小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

  1. 主イエスの死は誰のため?(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:45–57

    5D AGO

    主イエスの死は誰のため?(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:45–57

    2026年2月15日 公現後第6主日 説教題:主イエスの死は誰のため? 聖書: ヨハネによる福音書 11:45–57、イザヤ書 49:6–13、詩編 95、コロサイの信徒への手紙 1:18–20 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまの行いのすべては、人びとの間に命を吹き込むものでした。けれども、中には正反対の反応をする人たちもいました。最高法院の人びとは、イエスさまの行動が原因となって、ローマ人が自分たちを滅ぼすことになるのではないかと、恐れています。大祭司カイアファは、「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むほうが、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(50節)と言って、イエスさまを排除することを提案します。カイアファによれば、暴動を防ぎ、平和を保つためには、この排除は、必要悪だというわけです。人々はイエスさまの命を奪い、自分たちの滅びを免れようとしました。ヨハネは、カイアファの言葉を預言として受け止めて紹介しています。イエスさまの死は、国家や民族を救うためのものではありませんでした。そうではなく、一人ひとりが主イエスにあって神と結びつき、命を得るために、イエスさまは命を落とされました。民族という枠に捕われない。性別も、年齢も、社会的な立場も関係ない。政治的な主張や信念も関係ない。能力や財産も関係ない。文字通りすべての人が主イエスによって実現した、神の救いの対象です。一部の力ある人たちだけが得をすれば良いというような考えの下で、弱い立場に立たされている人たちが切り捨てられていく。すべての人に、命を吹き込み、救いの道を開くために、イエスさまは十字架の上で息を引き取り、犠牲となられました。何かを犠牲にすれば、すべてが丸く収まる。そういったあらゆる犠牲に対して、イエスさまは終わりを告げておられます。命を奪い合う構造に終わり告げようとしておられます。そんなイエスさまが、私たちに向かって手招きしている道は、私たちが豊かな命に生きることを選び取ることができる道です。まさに主イエスの死は、きょうを生きる私たちのためにあります。

    21 min
  2. 「出て来なさい」と主イエスは叫ぶ(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:38–44

    FEB 8

    「出て来なさい」と主イエスは叫ぶ(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:38–44

    2026年2月8日 公現後第5主日 説教題:「出て来なさい」と主イエスは叫ぶ 聖書: ヨハネによる福音書 11:38–44、創世記 8:13–19、詩編 42、ローマの信徒への手紙 6:4–11 説教者:稲葉基嗣   ----- 「ラザロ、出て来なさい」(43節)。イエスさまが叫んだ先は、ラザロのなきがらが収められているお墓です。ラザロの姉妹であるマルタは、「もう臭います」とイエスさまに伝えます。マルタにとって、ラザロの死こそが決して覆ることのない現実でした。お墓に向かって叫ぶイエスさまの姿は、そんなマルタとは対照的でした。死の先に、復活の命がある。イエスさまはそのような確信をもち、お墓の前で神に感謝の祈りをし、ラザロの名前を呼びました。聖書が希望として証言し、教会が信じていることは、身体の復活です。私たちの常識では、死を乗り越えることは不可能です。けれども、神の愛が私たちの生涯を死に至るまで包み込み、死を迎えてもなお、神の愛と憐れみはすべての人に注がれ続けます。「出て来なさい」と呼びかけられ、私たちは復活の命を与えられる。そんな日がすべての人に訪れることをラザロの復活を通して、イエスさまは私たちに示してくださいました。また、将来の希望は、今を生きる私たちに命をもたらします。私たちの人生に、私たちの行動に、この世界を見つめる私たちの存在に、神によって与えられる命が入り込んできています。主イエスの十字架によって、神の愛を受け、罪を赦されている私たちは、主イエスにあって、死から命へと既に移されています。死から命へと移り、主イエスにある命をしっかりと掴んでほしいと、神は願っています。お互いの命を喜び、慈しみをもって見つめる。良いものを分け合い、与え合う。そのために、イエスさまは「出て来なさい」と呼びかけておられます。主イエスにあって、復活の命を手にし、その命の豊かさを分かち合うために、「出て来なさい」。これがイエスさまがきょうも、私たちに向かって叫び、呼びかけていることです。

