本と映画を群馬で語る

mizushiman

「本と映画を群馬で語る」ということでトークをお届けしていきます。 メッセージはこちらから👇 https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8

  1. 116.映画「ワン・バトル・アフター・アナザー」近況とやっぱり映画っていいものですね!

    10/27/2025

    116.映画「ワン・バトル・アフター・アナザー」近況とやっぱり映画っていいものですね!

    9月に仕事を辞めて、「地域おこし協力隊」として、移住・定住の分野を担当している。町の魅力をどう伝えていくかを模索しながら、役場の一角で働く日々。立場は委託の個人事業主だけど、町の人から見れば役場の職員。元々この町で育ったこともあり、「○○地区出身なんです」と話すだけで、初対面でもすぐ打ち解けられるのがありがたい。 東京でのITの仕事は正直、肌に合わなかった。人と関わる時間が少なすぎて、息が詰まっていたと思う。今は地域の人と話す時間が多くて、それだけで日々が少し明るい。まだ始まって1か月も経っていないけれど、3年の任期をどう過ごすかを考えながら、穏やかに走り出している。 さて、本題の映画の話。引っ越して一番ショックだったのは、映画館が遠いこと。東京にいた頃は池袋や東武練馬のイオンシネマに気軽に行けて、思い立ったらその日の夜に映画を観に行く生活だった。でも今は車で15キロ先のイオンモールまで行かないと映画が観られない。それでも観たい作品があれば行く。交通の不便さに負けてたまるかと思う。 今回観たのは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワンバトル・アフター・アナザー』。ディカプリオが演じるダメ親父が娘を救うために奔走する話で、笑えるし、スリルもあるし、何より演出がキレてる。ポール・トーマス・アンダーソン健在。点数をつけるなら95〜96点。今年一番の作品といってもいい。 その前に観た『オリバーな犬』がどうにも消化不良だったから、その反動もあって「これだよこれ!」という満足感。やっぱり、配信じゃなくて劇場で観るべき映画ってある。ディカプリオの“冴えない格好悪さ”が最高で、最後は手に汗握った。 群馬に戻ってきてからは、週末のイベントにも積極的に参加している。地域の運動会に出たり、町のイベントに顔を出したり。気づけば、映画を観る時間は減ったけれど、その代わりに人と会って話す時間が増えた。 静かな町で、映画と人のあいだを行ったり来たりするような生活。新しい暮らしは、ゆっくりだけど確実に形になってきている。次はどんな映画を、どんな道を走って観に行こうか。

