、ピアノである。十一月の発表会で、陽水の「少年時代」を上手く弾けたなら、ひと花咲くような気がする。  さぁ、これから先の残された時間の中で、いくつの花が咲き乱れるのだろうか楽しみである。「花の色は うつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに」と小野小町が詠っているようなことにはならないように、美貌の衰えを堰き止め、時間の流れをくい止め、懐古趣味から脱却し、寸暇を惜しんでひと花作りに邁進することとしよう。 **************************************   毎日のルーティンは順番があります。 朝、5時台に起きて8時までには、大体、一日の作業を終わらせます。 それから、朝ごはん、ギター、ピアノの練習。 午前中には、大体の仕事を終わらせ、 昼からは、エッセイ集の編集をしています。 一日が早い、残り時間が少ない。   それも亦愉しからずや。

    6 min
  3. 06/24/2024

    今週のエッセイ/インドア人間

    外には極力出ないようにしている。 街に出ると、お金が減る、時間が減る、体力が減る。 というか、インドアが性に合っているみたい。   このエッセイは、2017年11月の作品です。   ************************************** インドア人間    六十数年生きてきたが、親友なし、インパクトなし、厳しさなし。外に出るよりは、家で本でも読んでいる方が楽しい。人が大勢いると目が回る。人はおしゃべりが楽しいと言うが、私は頭が石になる。大勢の中では孤独感、ひとりの時は解放感。好きなスポーツはみんなインドア。好む趣味はみんなインドア。小学校の一年生から通知表の所見は「もっと積極的に」、先生たちは言葉を知らないようだ。学校は嫌いだ。今でも校門をくぐるのは嫌だ。人見知りが激しい。親睦会とやらで親しくなったことはない。ただ誰かが飲みたいだけだろう。頭脳明晰、容姿端麗、才能抜群、凄いとは思うが、なりたいとは思わない。だから、努力はしない。好きなことを一生懸命するのは努力ではない、好きだから。苦手なことを一生懸命するのは、努力である。でも、いくら努力しても一人前にはなれない。だから、そうすることはやめた。私のする事はすべて自分の為だ。他人の為にしたことはない。私の身長と同じように、この世の中では私はマージナルマンだ。流行は追わない。話題作は見ない。芥川賞・直木賞の作品も読まない。その時々で私のアンテナにひっかかったものしか読まない。本当は、読んでもその価値が理解出来ないのかもしれない。政治や宗教の話はしない。というよりも本音は言わない。討論は苦手である。理論で生きていないから。大きな声と理路整然は眉唾だと思っている。分からないという答えが一番信用できる。人生を舐めている。真面目な話と硬い話は苦手だ。いつも冗談と茶化す話しかできない。心を開くのは覗き見した後だ。距離感がない人間は鬱陶しい。自分のエリアには決して人を入れない。愛情もなければ人も信用できない。だから、ひとりになるしかない。 だけど、世の中に迎合しているインドア人間が、ここにいる。 *************************************   7年前だけど、何だか尖っている感じ。 今は、一人に違いないが、少し丸い感じ。   それも亦愉しからずやです。 それでは、皆さんの明日が希望に満たされたものとなりますように・・・。 おやすみなさい。よっしーでした。

