小山ナザレン教会

小山ナザレン教会

栃木県小山市にあるキリスト教会です。日曜日の礼拝での説教(聖書のお話)を毎週お届けします。

  1. 3d ago

    義と平和を指し示す大祭司(稲葉基嗣) – 創世記 14:1–24

    2026年11月1日 三位一体後第22主日 説教題:義と平和を指し示す大祭司 聖書: 創世記 14:1–24、ヘブライ人への手紙 7:23–28、詩編 110、ヨハネによる福音書 17:1–5 説教者:稲葉基嗣   ----- 4人の王たちが手を組んで、様々な国を攻めた出来事を創世記は紹介します。アブラムはこの戦いに関わることになります。彼の目的は、自分の甥であるロトとその家族を救い出すことでした。その作戦は成功し、ロトとその家族は救い出されます。その戦いからの帰り道、アブラムは2人の王と出会います。1人はソドムの王ベラ。もう1人はサレムの王メルキゼデクです。ソドムの王の提案は、「人を私に返し、財産はあなたがお取りください」(21節)というものでした。自分たちを救い出したアブラムに対する報酬として、彼が敵から奪い返した財産のすべてをアブラムに渡すと約束します。それに対して、サレムの王メルキゼデクは、パンとぶどう酒を持って来ました。そして彼は祭司として彼を祝福し、アブラムの目を神に向けます。アブラムは奪うことによって豊かになるようにと招かれたわけではありません。ただ、神と共に歩む中で、祝福を受け取るようにと、アブラムは招かれました。メルキゼデクとの出会いは、そんな大切なことをアブラムに思い起こさせました。メルキゼデクとの出会いは、ソドムの王との交渉に大きな影響を与えました。ソドムの王からの提案は、ただロトを救い出すためだったこの戦いを「奪うためのもの」に変えてしまいます。だから、アブラムは非合理的だと思えても、ソドムの王に財産を返し、この戦いが「奪うためのもの」となることを拒否しました。彼が選んだのは、サレムの王メルキゼデクが示した平和と義を目指す道です。ヘブライ人への手紙は、メルキゼデクにキリストを重ね合わせて見つめつつ、イエス・キリストこそ、私たちと神を結びつけ、私たちと神との間を仲介し、私たち一人ひとりを結びつける「永遠の大祭司」と呼びました。私たちは人生の中において、様々な声を聞き取ります。それはソドムの王ベラがアブラムに向かって提案したように、とても合理的に思えるものかもしれません。でも、それはときには何かを奪い取ることに加担する道とかもしれません。そんな色々な声が溢れているからこそ、大祭司であるイエスさまを見つめ、私たちはイエスさまが差し示す義と平和を見つめて歩んで行きたいと思うのです。義と平和ってどのようなことを意味するのでしょうか。それは、私たちや私たちの生きるこの世界が神の前で正しい関係を持つことです。イエスさまは私たちのもとに、そしてこの世界に、神の義と平和を実現するために、私たちのもとに来てくださった永遠の大祭司です。