    18 min
  2. 115.映画「8番出口」「バード ここから羽ばたく」無職の9月、映画館から見えた出口と羽ばたき

    09/30/2025

    115.映画「8番出口」「バード ここから羽ばたく」無職の9月、映画館から見えた出口と羽ばたき

    久しぶりに録音ボタンを押した。前回は「仕事、辞めました」という報告と、胃の底に沈んでいたものをそのまま吐き出しただけの、我ながら黒歴史めいた放送。そこから少し時間がたった今、私は九月いっぱいの“名実ともに無職”。八月分の給料は入るけれど、十月に九月分は振り込まれない――この現実は、家計簿の数字より先に体温を下げる。副業の話がゼロではない。前職のツテで細い案件がぽつりぽつりと落ちてくるし、破格の低予算でホームページを作る仕事もある。春にクラウドソーシングへ登録して、いつでも飛び出せるよう弾を込めた自分が、数か月遅れで受け取った小さな果実だ。納期は来年一月までで「急がないので、できる範囲で」と言われると、ありがたい反面、気持ちにブレーキがかかる。忙殺されない生活は甘い。気づけば昼寝、気づけば夕方、気づけば「今日は何をしたっけ?」と天井に問うている。 とはいえ、ただ怠けていたわけでもない。群馬に拠点を移す準備で物件を見て、自動車の購入で悩み、引っ越し屋の見積もりを並べた。働いていた頃の張り詰めた神経はすっかりほどけて、時間が妙に丸い。九月も後半、さすがに尻に火がついた。来週には荷造りが本格化する。配信も伸ばし伸ばしにしてきたが、きょうはやる。ええ、やります。というわけで、最近観た二本――『8番出口』と『バード ここから羽ばたく』――の話をしようと思う。 まず『8番出口』。公開前から風が強かった作品だ。尺は九十五分と手頃、話題性は満点、そして“仕掛け”が効いている。ゲームが発火点になって映画へ燃え移る、この導火線の引き方はやっぱりうまい。宣伝も含めて、観たくさせる術に長けている人たちが作っているのが肌でわかる。私が映画館に足を運んだのは平日の午後、学校が休みだったのか子どもが多く、私の後ろの席の小さな足がリズムよく私の背もたれにメトロノームを刻む。注意するほどではないが、静かな場面では存在感がある。映画の感想は、少しだけこの物理的な振動に影響されているかもしれない。 内容は、“どこかから出られない”装置を通して主人公の内面に降りていくタイプの物語だ。箱庭療法めいたセットの中で、現代社会の不安と私的な恐れ――家族、誕生、責任――が、じわりじわりと形をとって現れる。新しいかと言われれば、そうでもない。同種の系譜は古今東西にあり、密室や反復の構造、現実と悪夢の継ぎ目、ジャンプスケアの配置……道具立てはよく磨かれているが目新しさで勝負しているわけではない。むしろ“分かりやすく怖がらせる”“分かりやすく納得させる”という方向に針を振った選択が、幅広い観客に届き、口コミのエンジンを回しているのだと思う。 俳優の佇まいはよかった。特に“歩く”こと自体が役割になっている人物の出し方は、舞台の人間味と映画のレンズの距離がうまく噛み合っていて、画面の奥行きを作っていた。とはいえ、私は熱狂の輪にまでは入れなかった。構造が見えるたび、先回りしてしまう。驚かされる瞬間の多くが“音”や“編集の切り返し”に依存していて、恐怖そのものがこちらの体内から湧き出るというより、外から肩を叩かれてビクッとする感触に近い。それはそれで娯楽として機能するのだけれど、観終わったあとに胸腔に残る余韻は薄い。うまい。ただし、深くは刺さらない。そんな印象だ。 一方、『バード ここから羽ばたく』は、観る前から少し肩入れしていた作品だ。前売りを買って公開を待ったし、予告の手触りから「これは好きな種類の映画だ」と予感していた。結果、予感はだいたい当たった。舞台は社会の縁に追いやられた家族の生活圏。親は不在か機能不全、酒と疲れが台所のすみで固まり、子どもたちは大人になる前から“大人の重さ”を肩にのせられている。ここまで書くと、永久に続く負の連鎖の記録に見えるかもしれない。けれどこの映画は、そこに“信じたくなる偶然”と“やわらかな幻想”をひとさじ混ぜる。題名の「バード」は鳥ではなく人の名だが、働きは鳥に近い。吹きだまりのような路地に、風穴をあける。現実は何も解決しない。行政の制度が魔法のように降りてくるわけでもない。けれど、顔を上げて前方を見られるようになる――そのきっかけを、ひとりの他者が運んでくる。救いを約束しない救い。私はそこに誠実さを感じた。 人物造形も安易な加害/被害の二項対立に落ちない。たとえば父親は稼げないし、判断を誤るし、頼りない。けれど暴力を振るう“ステレオタイプの父”でもない。子を思う不器用さが随所に滲んで、憎み切れない。主人公の少女は十二歳、身体の変化に戸惑いながら、家計や弟の面倒といった“生存の段取り”を覚えていく。その過程を、カメラは煽らず、突き放しもせず、一定の距離を保って見守る。時折、現実の縁がほどけ、ささやかなファンタジーが入り込む。その縫い目が実にやさしい。破れているからやさしいのではなく、破れたものを縫おうとしているから、やさしい。 映画館という場そのものについても、一言だけ文句を。新宿の某館、予告編のあとに一般企業の広告が長々と続いた。映画の文脈の外からズカズカ入ってくる映像音響は、観客の集中を乱す。広告で収益を上げねばならない事情は理解するが、せめて本編前は映画の世界を深めるものに限ってほしい。配信サービスにも広告つきプランがあるが、料金と体験のバランスを示して選ばせるだけの配慮はある。映画館が“場”としての尊厳を守ることは、結果的に作品への敬意にも、観客の信頼にもつながるはずだ。 二本を並べてみると、『8番出口』は構造の巧さと広がる宣伝力で「誰もが乗れるジェットコースター」を設計した作品、『バード』は小さな現実を見つめて「誰かの明日をかすかに軽くする風」を生んだ作品、という対比が浮かぶ。前者は手際に唸る。後者は余白に呼吸する。どちらも映画の大事な顔だと思う。私は後者に肩入れしがちだが、前者の手腕を否定するつもりはない。むしろ、こういう“入口のうまさ”が観客を映画館へ連れてきて、そこから別の作品へ回遊させる。生態系としては健全だ。 私自身の話に戻る。群馬へ戻り、車を手に入れ、仕事も環境も新しくなる。前回の転職は、始める前から心がささくれていた。今回は違う。使える技能は使い、分からないことは聞き、必要なら勉強する。たいそうな抱負ではないが、地面に置いた靴のように具体的だ。配信は、引っ越しの段ボールが落ち着くまで少し間隔が空くかもしれない。それでも映画は観続けるし、言葉はまた拾いに行く。映画は、遠くへ連れていく物語であると同時に、今いる場所の見え方を少しだけ変える装置でもある。九月の終わり、背中を蹴る小さな足に苦笑いしつつ、私はその装置のスイッチを確かめ直した。次に点けるとき、どんな風景が現れるか。たぶん、今日より少しだけ広い。そんな予感をポケットに入れて、また歩き出す。