    20 min
  3. イエスと共に作り変える(稲葉奈々) – マルコ 11:15–19

    FEB 1

    イエスと共に作り変える(稲葉奈々) – マルコ 11:15–19

    2026年2月1日 公現後第4主日 説教題:イエスと共に作り変える 聖書: マルコによる福音書 11:15–19、イザヤ書 56:1–8、詩編 146、コロサイの信徒への手紙 2:9-11 説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 2年)   ----- 「宮きよめ」と呼ばれる今日の聖書箇所は、イエスの怒れる姿が印象的に描かれています。10章から読んでみると、イエスはエルサレム入城の翌日ではなく、その前日にすでに神殿の様子を見ており、一晩考えたうえで翌日に宮きよめを行っていました。このことから、宮きよめは感情的な暴力ではなく、理性的で意図的な行動であったことがわかります。イエスの批判の対象は、神殿で行われていた商売そのものではなく、それを正当化していた神殿の制度と権力構造でした。献金や捧げ物のために特定の貨幣への両替や動物の購入が強いられ、利益を生み出す仕組みが出来上がっていたために、「すべての民の祈りの家」であるはずの神殿が、一部の人々の利益のために利用されていたのです。イエスはイザヤ書の言葉を引用し、神の家の本来の姿を人々に思い起こさせようとしました。この出来事に対し、祭司長や律法学者といった権力者たちは、自分たちの立場を揺るがすイエスを恐れ、排除しようとします。一方で群衆は、イエスの教えを即座に受け止めました。私たちもまた、不公平や理不尽を含んだ社会の「当たり前」に慣れ、それに加担してしまうことがあります。しかしイエスは今も、私たちの内面に宮きよめを起こし、この世界でどのように生きていくのかを問い直し続けておられます。今この社会で生きる私たちは、キリストにならう生き方に招かれています。神の愛を根底に据えながら、弱い立場に置かれた人々と共に生き、ときには理不尽に声を上げていく存在として今も常に招かれているのです。恐れや戸惑いが伴うとしても、私たちは今日開いた御言葉に立ち返りましょう。イエスさまの宮きよめの姿を思い起こすとき、主に従ってまっすぐに行動したイエスさまの姿が、私たちをいつも励ましてくださるはずです。

    21 min
  4. 主イエスの涙はどこで流れる?(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:28–37

    JAN 25

    主イエスの涙はどこで流れる?(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:28–37

    2026年1月25日 公現後第3主日 説教題:主イエスの涙はどこで流れる? 聖書: ヨハネによる福音書 11:28–37、イザヤ書 25:6–10、詩編 70、ローマの信徒への手紙 12:9–15 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまが訪れたベタニアの村は、大きな悲しみに包まれていました。その原因は、イエスさまの友人である、ラザロが4日前に亡くなったことでした。このような人々の悲しみやそれを引き起こしたラザロの死に触れた時、イエスさまは涙を流しました(35節)。人々がラザロの死を悲しむ様子を見て、イエスさま自身も様々な思いを抱き、心をかき乱されて、涙を流したのではないでしょうか。涙を流すマルタやマリア、そしてベタニアの人々に復活の希望を抱いてほしいと願いながらも、イエスさまは彼らの悲しみに共感を覚え、涙を流しました。この時、涙を流したイエスさまが見つめる先にあったのは、ラザロの墓です。それは、人々が「来て、ご覧ください」と言って、イエスさまを案内したからです。そこはまさに、その時の彼らにとって、深い悲しみと苦しみのある場所でした。そして、諦めと敗北の象徴のような場所でした。どうかそのような場所に来て、見てくださいと、彼らはイエスさまに伝えています。イエスさまが流した涙は、悲しみだけに支配された涙ではありません。また、諦めや落胆の涙でもありません。ラザロの命を諦めることができない。そんな愛情に溢れた涙でした。その生命が損なわれることを悲しみ、苦しむほどに愛してやまないラザロに命をもたらすために、イエスさまは来て、ラザロの墓を見つめました。「来て、見てください」と、涙を流しながら、悲しみ、悩みながら、イエスさまにお願いするのは、私たちだって同じです。私たちが涙を流し、失望する場所に、イエスさまが訪れてくださることは、私たちの心からの願いだからです。けれど、それは私たちの願いである以上に、イエスさまの願いです。私たちが涙する場所は、私たち以上に、イエスさまが愛を注いでおられる場所でもあるからです。けれども、その一方で、イエスさまが涙を流していることを私たちが気づいていないことだってたくさんあるでしょう。私たちが気づかないでいる、誰かの悲しみや苦しみがあります。そんな場所にも、イエスさまは来て、一緒に涙を流しておられます。神が私たちに勧めていることは、泣く者と共に、泣くことです(ローマ12:15)。きょう、イエスさまの涙は、どこで流れているのでしょうか。どうかイエスさまが誰かと共に涙を流していることに気づいたとき、勇気をもって一歩踏み出し、共に泣く道を選ぶことができますように。

