ダヴァール神の国

Davar Kingdom of God

浅井牧師のメッセージをロサンゼルス パサディナから毎週お届けします。「ダヴァール神の国」(ダヴァール教会)は特定の宗派や会派に属さない独立したプロテスタント教会です。わたしたちの教会の牧師であり、著名な聖書研究家でもある浅井導牧師が、聖書の真理を実生活に役立つようにわかりやすく解き明かしてくださいます。教会を探している方、問題を持っている方、人生の導きや目的を探している方、キリスト教に興味のある方は、ぜひ一度お訪ねください。日曜礼拝 日本語部 午前9時-11時, 英語部 午前11時-午後1時, 土曜礼拝 午後12時

  1. 08/30/2015

    みことばの実現 No.20

    ああ。渇いている者はみな、 さあ、水を求めて出て来い。 金のない者も。 さあ、穀物を買って食べよ。 さあ、金を払わないで、穀物を買い、 代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え(イザヤ55:1)。 ここに、「金を払わないで」とか、「代価を払わないで」という表現が出てくるが、これは 驚き。どうも、人の世界における、金を基盤とした経済的な概念は、神から出たものではないら しい。そもそも、供給と需要のバランスから定まる物の値段は、供給に制限があることを前提に している。事実、昔は水を金で売買するということはなかった、それは、綺麗な水の供給が十分 でなくなり、その需要が高まった時に始まった。今はまだ、空気の売買をしていないが、汚染が 進めば、その可能性も出てくる。エデンの園にいた人間たちには、金は必要なかった。すべてが ただであり、神の恵みによって与えられた。金による富は、人が罪を犯した後の世界に必要とな ってしまった悪である。したがって、イエス様はそれを「不正の富」と呼ばれ、「まことの富」 と区別された(ルカ16:11)。天国では、地上での富や金は通用せず、すべてがただであり、恵 みである。 あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい(マタイ10:8)。 すべてが「ただ」で与えられる所では、「ただ」で与えることもする。この辺が、この世界に 慣れ過ぎてしまった、私たち人間に理解しにくいところ。気がつかないうちに、頭で損得の計算 をして、取るべき行動を利己的に選択して行くので、神のみこころが行えない。 わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異な るからだ。— —主の御告げ— —天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道 よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い(イザヤ55:8-9)。 したがって、その「思い」や「道」が高い神様のみことばに、よく「耳を傾け」、彼に「聞き」、 自分の間違いに気がついたら、それを素直に認め、彼のもとに「出て行く」ことが必要である。 耳を傾け、わたしのところに出て来い。 聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。 わたしはあなたがたととこしえの契約、 ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ(3 節)。 その時、みことばは自ずと成就する。契約は神の創造された天地の基であり、私たち人間の生活 の土台である。土台が崩れれば、その建物は全部破壊される。実は、人が神との契約を破った時、 世界は崩れ始め、破壊の道を行くことになった。しかし、神様は、キリストを通して、もう一度、 世界の基を築き直された。それが、「とこしえの契約」、「ダビデへの変わらない愛」のこ と。あなたがみことばの成就として歩むことを望むならば、あなたもこの契約の中に入って来る 必要がある。 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は 富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがた が、キリストの貧しさによって富む者となるためです(2 コリント8:9)。 飢饉の状態になってしまったこの世界は、キリストという新しい礎の上に新しく建て直された。 その契約の中に入って来るならば、「金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶ どう酒と乳を買う」ことができる。