    5 min
  4. 06/16/2024

    今週のエッセイ/あとがき

    2017年4月の作品です。 あれから7年、第41号で「余暇草倶楽部」も解散しました。 それが1年前です。 私は、書き溜めたエッセイを本にしてまとめました。 手作りで近しい人に配っています。   ************************** あとがき                              「人生はフィクション(小説)である。だからどのような人でも一つだけは小説を書くことができる」と書いたのは、哲学者三木清だった。思えば十五年程前に、多賀先生から「小説を書いてみない」と声かけられてから、余暇草の道を歩み始めた。ひとつの区切りである第三十号を迎えるにあたり、自分の道もネクストステージへと進もうとしている今、感傷的になるのは加齢によるものなのか、それとも、残された時の少なさか。  それぞれの言葉には、それぞれの人生が映し出されており、心の琴線に触れた言葉が踊りだしてくるものである。ロゴスとレーマ。どちらも言葉には違いないのだが、前者は、ただの言葉であり、後者は、心の中に入り込んでくる言葉である。だから、レーマの方は、その人の人生をも変えてしまうぐらいの力がある。 ひょっとすると、今まで積み重ねてきた三十号の中に、レーマを感じた人がいるかもしれない。偉大なり言葉の力。 **************************    電子書籍化しようとしています。 タイトルも著者もペンネームにして 変更しようとしています。 表紙は、誰かセンスがある人が作った方が いいのでしょうが、行き詰ったら、考えます。   俺も亦愉しからずやです。

    3 min
  5. 06/08/2024

    今週のエッセイ/夢のかけら

    夢のかけら   夢に色があるならば、あなたの夢は何色?私の夢は、萌黄色。はたまた、萌黄色とは何事ぞ。六十六歳となる者の語るべき色としては何とも不似合いではないのか。その色は、春の萌え出ずる若葉の色であり、若者の色であるべきだ。そうかも知れません。が、私にも若かった頃があったのです。その時の夢の色が萌黄色だったのです。  では、その若かりし時の夢とはどんな夢?ピアノの弾き語り。ほっ、冗談は休み休み言いたまえ。音楽的才能もない、楽譜も読めない者にできるはずがない。ピアノはもっと幼い頃からお金持ちの子どもが習うものじゃ。でも、習いたい気持ちが沸々とわいてくるのです。この気持ちが大事なのではないでしょうか。この気持ちが言わば私の才能なんです。  で、その才能は花開いたのかい?花開くどころか、種さえも植えることが出来ませんでした。そうだろう。思うだけの人なら巨万といるわ。あなたの才能は、そこで潰えてしまったのだ。もしかしたら、最初からなかったのかもしれないなぁ。そう思いたくはありません。若い時は種さえ植える機会がありませんでしたが、今からそのチャンスが与えられるかもしれないのです。  なぜ、種が植えられなかったのかなぁ?幼い頃は、うちが貧しくて、「惣領十五が貧乏の峠」といいますが、七人兄弟の末っ子として生まれたのがその頃でした。ピアノの習い事どころではありませんでした。そうらみろ、あなたにたとえその才能があったとしても、それを花開かせる経済力がなかったということだ。あきらめろ。でも、今は昔と違います。才能がなくても習うチャンスはあるのです。  懲りない奴だな、で、どうするんだ?才能探しの旅に出ます。またぞろ、おかしな事を言うものだ。あんたの歳では、百メートルも行かないうちに疲れて帰ってしまうんじゃないのか。やめとけ、やめとけ。時間の無駄、労力の無駄、お金の無駄だ。だからといって、何もしない自分がいたとしたら、それは許せないのです。たとえ才能がないことを見出しただけの旅だったとして旅立ちたい。  そうか、そこまで言うからには、何がしかの計画があるのだろうな?ノープラン。馬鹿か、お前は。才能があるかどうかも分からない。何の計画性もない。ないないずくしのお前に何ができるというのだ。頭を冷やせ。でも、やりたい気持ちはある。確かに才能はないだろうし、具体的な計画もない。未来も見えない。あるのは、ピアノを習いたい思いだけだ。勝手にしろ。   いつもの時間に目が覚めた。   今日は、初めてのピアノのレッスン日だ。