    20 min
  3. 112.映画「名もなき者」吉田拓郎と自分の青春時代を色々と思い出した話

    03/17/2025

    112.映画「名もなき者」吉田拓郎と自分の青春時代を色々と思い出した話

    名もなき者とフォークソング 語らずにはいられない。そんな気持ちになったのは久しぶりだった。その映画の名は『名もなき者』。ボブ・ディランの若き日を描いた伝記映画だ。主演はティモシー・シャラメ、監督はジェームズ・マンゴールド。彼の名を聞けば、映画好きならピンとくるだろう。『ウォーク・ザ・ライン』『フォードvsフェラーリ』など、実在の人物を深く掘り下げる手腕には定評がある。 ボブ・ディランの青春と決断 物語は1961年の冬、19歳のディランがたった10ドルを手にニューヨークへと降り立つところから始まる。ウディ・ガスリーやピート・シーガーといった偉大な先輩たちと出会い、フォークシーンでのし上がっていくディラン。しかし「フォーク界のプリンス」「若者の代弁者」として祭り上げられることに違和感を抱く。ついに彼は1965年7月25日、ニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキギターを手にする。この決断が、フォークシーンを大きく揺るがすことになる。 映画では、彼の感情表現が控えめだったという批判もあったが、そんなことはない。むしろ、歌や表情、目線の動きから伝わる微細な心の揺れが、この映画の最大の魅力だった。この時代のフォークシーンとの関係や、彼が影響を受けたミュージシャンなども巧みに描かれている。 フォークの歴史と日本のフォークシーン ボブ・ディランの話をしていると、自然と日本のフォークシーンにも思いが向く。その筆頭が吉田拓郎だ。彼がデビューした頃、日本の音楽界はまだ作詞・作曲・歌唱が分業されていた。そんな中、吉田拓郎はシンガーソングライターとして台頭し、フォークの新時代を切り開いた。 『イメージの詩』は、ボブ・ディランの影響を感じられる曲であり、その歌い方もディラン的だ。さらに『結婚しようよ』は、フォークからポップへと移行する過程を象徴する楽曲とも言える。 フォークの特徴は、単なる音楽ではなく、社会と密接に結びついた文化だったことだ。60年代後半、反戦運動や学生運動とともに成長し、若者たちの声を代弁した。ピート・シーガーは「少しずつみんなで築き上げてきたものを、お前は大きなシャベルで掘り返すのか?」とディランに言ったが、まさにフォークからロックに転向したディランはこの時代から取り残されまいともがいていたのだろう。 音楽と時代の変遷 吉田拓郎の後、日本のフォークはインディーズ的なものとポップ寄りのお茶の間に受け入れられるような音楽の流れに分かれた。そして、80年代以降はユーミンの登場などもあり、徐々に政治色が薄れ、ポップミュージックへと変容していった。 まとめ 『名もなき者』は、単なる伝記映画ではなく、フォークミュージックの本質を描いた作品だった。そして、それは日本のフォークにも通じるものがある。ボブ・ディランの軌跡を追いながら、日本のフォークシーンを追いかけていた青春時代を思い出す。