    1h 7m
  2. 08/23/2015

    みことばの実現 No.19

    ああ。渇いている者はみな、 さあ、水を求めて出て来い。 金のない者も。 さあ、穀物を買って食べよ。 さあ、金を払わないで、穀物を買い、 代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え(イザヤ55:1)。 「ああ」(ヘブル語、ホーイ)とは、人間の生き方を嘆いて、「信じられない!」といった感じ の神様の思いが表現されている。私たちはみな、サタンに洗脳されてしまった。「さあ」とは、 文字通りでは、「行く」という動詞で、「何をしているのか、早く行って...」というふうに、 人に強く行動を促す時のことば。それが、三回も使われている。 「穀物を買う」とは、シャバールという動詞で、ここでは2 回使われている。これは、ヤコブの 息子たちが、飢饉の時に、「穀物を買う」ためにエジプトのヨセフの所へ2 回行ったことが背景 になっている。2 回とも、払った銀は全部戻されて、結局彼らは、「金を払わないで、穀物を買 った」。これが、神様が人間たちにしてあげたいこと、また人間たちに生きてほしい生き方。 なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、 腹を満たさない物のために労するのか。 わたしに聞き従い、良い物を食べよ。 そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう(2 節)。 地は、人の罪の結果、十分な食べ物を生み出すことができず、飢饉の状態にある。生きて神に仕え て働くこと以前に、自分が生き延びることだけのために働くようになってしまった。そして、その ような生き方をしている自分たちのことを、何も不思議に思わない。本来、人はみな、神の恵みに よって、すべてをただで受けて生きる者であった。支払いは、人にとって不自然なこと。 耳を傾け、わたしのところに出て来い。 聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。 わたしはあなたがたととこしえの契約、 ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ(3 節)。 そのために必要なことは、神に「耳を傾け」、彼のところに「出て行く」こと。「耳を傾け」、 「聞く」とは、神のことばを信じ、その霊的現実を自分の現実として受け入れていくことを指す。 彼のところに「出て行く」とは、今の世界から出て、彼の世界(国)に入って行くこと。ヤコブ とその息子たちが、ヨセフのもとに行き、そこに住み始めたように、あなたも、世から自分を聖別 し、彼の道を歩んで行くことが必要。その時、神は「とこしえの契約、ダビデへの変わらない 愛の契約」をあなたと結び、みことば通りに、ご自分の望むことを成し遂げてくださる。 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、 必ず地を潤し、それに物を生えさせ、 芽を出させ、種蒔く者には種を与え、 食べる者にはパンを与える(10 節)。 これは、飢饉の原因である、「いばら」や「おどろ」が完全に取り去られてしまったからである。 いばらの代わりにもみの木が生え、 おどろの代わりにミルトスが生える。 これは主の記念(名)となり、絶えることのない永遠のしるしとなる(13 節)。 この「名」、「しるし」とは、イエス・キリストのこと。

    1h 7m
  3. 08/16/2015

    みことばの実現 No.18

    新しい歌を主に歌え。 全地よ。主に歌え。 主に歌え。御名をほめたたえよ。 日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ(詩篇96:1-2)。 「新しい歌を主に歌え」とは、どういう意味だろうか。次の詩篇にも同じことばが出てくる。 新しい歌を主に歌え。 主は、奇しいわざをなさった。 その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ(98:1)。 実はここで言う、主の「右の御手」や「御腕」による救いとは、特に次のような話に由来するもの。 主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。...主よ。あなたの右の手は力に 輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く(出エジプト15:4−6)。 これは、エジプトを脱出したイスラエル人が、海の真ん中を通ってエジプトの軍勢から救われた 時に、モーセが歌った歌。敵からの救いと勝利を喜ぶ歌である。これを境に、イスラエル人たち は、神の民として新しく存在し始めた。イザヤ書に行くと、次のようなことばがある。 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。...わたしは、あなたを地の果てから連 れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「...わたしはあなたを 選んで、捨てなかった。...わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の 右の手で、あなたを守る(イザヤ41:8-10)。 実は、ユダの滅亡のあと、バビロンへ捕囚に連れられて行ったユダヤ人にとって、エルサレムへ の帰還とその町の復興は、第二の出エジプトとして考えられ、新しい神の創造の業によるもので あった。 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、...イスラエルよ。あなたを形造っ た方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。...あな たが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなた は押し流されない(43:1-2)。 新しい創造は、新しい時代の到来でもある。次のように歌っている。 先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。...主に向か って新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから(42:9-10)。 バビロン捕囚のあとイスラエルの民に起きた創造の業は、キリストを通して、もっと大きな人類 全体のレベルで起きた。恵みの時の到来である。今こそ、本当に新しい歌を歌う時。それは、救 われた者だけが歌うことのできる歌。エルサレムの滅亡を体験し、自分たちの神への信仰と、生 きることに疲れたユダヤ人たちに、神様は語られた。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力 を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れな い(40:30-31)。 天地を造られた創造の神を小さく考えてはならない。知っているつもりでも知らないでいるのが、 私たち信者だ。神様は常に新しいことをなさる方。それを受け取る準備はできているだろうか。