  2. Oct 25

    平和を目指すその道のりで(稲葉基嗣) – 創世記 13:1–18

    2026年10月25日 三位一体後第21主日 説教題:平和を目指すその道のりで 聖書: 創世記 13:1–18、フィリピの信徒への手紙 4:6–7、詩編 121、マタイによる福音書 28:19-20 説教者:稲葉基嗣   ----- 神の祝福って、具体的にはどんなものなのでしょうか?この世界での繁栄や成功が信仰の結果というのは、確かにわかりやすいものです。でも、それがかなわなかったら?それは、神の祝福はもはやないってことを意味するのでしょうか?創世記の物語は、アブラムの家族に資産が増えたことを報告しています。彼らが神の祝福と考えていた資産や家族の増加が原因となって、彼らの家族の中でトラブルが起こります。彼は、ここまで一緒に旅を続けて来た親族である、甥のロトと話し合いました。この争いを終わらせるために、ふたつのグループに別れることにしました。そして、ロトにどの地方へ行くのかの選択権を与えました。その結果、彼は平和を求めるゆえに、ロトと共に暮らすという選択を手放しました。その後、神は再びアブラムに向かって、約束の言葉を語りかけています。神が語ることは、どれもその時点で実現しているものではありませんでした。けれども、神はその約束は確かなものだから、その土地を自由に、縦横無尽に歩けと言います。それは神がアブラムといつも常に、永遠に共にいるからです。どのような選択をしても、どのような苦しい決断をしたとしてもです。神が共に歩み、最終的な責任をいつも負ってくださり、神がその歩みをはじめから終わりまで、守り、導いてくださる。それこそが、神がアブラムに与えた、変わらない祝福です。自らの持つものに固執せず、平和を求めることは、まさにイエスさまが選んだ道を思い起こさせます。平和を求めるイエスさまの歩みは、決して順風満帆ではありませんでした。私たちのために傷つき、涙を流し、私たちを憐れみ、愛し、罪を赦し、私たちのことを最後まで諦めない。そんなイエスさまが私たちといつまでも共にいてくださるのです。アブラムが経験したように、自分たちの日常の中で平和を作り出す必要に迫られ、行動を起こさなければならないことは、私たちにだってしばしばあります。どんな時も、必ず成功や達成感が待っているとは限りません。私たちがどこへ行くときも、どのような決断をするときも、神は私たちを見捨てず、私たちと共に歩んでくださいます。だから、私たちは、イエスさまと共に平和を目指す道を歩むことができます。どうか出会う人たちに言葉によって、行動によって、そして生き方によって、祝福を分け与えることができますように。

  3. Oct 18

    一人ひとりの尊さを見つめる場所(稲葉基嗣) – 創世記 12:10–20

    2026年10月18日 三位一体後第20主日 説教題:一人ひとりの尊さを見つめる場所 聖書: 創世記 12:10–20、テサロニケの信徒への手紙 一 5:12–18、詩編 1、マタイによる福音書 25:31–40 説教者:稲葉基嗣   ----- サライはアブラムのきょうだいであり、妻です(20:12参照)。ですから、アブラムの話した事は嘘とも言い切れません。ある意味で、自分の命を守るために真実の一部を隠した行動とも言えるでしょう。けれども、そのようなアブラムの言葉に騙され、サライを自分の元に迎え入れたファラオは被害者のようにも感じられます。でもこの物語の中で忘れてはいけないのは、権力関係が横たわっていることです。明らかに力がなく、最も大きな被害を被っているのは、サライだといえます。アブラムはサライと引き換えに自分の命の安全を手にします。また、彼はサライと引き換えに、多くの財産を手に入れました。都合の良いように妻サライを用いて自らの危険を乗り切ったとも言えるでしょう。そのような中、サライは言葉を発せず、沈黙し、大きな力に抵抗できずにいます。そんな彼女の姿を象徴するように、彼女の名前はほとんど記されていません。一人の人として尊重されるよりも、交渉のための道具のように、彼女は周囲から扱われています。サライのこのような扱われ方は、神が人間を創造したときに、意図したこととは明らかに異なります。ひとりひとり、すべての人間が、誰も欠けることなく、神のかたちに似せて作られた尊い存在であると神は伝えています。だから、サライとの関わりにおいて、アブラムの行動にはやはり問題があったと言わざるを得ません。誰かを物のように扱ってしまう事は、現代社会でも何度も起こっている問題です。ひとりの尊い存在として見つめてもらえない。見つめられない。自分自身のことを尊い存在と考えられないほどに、完璧さを求められてしまう。だから、私たちには、一人ひとりの尊さを見つめることのできる場所が必要です。私たちは、神が私たち一人ひとりの尊さを見つめてくださっていると知っています。信じています。それを経験しています。イエスさまは何よりも、私たち一人ひとりの尊さを見つめてくださる方でした。どんなに弱く、どんなに社会の中で小さくされていた人であったとしても、私たち一人ひとりは、イエスさまにとってとても重要で、愛するべき存在です。そんな神の愛に触れてるからこそ、私たちにとって一人ひとりの尊さを見つめる場所は何よりも大切な場所です。神は教会こそそんな場所であり続けて欲しいと願っています。出会う一人ひとりのその尊さを、そして皆さん自身の尊さをどうか忘れないで見つめてください。