    5 min
  6. 06/02/2024

    今週のエッセイ/無事是貴人

    70数年生きてきた。 大過なく、無事に。 でも、貴人ではありません。   このエッセイは、2016年10月の作品です。   ************************************** 無事是貴人                            森田 義夫    「ぶじこれきにん」  この言葉に出会ったのは、高校生の時だっただろうか。その時は、「ぶじこれきじんなり」と、読んでいた。黒板に書いた古文の先生が、確かにそう言った記憶がある。無事という言葉には、健康、平穏、安心というようなイメージがあった。波乱万丈の人生も大過ない人生もある。私は、後者だ。 それはそれで貴人の中に加えていただければ、良しとしていた。  しかしながら、この言葉、禅語で、もう少し深い意味があると最近知った。読み方は、冒頭の「ぶじこれきにん」だそうだ。大きな病気もせず、毎日、平穏で安心して暮らしていたら、結構なことだが、どこか薄っぺらな人生にも思えてくる。ここでいう無事とは、外に対する欲望(馳求心『ちぐしん』というそうだが)を捨て去って、さわやかな心境に達することだそうだ。現状を考えると、健康だし、幸せだし、眠れない程(酷暑で眠れない時はあるが)の悩みもない。これでは、薄っぺらな貴人でしかない。馳求心を捨て切るとは、どういう心境だろうか。例えば、幸せや健康や平穏というものを自分の外に置いて、それを求めないということであり、それは、既に自分の中に備えられているということである。だから、外に向かって求める必要はない。しかも、爽やかな心境にあるということである。ここが難しい。ブレルのである。自分の中にある幸せは、ともすれば他人と交わることで簡単に崩れてしまう。そして、最終的には、自分の幸せを追認するのだが、そこには、もはや「爽やかな心境」と呼べるものはない。限りない妥協があるのみである。  自分のありのままの姿を認め、それを良しとし、馳求心を捨て切るには、誰かが自分のことを「大丈夫」と太鼓判を押してくれる人が必要である。いや、人ではいけない。無限にして偉大なるもの、すべてを知り尽くし、覆い包んでくれるもの、その存在に気づき、その存在の中で生かされているという体験を得ることである。そこに、「さわやかな心境」が生まれ、何に出会っても、ブレルことなく、過ごすことができる。嗚呼、貴人には程遠きなるかな。 **************************************   最近、ある方から、「波乱万丈の人生だね」と言われた。 私にはふさわしくない生き方である。 貴人でもなく、才能の人でもなく、ただただ普通に生きたかった。 何が普通なのかは、分からないが・・・。   それも亦愉しからずやです。

    5 min
  7. 05/26/2024

    今週のエッセイ/よかくさ五七GO

    これは、余暇草メンバーをイメージ化した川柳です。 だから、ブログにアップしても、誰も知らないので、面白きもない川柳。   2016年10月の作品です。   **************************************        よかくさ五七GO    今年のサラリーマン川柳の大賞は、  「退職金 もらった瞬間 妻ドローン」    そこで、現在のよかくさメンバーを五七五でシャレてみた。    「かわたれに 橋本橋で 佇みて」  実は、かわたれの明け方ではなく、たそがれ時だった。彼女が眺める景色の先には、何が見えているのだろうか。その顔は、少女漫画の主人公の如く、瞳が大きく輝いていた。たそがれ時よりも希望に満ちた明け方が似合ってる気がした。  「室見川 耳に音楽 華やぎて」  別にストーカーではないが、彼女の後ろを歩いていた。声かけたら違った表情が振り返る。人生笑った顔ばかりは見せられない。でも、いつもの表情に戻って大安心。  「ケークサレ 麦ぜんざいと 腕がなり」  娘からその名を教えてもらった。ケーキというよりオカズらしい。ぜんざいの中に麦が入っているのも初めてだ。彼女の食卓の一品が興味深い。  「締切日 またいでしっかり 魅せ笑い」  笑顔が可愛いとすべてが許される、らしい。得である。つい家内の顔が目に浮かぶ。締切日なんて何のその、ノープラン、約束の時間から準備が始まる。それでも何の支障がない。私以外の人には。彼女も家では笑顔を振りまいているのだろうか。  「他にはない 自分の世界 まっしぐら」  彼女には、些事は似合わない。と、言っても彼女のすべてを知っている訳ではないので、想像の域を出ないのだが、どこにいても空気のような私から見ると、常に存在感が際立っている。 *************************************   この当時「ポケモンGO」(?)が流行っていたので、 タイトルは、ちょっと真似ました。   それも亦愉しからずやです。