    30 min
  4. 111.映画「アノーラ」最後のワンシーンと水道橋博士と「三又又三の日」

    03/05/2025

    111.映画「アノーラ」最後のワンシーンと水道橋博士と「三又又三の日」

    「感想」 映画の話をしよう。今回取り上げるのは『アノーラ』。 ただ、その前に……少し寄り道をさせてほしい。なぜなら、この映画を語る前に訪れたあるイベントが、印象深かったからだ。 水道橋博士と「三又又三の日」 普段は毎週月曜日にこの配信をしているのだけれど、その日は3月3日。「三又又三の日」というイベントがあり、そちらに足を運ぶことにした。 水道橋博士の配信はそれなりに購入しているのだが、今回は特に気になるイベントだった。浅草・東洋館フランス座。ここはビートたけしが下積み時代を過ごした聖地であり、Netflixの『浅草キッド』でもロケ地になった場所だ。そんな特別な場所で行われるイベントと聞けば、足を運ばずにはいられない。 この日の座組は水道橋博士、三又又三、そして大久保佳代子。芸人三者三様の空気が絡み合う、なんとも味わい深いイベントだった。 三又又三は、お笑い好きなら一度は耳にしたことがあるだろうが、クズエピソードに事欠かない芸人としても知られる。とあるバラエティ番組ではある芸人が彼を徹底的にイジり倒し、三又は「やられ役」として成立していた。そのキャラクターは好き嫌いが分かれるところだが、一定層の熱心なファンがいることは間違いない。 そんな三又をメインに据えたイベントが「三又又三の日」だ。イベントに行くと決めた理由は、もともと水道橋博士の配信で三又のエピソードが語られていたことにある。博士と三又の関係は深く、彼の持つエピソードをもっと聞きたいと思っていたところだった。さらに、チケットが余っていると聞いたことも後押しになり、これはチャンスだと参加を決意した。 イベントは予想以上に面白かった。 特に印象に残ったのは、水道橋博士が延々と喋り続けた後、三又又三が「博士、長いよ。これは俺のイベントだよ!」とツッコミを入れた瞬間だった。会場の空気を読んで、絶妙なタイミングでツッコミを入れられるのは、やはり芸人ならではの技術だ。博士の話が長くなりがちな配信を見ている身としては、「こういう人がいるとバランスが取れるんだよな」と、しみじみ思った。 また、大久保さんがいたことでイベントの雰囲気が柔らかくなったのもよかった。三又と博士だけだと、どうしても内輪ノリが強くなりすぎるところがある。しかし、大久保さんがそこに適度な距離感を持って加わることで、全体のバランスがうまく取れていた。 惜しかったのは、三又又三が用意していたエピソードの一部が、時間の関係で披露されなかったことだ。テレビのバラエティ番組のように、エピソードを一覧で用意して、観客や大久保さんのリクエストに応じて話すスタイルにしてくれれば、より面白かったのではと思う。 『アノーラ』について 映画『アノーラ』は、アカデミー賞とパルムドールを獲得した話題作。公開初日の2月28日に観に行った。 物語は、ニューヨークのストリップダンサー、アノーラが、ロシアの金持ちの息子イワンと出会うところから始まる。イワンは、1万5000ドルでアノーラを「専属の彼女」として契約する。要するに、長期契約の売春のようなものだ。 金に任せて遊び放題のイワン。そんな彼に翻弄されながら、アノーラはラスベガスで突如プロポーズされ、ノリで結婚してしまう。だが、当然ながらそんな事態をイワンの両親が許すはずもなく、二人の結婚は大問題となる。 ここから物語はロードムービーの様相を呈していく。イワンの両親が送り込んだ「三バカトリオ」がイワンを連れ戻すべく動き出し、彼女を巡る騒動が繰り広げられる。 映画の評価 映画全体としては、なかなか面白い作品だったが、中盤のグダグダした展開が少々気になった。特に「三バカトリオ」の存在は、笑いを生む要素ではあったものの、不要に思える場面も多かった。 しかし、ラストのシーンが素晴らしかった。 イワンの両親に虐げられながらも、唯一アノーラを「人間」として扱ってくれたのが、ロシア人のイゴールというキャラクターだ。彼は金持ちに土地を奪われ、仕方なく彼らの言いなりになっている男だった(うろ覚えの記憶なので正確には違うかもしれない)。三バカトリオの中でも、一歩引いた位置で状況を見つめている彼の存在は、映画に深みを与えていた。 そして、衝撃的だったのが、終盤のセックスシーンだ。アノーラはイゴールを襲うのだが、その最中にキスをしようとした瞬間、彼女は泣き崩れる。彼女が流した涙の意味とは何だったのか? おそらく、それは彼女の無力感ゆえの涙だったのではないか。 「私は結局、これしか与えるものがないのか」 アノーラは、愛のない契約関係の中で翻弄され続けてきた。そして、唯一優しく接してくれたイゴールに対しても、同じような関係でしか向き合えなかった自分への絶望があったのではないか。あるいは、彼女の人生が常に金によって左右されてきたことへの悲しみかもしれない。 観終わった後、この涙の意味について考え続けてしまった。これは、誰かと語りたくなる映画だ。 まとめ 「三又又三の日」と『アノーラ』。まったく関係のない二つの出来事だが、どちらにも共通していたのは、「語りたくなる」という点だった。 イベントでは三又又三のツッコミが冴え、映画ではアノーラの涙が心に残った。それらはどちらも、話の流れを決定づける「瞬間」だった。 そして、そうした「瞬間」によって作品の印象が変わるのは、映画も芸人のトークも同じなのかもしれない。

    28 min

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