  4. Oct 15

    SDG(石田学) – ローマ 16:25–27

    2026年10月11日 三位一体後第19主日 説教題:SDG 聖書: ローマの信徒への手紙 16:25–27、イザヤ書 6:1–8、詩編 96、ヨハネによる福音書 13:31–32 説教者:石田学   ----- SDG。かわった説教題と思われたことでしょう。近年、最後に複数形のsがついた形で有名になりました。「持続可能な開発目標」の略号です。しかし、キリスト教の歴史では違う意味を持ってきました。これは、三単語から成るラテン語の頭文字なのです。ラテン語ですから、エス・デー・ゲーと発音すべきでしょう。音楽家のバッハがSDGを楽譜に記し、カルヴァンが著作に書きました。ソリ・デオ・グロリア(Soli Deo Gloria)、神のみに栄光があるように。これはすべてのキリスト者が第一に掲げるべき身分証明です。パウロの名による手紙は新約聖書に13通あります。全てが「主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように」で終わります。ただ一つの例外、ローマの信徒への手紙を除いて。ローマ書だけが、神に栄光を帰する賛美の祈りで終わるのです。「この知恵ある唯一の神に、・・栄光が世々限りなくありますように」なぜパウロはローマ書だけ、神の栄光を讃える祈りで閉じたのでしょう。そうする理由がパウロにはあったはずです。パウロはローマ書を書いたとき、これが最後になると予感していたのでしょう。そうであればこの最後の頌栄はパウロの生涯と働きの集大成とも言えます。パウロは、万物は神の栄光を表すために創造されたと確信していました。しかし、人は罪のために神から離れ、神を讃えることをしなくなりました。人は必ず何かを崇める存在ですから、神を崇めないなら他の何かを崇めます。人は神に代えて、自分を、国家を、支配者を、金を崇めるようになりました。神のかたちに創造された栄光ある人間の堕落、もっともみじめな罪の姿です。パウロの宣べ伝えた福音は、真の人間性の回復、罪からの解放です。福音とは、神による創造の本来の目的へと、新しく創造されることです。神による救いとは、神にのみ栄光を帰する者へと変えられることです。教会にはまったく異なる境遇の人たちが共に集っています。しかし、ただ一つのことが皆に共通していて、皆を一つにしています。それは、神に栄光を帰することを願い、そのように生きることです。神に栄光を帰することにおいて優劣も上下もなく、等しく兄弟姉妹です。ローマ書が神に栄光を帰する頌栄で終わるのは、それが究極の目標だからです。神のみに栄光を帰する、それはキリスト者であることの明確な身分証明です。神にのみ栄光を帰することは、わたしたちにとって難しいでしょうか。いいえ、日常の生活において「これは神の栄光を表すか」を考えることです。

  5. Oct 4

    その旅は希望に満ちていたのだろうか?(稲葉基嗣) – 創世記 12:1–9

    2026年10月4日 三位一体後第18主日 説教題:その旅は希望に満ちていたのだろうか? 聖書: 創世記 12:1–9、ヘブライ人への手紙 11:8、詩編 100、マルコによる福音書 1:1–8 説教者:稲葉基嗣   ----- 「私が示す地に行きなさい」と、神がアブラムに語りかけたとき、彼はこの言葉を一体どのように受け止めたのでしょうか。旧約聖書が書かれた言語であるヘブライ語で、この箇所を読んでみると、「レフ・レハー」というフレーズが使われていることがわかります。直訳すると、「行きなさい、あなたのために」です。神が語るのは、アブラムにとっての利益よりも不利益のように見えてしまいます。アブラムは神からどこに行くのかもはっきりとは示されないで、生まれ故郷を離れろ、家を出て行けと、語りかけられているからです。アブラムに語りかけられたこの言葉は、もう一度、彼の物語に登場します。アブラムは、息子のイサクを連れて神が示す場所へと行きなさい(22:2)、と神から伝えられ、息子イサクを捧げなさいと理不尽な要求をされました。このように、この言葉から、不穏さや将来に対する不安を感じさせられます。アブラムに語りかけられた言葉は、彼の背中を押すような言葉でも、無理強いさせて旅へと促すような言葉でもなかったといえるでしょう。過去に積み重ねてきたことを手放し、未来に希望していたものを諦めてしまう。そんな理不尽で、不条理な人生の旅路の中で、いつまで続くか、どこに行き先があるか全くわからない旅路の中で、神がどのようにアブラムに関わるのかを伝えるために、語られた言葉でした。それは、神がアブラムを祝福し、アブラム自身を祝福とすることでした。「あなたのために」と言われつつ、何度も、喪失を経験する。何度も、挫折をし、失敗だってする。そのような旅の中で、アブラムは何度もこの神の言葉を思い出したことでしょう。そして、問いかけたことでしょう。旅立ったのは何のためになったのか。自分にとってこの旅が何なのか。このようなアブラムの旅立ちを見つめる時、何を思うでしょうか。私たちにとってアブラムが旅の中で経験したように、何かを失い、手放していくことは、私たちにとっての日常です。何かを失う時、何かをあきらめる時、その信仰の旅の中で神は何度も私たちに「行きなさい、あなたのために」と語りかけてくるのだと思います。もちろん、「あなたのために」と言われても、本当に私のためになっているのかは、わかりません。それでも私たちは、その問いを抱えたまま、共に歩んでくださる神に向かって問いかけながら、信仰の旅路を歩むのです。