    3 min
  8. 05/18/2024

    今週のエッセイ/至福的お一人様生活

    他人といると、鬱っぽくなって、どうも調子が良くない。 子どもの頃から、そうだ。対人恐怖症なのかも。 従って、友達は少ない。 小学に入った頃、先生が、「友達をたくさん作って・・・」、 いつも違和感を覚えた。私には必要ないかも・・。   このエッセイは、2016年10月の作品です。 今から8年前、平成28年の作品です。   ****************************************************************************   至福的おひとり様生活    生まれた時もおひとり様。多分、死ぬ時もおひとり様。そして、生きている間も、おひとり様の時間が多い。でも、寂しいと思った事は一度もない。大勢でいる時の方が孤独を感じる。「今、ひとり暮らしなんですよ」と言うと、ほとんどの人が、「寂しいでしょう」と言う。あいまいな返事はするものの、何とも楽しくて仕様がない。そこで、私の一日を紹介しよう。だいたい朝六時に起きる。冷房は入ってない。家内がいると夜通し入っている。トイレも自由に何回でもいける。家内がいるとちょっと遠慮する。何回でも行くと、「調子悪いの?」と聞いてくる。朝は、子供の頃から何回でも行っているのだ。わがままな朝食の始まりだ。家内がいると、「健康的な・・・」「野菜をとらないと・・・」などとのたまう。健康には興味がない私。料理はしないのに含蓄が多すぎる妻。今日は、卵ご飯にしよう。簡単すぎるが、まぁいいや。食事が済んだら、食器を洗い、洗濯に掃除、フトン干し。時計を見ると、もう十時を過ぎている。家内がいると、こうははかどらない。やっと落ち着いた頃に、冷房のスイッチオン。涼しい気持ちで経理の仕事に取り掛かる。BGMはユーチューブだ。好きな歌手や曲名を検索して、クリックすると、あとはずっと鳴りっ放し。便利な世の中になったもんだ。有線もレコードもCDもなしに好きな音楽にひたれる。十二時になると、昼ご飯の準備。冷蔵庫にある残り物を適当に、ご飯と絡めてピラフだ。さしておいしくはないが、舌鼓をうつ。昼からは、法務局に行ったり、銀行や郵便局などの用事を済ませる。時間があると、喫茶カノンでケーキセットを注文し、本を読んだり、原稿を書いたり、それはそれは至福の時。家に戻ると、レシピを見ながら夕食の準備、料理時間三十分、五分もあれば食べてしまう。それでも、満足。他人は、大勢で食べるとおいしいというが、私の場合、ひとりの方がずっとおいしい。ここから、後片付けが待っているが、この時間になると少々疲れるので、明日に伸ばしても、何の支障もない。さてと、月曜と金曜は卓球に行くのだが、今日は水曜日なので、四畳半のエンターテナーと化する。外に音が漏れないようにして、二時間程、ギターの弾き語りである。曲目は、最近何だか固定化してきた。「傾いた道しるべ」「縦じまのシャツを着て」「シクラメンのかほり」等々。三十数曲を歌いまくる。他人に聞かせるレベルではないが、自己満足にはなる。この他にも、読書だったり、エッセイを書いたり、ネットで囲碁をしたりしていると楽しい楽しい毎日である。家族がいると、このほとんどができない。おひとり様万々歳である。 ****************************************************************************   この時、65歳こんな生活をしていたっけ、あんまり覚えていない。 いまは、確実に一人暮らし、ライフワークの集大成に向けて、まっしぐらです。 だから、いまもお一人様万歳です。 と、言っても、卓球に行ったり、教会に行ったりで、友達関係でないけれども、 それなりの付き合いはあります。   それも亦愉しからずやです。

    6 min

About

自分が書いたエッセイに自分で、突っ込みを入れてます。過去の自分と今の自分、どんなんかな?