    1h 7m
  4. 08/02/2015

    みことばの実現 No.17

    あなたがたはわたしの証人、-主の御告げ-わたしが選んだわたしの しもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたし がその者であることを悟るためだ(イザヤ43:10)。 10 節から13 節は、全体がchiasmus(交錯配列法)の形をしていて、10 節が12 節に対応して いることが分かる。 このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかっ た。だから、あなたがたはわたしの証人。-主の御告げ-わたしは神だ(12 節)。 注目してほしいのは、「知って」、「信じ」、「悟る」という動詞と、「告げ」、「救い」、 「聞かせた」がそれぞれ、対応していること。最初は、「あたがたがた(イスラエルの民)」 が主語、二つ目は「わたし(主)」が主語。主がことばを「告げ」て啓示することによって、 イスラエルがそれを「知り」、さらにそれを「信じ」ることによって、主は彼らをお「救い」 になる。しかし、それで終わりではなく、その後、主は彼らに、その救いがどのようにして起き たのかを「聞かせる」ことによって、「わたしがその者(みことばを成就するヤーベの神) であること」を「悟る」ことができるようにしてくださる。そして、民がそのように「悟る」 ならば、彼らは、出て行き、全世界に対して「わたしの証人」、つまり、彼らの神が約束を守 られ、語られたことばを成就なさる方であることを伝える者となる。 これは、直接は、神の怒りによってさばきを受け、バビロンに捕囚に連れられて行った、選びの 民に対して語られたことばだが、同じことばが、キリストにある私たちにそのまま当てはまる。 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。それで、 わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、の のしられるようにした(27-28 節)。 神の怒りが選びの民にぶつけられた後、怒りは去り、「わたし、このわたしは、わたし自身の ためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない」と言われる。 神は「最初の先祖」からの罪の怒りを耐えて来られたが、それをこの時、彼らにぶつけられた。 同様に、ひとり子の神、キリストが、最初の人から見逃されて来た神の怒りを受けて、なだめの 供え物となって下さった。 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、 公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今まで に犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです(ローマ3:25)。 「なだめの供え物」とは、神の怒りを抑えるためのいけにえのことで、それによって、神と敵 対関係にあったものが神と和解することができる。 これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちを ご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました(2 コリント5: 18)。 神の怒りはすでに取り除かれた!今は、恵みの時、救いの時である。 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受け ないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、 救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です(6:1-2)。

    1h 7m
  5. 07/26/2015

    みことばの実現 No.16

    だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(1 7 節)。 これがキリストにあるあなたの現実。古い現実は過ぎ去った。新しい現実が来て、その中で生きる者となった。現実が変われば、生き方も変わる。結婚という現実に入れば、夫、あるいは妻となり、それまでの独身の生活は終わり、新しい生き方に変わる。子供ができれば、父、あるいは母となり、子供のために労する生き方が始まる。同じように、キリストに付くバプテスマを受け、彼とともに死んでよみがえった者は、「新しく造られた者」、すなわち、みことばによって新しく創造された者として、新しい現実の中で生きて行く。古い生き方はもうできない。 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける(イザヤ4 3:1 8 - 1 9)。 ここで言う「先の事ども」とか「昔の事ども」とは、サタンの行った、昔の破壊と死の業のこと。逆に、「新しい事」とは、みことばによる、新しい創造といのちの業のこと。破壊の業は終わった。死の現実は過ぎ去った。それらを「思い出すな」、「考えるな」とは、古い現実を受け入れるなということ。なぜなら、破壊は新しく創造し直され、死は勝利に呑まれて、いのちのことばがすでにあなたに実現したからである。そして、それを体験したあなたは、その証人である。 目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に「ほんとうだ」と言わせよ(8-9 節)。 ここで言う「先の事」とは、神様がなさった昔の創造の業のこと。それらはみな、みことばの成就として起きた事。神が語られ、そのとおりになった。それを、あなたが神をまだ知らない人々の前で証言して、彼らに聞かせると、彼らは「ほんとうだ」と言って納得すると、上のみことばは言う。あなたは、その証人である。 あなたがたはわたしの証人、-主の御告げ-わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ(10 節)。 「わたしがその者である」とは、「わたしがみことばを実現する神である」という意味。言い換えれば、彼はヤーベの神、「主」である。これを知り、信じ、また悟って、その証しをするために、私たちは選ばれた。 わたし、このわたしが、主(ヤーベ)であって、わたしのほかに救い主はいない。このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ(11-12 節)。 「わたし、このわたしが...」と強く強調されていることに注目。すべてのことが、神が計画され、ことばを語り、それを実現させることによって起きている。この神のほかに神はいない。彼は、ことばを語ることによ って私たちに「告げ」、それを成就させることによって私たちを「救い」、そしてその後、それがみことばの成就として起きたことを私たちに「聞かせた」。彼はヤーベ、みことばの成就の神であり、私たちはみことばの実現の民である。

    1h 7m

Ratings & Reviews

5
out of 5
5 Ratings

About

浅井牧師のメッセージをロサンゼルス パサディナから毎週お届けします。「ダヴァール神の国」(ダヴァール教会)は特定の宗派や会派に属さない独立したプロテスタント教会です。わたしたちの教会の牧師であり、著名な聖書研究家でもある浅井導牧師が、聖書の真理を実生活に役立つようにわかりやすく解き明かしてくださいます。教会を探している方、問題を持っている方、人生の導きや目的を探している方、キリスト教に興味のある方は、ぜひ一度お訪ねください。日曜礼拝 日本語部 午前9時-11時, 英語部 午前11時-午後1時, 土曜礼拝 午後12時