  6. Sep 27

    不満のただなかにやってくる神(稲葉奈々) – 出エジプト 17:1–7

    2026年9月27日 三位一体後第17主日 説教題:不満のただなかにやってくる神 聖書: 出エジプト記 17:1–7、マタイによる福音書 21:23–32、詩編 78、フィリピの信徒への手紙 2:1–13 説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校3年)   ----- 人々が神を疑い、神を試す。このようなシーンが、聖書にはたくさん登場します。出エジプト記17章のレフィディムで、イスラエルの民は飲み水がなくなり、モーセに激しく不満を訴えました。荒野で水がないことは生死に関わる問題であり、彼らの訴えは単なるわがままではなく、切迫した魂の叫びでもありました。イスラエルの民は、これまでも水や食料などの困難に直面するたびにモーセへ不満をぶつけてきました。神によってエジプトから導き出され、必要を満たされてきたにもかかわらず、困難に遭うと神様を信頼することができず、モーセに責任を転嫁したのです。しかし神様は、彼らの不満を突き放すのではなく、モーセに岩を打つよう命じ、そこから水を湧き出させました。神様が人間の身体的な必要を満たすだけでなく、不安のただ中にあっても「神が共におられる」という安心を与えてくださったのです。この物語は、不平不満を口にすること自体を否定しているのではありません。「神様、なぜですか」と叫びたくなる理不尽な出来事は現実に引き起こります。重要なのは、その苦しみを他人や環境への憎しみや責任転嫁に変えるのではなく、神様ご自身に向けていくことです。この神様の姿は、イエス・キリストにおいてさらに確かなものとなります。祭司長や民の長老たちも神を信じていたはずですが、目の前に現れた神の生きたしるしであるイエスを試し、最終的には十字架へと追いやってしまいました。しかし神様は、その人間の罪さえも取り扱い、イエス・キリストの十字架と復活を通して私たちを救いと希望の道へと招いてくださったのです。私たちも日々、神様を信じながら不安や不満を抱きます。しかし神様はむしろ不満や苦しみのただ中に入り、何度でも私たちと向き合い、必要を満たしてくださいます。だから私たちは、不満を抱く自分を責めるのではなく、それを神に差し出してよいのです。岩から流れ出た命の水のように、キリストの十字架から流れる恵みが私たちの日常にも注がれていることを信じ、今日も神様に支えられながら歩んでいくのです。