    21 min
  5. 過去が及ぼすもの、未来が与えるもの(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:17–27

    JAN 18

    過去が及ぼすもの、未来が与えるもの(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:17–27

    2026年1月18日 公現後第2主日 説教題:過去が及ぼすもの、未来が与えるもの 聖書: ヨハネによる福音書 11:17–27、イザヤ書 43:16–20、詩編 121、ペトロの手紙 一 1:3–9 説教者:稲葉基嗣   ----- 過去は、私たちに大きな影響を与えます。私たちがそれぞれ過去に経験したことは、私たちの人格や生き方、そして物の考え方などを大きく形作っています。でも、過去の出来事や経験が常に良い形で働くわけではありません。過去の辛い出来事は、人の心を暗くします。時には、長い間消えない傷を与えます。それは、ヨハネ福音書の物語の中に登場する人々の間でも見られることです。ベタニアの村とマリアとマルタが、ラザロの死に悲しむ様子をヨハネは描きます。ベタニアに到着したイエスさまの顔を見ると、マルタはイエスさまに言いました。「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)もしイエスさまが早く来てくれたならば、状況は変わっていたのではないだろうか。それは、自分の兄弟であるラザロを失った、マルタの悲しい叫び声でした。イエスさまは、そんな彼女の視点を別の場所に移そうとされました。イエスさまはマルタに「あなたの兄弟は復活する」(23節)と語りかけます。イエスさまは、過去ではなく、また現在の悲しみでもなく、未来に目を向けるようにと、マルタに促しました。過去の後悔、苦悩、悲しみが私たちのすべてを決定づけるのではありません。私たちは復活の命にあずかる日、天のみ国へとたどり着く日へ向かっています。復活の命は何よりも、神が私たちを愛し、決して見捨てないという、神からの永遠の愛のしるしです。「あなたは神に心から愛されている、尊い神の子どもだよ。」復活の命にあずかり、天のみ国に生きる希望は、そんな風に未来から現在の私たちに向かって、力強く語りかけています。そんな未来の希望にしっかりと目を向けるために、イエスさまは自分を見つめるようにと、伝えました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(25節)それは、復活の命を私たちに与え、私たちの命を豊かなものとするために私たちのもとに来てくださった、イエスさまを信頼してくださいということです。この希望を受け止める時、私たちを規定するものは過去だけではなくなります。復活の命にあずかる希望こそが、私たちを決定づけます。それは、私たちが過去に経験した、どんな傷も、悲しみも、悩みも、すべて主キリストにあって、回復へと向かっていく希望となっているからです。ですから、私たちは過去の出来事に留まり続ける定住者ではありません。神に愛されながら、天に目を向けて、天の御国を目指して歩き続ける旅人です。

    24 min
  6. 希望なき場所に訪れる友(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:1–16