  7. Sep 20

    世に勝っている?(稲葉基嗣) – ヨハネ 16:25–33

    2026年9月20日 三位一体後第16主日 説教題:世に勝っている? 聖書: ヨハネによる福音書 16:25–33、イザヤ書 30:18–26、詩編 47、ガラテヤの信徒への手紙 6:14–18 説教者:稲葉基嗣   ----- 勝つことを追求し続けるとたくさんの歪みを抱えてしまうでしょう。誰かに勝つことや他の誰かを出し抜くことや、他の誰よりも上に立つことばかり考えることが、常に良いものを私たちの人生やその周囲にもたらすとは限りません。でも、それなのに、私たちの生きるこの世界は戦いを続け、勝利を求めています。イエスさまは、「私は既に世に勝っている」(33節)と語りました。結局イエスさま自身も、私たちのこの世界と同じような価値観の下で、勝利というものを考えていたということなのでしょうか。イエスさまは弟子たちに向かって、「あなた方には世で苦難がある」(33節)と語りかけました。この苦難に対して「勇気を出しなさい」とイエスさまは語っています。つまり苦難の中にあったとしても、その苦難から解放されなかったとしても、その苦難の中において救いがあるということです。イエスさまが、世に対して勝利した方法とは、十字架の上にかかり、命を失うということでした。明らかにそれはイエスさまの勝利とは思えないことです。でもイエスさまは既に世に勝っていると言います。それは、イエスさまのこの十字架上での出来事において、神がすべての人の罪を赦すからです。この世界のあらゆる罪、悪に、神が勝利する手段が、イエスさまの十字架でした。イエスさまがここで語っている「世に勝っている」とは、私たちが想像するような勝利とは絶対的に違います。それは、力による、暴力的な勝利ではありません。イエスさまが勝ったと言っているのは、罪に対してです。罪の支配を終わらせることこそ、イエスさまの語る勝利です。イエスさま自身が傷つきながら、私たちを、そしてこの世界を愛することでした。私たちやこの世界が抱える罪を徹底的に赦すことでした。ですから、私たち自身は、世に勝つ必要などありません。私たちが招かれている世界は、イエスさまから受けた愛をお互いに分かち合っていく世界です。勝利を追い求めて誰かと接するのではなく、神から受けた赦しを喜びながら、お互いに向き合って、手を取り合うことができる世界です。イエスさまが「私はすでに世に勝っている」と語っているように、そのような世界はもう既に始まっています。

  8. Sep 19

    わたしたちの生きる道は(石田学) – ローマ 16:17–24

    2026年9月13日 三位一体後第15主日 説教題:わたしたちの生きる道は 聖書: ローマの信徒への手紙 16:17–24、ホセア書 14:5–9、詩編 111、マルコによる福音書 10:13–16 説教者:石田学   ----- ローマの信徒への手紙は、パウロ書簡の中でもっとも長い手紙です。皆さんは、この手紙を読むのにどれくらい時間がかかると思いますか。一人で声を出して読むと、およそ70分です。パウロの使者としてローマに行ったフェベはこの手紙を朗読しました。一気に読むのは大変だったでしょうが、聞く方も大変だったはずです。そんな長い手紙は、最後の部分だけしか覚えていないものです。だから大抵は、意識して最後にもっとも重要な要点を書きました。ローマ書の場合、その最後の重要な要点が、きょうの聖書箇所です。ここからローマ書でパウロがもっとも伝えたかったことがわかります。「分裂やつまずきを引き起こす人たち」とパウロが呼ぶ、パウロの福音とは違うことを教えて教会を分断する敵がいたのです。彼らを警戒し遠ざかりなさいと勧めることがパウロの目的でした。まさにこのことのために、パウロはローマ書全体を書いたとさえ言えます。ローマの信徒が彼らに惑わされないために、パウロは言葉を尽くして、福音を解き明かし、教会とは何かを教え、信仰者の生き方を示しました。そしてパウロは、手紙の最後にこの警告を結論として書いたのでした。しかし、警戒し遠ざかれと言われても簡単ではありません。相手は羊の皮を被った狼のように、巧妙で説得力に長けているからです。各地を旅しているパウロに逐一質問することはできません。優れた教師や指導者が正解を与えてくれることも期待できません。なんでも教えてくれるガイドブックや教本があるわけではありません。キリストを信じるということは、主に従う道を歩むということです。キリスト者として生きる道は、目指す目的の地は皆同じですが、一人一人異なる生涯であるからには、歩む道のりもそれぞれです。みんなに使える手軽な回答集や「あんちょこ」などはありません。必要なのは、信仰者として生きる道を歩むための、大原則です。パウロはすべての信仰者に共通するその大原則を示すのです。「善にはさとく、悪には疎くあることを望みます」と。簡単ではありません、自ら考えて判断することが求められますから。しかし、全部自己責任でも有無を言わせぬ隷属でもありません。神の知恵であるキリストの愛と慈しみを善の基準とすることと、悪に慣れたり馴染んだりしないでキリストと歩むこと。この大原則をパウロは、「私は命じる」ではなく「望みます」と告げます。わたしたちはキリストにあって自由と尊厳を与えられているからです。

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