    JAN 11

    希望なき場所に訪れる友(稲葉基嗣) – ヨハネ 11:1–16

    2026年1月11日 公現後第1主日 説教題:希望なき場所に訪れる友 聖書: ヨハネによる福音書 11:1–16、ヨブ記 2:11–13、詩編 133、ヤコブの手紙 2:21–23 説教者:稲葉基嗣   ----- イエスさまにはベタニアに、マリアとマルタ、ラザロという友人たちがいました。ある時、イエスさまはラザロが病気であるという知らせを受けましたが、イエスさまはベタニアへすぐに旅立たず、同じところにとどまったままでした。でも、その2日後に、イエスさまは弟子たちにラザロのもとへ行くと言い始めます。イエスさまは思いもよらぬことを口にしました。「ラザロは死んだのだ」(15節)。この物語は、病気で亡くなったラザロをイエスさまが生き返らせて終わります。ラザロのもとへ行って、彼を生き返らせて、命を与えることがイエスさまの心のうちにあったのでしょう。でも、それなのになぜイエスさまは、すぐさまラザロを失って悲しむマリアやマルタもとへ出向くことを選ばなかったのでしょうか。それは、ラザロの家族や友人たち、またベタニアの村の人たちがラザロの死をきちんと受け止める時間を作るためだったのではないでしょうか。イエスさまは、マルタやマリア、ラザロの友人たちやベタニアの人たちがラザロの死を悲しむ時間を奪いたくなかったのかもしれません。出発を2日間遅らせることによって、誰もが逃れることができない死を突きつけられる期間をイエスさまは延ばしたといえます。でも、そんな死に対する恐れや、死の前に対する無力感を味わったからこそ、ラザロの復活に大きな喜びと慰めを彼女たちは見出すことができたと思います。この物語は、死という圧倒的に希望がなく、悲しみや絶望にあふれている場所に、イエスさまが復活の命を携えて、訪れてくださったことを伝えています。その際、イエスさまはラザロにとって、またマリアやマルタにとって、彼らを心から愛する友として、ベタニアへと向かっています。イエスさまは、すべての人の友となるために、私たちのもとに来てくださいました。それは、私たちにとって、大きな驚きです。神の子であるイエスさまが、私たちの友となってくださっているのですから。死が圧倒的に支配している場所に、命をもたらすために訪れてくださったように、イエスさまは私たちが希望を失う場所に訪れ、共にいてくださる友です。イエスさまは私たちにとって、どんなに希望のない場所であっても、決して見捨てずに一緒にいてくださる友です。それは、私たちがこの地上で経験する、あらゆる苦しみや悲しみにおいても、そして死の瞬間においても、共にいてくださることを意味します。イエスさまは、私たちといつも一緒にいて、希望のない場所でこそ、希望を手渡してくださる友です。

    25 min
  7. ナザレのイエスと共にある旅(稲葉基嗣) – マタイ 2:13–23

    JAN 4

    ナザレのイエスと共にある旅(稲葉基嗣) – マタイ 2:13–23

    2026年1月4日 降誕節第2主日 説教題:ナザレのイエスと共にある旅 聖書: マタイによる福音書 2:13–23、創世記 26:15–25、詩編 46、ローマの信徒への手紙 12:17–18 説教者:稲葉基嗣   ----- 私たちの会は、ナザレン教会という名前の世界教会に所属しています。ナザレン教会は、ナザレ出身のイエス・キリストの教会という意味です。社会の中で苦しみ、弱い立場に置かれている人たちに寄り添い、手を差し伸べたこのナザレのイエスのように、自分たちも、人を愛したい。そんな願いがこのナザレン教会という名前には込められています。イエスさまは、ベツレヘムで生まれましたが、すぐにナザレには戻れませんでした。ユダヤの王ヘロデが、イエスさまを殺そうとしていたためです。そのため、イエスさまの家族は、難民としてエジプトに身を寄せました。彼らは安住の地を持たずに生活をしていたといえます。先の見えない旅をイエスさまはその誕生の時から強いられていました。ある程度時間が経ってから、イエスさまの家族はナザレの村へやって来ました。マタイにとってナザレは、ようやく身を寄せることができた安全な場所でした。けれども、ナザレが永遠の住まいになるなんて保証はどこにもありません。そう思うと、故郷のナザレだって、一時的な住まいともいえます。イエスさまの家族は安心した居場所を持たない、旅人のような家族でした。それは何も、イエスさまやイエスさまの家族だけの経験というわけではありません。誰もが、この地上においては、彼らのような旅人であるはずです。だって、私たちの故郷は天の御国にあるからです。今はまだたどり着かないけど、やがて必ずたどり着く天の御国に、私たちは思いを寄せながら、この地上での旅を続けています。イエスさまはその生涯の初めから、まさに旅人でした。不安定で、行き先の見えない日々をイエスさまは家族と一緒に過ごしました。イエスさまがそのような境遇を経験したのは、イエスさまがまさに、すべての人と共にあろうとしたからです。私たちが天の御国へと向かう、この旅の途中で経験する、あらゆる困難を私たちと共にするためにイエスさまは私たちのもとに来てくださいました。この一年も、私たちの地上での旅は、良いことも悪いこともあるのでしょう。そんな私たちにとって、確かなことがふたつあります。ひとつめは、私たちの旅は天の御国へと必ずたどり着く旅であるということです。ふたつめは、その旅の同伴者はイエスさまと教会に集う仲間たちであることです。イエスさまは私たちとどんな時も一緒にいるために来てくださいました。そして、私たちはイエスさまが私を愛し、慈しみ、憐れんでくださっているように、愛し、慈しみと憐れみの心をもってお互いに手を取り合って旅を続けましょう。

    20 min

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